大正三年(一九一四)
年齢:十九歳→二十歳、数え年二十一歳
学年:大学本科一年→二年
住居:東京市牛込区喜久井町五番地
→牛込区西江戸川町→東京市外戸塚町
→牛込区喜久井町
二月
平井太郎、級友数人を誘って原稿用紙を綴じた回覧雑誌「白虹」を発行。一年あまりのあいだに五冊ほど出し、太郎は「経済学上の欲望の研究」、翻訳「経済学と心理学の関係を論ず」、幻想小品「夢の神秘」、叙事詩「オルレアンの少女」を寄稿した。[貼雑年譜]
五月
平井太郎、横浜から上京した叔父・岩田豊麿一家が牛込区西江戸川町に借りた家に祖母・本堂つまと同居。[貼雑年譜]
八、九月ごろ
平井きく、通と敏男を伴って朝鮮から上京、 東京市外戸塚町の早稲田大学野球場のそばに素人下宿を開業。太郎とつま、岩田家からここに移る。[貼雑年譜]
九月ごろ
太郎、菅生辰次郎の紹介により、憲政会院外幹事だった川崎克が経営する自治新聞の編集を手伝い、月五円の手当を稼いだ。[先生に謝す/昭和31年2月][貼雑年譜]
十一月五日(木)
自治新聞第一号が発行され、太郎が書いた記事「金原明善翁」が掲載された。自治新聞は大正四年一月号で資金難のため廃刊。[貼雑年譜]
十一、十二月ごろ
太郎、家族とともに牛込区喜久井町に転居。八、九月ごろまで住んだ家とは別の借家で、朝鮮の繁男も引き上げてきて家族が揃った。[貼雑年譜]
この年
太郎、主として宗教のことを記した「漫筆録」二冊を執筆。[貼雑年譜]
[2012年5月17日]
文化六年(一八〇九)
一月十九日
エドガー・アラン・ポー、米国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。
文化七年(一八一〇)
この年
平井陳就(のぶより)、伊勢国津に生まれる。通称、杢右衛門(もくえもん)。平井家第七代。父・陳成(のぶなり)は津藩藤堂家重職。[貼雑年譜][平井系譜]
天保元年(一八三〇)
七月二十八日
平井陳就の長男・陳常(のぶつね)、誕生。平井家第八代。[平井系譜]
天保五年(一八三四)
十月
平井陳就、二十四歳で跡目を相続。禄は千石。鉄砲頭格となる。[貼雑年譜][平井系譜]
*藩主は第十一代、藤堂高猷(たかゆき)。文化十年二月九日-明治二十八年二月九日(一八一三-一八九五)。文政八年(一八二五)から藩主を務め、明治四年(一八七一)、長男・高潔(たかきよ)に家督を譲った。
天保六年(一八三五)
十一月五日
平井陳成、死去。津乙部、浄明院に葬られる。[平井系譜]
天保七年(一八三六)
二月
平井陳就、鉄砲頭となり、足軽組を預けられる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
天保十一年(一八四〇)
七月十日
京の寺侍、本間来祐の長女・和佐、誕生。[貼雑年譜][平井系譜]
弘化元年(一八四四)
十一月
平井陳就、用人見習いとなる。[平井系譜]
弘化二年(一八四五)
三月
平井陳就、用人となる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
嘉永二年(一八四九)
三月
平井陳就、藩主の命により留守用人となる。[平井系譜]
嘉永三年(一八五〇)
一月
平井陳就、増上寺にある霊屋(徳川将軍家墓所)の普請手伝いを命じられ、副奉行として勤務。その功により翌年、褒美を与えられ、公儀からも小袖と白銀を拝領する。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
八月
陳就、藩主の命により、側用人となる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
安政三年(一八五六)
四月
平井陳就、藩主の命により、側用人のまま大横目を加役され、持筒組を預けられて加判奉行の席となる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
文久元年(一八六一)
八月
平井陳就、病気につき側用人と大横目の免職を願い出、鉄砲頭格となる。[平井系譜]
文久三年(一八六三)
一月二十九日
平井陳就の妻、死去。法号、静姝院。津乙部、浄明院に葬られる。妻は藤堂高允(たかのり)の娘。[父母のこと/昭和32年3月][平井系譜]
*高允は第十代藩主、高兌(たかさわ)の弟。天明八年六月-天保十二年六月(一七八八-一八四一)。
四月
陳就、鉄砲頭を命じられ、足軽組を預けられる。藩主から持ち馬を差し出すよう命じられ、馬の代金二十両を拝領。[平井系譜]
八月
