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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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おまわりさんが飲食店の便所に盗撮用ビデオカメラを仕掛けた土地の名前として、あるいは、かつて全国的な好奇の目を集めた毒殺事件が起きた場所として、でなければ、高名な映画監督の最後の居住地として、名張市がメディアによってひろく紹介されることはたまにある。しかし、名張の名がメディアで喧伝される機会の多くは、江戸川乱歩の生誕地であることによっている。

デアゴスティーニ・ジャパンから、週刊「日本の100人番外編」の7号「江戸川乱歩」が出た。古代から現代にいたるまで、いわゆる歴史上の人物を紹介する大判のグラフ雑誌である。

デアゴスティーニ:日本の100人

「後世への遺産」と題された章では、「マニア垂涎の町 生誕地・名張」というパートで、名張市が紹介されている。掲載写真は、名張市立図書館の乱歩コーナー、江戸川乱歩生誕地碑、すみた酒店の日本酒「乱歩誕生」、山本松寿堂の煎餅「二銭銅貨」。

最初の三段落を引用。乱歩と名張のかかわりが説かれている。

   
三重県名張市は大阪や奈良に近く、古代からその地名が文献に出る程、歴史ある土地である。乱歩はこの地で生まれたものの、間もなく別の土地に引っ越してしまったため、故郷という感じが乏しいというが、生まれ故郷・名張について触れているエッセイも幾つか残している。
乱歩は57歳の時にこの地を訪ね、生家跡を見たり両親を知る人に面会するという機会を得た。これは、乱歩が若い頃に就職のあっせんなどで世話になった恩人の代議士・川崎克の息子で改進党に属していた川崎秀二が選挙に出るというので、その応援演説のために駆け付けたからである。地元の人に歓待された乱歩はエッセイ「ふるさと発見記」のなかに、選挙の応援の役には立たず、得をしたのは自分の方であったと書いている。
1952(昭和27)年に乱歩が名張に帰郷した際には、これを契機として乱歩の生誕地碑に碑を建てる計画が同地で立ち上がった。有志による資金集めから始まり、生家近くには高さ2m弱の「江戸川乱歩生誕地」という碑が出来上がった。ここには乱歩が自ら書いたという「幻影城」の文字が刻まれ、計画が始まってから3年後には、乱歩と妻・隆も参加しての除幕式が行われた。これについて乱歩は、地元・名張が「従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う」と記している。ともあれ、これが乱歩と名張の関係がさらに深まるきっかけとなった。

ややわかりにくいが、「57歳の時にこの地を訪ね」というのが、すなわち「1952(昭和27)年に乱歩が名張に帰郷した」ときのことである。

それでまあ、「乱歩と名張の関係がさらに深まるきっかけ」というのがたしかにあって、結局どういうことになったのか。江戸川乱歩生誕地碑広場ということになったのである。そんなことを誰が決めたのか。名張市役所のみなさんである。ろくに乱歩作品を読んだこともなく、乱歩のことを知ろうともせず、もとより乱歩へのリスペクトなどかけらもなく、桝田医院第二病棟を寄贈していただいたことの恩義すら感じることもない、名張市役所のあほのみなさんなのである。名張市役所に巣くうぼんくらどもが決めたのである。ばかかこら低能。うすらばかが陰でこそこそ勝手なこと決めてんじゃねーぞこの低能自治体。

特別サービス。太字で強調しておこう。

ばかかこら名張市とかいう低能自治体。

あすにつづく。
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