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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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名張まちなかにおけるひさかたぶりの明るいニュースではないか。やなせ宿のオープンが明るいニュースであると思っている市民もあるかもしれないが、あれはまちがいなく不幸な、でなければおまぬけなニュースでしかない。明るいニュースがこれ。

毎日新聞:文化審答申:名張・川地写真館、文化財に 「歴史的景観」 /三重(6月21日)
中日新聞:名張初、川地写真館も 国文化財に初登録(6月21日)
伊勢新聞:名張の川地写真館を答申 国の有形登録文化財に(6月21日)
読売新聞:登録文化財に 「川地写真館」(6月22日)

登録有形文化財にかんする知識は、とりあえずこのあたりで。

Wikipedia:登録有形文化財

文化財としての川地写真館のことは、三重県の公式サイトでも紹介されている。

三重県公式サイト:守ろう!活かそう!三重の文化財 川地写真館

現在、写真館としては桔梗が丘で営業中。こちらは伊賀まちかど博物館になっている。

伊賀まちかど博物館:名張市24 フォトミュージアム 写真の川地

国指定登録有形文化財になった建物が建築されたのは大正10・1921年だが、川地写真館の創業は明治10・1877年である。建物ばかりでなく、保存されている原板の価値もなかなかなものなのではないか。原板というのは、市川崑監督の「病院坂の首縊りの家」で、犯人が小沢栄太郎扮する写真館の主人を殺害してまで手に入れたがったあれである。金田一耕助が最後に叩き割ってしまったあれなのであるが、川地写真館にも貴重な原板が残されているのでは? と少し以前、当代のご主人にお訊きしてみたところ、伊勢湾台風の水害で全部だめになった、とのことであった。残念なことである。

で、さらに川地写真館の検索をつづけると、名張市の公式サイトがひっかかってきた。「名張の文化財」のページではなくて、このページである。

名張市公式サイト:「市長のまちかどトーク」実施結果

今年の1月25日、名張産業振興センターアスピアで開かれた「市長のまちかどトーク」の報告である。ちょっと引いてみる。

   
ご意見
○旧町の活性化に対する考え方について

市長のコメント
○市長就任当時、これから中央西などの新しいまちができたら旧町は取り残されてしまうことになるとの思いから、旧いまちを生かした活性化事業として総合計画に盛り込みました。まちなか再生ややなせ宿、乱歩事業なども進めていきます。旧町は、坂が少なく駅にも歩いていけるなど住みやすいコンパクトシティ。川地写真館は県内で一番古い写真館であり、中村医院などの古い建物もある。旧町を散策してみたいと思えるような再整備をしていきたい。
やなせ宿は、1年間は市が運営をし、その後は地域におまかせしようと考えています。訪れた人が食事やお茶を飲むことができる店舗などとして利用するなど地域の人といっしょにやっていきたい。蔵は、寄付を受けたものなど図書館の地下書庫で保管しているミステリー関係の本3,000冊を「ミステリー文庫」として活用し、一室をファンなどに読書室として利用してもらってもよいと考えています。

どうもよくわからない。今年1月の話である。「まちなか再生ややなせ宿、乱歩事業なども進めていきます」なんてあたりが、どうも腑に落ちない。やなせ宿整備は失敗に終わり、乱歩事業など何もできなかったということが、すでに明々白々となっていた時点での話である。何をどう進めるとおっしゃるのか、さっぱりわからぬではないか。

やなせ宿の運営にかんするくだりもおおいに変で、例によって例のごとき主体性の混乱がみられる次第であるが、まあどうだっていいか。いつものことである。ただし、「ミステリー文庫」のくだりは見すごしにできない。「考えています」とおっしゃるのであれば、どうしてそうなさらなかったのか。やなせ宿整備の最高責任者は、いうまでもなく名張市長である。責任者である以上、それなりの権限をも有していらっしゃるのである。そして今年1月25日の時点では、やなせ宿は無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館になるしかないということが、関係者には明瞭に認識されていたはずなのである。その時点で「ミステリー文庫」という具体的な活用の方向を「考えています」とおっしゃったのであれば、その考えを実現するべく努めるのが市長というものであろう、みたいなことは4月17日のエントリにも記したから、ここでくり返すことは控えておくか。

