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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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赤岩尾神社にかんしては、昨年、下記のエントリのコメントとしていささかを記した。

6月7日:再生委員会総会偽装瞞着伝

転載しておく。

   
何を隠そう赤岩尾神社こそはという話なのですが
●永遠のJガール様
ご投稿ありがとうございます。
するってえと、あれでしょうか。名張まちなか再生委員会の総会で委員長になれなかったのも、用意していった爆弾三発を投下できなかったのも、すべてこれ赤岩尾神社から吹いてきた神風のおかげであるということなのでしょうか。あるいは、そうかもしれません。なにしろあれはただならぬ神社で、われわれの知っている神社の概念から大きくはみ出したところがあります。露出した岩盤そのものが神体である、という一点だけをみてもおよそ規格外で、そこらにふつうに鎮座していらっしゃるお行儀のいい神様とは明らかに一線を画しています。ひとことでいえば、とても異様な神社です。
あのなんとも得体の知れない異様で奇怪な聖地にアプローチするには、おそらく二本の道があるはずです。そのひとつは、産鉄や金工、あるいは金属精錬といった側面から接近することでしょう。山中に社寺あれば付近にかならず鉱脈あり、というのはその筋の人たちに昔からいい伝えられていることだそうで、私の場合は若尾五雄という在野の研究者の著作でそのいい伝えを知ったのですが、あの神社は滝之原という集落から四キロほど入った山のなかに位置していて、まさしく人里離れた山中の社寺にほかなりません。
そもそもこの伊賀地域には、いわゆる金属神の痕跡というやつがあっちこっちに残されていて、たとえばいつかもお酒を飲みながらちょっとおはなししましたけど、伊賀市馬場の陽夫多(やぶた)神社に「だだ押し」という神事が伝わっています。寒中の一夜、裸の男衆がアヴィニョン橋でもないのに輪になって踊るという民俗行事なのですが、これが今年の2月、ひとたびウェブニュースで報じられるや、そこらの無知で不届きな2ちゃんねらーから、ハッテンバかよ、とかおちょくられたりしてしまいました。

産経新聞:裸の男が輪になり踊る 伊賀・陽夫多神社で奇祭「だだ押し」(2008年2月20日)
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/mie/080220/mie0802200231002-n1.htm

この記事には、「だだ押し」は「裸々(らら)押し」がなまったものとする神社側の見解が記されていますが、私見によればそうではなく、「だだ押し」の「だだ」は、地団駄を踏む、とかいうぐあいに使用される「じだんだ」と同根、つまり「蹈鞴(たたら)」の転だと思われます。たたらというのは金属精錬にもちいられる大型のふいごで、足で踏んで操作しますから、それが地団駄になり、だだ押しにもなったということではないかと考えられます。
われらが名張市の南部にも、金属神の足跡はむろん色濃く残っていて、たとえば赤岩尾神社の南西に位置する赤目四十八滝、この渓谷は修験道の道場として開かれたと伝えられているのですが、修験と金属の密接な関係性はよく知られたところであり、赤目というのは金属精錬の世界では砂鉄を意味することばだそうですから、赤目滝と金属との深い関連は疑いえないところでしょう。
赤岩尾神社の赤岩尾という、これもあんまりふつうではない社名にふくまれている赤ということばも、いうまでもなく金属とのかかわりを連想させるものです。また、赤といえば青、というわけでもないのですが、赤岩尾神社と赤目滝のあいだにはご存じの青蓮寺があって、ここにも金属神の足跡をたどることができそうに思われるのですが、ここでは省略しておくことにいたします。とにかく、あの赤岩尾神社には、いわゆる金属史観によるアプローチが可能であろうと考えられる次第です。
もうひとつのアプローチは、国津神というモチーフが手がかりです。一般には、日本神話に登場するあまたの神々を天孫系と土着系とに分類し、前者を天津神、後者を国津神と呼び慣わしているわけなのですが、これはむろん生身の人間の話でもあって、朝鮮半島からやってきた人間が天津神、それ以前からの先住民が国津神ということになります。新来の天津神に服従した国津神もあれば、いわゆるまつろわぬ民として叛逆した国津神もあって、赤岩尾神社は叛逆の道を選んだ国津神の拠点であったのではないかと推測されます。
赤岩尾神社のすぐ南には国津という地域があるのですが、この国津なる地名にはまたずいぶん端的に、土地と国津神との濃密な関係性が示されているといえます。国津という地名の由来については、大和の吉野川上流に住んでいた国栖(くず)族がなんらかの理由でこの地域に集団で移住し、「くず」がいつかしら「くにつ」に転じたとする説もあります。国栖族も先住民ですから、天津神に追われた国津神だとみることができるわけですが、その説の当否はどうあれ、国津地区には国津神社と呼ばれる神社が四社あり、国津以外にも、たとえば赤岩尾神社がある滝之原にも、あるいはご存じの青蓮寺にも国津神社が鎮座していますから、このあたり一帯は、ある系統の国津神が本拠としていた土地であったとみることが可能でしょう。
そうした観点から判断するならば、赤岩尾神社とはいったい何か。古代、この地において天津神と国津神との抗争のようなものがくりひろげられたと仮定した場合、国津神にとっての最後の拠点が赤岩尾神社だったのではなかったかということになります。赤岩尾神社は天然の要害と呼ぶべき場所に立地していて、木立のせいでわかりにくくなってはいるのですが、平地部を広く見渡せる地点にも位置しています。つまり、国津神を手がかりにアプローチしてみると、赤岩尾神社が位置しているあの場所は、国津神の砦とでも呼ぶべき場所ではなかったかとの推測がなりたつわけです。
で、金属精錬と国津神、このふたつから何を導けばいいのかというと、それはおそらく鬼でしょう。日本における鬼というのは非常に複雑な存在なのですが、その原型のひとつは、金属精錬にかかわりをもっていた一群の人間であり、さらにべつのひとつは、まつろわぬ民として権力から差別され迫害された一群の人間である、ということはいえるはずです。しかしこれでは、論述がなんともおおざっぱに過ぎるかもしれません。まあとにかく、本日はとりあえずこのあたりまで、以下はあしたということにいたしましょう。
2008/06/08(Sun)10:50:58

