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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
きょうも「名張の民俗」。なんというのか、こういうエントリばかり並べて味も素っ気もないアーカイブをつくりたいと考えているのだが、ブログなど利用せず、もっと本格的なアーカイブをめざすべきかとも思えてきた。もう少し思案してみたい。

とりあえず、きょうの産経新聞の記事。

産経新聞:成長願って矢を射る 名張市滝之原地区で若子祭

引用。

   
名張市の滝之原地区で、昨年誕生した男児らの成長を願って矢を射る正月行事「若子祭」が9日、同地区の八幡神社で開かれた。4人の「若子」の無病息災を願って、地区の6人の男性が神社前で、力強く6本ずつの矢を射た。

同市文化財に指定された祭り。地区の結束を固める意味もあり、700年以上前から続くとされている。

つづいて、『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。

   
□□若子祭(1月9日 滝之原・八幡神社)

八幡神社 滝之原には上出・中出・下出という三つの小場がある。八幡神社は中出、龍性院の横の丘陵の上に建っている。明治41年の神社統合にさいし小場内の全部の神社が村社国津神社に合祀された。その時の合祀目録によれば、この八幡神社も同年10月21日に国津神社へ合祀されたことになっている。だが、地元民の話によれば、表向きは合祀したことにして、実は相変わらずまつっていたという。理由はわからないが、おそらくこの神社に伝わる歩射の神事を保存するためではなかったろうか。事実、表向きの合祀後もこの神事は一年も休まず続けられてきた。土地の人が“おまと”と呼ぶこの神事は1月9日の若子祭の日におこなわれる。若子祭は前年中に村内に生まれた子供(男女とも)が神前に集まり健かな成長を祈願する祭である。
歩射というのは、馬上から弓を射る流鏑馬(やぶさめ)に対し、地上にいて弓を射ることである。主として正月に行なわれ、悪霊除けと年占を兼ねた神事である。風水害・病虫害・疫病等は悪霊の仕業と考えられ、的をこの悪霊に見立て、これを退治することによって五穀豊穣と村内安全を祈るのである。神官あるいは頭屋、とくに選ばれた若者・子供たちが厳しい斎戒や献盃祝言を経て射手となる。滝之原の歩射神事もこの原形をよく伝えている。起源についてはっきりしたことはわからないが、七百年の伝統があると土地の人は言い伝えている。なおこの神事は市文化財(民俗資料)の候補になっているが、いまだ正式の指定はない。歩射はブシャと読む。
準備 行事のはじまるのは午後二時ごろだが、早朝から若子(新生児)の父親が神社に集まり(社地が狭いので龍性院をつかう)、幟(のぼり)を立てたり、的(まと)を作ったり、弓の絃を張ったり、供物をととのえたり、万端の準備に当たる。的は一辺一・五メートルぐらいの方形、竹の骨組みに紙を貼り、筆で大きい三重丸を書く。弓は真弓、絃は麻苧(マオ)で、毎年張りかえる。なお的準備のさい、上出は的立て、中出は藁敷き、下出は榊立てという分担が古来きまっている。

若子祭は昭和45・1970年9月7日、名張市文化財に指定された。この項つづく。
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『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第1章 季節のコヨミ」から引用。おとといのつづき。

   
□□1月 承前

〈若水〉 元日の朝、井戸から汲みとった水で雑煮を炊き、茶をたて、残り水で家人が口をすすぎ、また書初めに用いる。若水で煮たてた茶を大福茶といい、梅干しを入れて、家族一同朝祝いに飲む。それから屠蘇・雑煮という順になる。だが、きちょうめんに若水の古例を守っている家は、はたしてどのくらいあることか。名張の町にも三、四年まえから上水道がついた。水道の水では“水の神”とか“若水”とかいう実感がわいてこない。
〈雑煮〉 正月の旧習のなかで、どの家もそろって守っているのは雑煮(ぞうに)ぐらいではなかろうか。汁の“み”は家ごとにちがうが、サトイモ(タダイモ)・大根・ニンジン・豆腐というところが標準だ。イモは切らずにそのまま、大根は七色になぞらえ色々の形に切る。汁は味噌しる、餅は丸い押餅(おしもち)。東京は四角の切餅、東京の人は丸い押餅をみてびっくりするが、当地方ではこれが最もふつうの餅の形である。
〈三種〉 おせち料理ということばは、当地方では一般的でない。(料理教室やテレビの影響で、このことばもだんだん普及しつつあるが)。正月の伝承的な料理といえば、いわゆる三種(さんしゅ)だ。数の子・ゴボウのはりはり・めまき・タツクリ・ボウダラのうま煮などを三重の容器につめ、来客があればこれを肴に酒をすすめる。だが、カズノコは“黄金のダイヤ”になったし、正月の食べ物もだんだん平常化しつつある。正月料理といって前々からさわぐ必要もなく、いまはマーケットでどんなものでも簡単にそろう。
〈年始まわり〉 家族そろって屠蘇や雑煮を祝い、氏神へ初参りをすませてからゆっくりくつろぐ、いわゆる“寝正月”が正月の本来の姿である。だが、年ぢゅう上役の鼻息をうかがわねばならぬ勤め人や、大切なお得意をもつ商人は、寝正月どころか、次から次へ年始まわりの重労働に憂き身をやつさなければならぬ。