4月17日:丸投げについて憤る

それでまあ、「川地写真館は県内で一番古い写真館であり、中村医院などの古い建物もある。旧町を散策してみたいと思えるような再整備をしていきたい」とのことであるけれど、いまごろ何をおっしゃっているのか。そうした方向性があるのであれば、それは名張まちなか再生プランに反映されていてしかるべきであった。それをいまごろ、やなせ宿整備が完全な失敗に終わることが明白になっていた時点で、「旧町を散策してみたいと思えるような再整備をしていきたい」などとおっしゃっても、具体的にいったい何をどう再整備するというのか、やっぱりさっぱりわからんではないか。

いや、いかんいかん。まーたむかっ腹が立ってきた。珍しくおめでたい話題をとりあげたというのに、こんな方向にスライドしてしまっては、川地写真館のご主人に申しわけないような気もする。本日はこれまでとする。
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《NPO乱歩と名張》をつくろうかなと考えた理由は、江戸川乱歩という作家のことも、名張のまちのことも、これ以上、名張市にまかせておけないからである。それが実感されたからである。もうひとつ、個人の力には限界があるということもまた、さまざまな局面で実感させられた。もとより、NPOが無力ではないという保証はどこにもない。NPOの力だって、たかの知れたものでしかないだろう。だが、あとはNPOをつくってみるくらいしか、なすべきことを思いつかない。それが正直なところである。