般若顔になれるスピリチュアルスポットということで
●永遠のJガール様
ご投稿ありがとうございます。
説明不足であるにもかかわらずすんなり呑みこんでいただけたみたいで、お礼を申しあげます。それをいいことに、論述のおおざっぱさは大目にみていただくことにして、とにかく鬼であると、赤岩尾神社には鬼が眠っているのだと、そういうことで先に進みます。鬼なるものについてお知りになりたい場合、まず最初にひもとかれるべきは馬場あき子さんの名著『鬼の研究』で、三一書房から出た単行本はとうに絶版になっておりますが、ちくま文庫版なら新刊で入手可能だと思います。鬼と金属とのかかわりは若尾五雄の『鬼伝説の研究──金工史の視点から』で知ることができますが、いま読むとしたら、三一書房の日本民俗文化資料集成第八巻『妖怪』に全篇が収録されていますから、これがいちばん手っ取り早いでしょうか。
それでまあ、赤岩尾神社という場所は、金属神であれ国津神であれ、何かしら畏怖すべき対象にかかわりの深い異様で奇怪な聖地として、ひそかに語り伝えられてきたスポットであったと推測されます。柳田國男の『遠野物語』の序文に、「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」というよく知られたフレーズがありますが、赤岩尾神社はまさに「物深き所」にあって、そこにまつわる伝承によって「平地人を戦慄せしめ」つづけた場であったと考えられます。山に拠って金属精錬に従事した異能の技術者集団であれ、朝鮮半島から渡来した民族に追われた先住民の集団であれ、のちに鬼と呼ばれることになる人間の痕跡が、赤岩尾神社には深く色濃く刻みつけられているはずです。
伊賀地域の鬼伝説といえば、朝廷にあだをなした逆賊、藤原千方につかえた四匹の鬼が著名で、上記の『鬼の研究』にも『鬼伝説の研究──金工史の視点から』にも言及がみられますが、千方と四鬼が本拠としていたのは、赤岩尾神社から東に進んだ伊賀市高尾のあたりとされており、千方は赤岩尾神社を崇信していたという伝承もあるほどですから、その点からも赤岩尾神社と鬼との関連は否定できません。というか、赤岩尾神社の境内には風穴と呼ばれるところがあって、いまでは内部に入れなくなっていますけれど、これは赤岩尾神社がかつて砦みたいな場所であった当時、そこから千方の本拠地あたりに通じていた抜け穴のなごりなのではないかとも推測される次第です。
なんか話が大きくなりすぎてしまいましたが、とにかく赤岩尾神社というのは、神社という様式についに収まることのなかった異様奇怪な聖地で、国津神の霊、あるいは鬼の魂、そういったものを封じ、鎮めた場であったと考えられます。あるいは、御霊信仰の原初の形態をみることすら可能かもしれません。その聖地に眠る霊だか魂だか、赤岩尾の鬼神とでも呼ぶべき存在が、私を守護し先導すべく名張まちなか再生委員会総会の会場に神風を吹き送ってくれたという筋立ては、鬼という存在に深いシンパシーを抱いている私にはよく首肯できるストーリーではあるのですが、そのあたりのことを記しているとまたえらく長くなってしまいますから、べつの機会にゆずりたいと思います。
にしても、赤岩尾神社で写真を撮ると鬼顔になる、というのはもう瞬時に、直観的に、これは行ける、と判断されるエピソードです。鬼顔といってしまうと直接的にすぎますけれど、最近では般若顔ということばもあるほどで、いやこれもなんだか艶のないネーミングではありますけど、クールビューティな般若顔というのはいまや美人の一典型だといえるでしょう。ですから、たとえばスケーターの荒川静香さんですとか、タレントの小雪さんですとか、あるいはセレブ妻バラバラ殺人事件で一躍名をはせたノコギリ妻こと三橋歌織さんですとか、ああいった感じの美人の代名詞である般若顔になってみたい、というお姉さんは大阪あたりには結構いらっしゃるのではないでしょうか。
そして、すみからすみまで計算され管理され、どこまでも健全で快適なアミューズメントに飽きてきたという向きには、名張の山中に赤岩尾神社という社殿なき神社があって、夏なお肌寒いような霊気めく冷気が漂う境内、木立は頭上で幾重にも枝を差し交わし、そこを透過してくる自然光のもとで写真を撮影してみたならば、あーら不思議、みんな鬼顔般若顔になっているではありませんか、なんて話はそこそこ訴求力をもっているのではないでしょうか。とくに当節、スピリチュアルな世界に関心を示すお姉さんは結構たくさんいらっしゃるようですから、赤岩尾神社を知られざるスピリチュアルスポットとして売り出すことも可能なのではないかと思われます。その旗振り役を芸人のみなさんにおつとめいただけるとなれば、これはまさしく鬼に金棒、ちょっと本気になって考えてみなければならないテーマかもしれませんけど、本日はこのへんまでとしておきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
2008/06/09(Mon)09:39:23

通り名を赤岩尾の小春と発するうちの犬は、名張市比奈知地区で生まれた。二男二女だったきょうだいは、遠いところでは信州あたりにもらわれてゆき、実家には両親だけが残って、飼い主一家と暮らしている。昨年末、その飼い主が写真をもってきてくれた。生後まもなく、まだ四匹のきょうだいが両親とともに暮らしていた当時、正確にいえば去年の1月12日に撮影されたものである。

20090103a.jpg

いちばん右で寝ているのが、乳幼児時代の赤岩尾の小春あねさん。昨年1月12日の時点では、ブルーベリーとかなんとか横文字の名前で呼ばれていたのだが、その一年後、赤岩尾の小春という通り名で赤岩尾神社に立つことになろうとは、お釈迦さまでも気がつかなかったはずである。有為転変は世のならい、じつに面白いものである。
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赤岩尾神社について。昭和49・1974年刊行の『名張市史』から引く。

   
赤岩尾神社 旧無格社 滝之原
由緒は詳らかでないが、古くから「赤岩さん」の名で遠近から参詣する信者が多い。滝之原の集落から四キロ南方の山おく、大谷奥山とよぶ山腹にある。参道には岩洞あり、絶壁あり、境内には桜樹・楓多く、脚下に比奈知川の渓流を見おろす眺望絶佳の勝地である。祭神は火之迦具土神で愛宕神社と同神である。岩そのものが神体となっている。1月7日、8月7日の祭には参詣者が列をなし、花相撲なども催される盛祭であったが、いまは戦前の賑かさは見られない。
『三国地誌』に「赤岩尾山、小岩尾、仏山。山頂に岩窟あり。夷石・大黒石の名あり。また岩窟および屏風石、ともに奇岩なり」とあり、『伊賀国誌草稿』に「赤岩尾大神をまつる。祭日八月七日。社伝にいう、藤原千方の崇信するところなり。境内岩石草樹奇観を極む」とある。藤原千方は青山町高尾に籠って藤原政権に反抗した平安時代の貴族と伝えられるが、正史にその名がみえない。
明治41年10月21日、滝之原国津神社に合祀したが、区では今でも祭礼を行なっている。

夷石、ということばが気になる。夷は、えびす。赤岩尾神社には夷石、大黒石と呼ばれる石があったらしい。いまでもあるのかもしれないが、 よくわからない。えびす、だいこく、とワンセットで呼ばれることになったのは、もとより七福神信仰が定着して以降のことだろうが、夷石の起源はもっと古いのではないか。えびすということばが、福の神ではなく、異民族を意味していた時代の痕跡が、この呼称にとどめられているのではないのか。

手近な辞書で確認しておく。

大辞泉:えびす【戎・夷】

用例を省いて引用。

   
えびす【夷/戎】

《「えみし(蝦夷)」の音変化》
1 「蝦夷(えぞ)」に同じ。
2 都から遠く離れた未開の土地の人。田舎者。
3 情趣を解しない荒々しい人。特に、東国の荒くれ武士。あずまえびす。
4 異民族を侮蔑(ぶべつ)していう語。蛮夷(ばんい)。