陳就、大和国の浪士を追討するため大和古市へ出張。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
*大和国の浪士とは天誅組のこと。八月に尊王攘夷派の浪士が挙兵し、五條代官所を襲撃、十津川郷に拠点をつくろうとしたが、幕府軍の討伐を受けて九月には壊滅した。津藩は幕府から天誅組の鎮圧を命じられていた。
十月
陳就、病気の藩士に代わって大和浪士の追討を命じられ、五條へ出張する。[平井系譜]
十一月
陳救、津に帰る。[平井系譜]
元治元年(一八六四)
三月
平井陳就、城和加判奉行を命ぜられる。[父母のこと/昭和32年2月][平井系譜]
*城和は山城と大和のこと。両国に津藩の領地があり、大和古市に奉行所が置かれていた。
四月四日
陳就、津から大和に引き移る。大和古市で在任中、本間和佐を後妻とした。[彼/昭和11年12月][父母のこと/昭和32年3月][貼雑年譜][平井系譜]
四月
陳就、藩領内にある三か所の山陵を修復する工事を命じられる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
慶応二年(一八六六)
二月
平井陳就、山陵掛りの頭を命じられ、修補を成功させたため、朝廷から白銀五枚を拝領する。[父母のこと/昭和32年2月][平井系譜]
慶応三年(一八六七)
二月三日
平井陳就と和佐のあいだに繁男が誕生。のちに弟・彦次郎も生まれたが、他家の養子となって雑貨商を営んだ。[父母のこと/昭和32年3月][平井系譜]
明治元年(一八六八)
三月
平井陳就、藩主の命により、津加判奉行となる。[平井系譜]
四月二十三日
陳就、大和から津へ引っ越す。[平井系譜]
明治二年(一八六九)
五月
平井陳就、藤堂家当主の命により民政会計主事を兼ねる。[平井系譜]
八月
陳就、命により内務会計主事となる。[平井系譜]
十月
陳就、内務主事となる。[平井系譜]
明治三年(一八七〇)
十一月
平井陳就、藤堂家の家扶となる。[父母のこと/昭和32年3月][平井系譜]
明治四年(一八七一)
八月
平井陳就、隠居を願い出て許される。隠居後は入道して閑水と号し、写経などに余生を送った。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
明治六年(一八七三)
一月一日(水)
*前年の太政官布告によりグレゴリオ暦が導入された。以降の日付には曜日を付す。
明治七年(一八七四)
六月二日(火)
本間来祐、六十四歳で死去。[平井系譜]
明治十一年(一八七八)
九月五日(木)
津の元藤堂藩士、本堂帆之助の長女・きく、誕生。[平井系譜]
明治十七年(一八八四)
一月二十三日(水)
平井陳就、七十四歳で死去。津市乙部、浄明院に葬られる。[父母のこと/昭和32年3月][平井系譜]
明治二十二年(一八八九)
九月十六日(火)
平井繁男、関西法律学校を卒業。[父母のこと/昭和32年3月][七十年前の父の写真/昭和32年4月][関西大学:第1回卒業証書授与式]
明治二十五年(一八九二)
この年か
平井繁男、三重県名張町にあった名賀郡役所の書記を拝命し、名張町新町の借家に住む。津市で独居していた母・和佐を呼んで同居。[父母のこと/昭和32年3月][貼雑年譜][平井系譜]
*当時の正式な郡名は名張郡。郡役所は伊賀郡と合同で名張町に置かれていた。明治二十九年三月二十九日、名張郡と伊賀郡が合併して名賀郡が発足した。
明治二十六年(一八九三)
七月二十五日(火)
平井繁男、津市玉置町から本堂きくを妻に迎える。[貼雑年譜][平井系譜]
[2012年4月26日]
明治二十七年(一八九四)
年齢:零歳、数え年一歳
住居:三重県名張郡名張町新町
十月二十一日(日)
平井繁男ときくの長男として誕生し、太郎と命名された。繁男は二十七歳、きくは十六歳。[父母のこと/昭和32年3月][貼雑年譜][平井系譜]
[2012年4月30日]
明治二十八年(一八九五)
年齢:零歳→一歳、数え年二歳
住居:三重県名張郡名張町新町
→三重県鈴鹿郡亀山町市ケ坂
→亀山町南町(?)
六月
平井繁男、鈴鹿郡書記に転任となり、亀山町にあった鈴鹿郡役所に転勤。家族で亀山町市ケ坂に転居した。家族は、繁男、きく、和佐、太郎。[貼雑年譜]
十月か
繁男、家族で亀山町南町(北町か)に転居。[貼雑年譜]
*当時の亀山町には南町も北町もなく、東町があった。
[2012年4月30日]
明治二十九年(一八九六)
年齢:一歳→二歳、数え年三歳
住居:三重県鈴鹿郡亀山町南町(?)