とりあえず、11月3日に発足した《乱歩と名張》の設立趣意をお読みいただきたい。

   
《乱歩と名張》設立趣意

■経緯
江戸川乱歩は1894年、当時の名張町新町に生まれた。生後まもなく一家で転居したため、生涯のほとんどを名張と無縁に過ごしたが、晩年になって名張を訪れ、生家跡にも案内された。それが契機となり、市民の浄財によって生誕地碑が建立されたのは、名張市発足の翌年にあたる1955年のことである。乱歩は夫人とともに除幕式に臨み、その十年後に死去した。死去の四年後、1969年に講談社版江戸川乱歩全集の刊行が始まったのを機として、名張市に乱歩記念館の建設を目指す動きが起こった。市民有志が「乱歩記念館建設の会」を組織し、活動が進められたが、建設は実現しなかった。同年に開館された名張市立図書館が乱歩関連資料の収集を進めることで、記念館建設への望みがつながれることとなった。
名張市ではその後も、乱歩にちなんだ公的施設の構想が一再ならず浮上したが、そのたびに潰え去った。そのときどきの状況はどうあれ、単なる生地であるという稀薄な関係性のみを根拠として乱歩の記念館ないしは文学館を整備するのは、現在ではむしろ無謀な試みであると判断される。かりに乱歩の名を冠した施設整備を行うのであれば、規模においても運営においても、“大乱歩”の名にふさわしいものを目指すことが要請される。そうでなければ、名張市が乱歩を矮小化したという謗りは免れないであろう。また、旧乱歩邸の土地や家屋、乱歩の蔵書などは2002年、遺族から立教大学に一括して譲渡されており、乱歩にちなんだ本格的な記念館や文学館の建設は、いまや実質的に不可能であるとさえいえる。
■現況
私は1995年、名張市立図書館から請われて嘱託となったが、つねに主眼を置いてきたのは収集資料の活用であった。市立図書館が開設準備の段階から収集してきた乱歩関連資料は、全国の図書館にも類を見ない貴重な蔵書であり、その活用の道を探るのが図書館本来の責務であることは論をまたない。収集資料を体系化し、未収集の資料を調査して、1997年に『乱歩文献データブック』、1998年に『江戸川乱歩執筆年譜』、2003年に『江戸川乱歩著書目録』という三冊の目録を、名張市立図書館の「江戸川乱歩リファレンスブック」として発行した。
インターネットが普及した現在、これらの目録の内容は市立図書館のウェブサイトで閲覧できるようになっているのが当然であり、乱歩の著書、作品、関連文献などに関しても、市立図書館のサイトで検索が可能になっているのが本来であると考えられる。が、それは実現していない。私はこれまでに二度、そのための予算要求を行ったが、いずれも果たされなかった。一般の蔵書の検索が可能な公立図書館のサイトで、その図書館が独自に収集した資料の検索ができず、発行した目録のデータが閲覧できないのは、異常と呼んで差し支えない事態である。
乱歩が生まれた名張のまちに目を転じると、2004年度に策定された「名張まちなか再生プラン」の具体化が進められつつあるが、中心的課題と目されていた細川邸の活用については、具体的な決定を見ないまま来春の開館を迎えようとしている。これもまた異常な事態というしかない。私は2005年、プランの素案に対して提出したパブリックコメントで、名張市立図書館に展示されている乱歩の著書や遺品、図書館が寄贈を受けたミステリー関連図書を細川邸に集め、ミステリー専門図書館として整備するよう提案した。受け入れられることはなかったが、この提案自体はいまも有効であると判断する。
■展望
《NPO乱歩と名張》の目的のひとつは、名張市立図書館の収集資料やリファレンスブックにもとづきながら、乱歩作品と関連文献の資料調査をさらに重ね、乱歩に関する総合的データベース「名張市乱歩文学館」をインターネット上に構築することである。それは、長い期間にわたって乱歩関連資料を収集してきた名張市の責務であると同時に、乱歩の生誕地碑建立や記念館建設運動に尽力した先人の志を受け継ぎ、新たな形で再生させることでもある。が、名張市には遺憾ながらそうした認識は存在せず、収集資料の活用についても白紙の状態である。
また、名張のまちの再生を考える場合、江戸川乱歩という作家やミステリーという文芸ジャンルが、有効に活用されるべき素材であることは疑いを入れない。げんに、名張市には細川邸に「ミステリー文庫」を開設し、市立図書館に展示されている乱歩の遺品や著書を移管して公開する構想があると伝えられるが、それらの管理運営が専門知識を有さない組織に委ねられた場合、「ミステリー文庫」の整備が取り返しのつかない禍根を残すことにもなりかねない。《NPO乱歩と名張》は、細川邸に「なばり乱歩ライブラリー」を開設することを提案し、その管理運営を手がけることも目的のひとつとしている。
このほか《NPO乱歩と名張》は、書籍の出版、催事の開催などを通じ、乱歩が生まれた名張のまちの魅力を広く発信する活動も視野に入れている。《NPO乱歩と名張》が名張市や市立図書館などと連携し、「名張市乱歩文学館」と「なばり乱歩ライブラリー」とを基本にしたさまざまな事業を進めることは、名張市が掲げる“市民主体のまちづくり”の実践にほかならない。NPO結成を目指す組織として、乱歩生誕地碑の建立記念日にあたる11月3日、ここに《乱歩と名張》を設立する。

2007年11月3日

日付のあとには、《乱歩と名張》の代表である当方の名前が入る。

補足説明が必要かと思われる。あす以降、つづることにする。
12月も2日の日曜。快晴。名張まちなか再生委員会からはまだ、みたいなことを毎日つづっているのもばかみたいだから、日曜くらい話題を変えよう。

11月28日付朝日新聞の「展望 三重の文芸」で、藤田明さんに名張高校の「名張まちなかナビ2.0 まちなかの暮らしともてなし」をとりあげていただいた。

朝日新聞:表現磨く上野高生 警句新人賞

引用。

   
名張高校発行のリーフレット「まちなかの暮らしともてなし」は3年マスコミ論受講生10人の制作。指導は中相作、今年の材料は戸塚文子「名張は秋の漂う町」で、古い写真が貴重だし、街歩きガイドにも便利。鮮度が何よりである。

「鮮度」という言葉には、いくつかの含みが考えられる。名張の「秋」をテーマにしたエッセイを素材にしたリーフレットだから、秋という季節を選んで発行した。それも鮮度にかかわりのあることだし、四十年以上前に書かれたエッセイや名張のまちの古い写真を、いまの高校生の視点で料理したことも鮮度を高めているはずである。古いまちと鮮度とは、けっして相反する要素ではないのである。