拙宅では昨年末、餅もつかなければ、おせちもつくらなかった。前者は、ジャスコかどこかの大型店でパック入りの丸餅を買い、後者は、親戚縁者からわけてもらって重箱につめた。正月も何も、あったものではないと思う。
新年も七日目を迎えた。月曜である。正月気分など、すでにどこにもない。あわただしい日常がはじまっている。

新年早々あわただしいのも考えものだから、ひさしぶりにカテゴリ「名張の民俗」。四十年前の名張の正月をながめてみる。

『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第1章 季節のコヨミ」から引用。

   
□□1月

正月 名張地方の村では、終戦後も正月と盆は旧暦で行なうところが多かった。それが新暦に統一されたのは、ここ十数年来のことである。正月の行事・風習も、全国的な現象だとはいえ、当地方でも年とともに変わりつつある。門松のすがたはほとんど見られない。だい一、正月にたいする考えそのものが変わってしまったのだ。戦争前まで、まだこんなわらべうた(童唄)が子供たちに口ずさまれていた。「正月さんどこまで奥の山のすそまで団子くしにさしてねぶりねぶりござった」。正月さんは歳の神である。門松は歳の神を迎える道しるべであり、依代(よりしろ)でもあった。この神を、くしにさした団子をなめながら来たというふうに、身近かに、まるで友だちのように擬人化したこの唄は、待ちわびた正月がきた喜びと感激を天真らんまんに流露させたものである。だが、いまの子供たちは、はたしてこれだけの感動を正月にかよわせていることだろうか。

四十年前の感懐である。四十年が経過したいま、子供たちには、正月を迎えて感動するということが、たぶんないのではないか。もういくつ寝ると、と正月を心待ちにすることもないのではないか。

   
〈除夜の鐘〉 大みそかの夜は、商店は“店じまい”にいそがしく、銭湯・床屋・パーマ屋などは二時、三時まで営業、ふつうの家庭ではNHKテレビの紅白歌合戦にかじりつく。これがすむと、やがて各地の名寺古刹から除夜の鐘が実況放送される。元町の専称寺、黒田の無動寺、夏見の福典寺、鐘のある寺は除夜の鐘をつくのだが、市民のほとんどはテレビの除夜の鐘で新しい年を迎える。

店じまいといえば、四十年ほど前には商店の正月休みが長く、もちろん自動販売機なんてものもなかったから、おおみそかの夜、店じまいまぎわのたばこ屋に駆けこんで、正月用のたばこを買いだめする客があったことをおぼえている。紅白歌合戦は国民的テレビ番組であったが、いまや凋落いちじるしい。去年のおおみそかはどうだったかというと、紅白歌合戦には一瞥もくれず、酒を飲みながら格闘技番組をながめていたのではなかったか。除夜の鐘は、聞こえたんだかどうなんだか、よくおぼえていないようである。

   
〈初詣で〉 元日の朝、“宮まいり”といって氏神に初参りするのが旧例である。町の氏神“お春日さん”には、十二時をすぎると、店じまいをすませた町家の人々が、そのままのふだん着でぼつぼつ現れる。だが、近年は遠方の有名神社に初詣でする風がしだいにふえている。一つはレジャー時代の影響である。近鉄は終夜運転、乗車賃・おみやげ付伊勢初詣でクーポン券を大々的に前売して初詣で客の吸引に大わらわ、電車も沿道も超満員で、ゆっくり初詣で気分にひたったり、一年の幸福をいのったりできる環境ではない。伊勢神宮とならんで、三輪明神への初詣でも多い。三輪の明神は“商売の神”(この頃ではプラス“交通安全の神”)として名張の商家に多くの信者をもっており、毎月1日、月参りする人も多い。ご念のはいった信心家は、伊勢からの帰りに三輪へまわり、その帰りに氏神へ立寄る。

