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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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江戸川乱歩年譜集成

大正6年●1917 大正8年●1919

 

大正七年(一九一八)

 

年齢:二十三歳→二十四歳、数え年二十五歳

職業:鳥羽造船所勤務

住居:三重県志摩郡鳥羽町本町

→鳥羽町城山→鳥羽町岩崎

 

平井太郎、鳥羽町城山にあった鳥羽造船所の済美寮に転居。深夜、近所の禅寺に一人で座禅を組みに行ったり、会社を休んで自室の押入れに寝ていたりした。文学や哲学への興味を示したことが技師長だった桝本卯平の気に入られ、気ままな勤め方を容認された。 深夜、悪友と寮から山田市へ遊びにゆくため自動車で峠越えをしたところ、自動車が崖から転落、崖の途中に生えていた数本の松の木に車体を支えられ、かろうじて命拾いをしたこともある。[貼雑年譜]

 

春ごろ

平井繁男、家族とともに大阪から朝鮮に渡り、忠清北道沃川郡青南面三南里にあった知人所有の青南鉱業所で監督として勤める。[貼雑年譜]

 

八月二十七日(火)

本堂つま、東京市牛込区新小川町の岩田豊麿の家で死去。六十九歳。太郎、葬儀のため上京。つまの遺産二千円は岩田家と平井家末弟・敏男で折半し、本堂家の跡目相続者は抽籤で決めることになった。太郎がくじを引き、敏男が相続者になった。敏男の千円は朝鮮の両親が保管した。[貼雑年譜]

 

九月

太郎、鳥羽造船所の同僚と鳥羽おとぎ倶楽部を結成。鳥羽の劇場や小学校でおとぎばなしの会を開いた。[貼雑年譜]

 

十月六日(日) 

太郎、夜、坂手島の坂手小学校で鳥羽おとぎ倶楽部のおとぎ会を開き、教師の村山隆子と知り合って文通を始める。[妻のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]

 

十一月

太郎、物価騰貴で月給が三倍ほどになったため、鳥羽町岩崎にあった松田という医師の別荘を借りて住む。この家で初めてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」を読んだ。鳥羽造船所が雑誌「日和」を発行することになり、太郎が編集係となった。[貼雑年譜]

 

十一月十五日(金)

鳥羽造船所の雑誌「日和」第一号発行日。太郎、巻頭言「首途」などを発表し、カットも担当。伊勢新聞の新刊雑誌評で「日和」は鳥羽造船所と鳥羽町の「意志疎通円満ならしめ以て会社の隆昌と鳥羽の繁栄とに資せんとしたるもの」と評される。桝本卯平の後押しにより、太郎は雑誌編集に専念できる待遇になった。[貼雑年譜]

 

十一月ごろ

朝鮮にいた通と敏男、古本屋を開く心づもりで上京。その途中で鳥羽に滞在し、太郎と兄弟三人で古本屋を経営する話がまとまる。通と敏男は岩田の叔母の世話で、神田の古本屋へ見習いに入った。[貼雑年譜]

 

十二月十五日(日)

「日和」第二号発行日。太郎、巻頭言「厖雑より統一へ」などを発表。このころ、さまざまな事情から鳥羽造船所を辞めなければならなくなり、桝本卯平に「東京に出てしばらく勉強したいから」と退社を申し出て了解を得た。[貼雑年譜]

 

[2012年5月21日]

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江戸川乱歩年譜集成

大正7年●1918 大正9年●1920

 

大正八年(一九一九)

 

年齢:二十四歳→二十五歳、数え年二十六歳

職業:鳥羽造船所勤務→三人書房経営

→支那そば屋

住居:三重県志摩郡鳥羽町岩崎

→東京市下谷区坂町→本郷区駒込林町六

 

一月

平井太郎、鳥羽造船所を退社して上京し、下谷区坂町の潜龍館に下宿。退職金は三百円だったが、料亭などに千円の借金があり、探偵小説を書き出してからすべて返済した。「日和」第三号は二山久に編集を依頼し、第三号用に同僚の追悼文をこの下宿で書いて送った。乱歩のあとを追って退社、上京した同僚や後輩に、二山久、井上勝喜、松村家武、本位田準一、野崎三郎らがいた。[貼雑年譜]

 

一月なかば

通と敏男は勤めていた古本屋を辞め、それぞれの店と悶着が起きたが、朝鮮の繁男は息子たちの意志に従って店を開くことに同意し、預かっていた敏男の千円を送ってきた。[貼雑年譜]

 

二月

太郎、東京市本郷区駒込林町六(団子坂上)に弟二人と古本屋、三人書房を開業。家族は、太郎、通、敏男。三人書房は主として芸術書を扱い、とくに小説が多かった。店舗は太郎が設計し、看板も太郎が描いた。店内には応接間のようにテーブルと椅子を置き、蓄音機で流行歌謡をかけた。竹久夢二装幀の楽譜類を仕入れ、ショーウインドウに飾って販売することも試みた。三人書房にインテリ青年が集まるようになり、ひとつのグループができた。石川三四郎の息子・千秋が特徴のある看板に引かれて店を訪れてきた。そうした青年たちと当時全盛だった浅草オペラのスター、田谷力三の後援会を組織し、三人書房から歌劇雑誌を発行することが決まった。[貼雑年譜]

 

四月ごろ

三人書房に鳥羽から上京した井上勝喜、野崎三郎が同居。[貼雑年譜]

 

五月七日(水)

田谷力三後援会が浅草公園の金龍館で第一回観劇会を開催。主催者名義は日本歌劇研究会で、田谷が独唱し、石川千秋が純金のメダルを田谷に贈った。観劇会の切符はかなり売れたが、金メダル製作代などの費用を差し引くと欠損だった。[貼雑年譜]

 

五月十二日(月)

鳥羽造船所の「日和」第三号発行日。発行が遅延し、これで廃刊となる。太郎が執筆した三重県知事らのインタヒュー記事、上京してから書いた「故高山康君追悼記」が掲載された。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、井上勝喜とともに雑誌発行の資金づくりに奔走、庄司雅行に初めて会い、出資を依頼したが、雑誌を出すだけの資金は集まらなかった。太郎、三人書房を弟二人に任せ、井上と二人で三人書房二階を借りて間代を払うことにした。[貼雑年譜]

 

七月

太郎、井上勝喜と智的小説刊行会を計画し、朝日、読売、時事の三紙に募集広告を出すが、挫折。翌年五月に再度計画した。[貼雑年譜]

 

七月ごろ

太郎、雑誌「東京パック」を発行していた下田という人物と知り合い、編集事務を月給制で引き受けることになる。漫画界の大家を訪問して原稿を貰い、編集する仕事だったが、乱歩は大家の絵のなかに自分の漫画も入れ、雑文その他の文章を一手に引き受けた。[貼雑年譜]

 

このころ

「東京パック」記者として、漫画家の小川治平、岡本一平、下川凹夫、前川千帆をたびたび訪問。吉岡鳥平とも親しくなる。[活字と僕と/昭和11年10月]

 

このころ

太郎、「東京パック」に執筆した「時局パックリ」が当局の注意を引き、三人書房二階へ高等係の刑事が訪ねてきた。刑事に気炎をあげながら、いささか得意を感じる。[貼雑年譜]

 

十月一日(水)

「東京パック」十月号(第十二巻第三号)の奥付発行日。奥付には「東京パック編輯局」として「東京市本郷区駒込林町六」と三人書房の住所を記載。太郎が編集した「東京パック」は九月号(第二号)から十一月号(第四号)までで、期間は八月から十月まで。下田憲一郎は昭和五年九月号の「編輯室から」で「東京パック」時代の太郎を回想した。[高島真:追跡『東京パック』(無明舎出版)/2001年1月]

 

十月ごろ

太郎、給料不払いのため、「東京パック」編集を三号かぎりで辞める。太郎が自分の漫画を載せたり、文章を署名入りで掲載したりしたため、漫画家たちから編集者が出しゃばりすぎると抗議されたこともあって、太郎のほうから辞めざるを得ないような処置がとられたという。[貼雑年譜]

 

十一月ごろ

太郎、生活が困窮し、井上と二人、別々に屋台の支那そば屋を営む。野崎三郎は撞球場に勤めていた。支那そば屋はなかなか儲かる商売で、多いときには一晩に十円以上売り上げがあり、純益は七円ほどになった。井上は数か月つづけたが、太郎は結婚しなければならなくなり、十日ほどで辞めた。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、坂手島の村山隆子との結婚を決意する。隆子とは文通しただけで、親しく話し合ったこともなかったが、真面目な隆子が手紙に結婚のことを記し始めたので、太郎は結婚する意志がないことを手紙で隆子に伝えた。そのうえでよく話し合おうと思っていたが、その機会がないまま退職し、上京してしまった。坂手島では太郎と隆子の文通が狭い村に知れ渡っており、太郎の上京後、隆子は悲観のあまり病気になっていた。鳥羽町の医師の家で母親に付き添われて養生していたが、ついには危篤状態に陥ってしまう。鳥羽造船所の二山久から知らせを受けた太郎は結婚する以外にないと決意し、朝鮮の父の承諾を求め、結婚する旨の手紙を隆子に出した。隆子は床上げするとすぐ、兄・村山恒吉と三人書房にやってきた。[妻のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]

