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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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小学館のグラフ雑誌「週刊戦乱の日本史」は、5月27日発行の第16号が「伊賀忍者影の戦い」。定価580円。新説が売りもののシリーズらしいが、これといって目新しい知見は得られなかった。

伊賀忍者の特集だから、地域的には名張市も対象エリアに入るのだが、お株は伊賀市に奪われている観がある。天正伊賀の乱で赤目の柏原城が伊賀勢の最後の拠点となったエピソードが記され、柏原城址の写真が掲載されているのと、天正みだれ太鼓が写真入りで紹介されているのが眼につく程度である。

奥付ページに「戦乱の日本史誌上検定」の「伊賀編」というのがあって、全五問中わずかにひとつだけが、名張に関係のある設問となっている。こんなあんばい。

   
5 伊賀にある町で、飛鳥時代から「隠」と表記されていたのはどこでしょう?

(1)名張 (2)上野 (3)柘植 (4)赤目

おちょくられているような気がする。
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2ちゃんねるの地方自治・知事板に、ついにわれらが名張市のスレが立った。おととい日曜のことである。

地方自治・知事@2ch掲示板:三重県名張市の市政について語りませんか?

とはいえ、いまだにレスはひとつだけ、あたかも名張まちなかのごときさびれようである。盛りあげてやっていただければ幸甚である。
2ちゃんねるニュー速+板にきのう、またしても名張市関連のスレが立った。

ちなみに、このスレはすでにdat落ち。

ニュース速報+@2ch掲示板(魔物):【三重】中2生徒を遊びに誘ったが断られ立腹、教室に乗り込むも教諭らに制止され憤激 教諭を殴る 中3男子生徒を逮捕

新たに立てられたのがこれである。

ニュース速報+@2ch掲示板(魔物):【三重】中3男子、同級生の女子生徒の首を絞めて壁に打ち付け負傷させる 「髪を結んで」と頼み断られたので腹を立てる

ニュースとしては珍しくもなんともないのだが、名張市内のおなじ中学校で警察沙汰になる暴力事件が二件連続して発生したのだから、合わせ技というやつか、前回の事件よりはスレの伸びもやや良好なようである。といったって、どうせすぐまたdat落ちしてしまうのであるが。
2ちゃんねるニュー速+板にきのう、ひさびさに、というか、2月に発覚した名張警察署おまわりさん盗撮用ビデオカメラ設置事件以来のことだと思われるが、名張市関連のスレが立った。

ニュース速報+@2ch掲示板(魔物):【三重】中2生徒を遊びに誘ったが断られ立腹、教室に乗り込むも教諭らに制止され憤激 教諭を殴る 中3男子生徒を逮捕

しかしいかんせん、珍しいニュースではまったくないため、スレの伸びが非常に悪い。
きのう3月30日は、國松孝次元警察庁長官が東京都荒川区の自宅マンション前で銃撃された日である。事件発生は十三年前の平成7・1995年。当初からオウム真理教の犯行とする見方が強く、平成16・2004年には教団の幹部ら三人が殺人未遂容疑で逮捕されたが、嫌疑不十分で不起訴処分とされた。

産経新聞によれば、この19日、別の強盗殺人未遂事件で実刑判決を受けて上告中の人物が、警視庁に対し犯行を示唆する供述をしていることがわかった。

産経新聞:警察庁長官銃撃で77歳男が犯行示唆の供述 「秘密の暴露」(3月20日)
産経新聞:【独白・警察庁長官銃撃事件】(上)「秘密の暴露」凶行の全容、詳細に(3月20日)
産経新聞:【独白】(中)動機、一貫して「反オウム」(3月20日)
産経新聞:【独白】(下)証拠 「封印」された拳銃(3月21日)
産経新聞:警察庁長官銃撃、30日で発生から13年(3月29日)
産経新聞:「中村供述」の真偽 公安、刑事が連携し解明を(3月29日)

「【独白】(中)」に「警視庁が15年7月、三重県名張市の知人宅を家宅捜索した際、拳銃や実弾などとともに一編の詩が見つかっている」とあって、この中村泰という被告の知人が平成15・2003年7月当時、名張市に住んでいたことがわかる。