この年か
平井太郎、自宅そばの高台にある権現社の境内で祖母・和佐と遊び、おもちゃのような汽車が汽笛を鳴らして走るのを見る。それが最初の記憶だった。[一頁自伝/昭和5年11月][彼/昭和11年12月]
*亀山町東町には権現社があった。
[2012年4月30日]
明治三十年(一八九七)
年齢:二歳→三歳、数え年四歳
住居:三重県鈴鹿郡亀山町南町(?)
→愛知県名古屋市園井町
→愛知県名古屋市葛町
春
平井繁男、人から勧められて鈴鹿郡書記を辞し、東海紡織同盟会名古屋市事務所書記長に就職、名古屋市園井町の事務所兼住宅に転居した。家族は、繁男、きく、和佐、太郎。ほかに事務員一人、書生一人が住んだ。[貼雑年譜][平井系譜]
六月十五日(火)
三重県志摩郡坂手村の商人、村山七蔵の長女・隆、誕生。[妻のこと/昭和32年3月][平井系譜]
年末または翌年初め
平井繁男、名古屋市葛町に転居。家族は、繁男、きく、和佐、太郎。ほかに、きくの末弟・本堂三木三が書生として同居した。[貼雑年譜]
[2012年4月30日]
明治三十一年(一八九八)
年齢:三歳→四歳、数え年五歳
住居:愛知県名古屋市葛町
→名古屋市南伊勢町ぬ百二番
五月十七日(火)
平井繁男の次男・金次が誕生。[貼雑年譜][平井系譜]
太郎、弟ができて乳離れしなければならず、ヒステリーを起こして痩せ細った。母・きくに代わって祖母・和佐が添寝したが、その習慣は小学校入学の前年までつづいた。[彼/昭和12年3月]
年末
繁男、東海紡織同盟会名古屋市事務所を辞め、名古屋市南伊勢町ぬ百二番に転居。家族は、繁男、きく、和佐、太郎、金次。繁男は名古屋実業界の巨頭、奥田正香の知遇を受け、奥田正香商店の法律顧問に就職、奥田が会頭を務める名古屋商業会議所にも勤務した。[貼雑年譜]
この年か
太郎、四歳か五歳の初めのころ、筒袖の着物に繁男のチョッキを着、おもちゃのサーベルをさげた姿で、葛町の家の門に立って往来する人々を睨んで威張っていた。二番目に古い記憶という。[彼/昭和12年3月]
この年か
太郎、五、六歳のころ、同居していたきくの末弟・本堂三木三から絵探しを教えられ、謎というものの魅力を知った。絵を描くことにも興味をおぼえた。[彼/昭和12年3月][貼雑年譜]
この年か
太郎、五、六歳のころ、自身が異端者であることをおぼろげに自覚し始めた。[彼/昭和12年3月]
[2012年5月1日]
明治三十二年(一八九九)
年齢:四歳→五歳、数え年六歳
住居:愛知県名古屋市南伊勢町ぬ百二番
八月二十二日(火)
平井繁男の次男・金次、死去。[貼雑年譜][平井系譜]
八月二十六日(土)
平井繁男、垂水善太郎との共著『改正日本商法詳解』を駸々堂(大阪市南区)から出版。[貼雑年譜][近代デジタルライブラリー:改正日本商法詳解]
この年か
平井太郎、明治三十二、三年のころ、繁男が勤務で留守のとき、あるいは書斎にこもっているとき、和佐はお家騒動の、きくは黒岩涙香作品の貸本を好んで読んでいたが、そのそばに寝転がって、涙香本の挿絵を覗いたり、きくから挿絵の簡単な説明を聞いたりした。[探偵小説四十年 涙香心酔/昭和24年10月][私の探偵趣味/大正15年6月][活字と僕と/昭和11年10月]
[2012年5月2日]
明治三十三年(一九〇〇)
年齢:五歳→六歳、数え年七歳
住居:愛知県名古屋市南伊勢町ぬ百二番
→名古屋市栄町
八月五日(日)
平井繁男の三男・通が誕生。[貼雑年譜][平井系譜]
年末または翌年初め
繁男、名古屋市栄町に転居。家族は、繁男、きく、和佐、太郎、通。[貼雑年譜]
この年か
平井太郎、同年の美少年、丹下高福と知り合う。小学校入学前から中学卒業まで親友として過ごした。[国家ごっこ/昭和34年5月]
[2012年5月3日]