 

十一月二十六日(水)

太郎と隆子、牛込区新小川町にあった叔父・岩田豊麿の家で結婚式を挙げる。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎と隆子、三人書房二階の六畳で井上、野崎と共同生活。朝鮮からきく、玉子が上京して、一階に住んでいたため、二階で四人が寝るほかなかった。隆子が上京して数日で太郎は支那そば屋を廃業。何か生活の方途を見出すまで隆子を鳥羽に帰すことにし、隆子は実家で二、三か月を過ごした。[私の結婚/昭和37年2月][貼雑年譜]

 

[2012年5月22日]

江戸川乱歩年譜集成

大正8年●1919 大正10年●1921

 

大正九年(一九二〇)

 

年齢:二十五歳→二十六歳、数え年二十七歳

職業:東京市社会局勤務→大阪時事新報勤務

住居:東京市本郷区駒込林町六

→大阪府北河内郡守口町八〇一番地

 

一月十二日(月)

平井太郎、随筆「恋病」を脱稿。[貼雑年譜]

 

二月

太郎、加藤洋行を辞めてから行きにくくなっていた川崎克を訪ね、就職の世話を依頼。東京市社会局への就職が決まったため、鳥羽へ隆子を迎えにゆき、同道して帰った。[貼雑年譜]

 

二月十九日(木)

太郎、東京市社会局吏員となる。その直後、隆子の母が上京したため、三人書房の近くにあった家の二階を借り、夫婦だけで一か月ほど住む。三人書房には、きく、通、敏男、玉子がいて手狭だった。[貼雑年譜]

 

二月二十三日(月)

太郎の随筆「恋病」がこの日から六回にわたって「伊勢新聞」文芸欄に掲載される。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、社会局の勤めは楽だったが、下級役人気質を耐えがたいものに感じた。[貼雑年譜]

 

五月

太郎、「二銭銅貨」と「一枚の切符」の筋を考え、巻紙に梗概を記す。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、井上勝喜と二人で智的小説刊行会の結成を計画し、雑誌投稿者などに会員募集の手紙を送るが、会員が集まらず、計画は中絶。手紙には雑誌「グロテスク」の見本誌(十二ページ)を添えた。「初号内容」には「会員創作探偵小説第一回発表」として「石塊の秘密」を予告した。のちの「一枚の切符」と同じ筋の作品で、ペンネームは「江戸川藍峯」とした。[貼雑年譜]

 

五月ごろ

太郎、病気になり、半分は病気、半分は役人気質への嫌悪から、欠勤をつづける。[貼雑年譜]

 

六月

平井敏男、母親の生家、本堂家を継いで本堂姓となる。[貼雑年譜]

 

七月二十七日(火)

太郎、東京市社会局吏員を解雇される。[貼雑年譜]

 

七月

太郎、映画論「トリック映画の研究」「映画劇の優越性について(附、顔面芸術としての写真劇)」を執筆。複写を取ってめぼしい映画会社二、三社に郵送し、監督見習いへの採用を依頼したが、何の回答もなかった。[貼雑年譜]

 

八月、九月

太郎、生活費に困ったため、レコード音楽会を三度にわたって開く。井上勝喜と二人で庄司雅行に相談し、庄司の蓄音機と洋楽のレコードを借りた。おそらく東京で最初のレコード音楽会で、これ以降、同種の音楽会が大流行した。[貼雑年譜]

 

九月十一日(土)

太郎、池袋大与クラブでレコード音楽会を開く。[貼雑年譜]

 

十月

太郎、繁男の世話で大阪時事新報の編集記者になる。これを機に不振の三人書房を廃業して大阪へ移ることにし、大阪府北河内郡守口町八〇一番地の父の家に住む。繁男は朝鮮から戻り、竹村商店という店に監督と教師として泊まり込みで勤務、日曜だけ帰宅した。家族は、繁男、きく、玉子、太郎、隆子。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、新聞広告を出して三人書房を譲渡。六百円で売れ、パン屋が開業される。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、大阪時事新報では地方版の整理を担当。集まってくる記事の軽重を考え、見出しをつけて一ページ分の大組みをすればよく、午前十時ごろ出勤し、午後四時には帰宅できた。月給六十円。整理部の先輩に岡戸武平がいた。[貼雑年譜]

 

[2012年5月23日]

江戸川乱歩年譜集成

大正9年●1920 大正11年●1922

 

大正十年(一九二一)

 

年齢:二十六歳→二十七歳、数え年二十八歳

職業:大阪時事新報勤務→日本工人倶楽部勤務

住居:大阪府北河内郡守口町八〇一番地

→東京市外滝ノ川中里八〇番地

→東京市牛込区早稲田鶴巻町三八番地

 

二月十五日(火)

平井太郎の長男・隆太郎、誕生。[貼雑年賦][平井系譜]

 

このころ

太郎、東京の庄司雅行から帝大系の工学士が結成した日本工人倶楽部の書記長に誘われ、月給百円を要求したところ容れられたので、東京に移ることになる。[貼雑年譜]

 

三月三日(木)

太郎、日本工人倶楽部の書記長に就任。[貼雑年譜]

 

三月四日(金)

太郎、万世橋のみかどで開かれた日本工人倶楽部の在京会員懇親会に出席。庄司雅行、春田能為(甲賀三郎)も出席していた。[貼雑年譜][甲賀三郎:キビキビした青年紳士/昭和2年6月]

 

三月六日(日)

太郎、日本工人倶楽部の常任理事会で書記長として庶務部の事務処理方針を提議し、承認される。[貼雑年譜]

 

四月

太郎、隆子、隆太郎とともに上京し、東京市外滝ノ川中里八〇番地に住む。ひきつづき東京にいた井上勝喜は日本工人倶楽部事務員となる。東京工人倶楽部は麹町区丸ノ内仲通三菱七号館にあった。[貼雑年譜]

 

五月十日(火)

日本工人倶楽部機関誌「工人」五月号の奥付発行日。太郎、「科学的適材適所主義」を発表。[貼雑年譜]

 

五月末

太郎、牛込区早稲田鶴巻町三八番地に住む。滝ノ川の家は家賃が高いため、叔父・岩田豊麿の知人の画家が住んでいたあとを譲ってもらい、転居した。家族は、太郎、隆子、隆太郎。ほかに隆子の親戚の学生、中山新作が同居し、井上勝喜、野崎三郎、山崎栄助、松村家武らが交互に居候した。[貼雑年譜]

 

七月十日(日)

「工人」七月号の奥付発行日。太郎、「質問応答」を発表。[貼雑年譜]

 

八月十日(水)

「工人」八月特別号(第七号)の奥付発行日。太郎、頻発する労働争議の鳥瞰図をつくるべく「最近労働争議記録号」として編集し、巻頭に総論を発表。一般の需要を見込んで「工人特別号 最近労働争議記録」という表紙で数千部を印刷、書店に置いたところかなりの売れ行きを見た。[貼雑年譜]

 

十一月十日(木)

「工人」十一月号の奥付発行日、太郎、翻訳「トレード・ユニオンの職分」を発表。[貼雑年譜]

 

この年

太郎、ポー「スフィンクス」を翻訳したが、未完。「恐ろしき錯誤」の最初の原稿を書き、幻想劇「病中偶感」草稿を書いた。[貼雑年譜]

 

[2012年5月25日]

江戸川乱歩年譜集成

大正10年●1921 大正12年●1923

 

大正十一年(一九二二)

 

年齢:二十七歳→二十八歳、数え年二十九歳

職業:日本工人倶楽部勤務

→庄司商行支配人(兼「工人」編集印刷請負)

→大橋弁護士事務所勤務

住居:東京市牛込区早稲田鶴巻町三八番地

→東京市外池袋八六六番地

→大阪府北河内郡守口町字守口六八九ノ三

 

一月十日(火)

日本工人倶楽部機関誌「工人」一月号の奥付発行日。平井太郎、「競争進化論」を発表するが、未完となる。[貼雑年譜]

 

二月ごろ

太郎、庄司雅行が農商務省を辞めて池袋に郊北化学研究所を設立し、主としてポマードの製造販売を始めたので、それを手伝わなければならなくなる。工人倶楽部の書記長を辞め、「工人」の編集印刷だけを請け負うことになったため、庄司の家に近い市外池袋八六六番地に住んだ。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、庄司商工支配人となり、ポマード瓶の意匠、宣伝印刷物などを担当。庄司からは月給百五十円、「工人」請負の利益が二百円ほど入ったため、「工人」編集助手兼書生として本位田準一を家に呼び、私立大学に通わせた。[貼雑年譜]

 