検索してみると、「警察庁長官銃撃で77歳男が犯行示唆の供述 秘密の暴露」をソースにしたブログ記事があった。

酔うぞの遠めがね:国松長官狙撃事件が解明される?(3月20日)

読売新聞のデータベースにもとづいて事実関係を整理した年表に、「1996 三重県名張市の知人宅で生活を始める」とあって、中村泰被告が平成8・1996年から名張市の知人宅に住んでいたことがわかる。平成13・2001年には「大阪市都島区の三井住友銀行都島支店(閉鎖)現金輸送車襲撃事件」、翌年には「名古屋市のUFJ銀行押切支店現金輸送車襲撃事件」を起こしているのだが、その当時も名張市に住んでいたのかどうか、それはわからない。

さらに別のソース。

怪奇探偵コレクション:ナンペイ事件と東大中退テロリスト(2004年2月6日)

平成7・1995年7月、八王子市のスーパーで女性従業員三人が射殺された事件と中村泰なる人物のかかわりが考察されているが、なかに「中村は1996年に東京を離れ、三重県名張市に引っ越している。そして住民票だけは、97年に東京の豊島区に移し、98年に神戸市に移している。つまり、95年のナンペイ事件以後に、不審な行動をとっている」とある。

おなじサイトの関連記事。

怪奇探偵コレクション:「国松長官狙撃犯と私」について(2004年3月22日)

この人物をテロリストと呼ぶことにはためらいをおぼえる。せいぜいが自称テロリストでしかないだろう。しかし、あえてテロリストと呼ぶことにして、老残のテロリストがたとえ一時期であるにせよ身をひそめるようにして隠れ住んでいたのだとしたら、それはこの名張という土地にいかにもふさわしいことであったように思われる。

ちなみに、平成15・2003年11月、名張市総合福祉センターふれあいで催されたミステリ講演会「なぞがたりなばり」で、高村薫さんはナンペイ殺人事件から受けた衝撃のすさまじさを打ち明けていらっしゃった。名張市公式サイトで講演全文を読むことができる。

名張市公式サイト:第13回なぞがたりなばり(pdf)

関連箇所を引用。

   
私の場合、本格推理の作家さんたちのように乱歩的なあるいは横溝的なブランドミステリーを書く能力はありません。私はどこまでも同時代の足元の社会しか眺められないような、そういう頭の持ち主であります。にもかかわらず、95年頃には足元の社会にある犯罪をもう書けないという思いが強くなったのであります。(もう書けないという)その決定的なものは、まず1995年、東京は八王子のスーパーで女性従業員が三人射殺された事件。それから97年の神戸の連続児童殺傷事件でした。この二つを目の当たりにしまして、その時、私はもう書けないと思ったのであります。
八王子の事件のときは、たまたま私は警視庁の記者クラブに立ち寄ってたんですが、社会部の記者たちも真っ青になっておりました。私自身も体が震えました。映画でも見たことがないようなあまりに残酷すぎる事件でありました。もちろん未解決です。今でも警視庁にとって一番衝撃が強かったのがこの事件だと言われております。一見、金目当ての強盗殺人に見えますけれども、それにしては犯行が残酷過ぎてこれまでの警察の常識では考えられない事件だったからです。それから目撃者もいない。動機も分からない。今日まで警察に出来たのは、犯行に使われた拳銃の型を割り出すこととスーパー関係者の鑑捜査だけであります。
この事件のほんの少し前に警察庁の国松長官が狙撃されるという事件が起こりました。その時も私は大変びっくりしましたけれども、体が震えるようなことはありませんでした。多分、警察庁長官の狙撃というのには、それなりに物語が想像できるから衝撃が小さかったんだと思います。
ところが、八王子のスーパーの事件の被害者は、目隠しをされて頭を撃ち抜かれておりました。女性たちがそんなふうにして殺される理由もなければ、そこに至る物語も全く想像できません。物語性のないただ残酷な事実の前で私は立ちすくんだ訳でありました。
97年に神戸で少年の遺体の一部が発見された事件の一報は、その日の朝、自宅にかかって来た新聞社の電話で知りました。その時、どう思うかと聞かれたのですが、私は学校の校門の前に被害者の頭部が・・・というような状況を、頭で思い浮かべることができなくて、そんな事件はもう私の頭ではついていけないから、何も申し上げられませんといって取材をお断りしました。その時はもう、八王子のスーパーの事件のように現場の凄惨さを思い描くことすらできなかったという訳であります。