大辞泉:えみし【蝦夷】

   
えみし【蝦夷】

「えぞ(蝦夷)」の古称。

大辞泉:えぞ【蝦夷】

   
えぞ【蝦夷】

1 古代、北陸・関東北部から北海道にかけて居住した人々。大和朝廷から異民族視され、大化の改新後は朝廷の征討によってしだいに北方に追われ、しばしば抵抗した。えみし。
2 →蝦夷地(えぞち)

まつろわぬ民、というやつである。まつろわぬ、というのは、服従しない、という意味であるが、大和朝廷に服従しようとせず、朝廷側から異民族視されたネイティブジャパニーズは、なにも東日本にばかり存在していたわけではない。古代における赤岩尾神社の地も、そうしたまつろわぬ民の拠点だったのではないかと考えられる。

まつろわぬ民が鬼になった、というのはよく説かれるところで、ざっと検索してみると、天下のNHKが二十年前、こんな番組をつくっていたらしい。きょうの話題にあまり関係はないのだが、まつろわぬ民と鬼伝説との関連を示す一例として、リンクを掲げておく。

NHKアーカイブス:保存番組検索 鬼伝説 ~まつろわぬ民の系譜~

内容紹介を引用。

   
節分には鬼が登場する。日本文化の「影」の部分を特徴づけるものがこの鬼。かつて日本人の生活にとって欠かせない存在であった。人間に危害を加える一方で人間に役立ち、邪悪なものを追い払う神のような存在であった。仏教伝来とともに邪悪な性格のみが強調され、そのイメージが現代まで受け継がれてきた。また、鬼は単なる創造の産物でなく、外界からの渡来者、権力に逆らい破れた者、社会から排除された者などを鬼と呼んで恐れた。都市化された社会から「闇」が消え、それとともに鬼の姿も見えにくくなっている。ここでは、闇に封じ込められてきた鬼たちの伝説に光をあて、日本人にとって鬼とは何だったのかを描く。

もっとも、赤岩尾神社に鬼伝説が語り伝えられている、といったことはない。冒頭に引いた『名張市史』の記述からも知られるとおりである。だが、それは、この内容紹介にならっていうならば、現代の人間に鬼の姿がみえなくなっているからにほかならない。犬の眼にはみえるかもしれないのだが、きのう犬とともに赤岩尾神社へ初詣にでかけ、諸事情あって参道の途中で引き返してきた経験から判断するならば、犬の眼にも鬼はみえなかったみたいである。鬼はかくれんぼが得意である、ということか。

ところで、きのうの夜、寄せられたコメントに応えるべく、昨年12月19日に撮影した犬の写真を掲載した。といっても、コメント欄に画像のURLを記しただけだったので、このエントリに再掲しておきたい。

20090101a.jpg

神体である磐座を拝むこともせず、ただおしっこをして帰ってきただけの結果に終わったとはいえ、いちおう赤岩尾神社とのゆかりが生まれたことにはなるはずなので、今後、うちの犬の通り名は、赤岩尾の小春、ということにしたい。緋牡丹のお竜、みたいなものである。そこらの下っ端からは、赤岩尾のあねさん、と呼ばれることになると思う。
1月1日である。初詣に行ってきた。初詣にでかける趣味などまるでないのだが、片雲の風に誘われて、漂泊の思いやまず、犬をつれてちょっと行ってみた。犬の名前は小春である。


名張市滝之原にある赤岩尾神社である。えらい山のなかだから初詣客などあるまいと踏んでいたのだが、午後2時過ぎに訪れたところ、帰るまでに四組もの家族づれに遭遇した。小春ちゃん赤岩尾に立つ、というタイトルの写真を撮ろうと考え、とりあえず小さな鳥居の柱にロープを一周させて犬を繋留したのだが、なかなかポーズが決まらない。のみならず、カメラの調子が悪くて一枚も撮影できない。そうこうしているうちに、一組の家族づれがすぐ横を通過してゆく。おめでとうございます、と挨拶しながらふと犬のほうをみると、はじめての土地だからということなのであろう、マーキングに余念がない。つまり、おしっこをしている。つづけて大きいほうもしそうな勢いである。そこへ、なんと雪が舞ってくる。みるみる激しく降ってくる。先へ進むのはあきらめて、急な参道を引き返した。こんな初詣、ご利益などなにもあるまい。どころか、神罰はまぬがれぬところではあるまいか。
まずお詫び。昨夜催された名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの忘年大宴会、当プログでは午後6時開宴と発表していたのだが、正しくは午後6時30分であった。すまんすまん。すまなんだ。五千円としてあった会費も、一部参加者には三千円と案内されていたようなのだが、これは五千円ということで落ち着いた。結構ゴージャスな料理が並んでいたし、ばかみたいに飲みつづけている人間もあったから、もしかしたらまた足が出たのではないか。不足分は当方が支払うということになっているので、かんなくずの親分から請求がまわってくるかもしれない。当分、親分にはお会いしたくないものである。

きのう、12月18日に開かれた名張まちなか再生委員会次期役員準備会の議事録が郵送されてきた。議事録というのは味も素っ気もないもので、受けねらいに走った文言はあっさり抹消されている。たとえば、当方の「呼ばれたので来ましたが」という発言が録されている。これはいうまでもなく、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんの「来いというから行くだけの話です」というコメントを踏まえたものである。だから会合では、ちゃんと意図が伝わるよう、「ノーベル賞の授賞式みたいなものです」と述べておいたのだが、これが削られてしまっている。ただ「呼ばれたので来ましたが」というのでは、そこらのポチと変わりがないではないか。困ったものである。

議事録は二十二ページ。入力するのがたいへんだから、スキャン画像をPDFファイルにして掲載しておく。解像度が低いせいで、かなり読みづらい。すまんすまん。

20081228a.jpg

この12月18日の会合が終わったあと、名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトのいまのところチーフであるかんなくずの親分に懇願して、というか、親分をほとんど恫喝して開催にこぎつけたのが、きのうの忘年大宴会である。午後6時、新町の北村酒造にある酒蔵空間を訪れたところ、なんと二番乗りであった。一番乗りは、当ブログの予告にもとづいて午後6時開宴と信じていた参加者である。すまんすまん。すまなんだ。すでに準備は整っていて、酒蔵空間のオーナーにお訊きしたところ、二十五人分を用意してあるとのことであった。そんなに来るのか、と思いつつ、そこらにあった酒を飲んでいると、参加者がぞろぞろ集まってくる。

当方、人に会うのが恥ずかしいので、人がたくさん集まってくると、早く酔っ払ってしまいたいという気分になる。酔っ払わなければ人にも会えない。南方熊楠や稲垣足穂のようなタイプの人間である、とお思いいただきたい。開宴まではストーブのそばで立ち飲みし、開宴に際しては、かんなくずの親分から指名を受けて乾杯の音頭をとった。名張市のあぼーんを楽しく語る集いへようこそ、みたいなことをいっておいて、あとはテーブルに陣取り、参加者への挨拶などもいっさいスルーして飲みつづけた。まったく箸をつけなかったような気がするから、ゴージャスな料理がどんなものであったか、まるで記憶していないのだが、下記のブログ記事で確認することができた。やはり相当ゴージャスだったようである。