六月

太郎、「工人」編集印刷の仕事を解かれ、庄司雅行も資力が行き詰まったため、月給は半分でもいいから毎日出勤せず、ときどき相談に乗る程度にしてもらうことを庄司に要請した。ちょうど来合わせていた隆子の母が隆太郎をつれて大阪に帰り、あとから隆子も大阪に去った。[貼雑年譜]

 

六月上旬

太郎、松村家武の世話で、神田区錦町三ノ三の東岳館に十日ほど下宿。[貼雑年譜]

 

六月中旬から下旬

太郎、松村が下宿していた神田区錦町三ノ三の向上館に二十日ほど下宿。ときどき庄司の家に顔を出したが、約束の俸給は支払われなかった。[貼雑年譜]

 

七月

太郎、大阪の隆子が病気になったため、電報で呼ばれて帰阪、そのまま東京を引き上げて大阪府北河内郡守口町字守口六八九ノ三の父の家に住む。十一月まで失業状態のまま居候した。[貼雑年譜]

 

七月二十日(金)

「新青年」八月増刊《探偵小説傑作集》(第三巻第九号)の奥付発行日。太郎、数日間座右から離さず、「盛んだなあ、盛んだなあ」と呟きつづけ、「いよいよ探偵小説を書くべきときが来た」と思う。[探偵小説四十年 「新青年」の盛観/昭和24年12月]

 

七月ごろから十一月ごろ

太郎、神戸図書館の講堂で馬場孤蝶の講演を聴き、倒叙探偵小説に興味を抱く。この講演会は知り合う以前の西田政治、横溝正史も聴講していた。[探偵小説四十年 「新青年」の盛観/昭和24年12月]

 

九月二十一日(木)

太郎、この日から二十三日までかかって、大正十一年の日記帳の余白に「一枚の切符」を下書きする。[貼雑年譜]

 

九月二十五日(月)

太郎、「一枚の切符」を脱稿。[初出末尾]

 

九月二十六日(火

太郎、この日から数日間で、大正五年の日記帳の余白に「二銭銅貨」を下書きする。[貼雑年譜]

 

十月二日(月

太郎、「二銭銅貨」を脱稿。[初出末尾]

 

十月四日(水)

太郎、「一枚の切符」と「二銭銅貨」の原稿を馬場孤蝶に送る。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、馬場孤蝶から返事がないため、原稿返却を依頼する手紙を出す。[貼雑年譜]

 

十月二十六日(木)

馬場孤蝶、太郎に原稿と手紙を送る。[探偵小説四十年 馬場孤蝶に原稿を送る/昭和24年12月]

 

十一月二十一日(火)

太郎、二篇の原稿を博文館「新青年」編集部の森下雨村に送る。[貼雑年譜]

 

十一月二十四日(金)

太郎、森下雨村に書状、別便で送った探偵小説二篇の一読を乞う。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

十一月三十日(木)

太郎、雨村に書状、雨村から届いた葉書の礼を述べる。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

十二月二日(土)

森下雨村、太郎に書状、「二銭銅貨」の「新青年」掲載を約束する。[貼雑年譜]

 

十二月四日(月)

太郎、青島の井上勝喜に書状、七月から九月まで三か月、隆のヒステリーに悩まされたことなど近況を報告し、「二銭銅貨」が翌年の「新青年」二月号か三月号に掲載されることを伝える。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

十二月七日(木)

太郎、馬場孤蝶に手紙、「二銭銅貨」が翌年の「新青年」二月号か三月号に掲載されることを伝え、探偵小説に関する所見を述べる。神戸の講演で馬場が探偵小説を純文学よりも低く位置づけていたことへの不満も表明した。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

十二月

太郎、繁男の世話で大橋鉄吉という民事弁護士の事務所の臨時雇いとなる。大阪アルカリ会社の失権株払い込み徴収に関して、株主の苦情を聞き、相手に法律上の支払い義務があることを説明する仕事だった。繁男が勤務していた竹村商店が大阪アルカリの債権者だった縁で、仕事が回ってきた。[貼雑年譜]

 

[2012年5月27日]

江戸川乱歩年譜集成

大正11年●1922 大正13年●1924

 

大正十二年(一九二三)

 

年齢:二十八歳→二十九歳、数え年三十歳

職業:大橋弁護士事務所勤務→大阪毎日新聞広告部勤務

住居:大阪府北河内郡守口町字守口六八九ノ三

→大阪府北河内郡門真村一番地

 

*以下、平井太郎という本名ではなく、江戸川乱歩という筆名で記述を進める。乱歩という主語は、おおむね省略する。

 

二月十五日(木)

書簡森下雨村に手紙、雨村から送られた感想文への弁明などを記す。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

二月十六日(金)

青島の井上勝喜に手紙、バルザック、ポーや探偵小説などについて記す。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

三月一日(木)

雑誌「新青年」三月号(第四巻第四号)の奥付発行日。四月号の予告ページで「二銭銅貨」が紹介され、「編輯局から」で「海外作家の作品と伍して何等の遜色なき傑作である」と紹介される。

 

四月一日(日)

雑誌「新青年」四月春季増大号(第四巻第五号)の奥付発行日。「二銭銅貨」「探偵小説に就て」が掲載された。[1923-04-01-に][1923-04-01-た

発売は三月中旬。不木生(小酒井不木)「『二銭銅貨』を読む」を併載。原稿料は一枚一円で、新人としてはそれほど安くなかった。探偵小説を書いて生活できるとは考えていなかったので、勤めは辞めなかった。[探偵小説四十年 二年間に五篇/昭和25年2月][貼雑年譜]

 

四月二十三日(月)

書簡森下雨村に手紙、「一枚の切符」再送遅延を詫びる。情味のある作品に直そうと思ったが、家族が病気になるなどで暇がなく、小酒井不木に注意された点だけに手を入れて郵送した。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

五月

隆子が腹膜炎となり、大阪赤十字社病院に入院。入院費用は繁男の貯金約六百円の全額をあて、大阪毎日新聞社広告部に入ってから返済した。病院の付き添いとして隆子の母に鳥羽から来てもらった。夕食後、隆太郎を抱いて近所の原っぱを散歩し、唱歌を歌って歩きながら眠りつくのを待った。[探偵小説四十年 大正十二年度の主な出来事/昭和25年2月][貼雑年譜]

 

六月二十一日(木)

北河内郡守口町の繁男の家から、門真村一番地に転居。隆子が退院したが、病後なので子守を雇って隆太郎の世話をさせた。[探偵小説四十年 大正十二年度の主な出来事/昭和25年2月][貼雑年譜]

 

六月

「恐ろしき錯誤」を脱稿、森下雨村に送った。「恐ろしき錯誤」の腹案は入院中の隆子のベッドの枕元で下書きした。[探偵小説四十年 大正十二年度の主な出来事/昭和25年2月、二年間に五篇/昭和25年2月][貼雑年譜]

 

六月末

大橋弁護士事務所を辞めた。[貼雑年譜]

 

七月一日(日)

雑誌「新青年」七月号(第四巻第八号)の発行日。「一枚の切符」が掲載された。[1923-07-01-い

大阪毎日新聞社に入社、広告部に勤務した。繁男が名古屋時代に店員として雇っていた大口政夫が広告部の古顔だったので、その紹介で就職した。隆子の退院はこの日ともいう。[探偵小説四十年 大正十二年度の主な出来事/昭和25年2月][貼雑年譜]

名古屋の小酒井不木に初めて手紙を出し、「新青年」四月春季増大号の「『二銭銅貨』を読む」の礼を述べた。京都の山下利三郎にも初めて手紙を出し、一度伺いたいと伝えた。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

七月三日(火)

書簡小酒井不木が乱歩に手紙、才能を認め、激励した。[子不語の夢]

 

九月一日(土)

関東大震災。大阪市内の床屋から出たときに揺れを感じた。数時間後に出た号外で東京の地震を知った。[探偵小説四十年 大正十二年度の主な出来事/昭和25年2月]

 

十月五日(金)

書簡井上勝喜に手紙、宇野浩二の「蔵の中」の感想などを記す。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

十一月一日(木)

雑誌「新青年」十一月帝都復興号(第四巻第十三号)の奥付発行日。「恐ろしき錯誤」が掲載された。[1923-11-01-お

 

十一月十三日(火)

書簡井上勝喜に手紙、「新青年」十一月号に掲載された山下利三郎「哲学者の死」、甲賀三郎「カナリヤの秘密」の感想を述べ、「恐ろしき錯誤」は「二銭銅貨」「一枚の切符」より「数段上等の様な気がした」と記す。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

[2012年6月6日]

江戸川乱歩年譜集成

大正12年●1923 大正14年●1925(上半期)

 

大正十三年(一九二四)

 

年齢:二十九歳→三十歳、数え年三十一歳

職業:大阪毎日新聞広告部勤務

住居:大阪府北河内郡門真村一番地

→北河内郡守口町二六六番地→守口町外島六九四番地

 

一月三十一日(木)

「二癈人」を脱稿。[初出末尾]

 