この講演があった五年前にくらべると、この日本という国において、「物語」が想像できない犯罪はさらにいっそう数を増しているのではないか。
中日新聞系のフリーペーパー「ROOS」3月号が昨19日、発行された。名古屋市全域を中心に、三重県では桑名市、いなべ市などで中日新聞に折り込まれる「熟年世代のニュースペーパー」。タブロイド判で十二ページ。

タウン誌ネットワークUnyo!:ROOS(ろ~ず)

3月号の特集は「文豪の里を行く〜江戸川乱歩ゆかりの地を訪ねて〜」。フロントページのコンテンツ欄には、「三重県が生んだ“日本の探偵小説の父”江戸川乱歩。その偉大な足跡をたどろうと、本紙記者が三重・愛知両県のゆかりの地を訪ねました。名張市をはじめ、各地に点在するお薦めスポットを紹介します」とある。

特集のなかの名張市のパート、権利関係でいろいろ問題があるとは知りつつも、画像でこっそり掲載する。本文もなんとか判読できると思う。

20080320a.jpg

以前にも記したとおり、名張の名がメディアで喧伝される機会の多くはこれこのとおり、江戸川乱歩の生誕地であることによっている。

先日閲覧した名張市議会の会議録には、「乱歩関連施設整備事業検討委員長の発言にもありましたように、乱歩はまちなか再生の目玉と称されております。私も、乱歩は全国的にも知れ渡るメジャーの地域資源であると考えます」との発言があった。このブログのリンク欄にあげた「まちBBS:名張市について書き込んでみましょう」をクリックすると、最初に出てくるのは「江戸川乱歩生誕の地名張」という文章である。名張市を本拠とするサッカーのクラブチームは、乱歩にちなんで「三重FCランポーレ」と名づけられている。

すなわち、名張市にとって乱歩がかけがえのない「目玉」であり「地域資源」であるという認識は、市民のあいだにある程度浸透しているといっていいはずである。ところが名張市は、そのせっかくの素材を、いっこうに活用しようとしない。その気がないわけではないのだが、いわゆる実行がともなわない。なぜか。ものを考える能力に欠けているからである。よその猿真似をする程度のおつむしかないからである。名張市の地域性や独自性をよく知り、乱歩作品や乱歩その人をよく理解して、そのうえで名張市が、みずからの身のたけ身のほどというものをよくわきまえて、さて何をなすべきなのかと考える。そんな芸当などとてもできない相談だからである。

そしていまや、乱歩にかんする名張市の無策無能は、名張まちなか再生プラン関連の細川邸ならびに桝田医院第二病棟の整備事業によって、すみからすみまで白日のもとにさらされてしまった。およばずながらこのブログも、名張市の無策無能ぶりを喧伝することに明け暮れてきた。喧伝することで名張市に、それこそ再生の道を示すことができるかと期待をかけていたのだが、その期待も夢とついえた。何をどうしたところで、もはや甲斐はないのである。終わっとる終わっとる。少なくとも乱歩にかんしていうならば、名張市はもう完全に終わっておる。そろそろ投了ということにすべきだろう。蛍の光が聞こえぬか。
3月1日、「永遠のJガール」というブログが開設された。「Jガール」の「J」がなんのイニシャルなんだか、よくわからない。イニシャルなんかではないのかもしれない。ともあれ3月1日、田中徳三監督を追悼するエントリで船出が飾られた。

永遠のJガール:3月1日(土) 追悼 田中徳三監督

「J」は「Japan」の「J」かと思いあたったが、たぶんちがうだろうなとも思う。3月中旬になると、こんなエントリが登場する。

永遠のJガール:3月13日(木) 中 相作先生のこと

当方のことまで追悼していただいてありがたいことである、と一瞬思ってしまったが、そうではないそうではない。先生は存命である。ぴんぴんしている。ぴんぴんしている、というか、べろんべろんになっている、というか。しかし、よそさまのブログのエントリで主役を張れるなどというのは、長い一生でもめったに経験できぬことであろう。永遠のJガールにお礼を申しあげておきたい。というか、先生はなんだか恥ずかしい。