永遠のJガール:女はだまって…やっちまったな!(12月28日)

ふらふらになるまで酔っ払った。とにかくふらふらだから、酒蔵空間の階段を降りるときもゆらゆら揺れていたほどである。さすがになにか食べたいという気になったので、桔梗が丘五番町のらーめん一心に立ち寄ったのだが、ラーメン一杯は食べられないと踏んで、ふたりでラーメンひとつ、ということにした。人からよく、そういう酒の飲みかたしてると死ぬよ、といわれるのだが、ほんとに死ぬと思う。名張市より先に、こっちがあぼーんしてしまうかもしれない。

きょうはもちろん二日酔いで、昼食に入った近鉄百貨店桔梗が丘店B館一階の三坊庵では、ざるそば二枚を食べあぐねた。三坊庵のざるそばは盛りが大きいから、一枚でじゅうぶんであった。夜はおとなしくしていようと考えていたところ、日が暮れてから不意の来客があり、今夜もまた宴席となる。今年の忘年会は昨夜でうちどめだったのだが、30日には3月に飼いはじめた犬がはじめての誕生日を迎えるので、いちおう拙宅でパーティということになっている。親戚の幼稚園児四人に動員をかけているのだが、なにしろおおみそかの前日である。参加者があるのかどうか、はなはだ心もとない。
恒例の年末進行でちょっとじたばたしていたら、きのうがお役所の仕事納め、きょうは名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの忘年大宴会である。

忘年会といえば、あれは十日ほど前であったか、午後4時くらいに電話があって、その日の午後6時にスタートする忘年会に誘われた。欠席者が多いせいでお呼びがかかったらしいな、とか思いつつ顔を出した。会場は伊賀市西明寺のウェルサンピア伊賀。ま、名張市も名張市だが、伊賀市も伊賀市である、てなものであったが、座興のひとつに、今年の漢字を選ぶというのがあった。日本漢字能力検定協会が公募し、清水寺で発表される歳末恒例イベントのパクリである。

メディアで報じられたとおり、本家のほうは今年、「変」が選ばれた。以下、報道によれば「金」「落」「食」「乱」「高」「株」「不」「毒」「薬」とつづいたそうだが、どれももうひとつしっくりこない。今年の漢字は貧困の「貧」ではないか、と書いていたのは斎藤美奈子さんであったか。とにかく「変」というのはそれこそ変な感じで、もはや変化というプロセスの段階ではなく、変化のあとに待ち受けているものがありありとみえ、すぐそこまで迫ってきたのが、この国における平成20・2008年であったという気がする。

変化を経てたどりつく先は、結局のところ、崩壊でしかないのではないか。この一年、日本社会が音をたてて崩壊してゆくさまをまのあたりにしてきた。そんな実感がある。だから、今年の漢字を選ぶとなれば、崩壊の「崩」あたりがふさわしいように思う。崩れていったものは、枚挙にいとまがないだろう。ただし、名張市にかぎっていえば、これはもう崩壊の「壊」がいいのかもしれない。崩れるという段階は過ぎて、いまや勢いよく壊れつつあるのではないか。ぶっちゃけもう、名張市オワタ\(^o^)/、という印象がある。これもまた、しみじみと迫ってくる実感である。

伊賀市で催された先日の忘年会では、参加者全員に一枚ずつ、色紙大の厚紙が配られた。参加者は筆ペンをふるって思い思いの漢字を書き、順番に発表してゆく。当方、「崩」でも「壊」でもなく、迷わず「犬」と大書した。発表を終えて着席すると、おなじ円卓についていたある女流画家がつと立ちあがり、当方のそばまで歩いてきて、やおらしゃがみこみ、当方の左脚を抱きすくめるようにしながら、ひどく感動したというおももちで、中さん、中島らもって知ってるう? と歌うように尋ねてくる。むろん知っている。そう答えると、中島らもってねえ、色紙にはいつも「愛」って書いてたんよお、「愛」ってゆう字しか書かへんかったんよお、中さんの「犬」ってゆう漢字、それとおんなじなんやねえ、といってくれたので、なにがなにやらもうひとつ理解できぬまま、軽くハグしてことなきをえた。

忘年会帰り、タクシーの車中では、どのタクシードライバーも口裏を合わせたように、今年の不況は尋常ではない、これほど冷えこんだ歳末ははじめてだ、という。今年の漢字はやはり「崩」であり、「壊」なのであって、忘年会どころではないのかもしれない。かと思うと、いまどきほくほくしてるのは公務員だけですよ、というタクシードライバーもあった。それはそうかもしれない。だから、本日の名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの忘年大宴会、ほくほくしている名張市職員のみなさんに多数ご参加いただき、ほくほく感のおすそわけにあずかりたいものである。忘れちゃいけない。名張市議会議員のみなさんもぜひどうぞ。予告を再掲しておく。

・日時:12月27日(土)午後6時開宴(閉宴時刻未定)
・会場:酒蔵空間(新町、北村酒造内=地図参照)
・会費:5000円(まーた足が出るんじゃねーの? と個人的には思う)


名張まちなか再生委員会にとってもやはり、今年は「崩」の一年だったのではないかと推測される。年明けにはきれいにぶっ壊してやるつもりだから、来年の漢字は「壊」ということになるのかもしれないが、そういえば先日、委員会から臨時総会の通知が届いた。内容をお知らせしておく。

   
平成20年度名張まちなか再生委員会臨時総会の開催について

初冬の候、皆さまにおかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
また、平素は当委員会の活動に御尽力を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、本年6月の通常総会におきまして、当委員会の規約改正にかかる臨時総会開催の御報告を申し上げましたが、下記日程のとおり開催させていただくこととなりましたので、万障お繰り合わせのうえ、ご出席賜りますよう御案内申し上げます。

なお、臨時総会の開催につきまして、当初の予定よりも遅くなりましたことを深くお詫び申し上げますとともに、平成21年1月10日頃に、臨時総会資料並びに表決状・委任状を送付する予定ですので、何とぞご了承いただきますようお願い申し上げます。
 

日時:平成21年1月25日(日)
   受付:9時30分 開会:10時00分
場所:名張市役所3階 303・304会議室
議題:・名張まちなか再生委員会規約改正(案)について
  ・役員改選(案)について
  ・その他

12月18日の名張まちなか再生委員会次期役員準備会では、新たに加わった役員から規約改正案などについて少なからぬ意見が出たため、臨時総会までにもう一度、役員会を開いたほうがいいかもしれないとの声も聞かれたのだが、たぶん開かれることはないであろうと予想されたし、げんに開かれることはないようである。ま、名張まちなか再生委員会などというのは、いまや沈みつつある泥船なのである。そんな泥船のことなど、だれも本気になって考えてはいないのである。ともあれ、本日の忘年大宴会では、名張まちなか再生委員会のあぼーんについて、そして、名張市のあぼーんについて、楽しい語らいが重ねられるはずである。来たれすっとこどっこい。集えあんぽんたん。狂えあっちょんぷりけ。
12月18日、名張市役所で開かれた名張まちなか再生委員会次期役員準備会とやらの話題である。

