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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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江戸川乱歩年譜集成

大正6年●1917 大正8年●1919

 

大正七年(一九一八)

 

年齢:二十三歳→二十四歳、数え年二十五歳

職業:鳥羽造船所勤務

住居:三重県志摩郡鳥羽町本町

→鳥羽町城山→鳥羽町岩崎

 

平井太郎、鳥羽町城山にあった鳥羽造船所の済美寮に転居。深夜、近所の禅寺に一人で座禅を組みに行ったり、会社を休んで自室の押入れに寝ていたりした。文学や哲学への興味を示したことが技師長だった桝本卯平の気に入られ、気ままな勤め方を容認された。 深夜、悪友と寮から山田市へ遊びにゆくため自動車で峠越えをしたところ、自動車が崖から転落、崖の途中に生えていた数本の松の木に車体を支えられ、かろうじて命拾いをしたこともある。[貼雑年譜]

 

春ごろ

平井繁男、家族とともに大阪から朝鮮に渡り、忠清北道沃川郡青南面三南里にあった知人所有の青南鉱業所で監督として勤める。[貼雑年譜]

 

八月二十七日(火)

本堂つま、東京市牛込区新小川町の岩田豊麿の家で死去。六十九歳。太郎、葬儀のため上京。つまの遺産二千円は岩田家と平井家末弟・敏男で折半し、本堂家の跡目相続者は抽籤で決めることになった。太郎がくじを引き、敏男が相続者になった。敏男の千円は朝鮮の両親が保管した。[貼雑年譜]

 

九月

太郎、鳥羽造船所の同僚と鳥羽おとぎ倶楽部を結成。鳥羽の劇場や小学校でおとぎばなしの会を開いた。[貼雑年譜]

 

十月六日(日) 

太郎、夜、坂手島の坂手小学校で鳥羽おとぎ倶楽部のおとぎ会を開き、教師の村山隆子と知り合って文通を始める。[妻のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]

 

十一月

太郎、物価騰貴で月給が三倍ほどになったため、鳥羽町岩崎にあった松田という医師の別荘を借りて住む。この家で初めてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」を読んだ。鳥羽造船所が雑誌「日和」を発行することになり、太郎が編集係となった。[貼雑年譜]

 

十一月十五日(金)

鳥羽造船所の雑誌「日和」第一号発行日。太郎、巻頭言「首途」などを発表し、カットも担当。伊勢新聞の新刊雑誌評で「日和」は鳥羽造船所と鳥羽町の「意志疎通円満ならしめ以て会社の隆昌と鳥羽の繁栄とに資せんとしたるもの」と評される。桝本卯平の後押しにより、太郎は雑誌編集に専念できる待遇になった。[貼雑年譜]

 

十一月ごろ

朝鮮にいた通と敏男、古本屋を開く心づもりで上京。その途中で鳥羽に滞在し、太郎と兄弟三人で古本屋を経営する話がまとまる。通と敏男は岩田の叔母の世話で、神田の古本屋へ見習いに入った。[貼雑年譜]

 

十二月十五日(日)

「日和」第二号発行日。太郎、巻頭言「厖雑より統一へ」などを発表。このころ、さまざまな事情から鳥羽造船所を辞めなければならなくなり、桝本卯平に「東京に出てしばらく勉強したいから」と退社を申し出て了解を得た。[貼雑年譜]

 

[2012年5月21日]

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