四月一日(火)

繁男の家に近い守口町二六六番地に転居。このころ、関東大震災に遭って大阪に移住した家元から河東節を習った。[探偵小説四十年 大正十三年度の主な出来事/昭和25年2月]

 

五月二十八日(水)

森下雨村に手紙、探偵小説の芸術性などについて質問した。[江戸川乱歩推理文庫64]

 

六月一日(日)

「新青年」六月号(第五巻第七号)の奥付発行日。「二癈人」が掲載された。

 

六月

「双生児」を脱稿。[初刊末尾]

 

八月五日(火)

「新青年」夏期増刊号(第五巻第十号)の奥付発行日。掲載された評論をむさぼるように読み、久米正雄、加藤武雄らの文章におおいに刺戟を受けた。とくに佐藤春夫が「探偵小説小論」に記した探偵小説の定義は長く記憶にとどまった。[探偵小説四十年 私を刺戟した評論/昭和25年3月]

 

九月

繁男が咽喉癌であることが判明し、ふたたび守口町外島六九四番地の繁男の家に同居した。家族は、繁男、きく、通、敏男、玉子、隆、隆太郎。[探偵小説四十年 大正十三年度の主な出来事/昭和25年2月][貼雑年譜]

 

十月一日(水)

「新青年」十月秋季増大号(第五巻第十一号)の奥付発行日。「双生児」が掲載された。

 

十月五日(日)

川東節の満寿会が大阪市北区曽根崎上四丁目の千原で第一回披露会を開催し、繁男とともに出演した。[貼雑年譜]

 

十月

「D坂の殺人事件」を脱稿。[初刊末尾]

 

十一月

「心理試験」を脱稿。繁男ときくの前で朗読したところ繁男が面白がってくれたため、「新青年」夏期増刊号に掲載された探偵小説論の要所を読みあげて職業作家になることの許しを乞い、繁男の諒承を得た。[探偵小説四十年 私を刺戟した評論/昭和25年3月]

 

十一月二十六日(水)

小酒井不木に手紙、二、三日前に書きあげた「心理試験」を別便で送り、それを一読して探偵小説家として一人前になれるかどうか判断してくれるよう依頼した。[子不語の夢]

 

十一月二十九日(土)

不木が乱歩に手紙、「心理試験」に感服したと述べ、探偵小説家として立つことを勧めた。[子不語の夢]

 

十一月三十日(日)

文筆だけで生活することを決意し、大阪毎日新聞社を退社した。[探偵小説四十年 大正十三年度の主な出来/昭和25年2月]


このころ

雨村が乱歩に手紙、「新青年」に六回連続で短篇を書よう依頼された。[探偵小説四十年 「D坂」と「心理試験」/昭和25年3月]

 

十二月五日(金)

不木に手紙、探偵小説に専念する決意を伝えた。[子不語の夢]

 

十二月二十九日(月)

不木に手紙、翌年一月に上京する途次、訪問したいと伝えた。[子不語の夢]

 

十二月

「黒手組」を脱稿。[初刊末尾]

 

[2012年6月11日]

江戸川乱歩年譜集成

大正13年●1924 大正14年●1925(下半期)

 

大正十四年(一九二五)上半期

 

年齢:三十歳、数え年三十二歳

住居:大阪府北河内郡守口町外島六九四番地

 

一月七日(水)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

一月十日(土)

□雑誌□「新青年」新春増刊号(第六巻第二号)の奥付発行日。発売は前年十二月二十日。「D坂の殺人事件」が掲載された。

 

一月中旬

大阪から上京の途次、名古屋で小酒井小酒井不木を訪問。五、六時間ほど話し、夜の汽車で東京に向かう。[探偵小説四十年 名古屋と東京への旅/昭和25年4月][小酒井不木:江戸川氏と私/昭和2年6月]

 

一月中旬

東京に到着し、関東大震災のあと小石川の社長邸に移っていた博文館を訪問。森下雨村に初めて会い、雨村邸で夕食をふるまわれる。翌晩か翌々晩、江戸川アパートの川向こうにあった鰻料理屋で乱歩の歓迎会が催された。[探偵小説四十年 名古屋と東京への旅/昭和25年4月]

 

一月十六日(金)

森下雨村が「新青年」の寄稿家を集め、江戸川の鰻料理屋「はし本」で乱歩の歓迎会を開いた。ほかの参加者は、田中早苗、延原謙、春田能為、長谷川海太郎、松野一夫、神部正次。[新青年:編輯局より(雨村生)/大正14年3月]

春田能為(甲賀三郎)は日本工人倶楽部の委員の一人で、倶楽部の書記長を勤めていた当時、面識があった。[探偵小説四十年 甲賀三郎/昭和25年4月]

 

一月中旬

本郷の菊富士ホテルに宇野浩二を訪問。玄関払いも覚悟していたが、部屋に通された。[探偵小説四十年 宇野浩二/昭和25年5月、6月]

乱歩は宇野に「心理試験」が掲載された「新青年」二月号を手渡し、帰阪してからも自作の載った「新青年」を郵送した。[宇野浩二:日本のポオ──江戸川乱歩君万歳/大正15年1月]

 

一月十九日(月)

□書簡□牧逸馬が乱歩に手紙、乱歩作品の翻訳に着手したことを伝えた。「D坂の殺人事件」の執筆直後に上京し、探偵作家の会合で森下雨村が「D坂の殺人事件」の英訳を提案、逸馬が訳すことになった。[探偵小説四十年 牧逸馬(林不忘)/昭和25年4月、5月]

*牧逸馬は「D坂の殺人事件」ではなく「心理試験」を英訳していた。[新青年:編輯局より(雨村生)/大正14年3月]

 

一月二十四日(土)

東京から帰阪。

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

一月二十六日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

□書簡□宇野浩二が乱歩に封書、「心理試験」を面白く読んだと述べ、「報知新聞」に乱歩のことを書くと伝えた。[探偵小説四十年 宇野浩二/昭和25年5月、6月][貼雑年譜]

 

このころ

□新聞□宇野浩二が「報知新聞」文芸欄に随筆「江戸川乱歩」を二回にわたって発表。[探偵小説四十年 宇野浩二/昭和25年5月、6月]

 

二月一日(日)

□雑誌□「新青年」二月号(第六巻第三号)の奥付発行日。「心理試験」が掲載された。「連続短篇探偵小説(一)」とされ、挿画は水島爾保布。

 

二月五日(木)

□書簡□牧逸馬が乱歩に手紙、雑誌連載に追われ、英訳が遅れていると報告。結局、訳稿は完成しなかった。[探偵小説四十年 牧逸馬(林不忘)/昭和25年4月、5月]

 

二月十二日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

二月十四日(土)

□書簡□小酒井小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

二月二十四日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

三月一日(日)

□雑誌□「新青年」三月号(第六巻第四号)の奥付発行日。「黒手組」が掲載された。「連続短篇探偵小説(二)」とされ、作品の末尾に「次号予告 赤い部屋……江戸川乱歩」。「新潮」三月号(第四十二巻第三号)の発行日。前田河広一郎「白眼録」が掲載され、「探偵物究明」の項で乱歩に言及。

□雑誌□「新潮」三月号(第四十二巻第三号)の発行日。前田河広一郎「白眼録」が掲載され、「探偵物究明」の項で乱歩に言及。

 

三月二日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に手紙。[子不語の夢]

 

三月五日(木)

□雑誌□「写真報知」第三巻第七号の発行日。「恋二題」第一回が掲載された。

 

三月六日(金)

「前田河広一郎氏に」を脱稿。[初出末尾]

 

三月十二日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

三月十四日(土)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

三月十五日(日)

□雑誌□「写真報知」第三巻第八号の発行日。「恋二題」第二回が掲載され、完結。

 

三月十七日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

三月二十日(金)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

三月二十三日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に手紙。[子不語の夢]

 

三月末

繁男が療養先から帰宅。容態が悪化し、養生の甲斐はなかった。[子不語の夢:乱歩書簡 四月九日]

 

四月一日(水)

□雑誌□「新青年」四月号(第六巻第五号)の発行日。「赤い部屋」が掲載された。「連続短篇探偵小説 三」とされ、三色刷口絵に一木諄の「赤い部屋」挿画。

 

このころ

繁男が療養のため三重県鈴鹿郡関町の山奥に籠もった。[子不語の夢:乱歩書簡 四月九日]

山中の渓谷の入口に宗教家が堂を建て、藁葺き屋根の小屋数軒を宿舎として、不治の病の信者を受け入れていた。繁男はきくにつきそわれ、一軒の小屋で二人きりの暮らしを始めた。[探偵小説四十年 父の死/昭和26年4月]

 

四月九日(木)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

四月ごろ

春日野緑(星野龍猪)から手紙で誘われ、大阪毎日新聞社を訪ねて面会。探偵趣味の会を結成する相談がまとまった。[探偵小説四十年 探偵趣味の会/昭和25年6月、7月]