名張高校あてに、礼状も頂戴した。うちの一通、大阪府の長瀬信行さんからいただいたおたよりを、長瀬さんのご了解をいただいて、以下に全文掲載する。

   
前略
此度は「名張まちなかナビ2.0」リーフレットを御恵送頂きありがとうございました。
昨年の乱歩編リーフレットでの今も名張に残る“ひやわい”の風情を撮した表紙も良かったのですが、今回の表紙にはより深い思いが込められていて見入ってしまいました。
100年や200年前という単位ではなく、これからの時代を担う世代の父母や祖父母が過ごした今日につながる時代の空間が活写されていて見事でした。我が街の過ぎし日を知ることは、時代を共有する年代の離れた住人達が新しい街の在り様を論じるためにも大いに重要なことです。今回のリーフレットはその意味でも名張という街にとって価値のあるものだと思います。
内容的にも、戸塚文子の随筆を題材に名張と昭和を浮かび上らせた着想が興味深く、芸者さん勢揃いの写真など驚きもあり楽しめました。昨年のリーフレットは紙面的に情報量の多さのせいかやや窮屈な感じを受けましたが、今回はその点も改善されていたように思いました。
個人的なことですが、表紙の写真の遠くの山のかわりに海が見える紀州の街で生れ、写真のような通りで遊んで育った思い出と、今もまだその趣きは少しは残っているのだろうかという懐しさがよみがえってきました。箱ずしとチマキの記事を読んで、故郷では秋祭りの時季につくる市販のものとは全く違う自家製の鯖の“なれずし”の味を思い出しました。久し振りに帰省してみようかなと思ったり……。
常に物事の本質とは、その辿ってきた過去と在るべき未来(或いは予測される未来)の認識の上に立って現在を思考することにあるのだそうです。その点からも今回のリーフレット作成に至る営為は高く評価されるべきでしょう。
名張の街と居住する皆様のために良き街を作り上げられますように、そして良き人生をおくられますように、これからも勉学に励んでください。
御一同様の益々の御健闘、御活躍をお祈り致します。

草々 

□□2007年11月4日

まことにありがたいおたよりである。ところが、悲しむべきことに、名張まちなか再生委員会とか、あるいは名張市とか、そういったあたりには、ここに記されていることの意味が理解できないらしいのである。それはもう、名張まちなか再生プランのてんまつをふり返るだけで、一目瞭然なのである。

「時代を共有する年代の離れた住人達が新しい街の在り様を論じる」なんてことは一度もなかった。「辿ってきた過去と在るべき未来(或いは予測される未来)の認識の上に立って現在を思考する」なんてことも一度もなかった。プラン策定を目的とした名張地区既成市街地再生計画策定委員会の人選にはじまり、誰のためにどんな目的で進められているのかがさっぱりわからない、狂気の沙汰と呼ぶしかない細川邸改修工事にいたるまで、まちなか再生にほんとうに必要な議論も思考も、そんなものは何もなかった。

それでまあ、何もわけのわかっておらん連中が癒着したり反目したりしているあいだに、無策無能が大手をふってまかり通っているあいだに、地域社会は日に日に疲弊の度を増しているのである。壊滅的に衰退していっているのである。いったいどうよ。
隠街道市の開幕を告げて、けさの新聞にチラシが折り込まれていた。その一部分。

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えーっと、チラシの左肩にみえる写真は、地域の名門三重県立名張高等学校がことし1月に発行した「名張まちなかナビ」、あの表紙に使用された写真とそっくりなのであるが、まあそんなことはどうだってかまわない。

「名張まちなかナビ2.0」のほうは、きのう伊賀市に赴き、つぎのふたつのポイントで配布をお願いしてきた。
  • 伊賀県民センター
  • 田楽座わかや
ところで、「名張まちなかナビ2.0」は、こんな感じ。三つ折りを開いたところ、おもてがわ。