氏神の「お春日さん」は宇流冨志祢神社のこと。お春日さんであれどこであれ、ことしも初もうでには無縁な新年であった。この項つづく。
『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。きのうのつづき。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町) 承前

祭礼の街

夏見でも瀬古口でも宵宮・本祭の両日とも“渡り”を行なうが、宇流冨志禰神社では宵宮祭の一日だけである。頭屋の招客もその時だけである。
本祭28日の街は、頭屋の“渡り”こそないが、祭礼一色にぬりつぶされる。参道には前夜につづいて露店が並び、遠近からの人出で雑踏する。この中を神輿がお旅所から本社に還御する。午前十時ごろお旅所を出発、人力車に乗った神職を先導に、舞姫・頭屋・世話人衆が供奉して町を練る。この神輿の“お渡り”を高い所(たとえば二階)から見下ろすと、神慮に触れて石を投込まれたり家の中へ練込まれたりする。この前近代的遺習はだんだん薄らぎつつあるが、今でもそのおもかげが残っている。
この日はまた各町内にもそれぞれ伝統的な行事があり、一だんと町をにぎわせる。
本町 楼車(ダンジリ)。昔は本町・新町・中町・上本町がダンジリを持っていたが、今は本町だけ残る。人手不足でだんだん出しにくくなっている。
鍜冶町 伝統の七福神踊りは名張祭に欠かせぬ景物だったが、装具が破損し、といって新調の財源もなく、数年前から姿を消した。
榊町 子どもの獅子行列。これも子どもの数が減って取止めの現状。
丸之内 神馬は今は昔の語り草となって子供みこし
上本町 子供みこし
上八町 子供みこし
柳原町 子供みこし
中町 子供みこし
松崎町 鹿行列
子供みこし、獅子行列、武者行列、鹿行列などほとんど戦後の案出だが、他の地方にはあまり例をみない伝承的な“出し物”に太鼓台がある。電信柱ほどもある太い二本の丸太の上にヤグラを組み、大太鼓をすえて町内の子供衆が威勢よくドンツクドンツクたたく。それを町内の若い衆がかつぎ、御神輿のように右に左に揺さぶりながら練る。松崎町・元町・東町・新町などにあるが、青壮年層の不足で、出ることが少くなっている。だから、子供みこしなど子供中心の“出し物”にかわったのだが、その子供もだんだん減って、祭の景物はさびしくなって行く。

以上、四十年ほど前の記述である。
『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。きのうのつづき。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町) 承前

祭の行事 承前

宵宮の行事 27日。この日の午後、頭屋は親戚、懇意な知己を招待する。招客はいずれもカミシモ姿だ。めったに見られない異風景である。これは江戸時代に祭の日だけ町民が士分になることを領主藤堂家から許されたことに由来するといわれる。むろん家紋入りの提灯は付き物(余談だが昭和42年の祭に筆者が本町・岡村浩司家に招待されたとき、カミシモや提灯を借り歩くのに苦労した)。膳の献立は地区によってちがうが、それぞれ古来からの規格がある。
夜八時、四頭屋の年当子父子・招客一同は行列をつくってお旅所に集まる。ここで宵宮祭を行い、盃の儀がある。境内では朝日町・南町の獅子神楽が舞う。やがて神社から七度半の使いが来る。これは市域ではここだけに残る遺習である。神職が神社からお旅所まで七度むだ足して八度めの途中で迎えるという形である。“七度半の使い”について柳田国男監修『民俗学辞典』は次のように解説している。
 
「祭に際して神幸を求めるために、あるいは重要な役員たる神主・頭屋を迎えに出る呼び使のことである。伊勢の大神宮にも巫子(みこ)を迎えるための七度半の使が立った例がある。近畿地方での、特に奈良県下の宮座の祭には著しいことである。七度のむだ足をして、八度目の中途で確実に迎えられる形になるのが一般である。神木にシメ縄を七巻半まくというのと同じ数概念に由来することである」
この七度半の使によって頭屋の一行は一・二・三・四の順(この順は年当子の出生順による)に行列して、松明を先頭に神社に向う。道中、口々に「ネンド、ネンドエー」と大声で呼ばわる。招客はいずれも一ぱい機嫌、たいへん威勢がよい。
宵宮の参詣客ににぎわう街を練って、一行はやがて神社に着く。ここで、境内に四頭屋が一本ずつ立てた四本の大松明に火がつけられる。炎々と燃えさかる明かりの下で平尾の獅子神楽(平尾の獅子衆が不足で、現今では朝日町・南町)が奏せられる。この模様を安永8年の『儀式帳』は次のように書いている。
 