やなせ宿、すなわち旧細川邸の整備事業は、完全な失敗に終わった。眼もあてられぬほどの失敗である。むろんこれは、当方の個人的な認識にすぎない。だが、この認識を否定できる人間は、もしかしたらひとりも存在しないのではないか。立場上、たとえ口が裂けても失敗であったとはいえません、という人間はいるであろう。名張市役所のなかには、そんな人間がごろごろしていることであろう。しかし、どこからどうみても、どう考えても、やなせ宿の整備は失敗であったというしかあるまい。

事業が完全な失敗に終わっても、どいつもこいつも、蛙のつらに小便、みたいな顔をしている。じつにふしぎなことである。市民に対して申しわけがない、と感じる倫理観、さらには、市民に対して説明をしなければ、と考える責任感、そんなものはどこにもない。関係者のだれひとりとして、そんなものはもちあわせていない。もちろん、公務員には倫理観や責任感なんてものはない。あるわけがない。だから、それはそれでしかたのないことであるとはしても、いわゆる民間人はどうよ、という気はする。いうまでもなく、名張まちなか再生委員会の話である。

官と民との協働、などというお題目は、いまや無効なものとして全国的にしりぞけられつつあるものと推測される。だが、かつてはたしかに存在していて、その有効性に期待が寄せられていたことも事実であろう。官の論理と体質でがちがちに固められた場に、民の視点、民の発想、民の価値観、民の手法、みたいなものを導入することが、地域社会をより望ましい方向へ劇的に前進させる有効な手段だと信じられていた時代が、確実にあった。しかし、あてとふんどしは向こうからはずれる、とのたとえどおり、いわゆる官民協働に対する期待は、ふんどしみたいにひらひらとはずれてしまった。

いい例が、名張まちなか再生委員会である。民の立場で委員会に加わったはずの人間に、民の感覚がまるでない。市民の税金を自分の金だと勘違いし、結果としてその税金をどぶに捨てることになったとしても、みごとなまでに蛙のつらに小便なのである。市民に申しわけがない、とか、市民に説明しなければ、とか、そういったことはまったく考えない。そんなことではそこらの腐れ公務員とおんなじではないか。官と民との協働などと利いたふうなせりふをうそぶいてみたところで、結局は官にとって都合のいい民だけが寄せ集められ、寄せ集められた民はたちまち官と化してしまうだけの話なのである。ばかはばかとしかつるまない、という話でしかないのである。

ばかがばかとつるんだ名張まちなか再生委員会は、だからもうどうしようもないのであるが、幸か不幸か、いまや当方も委員会の一員である。のみならず、歴史拠点整備プロジェクトのサブチーフである。というか、近い将来のチーフなのである。にもかかわらず、われながらたいしたものだと思う次第なのであるが、当方けっして官にとって都合のいい人間ではなく、いまだ官に化してもいない。名張市役所のみなさんに対して、ばかかこらこの腐れ公務員が、と大声で悪態をつくだけのまっとうな市民感覚は保持しつづけている。だから、やなせ宿の整備事業にかんしては、このままではあまりにも市民に申しわけがないと思っている。市民にきちんと説明しなければならないな、と考えている。

やなせ宿の整備を直接的に手がけたのは、いうまでもなく歴史拠点整備プロジェクトである。事業が失敗に終わった責任は、むろんプロジェクトが負わなければならない。ただし、すべての責任が当方のプロジェクトに帰してしまう、というわけではない。名張まちなか再生委員会が発足する以前に、名張まちなか再生プランは決定されていた。旧細川邸を歴史資料館として整備し、公設民営方式で運営する、ということが決められていた。この決定は、当方のプロジェクトにはまったくかかわりのないことである。そしてこの決定こそが、そもそもの元凶、諸悪の根源だったのである。それが当方の認識である。

したがって、歴史拠点整備プロジェクトの責任において、反省すべき点はおおいに反省し、それを市民に説明しなければならぬのは当然のことなのであるが、プロジェクトの責任のおよばない範囲については、その範囲の責任者に反省と説明をしていただかねばならない。そのための働きかけを、プロジェクトとして進めてゆく必要がある。おなじあやまちをふたたび、みたびとくり返さないために、なによりも名張市の将来のために、過去のプロセスを検証し、反省し、その結果を市民に報告することが、それはもうどうしたって必要になってくる道理であろう。知らん顔、蛙のつらに小便、なんてことでは、いくらなんでもあまりにもまずかろう。

だから当方、いずれ歴史拠点整備プロジェクトのチーフにのぼりつめた暁には、そういった方面のあれこれにも手をつけたいと考えている。そこで、18日の会合において、プロジェクトの主体性や自立性といったことにかんして質問を試みた次第であったのだが、さすがは名張まちなか再生委員会であった。名張市における官民の協働とは、要するにずぶずぶなあなあということでございます、とでもいうことか、てまえどもの辞書には主体性や自立性といったことばはございません、あってたまるものですか、みたいな形勢ではあった。はっはっは。呵々大笑。

ここで、江戸川乱歩生誕地碑広場の話題に移行する。工事が完了したらしい。

毎日新聞:乱歩生誕地碑広場:ベンチなど工事完了 市民への開放は来年2月--名張 /三重(12月20日)

引用。

   
名張市出身のミステリー作家、江戸川乱歩(1894~1965)を顕彰しようと、市が整備を進めていた「乱歩生誕地碑広場」(同市新町)の工事が完了した。約335平方メートルに生誕地碑やベンチなどが設置されており、市民への開放は来年2月1日の見込み。

工事は今年10月に始まり、広場の敷地内にあった生誕地碑を約20メートル移設したほか、広場内には怪人二十面相をモチーフにした飾りを付けた街路灯2本とベンチを二つ設置し、キンモクセイなど10本も移植した。

生誕地碑が建っていた広場の敷地は、元々旧桝田医院第2病棟があり、所有者が04年に市に寄贈した。官民で作る「名張まちなか再生委員会」(田畑純也委員長)は、乱歩の生家を復元した文学館を整備する計画を示していたが、市は財政難で計画を断念。地面をタイル張りにして生家の間取りを示す案なども検討されたが、「今後の整備も考えて、工事は最小限にとどめたい」(市市街地整備室)との意向で砂利を敷き詰めるだけにした。