ブログを一読すればたちどころに知れるとおり、このブロガーはじつにまっすぐ、佐藤紅緑ふうにいえば、いやもう佐藤紅緑なんてのはいかにも古いのであるけれど、それでも佐藤紅緑ふうにいえばひたぶるに一直線な女性であって、アルファベットでいえばまぎれもなく「I」の字である。しかし、「I」ってのは字面的に深みとか陰翳に欠けるような気がする、だからいっぽうの先端をくるっとまわして「J」にしてみた、これで色っぽくなったかしら、というのが「Jガール」の由来なのではないか。真相なのではないか。先生はそのようににらんでいるのであるが、絶対にちがうであろうな。

ともあれ、このブログには吉本系の芸人諸兄姉が大挙して登場してくるようなので、そういった方面に興味のあるかたにはとくにお薦めしておきたい。

じつをいえば先生は、若き日、秋田実先生を師と仰いで漫才作家を志しながら挫折し、それならいっそ漫才師になろうかと考えながらそれも断念してしまった暗い過去をもつ人間である。だからいまでも漫才にはとりわけ愛着が深く、つい先日も新聞で上方漫才の十枚組だかなんだかのCDブックが出たという記事を読んで、あわててブックスアルデ名張本店へ注文に走ったほどなのである。早く届かぬものかしら。

それでは、末筆ながら「永遠のJガール」の誕生を祝しつつ。
きのうにつづいて、週刊「日本の100人番外編」の7号「江戸川乱歩」から、「後世への遺産」の「マニア垂涎の町 生誕地・名張」を引用。

   
また、名張市立図書館は1969(昭和44)年の開館以来、乱歩の著作や関係する文献の収集に努めてきた。それらの資料は1987(昭和62)年に新築移転した、図書館の一角に設けられた「江戸川乱歩コーナー」に展示されることとなった。展示品は書籍などの他に、新たに平井家から借用した乱歩遺愛の帽子やコート、文机や筆もあり、乱歩ファンがゆかりの地を訪れる際には、足を運ぶべきスポットとして人気が高い。そして図書館では、資料や遺品の管理だけではなく、乱歩に関係する文献を整理し『乱歩リファレンスブック』1、2、3として、1997(平成9)年から2003(平成15)年にかけて刊行した。これは乱歩ファンや研究者が利用するバイブルとなっている。
更に名張市では、乱歩にちなんだ「名物」も豊富だ。山本松寿堂では乱歩のデビュー作「二銭銅貨」に由来する「二銭銅貨煎餅」を発売している。そして現在「伊賀まちかど博物館」のひとつとなっている築170年の町家「はなびし庵」(すみた酒店)では、名張の歴史や文化を織り込んだという影絵劇を制作、上演しており、劇の番組のなかには「乱歩誕生」というコミカルな作品もあって人気を呼んでいる。酒屋でもあるこの町家では、影絵劇からイメージした同名のオリジナル酒も販売している。乱歩マニアにとってはどちらも名張でしか入手できない逸品だ。
そして2004年(平成16)年、市制50周年を迎えた名張市は、乱歩の少年探偵団シリーズに登場する「怪人二十面相」を住民登録し、また東京都豊島区と交流都市協定を結んだ。これにより、乱歩が生まれた地と、乱歩が没した地が手を取り合う形となったのである。そして異なった環境や文化をもつふたつの行政区が、乱歩を縁として情報交換や視察を行い、物産や観光情報についても交流を深めている。

いやはや、ひどいものである。名張市における乱歩なるものが、ごく短い期間でみるみる劣化していったさまが、この短い文章からはっきりとうかがえるではないか。

振り返ればまさしくそうであった。あっというまの劣化であった。平成15・2003年の江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』の刊行を輝かしいピークとして、名張市における乱歩なるものは急速に劣化していったのである。あれよあれよというまに坂道を転げ落ちてしまったのである。そしてこのざまである。ろくに乱歩作品を読んだこともなく、乱歩のことを知ろうともせず、もとより乱歩へのリスペクトなどかけらもない連中がしゃしゃり出てきて、うわっつらだけ乱歩乱歩と騒いだあげくがこのざまではないか。まったくまあ、しまいにゃしばき倒すぞ低能ども。