「これより本宮へ御出でならせられ候。道すがら“さあさあいわう”(今はネンドネンドエーに転ず)を申す祝儀の声、往古よりの形に御座候。……四本の松明一度に燃え上がり、秋風森に吹きなびき、心も澄み渡り、まことに焚火の御神事とや実にありがたき次第なり。時々平尾村の獅子、当人衆の前にて暫く舞い申し候」
頭屋・招客一同は参籠所に昇って、一・二の順に整列着座、神前では御湯神楽、衣冠束帯姿の神職が本殿から参籠所に渡って祝儀の口上をする。各頭屋の配膳係が神前から甘酒を戴いてきて、柄付銚子で頭屋に献じる。
帰路は招客一同自由解散。これで頭屋がおこなう宵宮の祭事が終わる。
 頭屋から講員にくばる組膳は昔とはやや変わり、今日では次のようである。
 
〈餅(一重ずつ家族数)、キョウ一つ、イワシ一尾、チョウシ葉に野菜の小切を盛ったもの、カシの箸〉
餅は御供(ごく)という。餅米は頭屋ごとに25日配膳・手伝衆が“米洗い”を行い、御供搗きは翌26日早朝から頭屋の家で行う。箸(はし)は頓子山(とんこやま)で採ったカシの木の太い丸箸で、講員の数だけ作る。カシの木は頓子山に限り、箸木山の俗称もある。
おシメ上げ 28日に行う“神上げ”の儀式である。御仮殿に七日間鎮座した神霊を、祭がすんで本社へ送り返す行事だ。平尾では夜八時ごろ神職が頭屋の家へ来て、御仮殿から“神上げ”を行う。御仮殿の前に立てた笹竹とシメ縄をそのままはずし、配膳がそれをかついで、「チョーサ、チョーサ」のかけ声で神社に練込み、境内の一隅にある山の神付近に納める。これを“おシメ上げ”と呼ぶ。

補足説明。頭屋についてはきのう、簡略に記したが、『名張の民俗』には祭礼の用語を説明したページがあるので、そこから引いておく。「第2章 祭」から引用。

   
□□祭のボキャブラリー

とうや(頭屋) 当屋とも書く。祭の神事行事をいとなむ主宰者である。頭人(とうにん)ともいう。氏神が専業の神職をもたず、村内の氏子だけで祭を行なっていた時代には、頭屋は神主としての仕事もし、その地位はきわめて重かった。近世以降に専業の神職が成立し、祝詞(のりと)なども複雑になって常民では神事の遂行が困難になるにつれ、頭屋は氏子の中から輪番で神事の鋪設に当たるものとなってしまった。頭屋の選びかたは村によってちがうが、長男を主体にその出生順によるのと、家回りとの二系統に大別せられる。前者が圧倒的に多い。頭屋にあたる男児を年当子(ねんどご)という。おなじ長男祭でも夏見や瀬古口のように出生順の名簿が出来ていて、そのとおりに頭屋をまわすところもあるし、名張の町や上比奈知のように厳格な出生順によらず相談により年々の頭屋をきめていくところもある。家回りの場合は、相楽のように『頭屋順序帳』で昔から順番を一定しているところもあるし、滝之原のようにクジできめるところもある。
『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。きのうのつづき。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町) 承前