ありゃりゃッ、まーたパクリかよ、と思った。金木犀の件である。「キンモクセイなど10本も移植した」とあるけれど、金木犀を植えるというのは当方のアイデアではないか。7月の15日と24日、名張市役所で名張まちなか再生委員会の乱歩関連事業検討委員会というのが開かれ、乱歩生誕地碑公園には乱歩作品にちなんで石榴を植えてはどうか、乱歩の忌日を石榴忌と呼んだこともあったようだし、といった意見が出されたので、しかしなあ、石榴ってのはあくまでもレトリックだしなあ、それに名張は乱歩が生まれたところだしなあ、と説明して、むしろ金木犀がいいのではないかとアドバイスしておいたのだが、それをそっくりそのまま、名張市は無断でパクってくれたわけである。

乱歩関連事業検討委員会のことは、このブログでも報告しておいた。7月18日付エントリにはっきりと、「だから先日の委員会でも、この話からは降りる、と宣言しておいた。協議をやめろとはいわない。しかし、協議には加わらない。委員会のメンバーが協議するためのヒントや手がかりは、きょうの委員会で話しておいたつもりである、とも伝えた。とはいうものの、当方いまや、なにしろコンサルタントなのである。ビジネスとしてならいくらだって話に乗ってやる、とも通告しておいた」と記しておいた。

7月17日:生誕地碑広場のミステリー
7月18日:モニュメントが必要なのか
7月25日:モニュメントは不要じゃ

たとえば金木犀ではどうか、というのはこちらから提示したヒントであるが、まさかそれをそのままパクってくれるとはなあ。そういうことをしたら、ヒントではなくて具体的なアイデアの提供ということになって、対価の支払い義務が生じるのだがなあ。対価のことはいいとしても、それならそれで、広場には金木犀を植えることにいたしました、とひとことでいいから報告してくるのが、最低限の礼儀ってやつだと思うのだがなあ。名張市ってのは、ほんとにこんなことばっかやってるわけだよなあ。名張市っていうか、名張まちなか再生委員会の乱歩関連事業検討委員会ってのもなーにやってんだか、もうひとつようわからんわけだよなあ。それにしても、あっちもこっちもまさしくずぶずぶのなあなあで、人が苦労して身につけた知識や見識を屁とも思わず、人のものは自分のものとばかり、他人のプランだのアイデアを平気でぬすっとしてゆくのだものなあ。てまえどもの辞書には主体性や自立性といったことばはございません、あってたまるものですか、か。はっはっは。呵々大笑。

ところで、よくよく考えてみるならば、乱歩関連事業検討委員会なんてものが発足するまでは、歴史拠点整備プロジェクトが乱歩生誕地碑広場、というよりは桝田医院第二病棟跡地の整備事業を担当していたのだから、この事業についても反省と報告をしなければならんわけだなあ。歴史拠点整備プロジェクトの次期チーフ、いわばニューリーダーとしては、そのように考えなければならぬのであろうなあ。ばんばんかましてやらなければならんなあ、ということなのであろうなあ。ニューリーダーってのも、なんだかめんどくさいものなのだなあ。
名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの忘年大宴会を次のとおり開催する。

・日時:12月27日(土)午後6時開宴(閉宴時刻未定)
・会場:酒蔵空間(新町、北村酒造内=地図参照)
・会費:5000円(まーた足が出るんじゃねーの? と個人的には思う)


べつに歴史拠点整備プロジェクトのメンバーでなくたって、どなたにもご参加いただける。名張まちなか再生委員会に、あるいは、歴史拠点整備プロジェクトに、でなければ、当方に、思いっきり文句がある、とおっしゃるかたも歓迎である。とくに名張市役所のみなさんは大歓迎である。名張市職員諸君、この忘年大宴会に参加して、名張市のあぼーんをみんなで楽しく語りませんかあー、とかんなくずの親分も市庁舎に向かって心のなかで呼びかけているのではないかしら。
きのうの午後、しばらくぶりで名張のまちを歩き、日が暮れてから百合が丘西六番町の醍醐、そのあと平尾の居酒屋中むら西口店と二軒をまわったのだが、まちなかのさびれようは尋常ではない、とあらためて感じた。名張まちなかの再生、などということばには、いまや微塵のリアリティもない。名張まちなか再生委員会の規約改正案には、「名張地区既成市街地の再生・創造を多様な主体の協働によって実現する」といった文言がみられるが、こんなものはまちなかの現実にいっさい眼を向けようとせず、ただ頭のなかできれいごとを並べただけの妄言に過ぎない。ねごと、うわごと、たわごと、よまいごと、えそらごと、そんなものでしかない。

だからまあ、名張まちなか再生委員会などという、名称からしてうそっぽい、あるいは詐欺まがいの組織は、とっととぶっ壊してやるべきなのである。というか、実質的にはもうぶっ壊れている。名張まちなか再生委員会は今年度、なんの活動もしていないはずである。なにしろ、予算がゼロなのである。予算の裏づけがないから、事業計画もないのである。だから活動なんか、なーんにもしていないのである。

いやいや、事業計画がない、ということはない。かたちだけは存在している。6月1日の今年度総会を成立させるために、かたちだけ整えた事業計画なら存在している。試みに、当方がサブチーフを務める歴史拠点整備プロジェクトの本年度の事業方針、事業目標、事業計画を今年度総会の配付資料から引き写すならば、こんな感じである。

   
平成20年度事業方針

プロジェクト開始以来、歴史拠点整備事業である旧細川邸改修事業、並びに乱歩関連施設整備事業において度重なる方針変更に翻弄され、当プロジェクトが本来果たすべき役割を果たしてこなかったという反省の元、本年度は原点に立ち返り、まちなか再生プランをふまえて「まちなか再生」のための事業を行ってまいります。

平成20年度事業目標

“歴史と文化の薫り漂う町並みの創造”

3つのキーワードにそって事業展開をはかる。

○初瀬街道:人と人が交流し、にぎわいのある町並み
○名張藤堂家:城下町として、落ち着きと風格ある町並み
○江戸川乱歩:乱歩が愛した、人情あふれる町並み
           
平成20年度事業計画

歴史拠点整備事業
○観光・交流に資する歴史・文化拠点の整備と活用状況の調査と研究

歴史街道散策事業
○歴史散策ポイント調査及びルートの作成

町家調査事業
○町家の保存に向けた調査研究

江戸川乱歩顕彰事業
○乱歩の生まれたまち「名張」からの情報発信
○乱歩生誕地碑広場整備事業

まちなか語り部調査事業
○まちなか各町の原景を知る長老からの情報収集

歴史拠点整備プロジェクトのサブチーフとして、というか、もうすぐかんなくずの親分をチーフの座からひきずりおろし、新たなチーフとして君臨する予定の人間として断言しておくが、こんなものはまったくのうそっぱちである。ここに書かれたことはなにひとつ、実現されていない、着手すらされていない。しいていえば、「乱歩生誕地碑広場整備事業」というのが現在進行中ではあるけれど、こんなものは名張市が勝手に考え、勝手に進めているものである。歴史拠点整備プロジェクトとはまったく無縁に、淫祠邪教の聖地のようなスポットを整備しているだけの話である。