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うちがわ。

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きょうとあしたの隠街道市では、インフォメーションセンターで配布してもらうほか、名張古町を考える会、という団体の加盟店にも置いてもらう。店舗はつぎのとおり。
  • 福田(茶)本店
  • ぎゃらり〜伊勢丈
  • 北佐味街道
  • 田中余以徳斉薬局
  • 丸福精肉店
  • もりわき・たんと
  • はなびし庵
  • カドキ紙店
  • ヲワリヤ
  • 吉野屋豆腐店
  • かみ六
  • 奥矢静華堂
  • 大和屋
  • 大為
  • 木屋正酒造
  • 清風亭
  • 北村酒造
そのほか、名張藤堂家邸跡、近鉄名張駅、それから、きょうバザーが催される日本キリスト教団名張教会、そんなあたりをこれからまわり、配達してくる予定である。

きょう午後2時から記念講演がおこなわれる名張市総合福祉センターふれあいでも、当然ながら受付で配布する。入場者はせいぜい二十人くらいなものであろう。できることならば、名張まちなかが直面している危機に警鐘を鳴らすため、大河漫才「僕の住民監査請求」のコピーも配りたいと考えたのだが、コピーをとっている余裕がないため断念した。

ところで、きょう11月3日は、江戸川乱歩生誕地碑建立五十二周年の記念日にあたる。このめでたい日を期して、仮称「乱歩と名張」という団体を旗揚げすることにした。結成総会、というほどたいそうなものではないが、本日午後6時から初会合を開く。会場は、中町にあるうどん屋さん、かみ六。興味がおありの方は、ちょっとのぞいてくださいな。

なんか忙しい。くわしいことはまたあした。
あす11月3日、隠街道市の開幕にあわせて、地域の名門名張高校謹製の「名張まちなかナビ2.0」が発行される。

きのう午後、名張市役所に足を運んで、関係セクションに配達してきた。
  • 産業部商工観光室      10部
  • 都市環境部市街地整備推進室 10部
  • 企画財政部総合企画政策室  10部
  • 生活環境部まちづくり推進室 20部
このほか、市役所を訪れた市民に持ち帰ってもらうため、案内窓口に100部。

まちづくり推進室は、なぞがたりなばり講演会の担当セクションである。今年は11月24日に開かれ、講師は北森鴻さん、テーマは「旅とミステリー」。その会場でも、「名張まちなかナビ2.0」を配布してもらえることになった。

名張市公式サイト:第17回なぞがたりなばり 北森鴻の旅とミステリー 〜乱歩と香菜里屋の不思議な邂逅〜

市街地整備推進室は、名張まちなか再生プランの担当セクションである。事務局スタッフからプランの話を聞いてきたのだが、もう笑うしかなかった。いつのまにか、まちなか再生委員会の専門部会として、まちなか運営協議会というのができているらしい。何を協議するのかというと、もちろん細川邸の運営についてである。細川邸の運営は、NPOなばりとやらによって検討されることになっていたはずなのであるが、NPOなばりはどうやら機能不全におちいっているような印象である。で、結局のところ、来年4月にやなせ宿としてオープンする細川邸の運営にかんしては、何も決まっていないとのことである。笑うしかない。大笑いした。

ミステリー文庫のことも訊いていた。2005年12月7日、朝日新聞大阪本社版のコラム「青鉛筆」に、こんなふうにとりあげられていたあれである。

   
▽推理小説の生みの親、江戸川乱歩の生誕地である三重県名張市は5日、古今東西の推理小説を一堂に集めた「ミステリー文庫」を設置する方針を明らかにした。
▽同市は、乱歩に関する街おこし事業が盛ん。08年までに完成させる予定で、市立図書館の乱歩関係の蔵書約千冊を移し、寄贈も受け付けるという。
▽「全国の推理小説ファンの集まる場に」と同市。しかし、具体的な運営方法や設置場所は未定だ。行政側の思惑通りにいくか、それもまた「ミステリー」。