*春日野緑によれば、乱歩のほうから会いたいという手紙が届き、大正十四年の冬ごろ、春日野の家で初対面を果たした。[春日野緑:乱歩君の印象/昭和2年6月]

 

四月ごろ

森下雨村に手紙を出し、探偵趣味の会のことを伝えた。京阪神に住む探偵小説同好者の名前と住所を問い合わせ、京都の山下利三郎、神戸の西田政治と横溝正史を教えられた。神戸で西田と横溝に会い、探偵趣味の会に入会することの承諾を得た。[探偵小説四十年 探偵趣味の会/昭和25年6月、7月]

 

四月九日(木)

□書簡□川口松太郎が乱歩に封書、「苦楽」への小説執筆を依頼した。[探偵小説四十年 「苦楽」と川口松太郎/昭和26年3月][貼雑年譜]

 

四月十一日(土)

大阪毎日新聞社の探偵小説同好者が同社の一室で会合を開き、探偵趣味の会が発足した。西田政治、横溝正史、井上次郎と兄、春日野緑、大野木繁太郎、伊藤泰男、井上勝喜と乱歩の九人が参加。[探偵趣味の会を始める言葉/大正14年6月]

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

四月十二日(日)

□書簡□横溝正史が乱歩に葉書、前日の礼を述べた。[山前譲:横溝正史と江戸川乱歩、その歴史的な出会い(『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』角川書店)/2002年5月]

*乱歩はこの葉書が正史と西田政治に初めて会った日の翌日に書かれたものと誤認し、『探偵小説四十年』に「私が神戸の両君を訪ねたのは大正十四年四月十一日であった」と記した。

 

四月十三日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

四月十四日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

このころ

関町の繁男を訪ね、数日滞在した。[子不語の夢:乱歩書簡 四月二十四日]

 

四月二十四日(金)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

四月二十六日(日)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

五月一日(金)

□雑誌□「新青年」五月号(第六巻第六号)の発行日。「幽霊」が掲載された。「連続短篇 四」とされ、作品の末尾に「次号予告 虎(創作)……江戸川乱歩」。ほかに「前田河広一郎氏に」も掲載。

 

五月十日(日)

□新聞□「読売新聞」文芸欄の「一日一傑 大衆作家列伝」第八回で紹介された。

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

五月十一日(月)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

五月十四日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

五月十五日(金)

□雑誌□「写真報知」第三巻第十四号の奥付発行日。「盗難」が掲載された。

 

五月十七日(日)

大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第二回会合に出席。映画「歎きのピエロ」を見物したあと、松竹座の地下室食堂で話した。参加は十一人。[子不語の夢:乱歩書簡 五月十八日]

横溝正史によれば、探偵趣味の会の第二回会合で乱歩が氷による殺人のトリックを話し、正史は海外作品に同じトリックがあると教えた。[横溝正史:探偵小説講座──序にかえて/昭和7年1月]

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

五月十八日(月)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

五月十九日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

五月二十四日(日)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

五月二十九日(金)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

六月一日(月)

□雑誌□「新青年」六月号(第六巻第七号)の奥付発行日。「『探偵趣味の会』」が掲載された。前田河広一郎「探偵物の思想系統──江戸川乱歩君に答う」も掲載。

 

六月四日(木)

□書簡□繁男が乱歩に手紙、背もたれの角度が調節できる坐椅子の入手を依頼した。[貼雑年譜]

 

六月六日(土)

大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第三回会合に出席。[子不語の夢:乱歩書簡 六月十五日]

 

このころ

関町の繁男を訪ねた。三分の二ほど書けていた「屋根裏の散歩者」の原稿を持参し、繁男の病室の隣の部屋で畳に腹這いになって最後まで執筆、山の下の町から郵送した。[探偵小説四十年 父の死/昭和26年4月]

 

六月十二日(金)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

六月十三日(土)

繁男、きくと三人で守口町に帰った。作品集を校了し、春陽堂に返送した。[子不語の夢:乱歩書簡 六月十五日]

繁男が帰ってからは、繁男の家と同じ棟の隣にある空き家の二階だけを借り、そこで小説を書いた。[貼雑年譜]

 

六月十五日(月)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

六月十七日(水)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

六月十八日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

六月十九日(金)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

[2012年7月1日]

江戸川乱歩年譜集成

大正14年●1925(上半期) 大正15年・昭和元年●1926

 

大正十四年(一九二五)下半期

 

年齢:三十歳→三十一歳、数え年三十二歳

住居:大阪府北河内郡守口町外島六九四番地

 

七月一日(水)

□雑誌□「新青年」七月号(第六巻第八号)の奥付発行日。「小品二篇」が掲載された。「編輯だより」に記者宛書簡の抜粋が引用された。

□雑誌□「苦楽」七月号(第四巻第一号)の奥付発行日。「夢遊病者彦太郎の死」が掲載された。

 

七月四日(土)

大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第四回例会に出席。プラトン社の社員が加わり、休暇で乱歩の家に遊びに来ていた水谷準も参加した。[子不語の夢:乱歩書簡 七月七日]

 

七月六日(月)

探偵趣味の会の座談会に出席。[子不語の夢:乱歩書簡 七月七日]

 

七月七日(火)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

七月八日(水)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

七月十日(金)

□新聞□「読売新聞」文芸欄のコラム「ゴシップ」で探偵趣味の会の動向が紹介された。[貼雑年譜]

 

七月十五日(水)

□雑誌□「写真報知」第三巻第二十号の奥付発行日。「百面相役者」第一回が掲載された。

 

七月十六日(木)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

七月十七日(金)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

七月十八日(土)

□書籍□『心理試験』の奥付発行日。春陽堂から「創作探偵小説集」第一巻として刊行された。小酒井不木が序文を寄せた。

 

七月十九日(日)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

七月二十日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語]

 

七月二十三日(木)

□書簡□横溝正史が乱歩に封書。[山前譲:横溝正史と江戸川乱歩、その歴史的な出会い(『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』角川書店)/2002年5月]

 

七月二十四日(金)

川口松太郎とともに名古屋を訪れ、小酒井不木に会う。国枝史郎、本田緒生(松原鉄次郎)も同席した。[子不語の夢:乱歩書簡 七月二十五日][川口松太郎:江戸川乱歩と美少女/昭和54年5月]

*乱歩は『探偵小説四十年』で八月のことと誤認している。

 

七月二十五日(土)

□雑誌□「写真報知」第三巻第二十一号の奥付発行日。「百面相役者」第二回が掲載され、完結。

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

七月二十六日(日)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

七月二十七日(月)

大野木繁太郎の送別会に出席。大野木は大阪毎日新聞社から東京日日新聞社へ転勤した。[子不語の夢:乱歩書簡 七月二十五日]

 

七月三十一日(金)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

八月一日(土)

□雑誌□「新青年」夏季増刊号(第六巻第十号)の奥付発行日。「屋根裏の散歩者」が掲載された。「私の好きな作家と作品」に寄せた「日本の誇り得る探偵小説」も掲載。

 

八月二日(日)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

八月三日(月)

川口松太郎に会い、潰れるかどうかの瀬戸際にあるプラトン社の内情を知らされた。[子不語の夢:乱歩書簡 八月五日]

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

八月五日(水)

□書簡□小酒井不木に手紙。[子不語の夢]

 

八月六日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に手紙。[子不語の夢]

 

八月八日(土)

大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第五回例会に出席。川口松太郎の世話で探偵映画「Through the Dark」を映写。来会者は七十人。例会のあと、プラトン社の社長だった中山豊三と面談した。[子不語の夢:乱歩書簡 八月九日]

 

八月九日(日)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

八月十日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

八月十七日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

八月二十一日(金)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

八月二十二日(土)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

八月二十五日(火)

兵庫県西宮市の苦楽園ホテルで開かれた探偵趣味の会の会合に出席。機関誌「探偵趣味」を発刊することが決まった。[子不語の夢:乱歩書簡 八月二十六日]

 

八月二十六日(水)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

八月二十七日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

八月三十一日(月)

□新聞□国枝史郎が「読売新聞」に「日本探偵小説界寸評」を発表。

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

八月

「『探偵趣味』発行につき御依頼」を印刷、関係方面に配布した。「探偵趣味」は春日野緑の知人が経営するサンデーニュース社が印刷することになった。[探偵小説四十年 「探偵趣味」の創刊/昭和26年3月]

 

八月

「人間椅子」を脱稿。着想を得たあと、神戸で洋家具の競市があると知り、横溝正史を訪ねた。競市のことはわからなかったが、二人で神戸の街を散歩し、家具屋の店先に大きな肘掛け椅子が展示されていたので、店に入ってこの椅子に人間が隠れられるかと尋ねた。[探偵小説四十年:「屋根裏」と「人間椅子」/昭和26年4月]

 

九月一日(火)

□雑誌□「新小説」九月号(第三十年第九号)の奥付発行日。「一人二役」が掲載された。

 

九月四日(金)

大阪に来ていた馬場孤蝶の歓迎会に出席。[子不語の夢:乱歩書簡 九月五日]