そんなこんなの状態であるから、名張まちなか再生委員会などという組織は、もはや死んでいるも同然なのである。それが現実なのである。その現実にきっちりかたちを与えるのが、すなわち委員会の解散ということなのである。規約改正などという延命措置は、じつは必要ない。けりをつけてやるべきである。引導を渡してやるべきである。名張まちなかの再生、などというリアリティの微塵もないテーマに取り組む組織がほんとうに必要だというのなら、いまの委員会をきれいに解散して、新しい組織をつくるべきなのである。とにかく、名張まちなか再生委員会なんてのは、一日も早くぶっ壊してやるべきなのである。

おとといの会合で示された規約改正案には、委員会の解散にかんする条項もある。それにもとづいてシミュレートを試みるならば、1月25日、名張市役所で開かれる臨時総会において、規約改正案が承認される。その時点で、新しい規約が有効になる。間髪を入れず、緊急動議を提出する。緊急動議にかんしては、新しい規約にこうさだめられている。

   
第40条
2 総会での事前通知されていない緊急動議に関しては、当日の出席委員と「代理人委任者」の過半数をもって決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。

提出する緊急動議は、いうまでもなく委員会の解散にかんするものである。新しい規約にはこうある。

   
第39条 この委員会は、次に掲げる事由により解散する。
(1) 総会の議決
(2) 目的とする事業の成功の不能
(3) 委員の欠亡
2 前項第1号の事由によりこの委員会が解散するときは、委員総数の4分の3以上の承認を得なければならない。

上等である。名張まちなか再生委員会を解散に追いこむ道筋は、ここにくっきりと示されている。ここにこそ、規約改正の意義が認められる。規約改正の大義は、ここにしかない。上等である。おおいに上等である。

ここで、やなせ宿の話題に移行する。今年6月にオープンしたやなせ宿は、来年3月末までまちなか運営協議会の手で運営されている。名張市が協議会に運営を委託しているのである。年間の委託費は二百五十万円であったと記憶する。そのあと、来年度以降は、指定管理者制度を導入して運営が進められることになっていた。

伊賀タウン情報YOU:総工費1億円 名張の観光交流施設「やなせ宿」どうなる?何する?(2008年4月11日)

引用。

   
一方、実質的な運営は市の「公設民営」の方針から、05年6月に組織された、市民らによる「名張まちなか再生委員会(田畑純也委員長)」が民営化について協議してきた。その結果、当初は同委員会が立ち上げた団体が運営を任される予定だったが、これまでの役員会などで、同委員会設置の「まちなか運営協議会」が当面の運営を行うことが決定した。名張市が09度の指定管理者を目指して運営団体を公募し、同協議会も新たな運営組織を再発足するという。

しかし、おとといの会合で行政サイドから明らかにされたところによれば、やなせ宿が指定管理者制度を導入することは、少なくとも来年度においては、ない、とのことであった。ころっころっころっころと、あたかもどんぐりのごとくころっころっころっころと方針を変更しつづけるのは名張市のお家芸のようなものであって、上に引いた歴史拠点整備プロジェクトの今年度事業方針にも「方針変更に翻弄され」という文言がみられる次第なのであるが、そんなことはもういいかげんにしてくれんか、とお願いしてみても、聞く耳なんかもたぬ、というのもまた名張市のお家芸なのである。どうなと好きにするがよい。

そのやなせ宿に、なんやけったいなのぼりが立ってまっせ、とおととい聞きおよんだので、きのうみてきた。こんな感じである。

20081220a.jpg

右のはしにみえるオレンジ色のものが、けったいな、と喧伝されているのぼりである。しかし、のぼりの問題以前に、かくもぺたぺたと貼り紙を掲示してしまっては、町家の風情もなにも、町筋の景観もなにも、あったものではないではないかという気がする。

のぼりは、やなせ宿の裏、名張川に面したほうにも、みることができた。

20081220b.jpg

ごらんのとおり、「日替りランチ」だの、「農産物」だの、そういった文字が大きく染め抜かれている。してみると、オープンから半年あまりが経過して、この無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館with小判鮫においては、既定方針の食堂化路線に加え、道の駅化路線という新機軸も打ち出されてきた、ということであろうか。名張市が、ただの思いつきで細川邸の整備に着手し、なにも考えることなくなりゆきにまかせてきた結果が、なんとこれなのである、ということであろうか。どうなと勝手にするがよい。
昨18日午後7時から名張市役所二階庁議室で、名張まちなか再生委員会の次期役員準備会とやらが開かれた。事項書にはこうあった。

1.あいさつ
2.新役員(予定)の紹介について
3.臨時総会に向けて
 (前回役員会で決定した事項)
   平成21年1月25日(日)10時開始
4.その他

当方、歴史拠点整備プロジェクトの新しいサブチーフであるから、新役員ということになる。新役員というのは、委員会の規約改正がはたされた暁に、新しい規約にもとづいて任命される役員のことである。だから当方、規約改正が終了していない現在の段階では、正式には役員ではない。いまだ役員ではないのだが、きのうの会合はいわば新役員の顔見世のようなものであったので、といったような事情は実際に顔を出してみるまでわからなかったのだが、とにかく、むこうが来いというから行ってきた。ま、ノーベル賞の授賞式のようなものであるとお思いいただきたい。

新役員に該当する委員は、配付された名簿によれば、十九人。委員長一、副委員長三、理事十四、監事二、合計二十であるが、委員長が理事を兼務しているため、実数は十九人となる。きのうの出席者は十二人。

資料として「平成20年度名張まちなか再生委員会臨時総会資料(案)」が示された。1月25日の臨時総会で配られる資料である。それによれば、総会の議事はこんなあんばい。

議案第1号 名張まちなか再生委員会規約改正(案)について
議案第2号 役員改選(案)について
その他

名張まちなか再生委員会の規約改正案については、7月30日の役員会で提示されたいわゆる叩き台のコピーを入手し、なにしろ叩き台なのであるから、文字どおり叩いておいた。下記のエントリである。

8月04日:人間豹が殺気立ってる
8月07日:規約改正案すかたん批判
8月13日:規約改正案とんちき批判
8月14日:規約改正案カチコミ批判
8月15日:規約改正案びくびく批判
8月16日:規約改正案こらこら批判
8月18日:規約改正案ぼこぼこ批判
8月19日:臨時総会緊急動議大作戦

きのうの集まりでは、新役員同様に規約改正案もいわば顔見世のあつかいで、改正案の内容を検討することは想定されていなかったようなのだが、なにしろ新参である。これまでの経緯などなにも知らない。改正案にいささかのツッコミを入れておいた。といったって、上記のエントリに記したところを、ごくあっさりと述べただけの話である。たとえば、委員会の目的をさだめた第二条について。

改正案7月30日バージョンでは、委員会の目的は第三条でさだめられていた。こんなあんばい。

   
(目的)
第3条 名張市は、名張市総合計画に位置づけられた「まちの顔づくりプラン」の実現に向け、平成17年3月に市民・事業者・行政の共通共有の計画として、「名張まちなか再生プラン」を策定した。
この委員会は、今後10年間、この「名張まちなか再生プラン」を指針として、市民・事業者・行政などの多様な主体の協働によって取り組む各事業を継続的かつ円滑に運営するための総合的執行管理に対し、意見具申又は答申を行うことを目的とする。

