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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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江戸川乱歩年譜集成

大正8年●1919 大正10年●1921

 

大正九年(一九二〇)

 

年齢:二十五歳→二十六歳、数え年二十七歳

職業:東京市社会局勤務→大阪時事新報勤務

住居:東京市本郷区駒込林町六

→大阪府北河内郡守口町八〇一番地

 

一月十二日(月)

平井太郎、随筆「恋病」を脱稿。[貼雑年譜]

 

二月

太郎、加藤洋行を辞めてから行きにくくなっていた川崎克を訪ね、就職の世話を依頼。東京市社会局への就職が決まったため、鳥羽へ隆子を迎えにゆき、同道して帰った。[貼雑年譜]

 

二月十九日(木)

太郎、東京市社会局吏員となる。その直後、隆子の母が上京したため、三人書房の近くにあった家の二階を借り、夫婦だけで一か月ほど住む。三人書房には、きく、通、敏男、玉子がいて手狭だった。[貼雑年譜]

 

二月二十三日(月)

太郎の随筆「恋病」がこの日から六回にわたって「伊勢新聞」文芸欄に掲載される。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、社会局の勤めは楽だったが、下級役人気質を耐えがたいものに感じた。[貼雑年譜]

 

五月

太郎、「二銭銅貨」と「一枚の切符」の筋を考え、巻紙に梗概を記す。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、井上勝喜と二人で智的小説刊行会の結成を計画し、雑誌投稿者などに会員募集の手紙を送るが、会員が集まらず、計画は中絶。手紙には雑誌「グロテスク」の見本誌(十二ページ)を添えた。「初号内容」には「会員創作探偵小説第一回発表」として「石塊の秘密」を予告した。のちの「一枚の切符」と同じ筋の作品で、ペンネームは「江戸川藍峯」とした。[貼雑年譜]

 

五月ごろ

太郎、病気になり、半分は病気、半分は役人気質への嫌悪から、欠勤をつづける。[貼雑年譜]

 

六月

平井敏男、母親の生家、本堂家を継いで本堂姓となる。[貼雑年譜]

 

七月二十七日(火)

太郎、東京市社会局吏員を解雇される。[貼雑年譜]

 

七月

太郎、映画論「トリック映画の研究」「映画劇の優越性について(附、顔面芸術としての写真劇)」を執筆。複写を取ってめぼしい映画会社二、三社に郵送し、監督見習いへの採用を依頼したが、何の回答もなかった。[貼雑年譜]

 

八月、九月

太郎、生活費に困ったため、レコード音楽会を三度にわたって開く。井上勝喜と二人で庄司雅行に相談し、庄司の蓄音機と洋楽のレコードを借りた。おそらく東京で最初のレコード音楽会で、これ以降、同種の音楽会が大流行した。[貼雑年譜]

 

九月十一日(土)

太郎、池袋大与クラブでレコード音楽会を開く。[貼雑年譜]

 

十月

太郎、繁男の世話で大阪時事新報の編集記者になる。これを機に不振の三人書房を廃業して大阪へ移ることにし、大阪府北河内郡守口町八〇一番地の父の家に住む。繁男は朝鮮から戻り、竹村商店という店に監督と教師として泊まり込みで勤務、日曜だけ帰宅した。家族は、繁男、きく、玉子、太郎、隆子。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、新聞広告を出して三人書房を譲渡。六百円で売れ、パン屋が開業される。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、大阪時事新報では地方版の整理を担当。集まってくる記事の軽重を考え、見出しをつけて一ページ分の大組みをすればよく、午前十時ごろ出勤し、午後四時には帰宅できた。月給六十円。整理部の先輩に岡戸武平がいた。[貼雑年譜]

 

[2012年5月23日]

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