ここまで大風呂敷をひろげたのだから、細川邸のどこかにミステリー文庫を開設することになるのであろう、とのことであったが、あと五か月たらずでオープンというこの時期にいたってなお、具体的なことは何も決まっていないという。ただまあ、容易に推測されるのは、乱歩作品やミステリーはおろか、ろくに本を読む習慣もないような連中が、ミステリー文庫の管理運営を担当することになるのであろうなということである。そんなばかな話はない。そんな程度の悪い連中に、名張市立図書館が全国のミステリーファンからご寄贈いただいた貴重な蔵書をゆだねることはできない。できるわけがない。あたりまえではないか。事務局スタッフにはそのように伝えてきた。そんなことしたら名張市の見識が疑われてしまうではないか。しかし、疑われる疑われない以前に、名張市には見識なんてないのだからなあ。

ついでだから、名張市考査委員会の担当セクションにも行ってきた。あれは何室ということになるのか、市政一新がどうのこうのという看板のかかった部屋に入って尋ねると、そこが担当セクションであった。10月30日付エントリ「隠街道市無政府状態」へのコメントで、市街地整備関連事業の評価について教えてくださった方があるのだが、その確認というか、裏を取るというか、今月17日に考査委員会から提出された「名張市事務事業評価報告書」の関連箇所を見せてもらってきた。内容はコメントでお知らせいただいたところとおなじであるが、報告書から引用しておく。

   
シートNO.
4022

事務事業名
中心市街地活性化事業

総合評価
継続(事務改善)

主な意見
・「まちなか再生委員会」の位置づけが不明確であり、責任主体の明確化が必要である。
・指定管理者の導入は公募を前提とすべきであり、NPO法人への特命は望ましくない。
・計画が楽観論過ぎるので、組織、権利関係を明確にするため、条例の担保が必要である。
・ワークショップとしての位置づけを明確にし、事業決定権は市長にあることを明らかにする必要がある。

この報告書の内容は、11月中旬、名張市公式サイトで公開されるそうである。
風呂場と洗面所のリフォームは、きのう終わった。それ以前から風呂に入れる状態にはなっていたので、銭湯行脚の機会が失われた。名張まちなかで営業をつづけている三軒の銭湯のうち、上本町のアーケード商店街にある常盤湯には、結局、行けずじまい。その気になればいつでも行けるのだが、やはり面倒さが先に立つ。とりあえず、写真だけ掲載しておく。

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写真タイトルは、「煙突のある風景──上本町にて」。
玉乃湯は榊町にある。

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写真タイトルは、「煙突のある風景──榊町にて」。

このあたりは、じょーげ、と呼ばれる。漢字では、城下、と書く。この写真でいえば、むかって右に位置する高台に、江戸期、名張藤堂家の陣屋があった。名張の人間にとって、それは城であった。その下だから、じょーげ、と呼びならわされた。

写真にみえる簗瀬水路も、このあたりでは城下川と呼ばれる。むろん、じょーげがわ、と発音される。

玉乃湯も、じょーげの風呂屋、と呼ばれることが多い。21日の日曜、午後6時ごろに足を運んだ。番台で尋ねると、開業以来八十年、ご主人で三代目だそうである。



すぐ横の駐車場に三台分、玉乃湯のスペースがある。
きのうは榊町の玉乃湯に入るつもりでいたのだが、午後6時ごろ、くるまで前を通りかかったところ、灯が消えている。定休日らしい。予定を変更して、名張市総合福祉センターふれあいの駐車場に自動車をとめ、上本町の常磐湯まで歩いてゆくと、そこも休みだった。結局、また新町温泉の世話になった。
名のとおり、新町にある。表通りには面しておらず、江戸川乱歩生誕地碑からは目と鼻の先。

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写真タイトルは、「煙突のある風景──新町にて」としておく。

生まれ育ったのが新町のとなりの豊後町だったので、最寄りの銭湯は新町温泉だった。家には風呂がなかったから、この銭湯にはずっと通った。

そのつぎに近いのは木屋町にあった銭湯で、ここにも足を運ぶことがあった。名前は思い出せないが、「西名張の風呂屋」と呼びならわしていたように思う。この銭湯は、いつのまにか廃業してしまった。