だからまあ、せっかく好意的にとりあげていただいた「日本の100人」には申しわけないのだけれど、名張市は「マニア垂涎の町」などではまったくないのである。そんなまちになれる可能性もないではなかった。しかし、わずかここ数年という短い期間で、可能性の芽はすべて摘みとられてしまった。うすらばかってのはほんっと、手に負えない。好きなだけよだれを垂れておればいいのである。
おまわりさんが飲食店の便所に盗撮用ビデオカメラを仕掛けた土地の名前として、あるいは、かつて全国的な好奇の目を集めた毒殺事件が起きた場所として、でなければ、高名な映画監督の最後の居住地として、名張市がメディアによってひろく紹介されることはたまにある。しかし、名張の名がメディアで喧伝される機会の多くは、江戸川乱歩の生誕地であることによっている。

デアゴスティーニ・ジャパンから、週刊「日本の100人番外編」の7号「江戸川乱歩」が出た。古代から現代にいたるまで、いわゆる歴史上の人物を紹介する大判のグラフ雑誌である。

デアゴスティーニ:日本の100人

「後世への遺産」と題された章では、「マニア垂涎の町 生誕地・名張」というパートで、名張市が紹介されている。掲載写真は、名張市立図書館の乱歩コーナー、江戸川乱歩生誕地碑、すみた酒店の日本酒「乱歩誕生」、山本松寿堂の煎餅「二銭銅貨」。

最初の三段落を引用。乱歩と名張のかかわりが説かれている。

   
三重県名張市は大阪や奈良に近く、古代からその地名が文献に出る程、歴史ある土地である。乱歩はこの地で生まれたものの、間もなく別の土地に引っ越してしまったため、故郷という感じが乏しいというが、生まれ故郷・名張について触れているエッセイも幾つか残している。
乱歩は57歳の時にこの地を訪ね、生家跡を見たり両親を知る人に面会するという機会を得た。これは、乱歩が若い頃に就職のあっせんなどで世話になった恩人の代議士・川崎克の息子で改進党に属していた川崎秀二が選挙に出るというので、その応援演説のために駆け付けたからである。地元の人に歓待された乱歩はエッセイ「ふるさと発見記」のなかに、選挙の応援の役には立たず、得をしたのは自分の方であったと書いている。
1952(昭和27)年に乱歩が名張に帰郷した際には、これを契機として乱歩の生誕地碑に碑を建てる計画が同地で立ち上がった。有志による資金集めから始まり、生家近くには高さ2m弱の「江戸川乱歩生誕地」という碑が出来上がった。ここには乱歩が自ら書いたという「幻影城」の文字が刻まれ、計画が始まってから3年後には、乱歩と妻・隆も参加しての除幕式が行われた。これについて乱歩は、地元・名張が「従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う」と記している。ともあれ、これが乱歩と名張の関係がさらに深まるきっかけとなった。

ややわかりにくいが、「57歳の時にこの地を訪ね」というのが、すなわち「1952(昭和27)年に乱歩が名張に帰郷した」ときのことである。

それでまあ、「乱歩と名張の関係がさらに深まるきっかけ」というのがたしかにあって、結局どういうことになったのか。江戸川乱歩生誕地碑広場ということになったのである。そんなことを誰が決めたのか。名張市役所のみなさんである。ろくに乱歩作品を読んだこともなく、乱歩のことを知ろうともせず、もとより乱歩へのリスペクトなどかけらもなく、桝田医院第二病棟を寄贈していただいたことの恩義すら感じることもない、名張市役所のあほのみなさんなのである。名張市役所に巣くうぼんくらどもが決めたのである。ばかかこら低能。うすらばかが陰でこそこそ勝手なこと決めてんじゃねーぞこの低能自治体。

特別サービス。太字で強調しておこう。

ばかかこら名張市とかいう低能自治体。

あすにつづく。

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