 

九月五日(土)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

九月六日(日)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

九月七日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

九月十日(木)

午後八時、繁男が守口町の家で死去。五十八歳。[貼雑年譜]

 

九月十二日(土)

守口町の家で繁男の葬儀を営む。[貼雑年譜]

 

九月十三日(日)

□新聞□「読売新聞」に「探偵小説界寸評を読む」が掲載された。

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

九月十五日(火)

□雑誌□「写真報知」第三巻第二十六号の奥付発行日。「疑惑」第一回が掲載された。

 

九月二十日(日)

□雑誌□「探偵趣味」第一輯の奥付発行日。編輯当番を担当し、探偵小説は芸術たりうるかというアンケートを掲載した。[探偵小説四十年 「探偵趣味」の創刊/昭和26年3月]

 

九月二十一日(月)

大衆作家の団体、二十一日会が発足。[新鷹会:雑誌「大衆文芸」と作家たち

 

九月二十三日(水)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

九月二十四日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

九月二十五日(金)

□雑誌□「写真報知」第三巻第二十七号の奥付発行日。「疑惑」第二回が掲載された。

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

九月二十六日(土)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

このころ

池内祥三から二十一日会の同人になるよう手紙で勧誘され、探偵小説が大衆小説の一分野として扱われることに疑問があったものの、結局は勧めに応じた。[探偵小説四十年 二十一日会と「大衆文芸」/昭和26年5月]

 

十月一日(木)

□雑誌□「苦楽」十月号(第四巻第四号)の奥付発行日。「人間椅子」が掲載された。

 

十月四日(日)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十月十五日(木)

□雑誌□「写真報知」第三巻第二十九号の奥付発行日。「疑惑」第三回が掲載され、完結。

 

十月二十日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十月二十一日(水)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十月二十五日(日)

探偵趣味の会が苦楽園で催した渡瀬淳子演劇研究所による探偵ページェントに参加。探偵劇「幽霊探偵」が上演され、観客は約五百人。大阪朝日新聞社の下村海南専務ら阪神沿線の名士が家族づれで見物した。記念撮影のあとラジウム温泉に入り、晩餐会。春日野緑、横溝正史、平野零児らのほか、名古屋から潮山長三、川口松太郎につれられて東京から額田六福も訪れた。[探偵小説四十年 探偵ページェント/昭和26年3月]

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

このころ

「闇に蠢く」の第一回を脱稿。原稿を渡し、掲載誌が出るまでに川口松太郎と苦楽園の温泉に入ったとき、谷崎潤一郎ばりだと賞められた。[探偵小説四十年 三つの連載長篇/昭和26年7月]

 

十月二十七日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十月三十一日(土)

懸賞小説で得た賞金で上京したいという横溝正史とともに、朝の汽車で名古屋に行き、小酒井不木を訪問。本田緒生、潮山長三も顔を見せた。名古屋ホテルでの夕食には国枝史郎も加わった。夜の汽車で上京。[探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月一日(日)

東京に到着。先に上京していた川口松太郎に誘われ、丸ノ内ホテルに投宿。横溝正史は友人のもとへ行った。本位田準一ら旧友が二、三人来訪。この日か二、三日後、城昌幸が来て初対面を果たした。[探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月二日(月)

春陽堂の今村が来訪、「文章往来」の話をした。横溝正史と三越に出かけ、別れて赤坂見附の清水谷公園にある皆香園で開かれた会合へ。参会は、春日野緑、森下雨村、甲賀三郎、田中早苗、妹尾韶夫、巨勢洵一郎、水谷準、保篠龍緒、松野一夫、馬場孤蝶、平林初之輔、横溝正史。全員の寄せ書きを小酒井小酒井不木に送った。[探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

十一月三日(火)

池内祥三が来訪、「大衆文芸」の話をした。同伴して報知新聞へ行き、野村胡堂と本山荻舟に会う。東京日日新聞に大野木繁太郎を訪ねるが、不在。夜、森下雨村宅へ横溝正史とブリッジを教わりにいった。ほかに田中早苗、甲賀三郎、延原謙、巨勢洵一郎、松野一夫ら。横溝と二人、森下邸に宿泊。[探偵小説四十年「探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月四日(水)

横溝正史とホテルに帰る。水谷準、本位田準一が来て、四人で鮨を食べ、平林初之輔を訪問する予定だったが、雨のため寄席へ。夜は歌舞伎座前の洋食屋でトンカツを食べた。横溝は丸ノ内ホテルへ宿替え。[探偵小説四十年「探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月五日(木

春陽堂を訪問、作品集のことを相談した。読売新聞を訪れて文芸部長の清水弥太郎と会い、雑文の注文を受けた。夕方から正史と帝国劇場へ。清元延寿太夫、市村羽左衛門、尾上梅幸の「権八小紫」に陶酔し、探偵小説が馬鹿馬鹿しいと感じた。ホテルに帰ると「苦楽」に連載する「闇に蠢く」の校正が届いており、横溝に読んで聞かせた。この夜にか、「踊る一寸法師」の後半を書き、やはり横溝に読んで聞かせたところ、前半は面白いが後半は劣ると評された。[探偵小説四十年「探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月六日(金)

春陽堂の島源四郎が来訪、長田幹彦からの伝言でラジオ出演を依頼され、探偵小説宣伝のために引き受けた。「キング」の森田が来訪、原稿の注文があったが、断った。旧友が来訪、横溝正史と三人で竹葉へ。夕方、池内祥三が誘いに訪れ、花の茶屋で開かれた二十一日会の会合へ。白井喬二、木山荻舟、長谷川伸、平山蘆江、正木不如丘、久保田朝興、矢田挿雲らが出席していた。[探偵小説四十年「探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月七日(土)

午後七時半からラジオ放送。扁桃腺炎で熱を出し、出演を辞退したが、長田幹彦に自動車で迎えられ、厚い毛布にくるまって乗り込んだ。「探偵趣味の話」と題して話し、新しい探偵小説の見本として水谷準の掌篇「好敵手」を朗読。「御菓子料」として二十円か三十円を受け取った。[探偵小説四十年「探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月八日(日)

□書簡□小酒井不木が丸ノ内ホテルの乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十一月十三日(金)

丸ノ内ホテルから本郷赤門前の伊勢栄旅館に移り、病臥。[探偵小説四十年「探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

岩田準一が来訪。ラジオで乱歩の放送を聴き、この日の新聞で伊勢栄旅館に宿泊していることを知ったという。午後二時ごろ訪ねると不在で、夜ふたたび足を運んだところ、乱歩は近所の梅本という寄席にいた。二人で寄席から旅館に帰り、十時過ぎまで歓談した。[岩田鏡之助(岩田貞雄):東京本郷「伊勢栄旅館」の夜/2001年10月]

□書簡□小酒井不木が伊勢栄旅館の乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

十一月十八日(水)

□書簡□長野県の山田温泉から小酒井不木に葉書。[子不語の夢]

 

十一月二十一日(土)

山田旅館で静養。二山久が同道した。旅の途中で「覆面の舞踏者」第一回を脱稿し、「婦人の国」に郵送。[探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

このころ

山田温泉以外にも歩き廻り、無一文で大阪に帰る。[探偵小説四十年 大正十四年末の上京/昭和26年6月]

 

十一月二十八日(土)

□書簡□小酒井不木が乱歩に手紙。[子不語の夢]

□書簡□横溝正史が乱歩に葉書。[山前譲:横溝正史と江戸川乱歩、その歴史的な出会い(『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』角川書店/2002年5月]

 

十二月四日(金)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十二月六日(日)

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

十二月十五日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十二月十六日(水)

□書簡□岩田準一への手紙が着信、翌年早々、東京に転居する旨を伝えた。[岩田鏡之助(岩田貞雄):東京本郷「伊勢栄旅館」の夜/2001年10月]

 

十二月十七日(木)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

十二月十九日(土)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十二月二十八日(月)

探偵趣味の会の例会に出席し、チャップリンの映画「ゴールドラッシュ」を見たあと、牛肉屋で忘年会を開いた。[子不語の夢:乱歩書簡 十二月二十九日]

 

十二月二十九日(火)

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

十二月三十一日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十二月

きくが大阪から上京。きくの妹が嫁いだ日本画家、岩田豊麿の家で世話になりながら、姉妹で貸家を探し、筑土八幡町の高台の家に決めた。[探偵小説四十年 東京に転宅/昭和26年8月]

 

[2012年7月2日]

江戸川乱歩年譜集成

大正14年●1925(下半期) 昭和2年●1927

 

大正十五年・昭和元年(一九二六)

 

年齢:三十一歳→三十二歳、数え年三十三歳

住居:大阪府北河内郡守口町外島六九四番地

→東京都牛込区筑土八幡町三二番地

 

一月一日(金)

□雑誌□「苦楽」新年特別号(第五巻第一号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第一回が掲載された。連載は十一月号まで。