きのう、新町温泉に着いたのは、午後7時ごろ。のれんをくぐるのは二十数年ぶりのことで、風呂代は三百五十円になっていた。

脱衣場に人影はなく、ガラス越しに風呂場をのぞくと、ふたりほど先客がある。ガラス戸を開けてなかに入り、かかり湯をして、いちばん浅い浴槽に身を沈める。子供のころから慣れ親しんだ場所である。四肢を伸ばして、ぼんやりする。

湯から出て、洗い場の鏡の前に陣取る。通っていたころと変化はなく、鏡のしたには赤と青、ふたつのカランがあって、強く押せば赤からは湯、青からは水が出てくる。鏡のうえには、ホースつきのシャワーが据えつけられている。

持参した洗面器にカランから湯を張り、石鹸の泡でひげを剃っているあいだに、先客ふたりが出てゆく。入れ替わりに、新来の客がひとり。ひげ剃りのあと、頭を洗いにかかって、シャワーを使用した。シャワーヘッドを手にもち、壁にある取っ手の「おす」と書かれたところを押すと、勢いよく湯が出てくる。

ところが、シャワーの止め方がわからない。「おす」とある取っ手を引いてみたり、右にまわしたり左にまわしたり、もしかしたら、と二度つづけて押してみたり、いくらやっても湯は止まらない。タイルの床に置くと、シャワーヘッドはねずみ花火のように動きまわる。洗面器の湯のなかに押し込んでも、手を離すとゆっくり鎌首をもたげてくる。

ほとほと困惑し、さっきの新客が洗い場でからだを洗っていたので、そっちのほうに身をよじりながら、

「このシャワー、どうやったら止まるんですか」

とやや焦ってたずねてみたところ、

「いや、それは、ほっといたら、自動的に止まります」

と教えてくれた。なるほど、時間がたつと、自動的に止まる。

思い返してみると、以前はシャワーが鏡のうえに固定されていた。ホースはなく、シャワーヘッドを手にもってつかうことはできなかった。いくら二十数年ぶりとはいえ、もしも以前からこうしたシャワーであったのなら、操作方法がわからないということはないだろう。

風呂場から出ると、番台のうえに設置された大型テレビには、日本ハム対ロッテのクライマックスシリーズが映し出されている。バスタオルでからだを拭いているうちに、ぼつりぼつりと新しい客がやってくる。おおむね年齢が高いが、兄弟なのだろう、小学生のふたりづれもいた。

出るとき、番台のご主人からお聞きしたところでは、新町温泉は創業以来百三十年、ご主人は五代目。これまでに二度、建て替えをして、開業当初のおもかげを伝えるのは、うえの写真に写っている松の木と、番台にある掛札、わずかにこれだけだそうである。

新町温泉が、百三十年前から営業していたとは知らなかった。つまり、江戸川乱歩の父、平井繁男が新町に居を構えたとき、おなじ町内に、新町温泉がすでに存在していたことになる。目と鼻の先である。

乱歩の生家に風呂がなかったことは、『貼雑年譜』に収められた間取図で確認できる。だから、繁男一家はたぶん、新町温泉に通ったのだろう。まだ赤ん坊だった乱歩は、この銭湯に入ったことがあったのかどうか。あったのではないか。

そうか。小さいころから慣れ親しんでいた新町温泉は、乱歩の一家が通っていた銭湯でもあったのか。そんなことを思いながら、暗くせまい夜の道を、いい気持ちで歩く。



あまり広いものではなかったが、新町温泉は駐車場も備えていた。
きのうは、結局、風呂には入らなかった。銭湯に行かなかったのである。

名張のまちに居住しているわけではないので、まちなかの銭湯に行くとなると、自動車で家を出て、駐車場にくるまをとめて、そこから銭湯まで歩くことになる。なかなか面白い、といまは思う。

だがこれが、夕刻になると面白いとは思えなくなる。早い話、風呂より酒、と思えてくるのである。きのうの夕方、そんなふうに思ってしまい、そうなるとやっぱり酒を飲んでしまうから、銭湯には行けなかった。で、飲みすぎてしまった。

きょうは行こうと思う。

Copyright NAKA Shosaku 2007-2012