これに対し、8月13日付エントリでは、こんなふうなツッコミをかましておいた。

   
なんの反省もない。なんの学習もない。大丈夫かこら。「『名張まちなか再生プラン』を指針として」とはいったいどういうことだ。あんなインチキプラン、指針になんかなるものではない。そのことは名張まちなか再生委員会がもっともよく知るところであろう。指針にならぬからこそ、プランにあった歴史資料館がやなせ宿になってしまったのではないか。そうしてしまったのは名張まちなか再生委員会ではないか。だというのにまあこのとんちきが、いったいどのつらさげてプランを指針になどとほざけるというのだ。つら洗って出直してこいこら。

それにこら、「市民・事業者・行政などの多様な主体の協働」などと気のふれたようなことをまだ口走るつもりか。終わっておるのだそんなもん。名張まちなか再生委員会発足以来の三年あまりで、名張市がぶちあげた協働なる理念の貧しい実態は残りなく明らかになっている。それを何よりも雄弁に物語るのが、ほかならぬ名張まちなか再生委員会の現状ではないか。規約の第一条に記されていた「多様な主体の協働」はいまどうなっているのか。その協働とやらで進められたはずの細川邸整備事業はどんな結末を迎えたのか。そういった現実を直視しようとはいっさいせず、ばかがこら歯の浮くようなきれいごとばっか並べて何が規約の改正だ。何が組織の見直しだ。豆腐のかどに頭ぶつけていっぺん死んでこいこら。豆腐なら名張市中町、吉野家豆腐店の豆腐がいいと思うけど。

さらにこら、「各事業を継続的かつ円滑に運営するための総合的執行管理」とはどういうことだ、といいたいところだが、ここまで来ると何をいってるのか意味不明である。ツッコミもできぬ。要するに、例によって例のごとく、主体性がきわめてあいまいなのである。一寸刻み五分試し、ちょいといじって進ぜよう。

「市民・事業者・行政などの多様な主体の協働によって取り組む各事業を継続的かつ円滑に運営するための総合的執行管理に対し、意見具申又は答申を行うことを目的とする」

この文章にある「各事業」というのは、いったいどこが進めるものなのか。主体はだれなのか。いうまでもなく、「市民・事業者・行政など」である。ここにはそのように書いてある。そうした事業を「継続的かつ円滑に運営する」のはどこなのか。やはり「市民・事業者・行政など」なのであろう。その運営のための「総合的執行管理」はどこがやるのか。これもおそらくは「市民・事業者・行政など」のはずである。そしてその「総合的執行管理」にたいして「意見具申又は答申」をおこなうことが、名張まちなか再生委員会の目的なのであるという。第三条にはそのように定められている。

ややこしい話だよなあ。じつにややこしい。名張まちなか再生委員会が「意見具申又は答申」をおこなう対象はどこなのかっつーと、たぶん「各事業」をおこなう「市民・事業者・行政など」のはずである。でもって、その「市民・事業者・行政など多様な主体の協働」のために組織されたのがなんなのかっつーと、とりもなおさず名張まちなか再生委員会なのである。ややこしい話だよなあまったく。

まったくもってややこしい。名張まちなか再生委員会は「名張地区既成市街地の再生・創造」を実現する組織なのである。これは改正案第一条にうたわれている。そして名張まちなか再生委員会は、名張まちなか再生委員会にたいして「意見具申又は答申を行うこと」を目的としている。これは改正案第三条にうたわれている。なんなんだこのわけのわからん話は。こら名張まちなか再生委員会。なんなんだこの頭の悪い規約改正案は。もう少しまじめにやれこら。しまいにゃ叱り飛ばすぞ。ほんとに殺気立ってくるよなあ毎日毎日。

今回のバージョンでは、委員会の目的はこんなぐあいになっている。

   
(目的)
第2条 この委員会は、「名張まちなか再生プラン」を指針として取り組む、市民・事業者・行政などの多様な主体協働の各事業を継続的かつ円滑に運営するための総合的執行管理に対し、意見具申又は答申を行い・支援することをもって名張地区既成市街地の再生を図ることを目的とする。なお、「名張まちなか再生プラン」とは、名張市が、名張市総合計画に位置づけられた「まちの顔づくりプラン」の実現に向け、平成17年3月に市民・事業者・行政の共通共有の計画として、策定したものである。

7月30日バージョンに対してかました8月13日付エントリのツッコミは、このバージョンにもそのままあてはまる。きのうの会合では、それをごくあっさりと披露しておいたという寸法である。8月14日付エントリには、「なんつーのか、かんじんの幹の部分をほったらかしにして、枝葉末節ばかりをことこまかに条文化しても、さしたる意味はないであろうに」とのツッコミも記しておいたのだが、きのうもおなじ意味のことを述べておいた。

しかしまあ、そんなのはどうだっていいことである。最初っからいってるとおり、当方が名張まちなか再生委員会に加わったのは、あくまでも委員会をぶっ壊すためなのである。

あすにつづく。
きのうの夜、水戸のご老公一行が伊万里で化け猫騒動にまきこまれていたらしいころ、名張市役所では名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトが会議を開いていた。議題は「臨時総会に向けた理事及び委員の確認について」。

名張まちなか再生委員会の規約は、なんとも無茶苦茶なしろものである。だから、改正のための作業が進められている。それがようやく一段落したので、12月18日に委員会の理事会を開き、規約の改正案を検討することになったらしい。理事会というくらいだから、出席するのは理事である。

きのうの会議は、要するに、歴史拠点整備プロジェクトの理事と委員はいったいだれなのか、それを確認するための場であった。理事とは、各プロジェクトのチーフとサブチーフのことであるという。当方、ただの委員であるから、理事ではない。だが、名張まちなか再生委員会をぶっ壊す、という大望を抱いて委員会に加わった身ではある。ならば、とりあえず、理事会でぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあおおっぴらに大騒ぎできる資格を手にしておく必要があるかもしれぬ。そのためには、チーフかサブチーフに出世して、理事になっておくことが肝要である。

そこで、きのうの会議で、歴史拠点整備プロジェクトのサブチーフに就任した。のみならず、近い将来、現在のチーフ、つまりかんなくずの親分のことなのであるが、親分をチーフの座からひきずりおろし、当方がチーフとして君臨したいと考えている。たぶん、そうなるはずである。出世の階段を一歩一歩、着実にのぼりつめてゆきたい。

理事会が終われば、そのあとはいよいよ来年1月25日、名張まちなか再生委員会の臨時総会が開会され、規約の改正が審議されることになる。聞けば、総会とおなじ日、本町の栄林寺を舞台として文化財防火デーにちなんだ消防訓練が催されるという。ならばちょうどいい。理事会の出席者全員、栄林寺の境内に集合し、消防のホースで頭から水をかけてもらえばいいのである。ちっとは眼も覚めるのではないか。きのうの会議では、歴史拠点整備プロジェクトの新しいサブチーフとして、そんなことも提案しておいた。

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