□雑誌□「新青年」新年増大号(第七巻第一号)の奥付発行日。「踊る一寸法師」が掲載された。

□雑誌□「探偵趣味」正月号(第二年第一号)の奥付発行日。「ある恐怖」「情死」とアンケート「『探偵趣味』問答」の回答が掲載された。

□雑誌□「探偵文芸」一月号(第二巻第一号)の奥付発行日。「毒草」が掲載された。

□雑誌□「婦人の国」新年特大号(第二巻第一号)の奥付発行日。「覆面の舞踏者」第一回が掲載された。連載は二月号まで。

□書籍□『屋根裏の散歩者』の奥付発行日。春陽堂から「創作探偵小説集」第二巻として出版された。

 

一月三日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第二号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第一回が掲載された。連載は五月まで。

 

一月五日(火)

□雑誌□「写真報知」第四巻第一号の奥付発行日。「二人の探偵小説家」第一回が掲載された。連載は二月まで。

 

一月十日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第三号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第二回が掲載された。

□書簡□小酒井不木が乱歩に葉書。[子不語の夢]

 

一月十五日(金)

□雑誌□「写真報知」第四巻第二号の奥付発行日。「二人の探偵小説家」第二回が掲載された。

 

一月十七日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第四号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第三回が掲載された。

 

このころ

大阪府北河内郡守口町から東京市牛込区筑土八幡町三二番地に転居。家族を先に移転させ、守口町の家に一人残って急な原稿を書き終えてから、一月中旬に上京した。上京の途次、名古屋の小酒井不木を訪問。名古屋駅の待合室で置き引きに遭った。タクシーで小酒井邸に行き、タクシー代を立て替えてもらったうえ、上京の費用も借用した。家族は、きく、玉子、隆、隆太郎。雑誌社からの原稿依頼で千客万来となったが、創作力の枯渇を覚え、注文の大部分は断らなければならなかった。昭和二年三月までこの家に住んだ。[探偵小説四十年 名古屋と東京への旅/昭和25年4月 東京に転宅/昭和26年8月][貼雑年譜]

 

一月二十四日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第五号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第四回が掲載された。

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

一月二十五日(月)

□雑誌□「写真報知」第四巻第三号の奥付発行日。「二人の探偵小説家」第三回が掲載された。

 

一月三十一日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第六号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第五回が掲載された。

 

二月一日(月)

□雑誌□「苦楽」二月号(第五巻第二号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第二回が掲載された。

□雑誌□「大衆文芸」二月号(第一巻第二号)の奥付発行日。「探偵小説は大衆文芸家」が掲載された。

□雑誌□「探偵趣味」二月号(第二年第二号)の奥付発行日。「宇野浩二式」が掲載された。

□雑誌□「婦人の国」二月号(第二巻第二号)の奥付発行日。「覆面の舞踏者」第二回が掲載され、完結。

 

二月七日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第七号の奥付発行日。「湖畔亭事件」を休載。

 

二月八日(月)

□書籍□探偵趣味の会編『創作探偵小説選集』の奥付発行日。春陽堂から出版され、「心理試験」と「選集縁起」が収録された。

 

二月十四日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第八号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第六回が掲載される。

 

二月十五日(月)

□雑誌□「写真報知」第四巻第五号の奥付発行日。「二人の探偵小説家」第四回が掲載され、この回で中絶。

 

二月二十一日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第九号の奥付発行日。「湖畔亭事件」を休載。

 

二月二十四日(水)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

二月二十五日(木)

博文館社長の長谷川天渓に招待され、「新青年」に連載する合作小説について相談。ほかに森下雨村、甲賀三郎、平林初之輔、神部正次が同席。[子不語の夢:乱歩書簡 二月二十五日]

□書簡□小酒井不木に封書。[子不語の夢]

 

二月二十七日(土)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

二月二十八日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第十号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第七回が掲載される。

 

このころか

春まだ寒いころ、橋爪健から手紙が届いた。江戸川乱歩論を執筆することになったので一度会いたいと乞われ、光栄に思って快諾すると、橋爪は家まで訪ねてきた。[探偵小説四十年 橋爪健の乱歩論/昭和27年2月]

 

三月一日(月)

□雑誌□「演劇・映画」三月号(第一巻第三号)の奥付発行日。「半七劇素人評」が掲載された。

□雑誌□「苦楽」三月号(第五巻第三号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第三回が掲載された。

□雑誌□「大衆文芸」三月号(第一巻第三号)の奥付発行日。「灰神楽」が掲載された。

□雑誌□「中央公論」三月号(第四十一年第三号)の奥付発行日。「荒唐無稽」が掲載された。

 

三月七日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第十一号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第八回が掲載された。

 

三月十四日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第十二号の奥付発行日。「湖畔亭事件」を休載。四月十一日号まで休載をつづけ、十八日号から再開。

 

三月三十日(火)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

四月一日(木)

□雑誌□「映画と探偵」四月号(第二巻第三号)の奥付発行日。「映画横好き」が掲載された。

□雑誌□「苦楽」四月号(第五巻第四号)の奥付発行日。「闇に蠢く」を休載。

□雑誌□「新青年」四月特別増大号(第七巻第五号)の奥付発行日。「火星の運河」が掲載された。

□雑誌□「大衆文芸」四月号(第一巻第四号)の奥付発行日。「探偵叢話」が掲載された。

□雑誌□「探偵趣味」四月号(第二年第四号)の奥付発行日。「病中偶感」と「薄毛の弁」が掲載された。

□雑誌□「婦人の国」四月号(第二巻第四号)の奥付発行日。「墓場の秘密」が掲載された。

□雑誌□「不同調」四月特大号(第二巻第四号)の奥付発行日。「たね二三」が掲載された。

□雑誌□「文藝春秋」四月特別号(第四年第四号)の奥付発行日。「一人一語」が掲載された。

 

このころ

「湖畔亭事件」の休載がつづき、電報では埒が明かないと判断した「サンデー毎日」編集長の渡辺均が、大阪から原稿催促のため上京してきた。[探偵小説四十年 三つの連載長篇/昭和26年7月、上京後の惨状/昭和26年8月]

 

四月十八日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第十八号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第九回が掲載された。

 

四月二十五日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第十九号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第十回が掲載された。

□雑誌□「文芸時報」に「日本人の探偵趣味」が掲載された。

 

四月

モスクワの対外文化連絡局が「日本文学の夕」を開催、東洋語学院のニコライ・キン教授が「現代の日本文学」という題で講演し、大衆文学の興隆と乱歩作品の面白さを紹介した。[探偵小説四十年 ソ連作家キム/昭和27年7月]

 

五月一日(土)

□雑誌□「苦楽」五月号(第五巻第五号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第四回が掲載された。

□雑誌□「新青年」五月号(第七巻第六号)の奥付発行日。合作「五階の窓」の第一回が掲載された。

□雑誌□「新小説」五月号(第三十一巻第五号)の奥付発行日。橋爪健「現代作家素描」の第四回「江戸川乱歩論」が掲載された。

*「現代作家素描」は、一月号「谷崎潤一郎論」、二月号「菊池寛論」、三月号「今東光論」、四月号休載、五月号まで。

□雑誌□「探偵趣味」五月号(第二年第五号)の奥付発行日。「二銭銅貨」が掲載された。

□雑誌□「婦人画報」五月号(第二百四十八号)の奥付発行日。「錯誤の話」が掲載された。

 

五月二日(日)

□雑誌□「サンデー毎日」第五年第二十号の奥付発行日。「湖畔亭事件」第十一回が掲載され、完結。

 

五月三十日(日)

□新聞□「読売新聞」にアンケート回答が掲載された。

 

五月三十一日(月)

大阪放送局一周年記念放送の四日目に「探偵趣味の話」を講演。[探偵小説四十年 大正十五(昭和元)年度の主な出来事/昭和26年7月][貼雑年譜]

 

六月一日(火)

□雑誌□「苦楽」六月号(第五巻第六号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第五回が掲載された。

□雑誌□「新小説」六月号(第三十一年第六号)の奥付発行日。「モノグラム」が掲載された。

□雑誌□「新青年」六月号(第七巻第七号)の奥付発行日。「当選作所感」と「『遺書』を推す」が掲載された。

□雑誌□「大衆文芸」六月号(第一巻第六号)の奥付発行日。「私の探偵趣味」が掲載された。

□雑誌□「文芸道」六月号(第一巻第四号)の奥付発行日。「精神分析学と探偵小説」が掲載された。

□雑誌□「文章往来」六月号(第一年第六号)の奥付発行日。「映画いろいろ」が掲載された。

 

六月

ラジオ出演のため大阪を訪れたついでに、神戸の横溝正史を訪ね、深夜の元町通りを放歌高吟して歩いた。[大正十五(昭和元)年度の主な出来事/昭和26年7月]

 

六月十一日(金)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

六月十五日(火)

□書籍□二十一日会編『大衆文芸傑作選集』の奥付発行日。至玄社から出版され、「人間椅子」が収録された。

 

七月一日(木)