祭の行事

講員 名張の町では“氏子”ということばの使いかたが、ほかとは少しちがう。旧町部の地域に住んでいる者は、ここで生まれたのと他から転入してきたのとを問わず、全員が氏子である。これは氏子の本来の意味とはだいぶん離れている。本来の氏子に該当するものは、ここでは“講員”とよばれる。講員の家は昔から一定していて新規加入は認めない。町部(旧簗瀬村)五十名、平尾(旧平尾村)・朝日町(旧北出村)・南町(旧南出村)各三、四十名の程度である。これらの家はいずれも地域の原住者で、江戸時代における宮座の伝承だろう。ただし町部だけは戦後一般に開放せられ、希望すればだれでも加入できる。
頭屋 頭屋を営むのはむろん講員に限る。頭屋は四地区から一名ずつ、つまり毎年四戸の頭屋があるわけだ。いわゆる長男祭で、年当子が主体となる。しかし、厳格な出生順にはよらず、家庭の事情により協議により年々の頭屋をきめている。
お旅 祭日の一週間前(10月22日)御神輿は新町の“お旅所”に遷座する。お旅所はもと石の鳥居にあり、大正11年伊賀鉄道が開通して石の鳥居・西名張駅間の道路が開かれるにさいし木屋町、現高北農機の地に移り、さらに昭和26年現在の新町・愛宕神社の隣に移った。
御神輿に奉仕するのは宮元平尾の青年で神輿を先頭に神職(昔は馬、今は人力車)・舞姫・頭屋親子・奉斎会役員らが供奉する。お旅の順路は神社・上本町・中町・木屋町・豊後町・元町・新町・お旅所。(かけ声は「ワッショワッショ」でなく「チョーサ、チョーサ」)神輿がお旅所に着くと、鎮座祭・稚児舞・直会(のうらい)の順で遷座式が行われる。神酒は一の頭屋の配膳(ハイゾウのこと。ここではこの字を充てる)二人が給仕する。庭前では御湯神楽(みゆかぐら)が奏せられる。こうして遷御した神霊は28日の祭礼当日までここに鎮まる。
榊入(さかきいれ)10月22日の行事。この日、四戸の頭屋ではそれぞれ御仮殿(おかりや)といって、木造の神殿を庭前にしつらえる。(町では場所がないので屋内)。御仮殿前には一対の笹竹を立て、シメ縄を張る。供物は適宜海の幸・山の幸で、他で見られるような伝承的な規格がない。
御仮殿は依代(よりしろ)である。夕刻、神職が来て、榊入という神うつしの式を行う。こうして28日まで神霊は頭屋の家に鎮座することになる。榊入式には年当子・家族・宮世話人・配膳らが参列する。御仮殿の組立て、シメ縄ごしらえ、その他準備一切は世話人と配膳があたる。

補足説明、その一。

宇流冨志祢神社は、旧名張町を氏子区域としている。昭和29・1954年、周辺三村と合併して名張市になった、あの名張町である。

この名張町のエリアには、江戸時代から明治初年にかけて、次の四村があった。
  • 簗瀬村
  • 平尾村
  • 北出村
  • 南出村
明治8・1875年、平尾、北出、南出の三村が簗瀬村に合併した。

簗瀬村は一般に名張と呼ばれ、名張という名のほうがよく知られていた。明治13・1880年、商取引上、名張村と名乗るほうが有利だという理由で、簗瀬村は名張村と改称した。

明治22・1889年、町村制が実施され、名張村は名張町となった。かつての平尾村は平尾、北出村は北出、南出村は南出という名前の大字になった。

昭和29・1954年の名張市発足にともない、北出は朝日町、南出は南町になった。

補足説明、その二。

頭屋とは、神社の祭礼や講の行事で、その準備、執行、後始末などを担当する者、または、その家のことをいう。宇流冨志祢神社秋祭りの頭屋は、一生に一度だけまわってくる大役とされる。
10月28日、宇流冨志祢神社の例大祭が営まれる。名張のまちの秋祭りである。

「宇流冨志祢」は通常、「うるふしね」と読まれる。表記は、「宇流富志禰」とされる場合もある。以前、宮司さんからお聞きしたところでは、「宇流冨志祢」が正しいとのことであった。つまり「富」ではなく「冨」。神社本庁の公式サイトでは、「宇流富志祢」とされている。

名張のまちの人は、そんなことにはあまり拘泥せず、春日神がまつられていることから、「お春日さん」と呼びならわしてきた。名張小学校の校歌に、

「春日の森に いやしげる 杉は心の 鏡とて」

という歌詞が出てくるが、この「春日の森」が宇流冨志祢神社の森である。

神社の参道がこれ。鳥居の右にみえる石碑の表記は、「宇流冨志祢」。

20071019a.jpg

撮影地点はこのあたり。



『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町)

宇流冨志禰神社 ウルフシネまたはウルフシミ、平尾に鎮座、いま“旧町部”と呼ばれる、もと簗瀬村・平尾村・南出村・北出村の惣社。もともとの祭神は宇奈根命、のち春日神を合祀し、名張の町の人には昔から“お春日さん”の名で親しまれてきた。伊賀国内式内社二十五座の一つ。名張市域の式内社は二つ、この宇流冨志禰神社と下比奈知の名居神社である。
この神社の祭礼も、後記瀬古口と同じく記録によって伝承される典型的なものである。安永8年8月に更改された『宇流冨志禰神社祭礼儀式帳』というのがあり、頭屋文書として持回りとなっている。しかしこの文書が作られた時と現在との間には二百年に近い歳月のへだたりがあり、なるべくこの原形に従おうとはするものの、そこにはいろいろの省略・簡素化・変形がある。『儀式帳』の原文は『名張市史』上巻に所収、参照されたい。ここでは祭事の主要部分について現行の姿を概説する。

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