□雑誌□「苦楽」七月号(第五巻第七号)の奥付発行日。「闇に蠢く」を休載。

□雑誌□「大衆文芸」七月号(第一巻第七号)の奥付発行日。「お勢登場」が掲載された。

□雑誌□「探偵趣味」七月号(第二年第七号)の奥付発行日。「お化人形」が掲載された。

□雑誌□「中央公論」七月号(第四十一年第七号)の奥付発行日。「発生上の意義丈けを」が掲載された。

 

このころ

「苦楽」編集部の指方龍二が大阪から原稿催促のため上京してきたが、それより早く伊豆の温泉に逃げ出し、旅館を転々として行方をくらました。[探偵小説四十年 宇野浩二/昭和25年5月、6月 上京後の惨状/昭和26年8月]

 

七月

神戸の横溝正史を映画制作にかこつけ、「トモカクスグコイ」と電報を打って東京へ呼び出した。正史はそのまま東京に住み、博文館に勤務、「新青年」の編集に携わった。[横溝正史:散歩の事から/昭和2年4月][横溝正史:ノンキな話/昭和41年6月]

 

八月一日(日)

□雑誌□「苦楽」八月号(第五巻第八号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第六回が掲載された。

□雑誌□「探偵趣味」八月号(第二年第八号)の奥付発行日。「旅順開戦館」が掲載された。

□雑誌□「婦人公論」八月号(第十一年第八号)の奥付発行日。「声の恐怖」が掲載された。

□雑誌□「不同調」八月号(第三巻第二号)の奥付発行日。「大衆作家の観た通俗小説」が掲載された。

□雑誌□「科学画報」八月銷夏号(第七巻第二号)の奥付発行日。読者の投稿に専門家が答える「研究室大会(質問回答)」に「問(鏡張りの大きな球形の室)」が掲載され、福岡県立鞍手中学校、安河内五郎の質問に東京女子高等師範学校教授、藤村信次が回答した。

 

このころ

夏、「科学画報」に掲載された質疑応答欄から着想を得て、「鏡地獄」を脱稿。一夜で書きあげ、翌朝訪ねてきた水谷準に朗読して聞かせたが、水谷の感想が思わしいものではなかったため落胆した。[探偵小説四十年 この年の短篇作/昭和26年8月]

 

八月十三日(金)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

八月十五日(日)

□新聞□「大阪朝日新聞」に「今一つの世界」が掲載された。

 

夏の終わりか秋の初め

原稿の催促を逃れる旅から帰り、まだ旅行中ということにして自宅の二階で寝ていたところ、宇野浩二が訪ねてきた。隆が取り次いだが、合わせる顔がなく、居留守をつかわせた。[探偵小説四十年 宇野浩二/昭和25年5月、6月]

 

九月一日(水)

□雑誌□「映画時代」九月号(第一巻第三号)の奥付発行日。「探偵映画其他」が掲載された。

□雑誌□「苦楽」九月号(第五巻第九号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第七回が掲載された。

□雑誌□「新青年」九月号(第七巻第十一号)の奥付発行日。「浅草趣味」と「近来の珍味」が掲載された。

□雑誌□「大衆文芸」九月号(第一巻第九号)の奥付発行日。「乱歩打開け話」が掲載された。

 

九月十日(金)

喜多村緑郎が乱歩を訪問、しばらく話した。《痩せて神経質であるやうに思つた予想は裏切られて、肥つたまあ好い男だが、やゝむくんでゐるやうな血色の少し悪いやうに思はせられる》[喜多村緑郎:喜多村緑郎日記/昭和37年5月]

□雑誌□「早稲田学報」九月号(第三百七十九号)の奥付発行日。「探偵趣味」が掲載された。

 

九月十五日(水)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

九月十六日(木)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

九月二十四日(金)

探偵趣味の会が午後二時からレーンボーグリルで出版記念会を開催。乱歩、甲賀三郎、横溝正史、延原謙が祝福された。午後四時からは読売新聞社講堂で同会主催の「講演・映画・演劇の夕べ」が開かれ、平林初之輔と甲賀三郎が講演、映画「極楽突進」「罪と罰」を上映し、探偵劇「ユリエ殺し」を上演。探偵劇に警官の姿で出演し、閉会の辞を述べた。[探偵小説四十年 最初の出版記念会と探偵寸劇/昭和26年10月][横溝正史:「ユリエ殺し」の記/大正15年12月]

 

九月二十六日(日)

□書籍□『湖畔亭事件』の奥付発行日。春陽堂から「創作探偵小説集」第四巻として出版された。

 

九月二十七日(月)

夕方、外出のため玄関に出ると、「報知新聞」の夕刊が配達されていた。八月二十日に発生し、犯人が逃走をつづけていた鬼熊事件の記事が掲載されていて、探偵趣味の会が千葉県の現場に乗り込み、解決を目指すと報じられていたが、森下雨村が冗談半分に話したことが大きく取り扱われたものだった。これ以降、大きな犯罪が起きると新聞が探偵作家の意見を掲載するようになった。[探偵小説四十年 鬼熊事件/昭和26年11月]

夜、銀座のやまとで開かれた探偵趣味の会の慰労会に出席。[新青年:編輯局より/大正15年12月]

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

九月三十日(木)

赤坂の紅葉で開かれた座談会に出席。甲賀三郎、横溝正史、延原謙、高田義一郎、森下雨村、大下宇陀児、川田功、平林初之輔、新居格、金子準二(警視庁鑑識課技師)と鬼熊事件について話した。「東京毎夕新聞」文芸部が主催し、十月三日付文芸欄に掲載された。[探偵小説四十年 鬼熊事件/昭和26年11月]

 

十月一日(金)

□雑誌□「苦楽」十月号(第五巻第十号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第八回が掲載された。

□雑誌□「サンデー毎日」秋季特別号「小説と講談」(第五年第四十三号)の奥付発行日。「人でなしの恋」が掲載された。

□雑誌□「新青年」十月特別増大号(第七巻第十二号)の奥付発行日。「パノラマ島奇譚」第一回が掲載された。連載は昭和二年四月まで。

*森下雨村の斡旋で博文館に入社した横溝正史が、この号から「新青年」の編集に携わった。[新青年「編輯局より/大正15年10月]

□雑誌□「大衆文芸」十月号(第一巻第十号)の奥付発行日。「鏡地獄」が掲載された。

□雑誌□「探偵趣味」十月号(第二年第九号)の奥付発行日。「木馬は廻る」と「当番制廃止について」が掲載された。

 

十月四日(月)

□書簡□小酒井不木が乱歩に封書。[子不語の夢]

 

十月十日(日)

「パノラマ島奇譚」の執筆が進まず、法事や病気を理由に休載する旨を編集部に伝えた。[新青年:編輯日誌/大正15年12月]

 

十月十二日(火)

「パノラマ島奇譚」休載を詫びる電報を熱海から編集部に送った。[新青年:編輯日誌/大正15年12月]

 

十一月一日(月)

□雑誌□「苦楽」十一月号(第五巻第十一号)の奥付発行日。「闇に蠢く」第九回が掲載され、この回で中絶。

□雑誌□「新青年」十一月号(第七巻第十三号)の奥付発行日。「パノラマ島奇譚」第二回と「『五階の窓』所感」「十月号其他」が掲載された。

□雑誌□「大衆文芸」十一月号(第一巻第十一号)の奥付発行日。「吸血鬼」が掲載された。

 

十一月十一日(木)

□書簡□宇野浩二が乱歩に手紙、居留守をつかったことを詫びるため乱歩が上州の温泉から出した手紙への返信。[探偵小説四十年 宇野浩二/昭和25年5月、6月]

 

十一月二十八日(日)

□書籍□『ラジオ講演集 第十輯』の奥付発行日。博文館から出版され、「探偵趣味」が収録された。

 

十二月一日(水)

□雑誌□「苦楽」十二月号(第五巻第十二号)の奥付発行日。「恋と神様」が掲載された。

□雑誌□「新青年」十二月号(第七巻第十四号)の奥付発行日。「パノラマ島奇譚」を休載。アンケート「印象に残れる作品」の回答が掲載された。

 

このころ

十一月の終わりか十二月の初め、東京朝日新聞社学芸部長が来訪、連載中だった山本有三「生きとし生けるもの」が作者の病気により中絶されることになったため、三か月程度の連載を依頼された。連載開始まで五日間ほどしか余裕のない話で、返事は翌日に引き延ばしたが、結局は承諾した。連載を始めて三、四日後、朝日新聞幹部の美土路昌一、緒方竹虎、鈴木文史朗から料亭に招かれ、「一寸法師」に出てきた衆道のことで談論風発した。[探偵小説四十年 「一寸法師」/昭和26年11月]

 

十二月八日(水)

□新聞□「東京朝日新聞」と「大阪朝日新聞」に「一寸法師」第一回が掲載された。連載は翌年二月まで。

 

十二月二十五日(土)

*大正から昭和に改元。

 

[2012年7月7日]

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