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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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 9月も二日目である。あさって4日金曜には、名張まちなか再生委員会の第六回理事会が開かれるはずなのだが、どうやら流れたっぽい。きのう一日待ってもまだ、案内のはがきが届かないからである。いったいどうするつもりなのであろうな。
 
 以前からくり返しているとおり、名張まちなか再生委員会は解散するべきなのである。それはおれのみならず、名張市の意向でもあるはずである。だから、名張市役所にペテンの切れる人間さえいれば、委員会を合理的な解散にみちびく道筋、なんてものを考えつくこともできるはずなのであるが、いかんせん、市役所の人材払底は徹底している。眼を覆わしめるものがある。それはもう、びっくりするような人材がごろっちゃらしておるのだからな。ものを考える、などという気の利いたことはとうていできない。にっちもさっちも行かなくなったら、理事会を招集しないことで問題を先送りしてしまう。その程度のことしかできない。まるで駄々っ子である。お子さまが行政つかさどってどうするよ。
 
 こうなると名張まちなか再生委員会、ほんと、みずからの意志で解散するしかないのではないか。以前、歴史拠点整備プロジェクトチームの会議で述べたところをくり返しておくと、あんたらほんとにまちなか再生とやらを進めたいのであれば、名張まちなか再生委員会なんてとっとと解散してしまい、新しい市民組織をつくるべきなのである。その場合、もっとも重要なことは、行政とは無縁な組織にする、ということである。まちなか再生という課題を主体的に考え、実行するための自立した組織を発足させることが、いまや必要なのである。
 
 新しい組織をつくったとする。まず問題になるのは、まちなか再生とはいったいどういうことなのか、ということである。なにをどうすれば、まちなか再生がはたされたことになるのか。これは難問である。答えは容易にはみつからない。百人の人間がいれば、百とおりの答えがあるはずである。だから、必要になるのは、あーでもないこーでもないと話し合いを重ねて、ある程度の合意に達することである。自分たちが目指しているまちなか再生とは、だいたいがこういったことなのである、という基本線を明確にすることである。そういったきわめて大切なことをまったく等閑視してしまい、意にも介さず、気にもとめず、ただもうまちなか再生でございますまちなか再生でございますわあわあわあわあとことを進め、とんでもない結果にたどりついてしまったのが名張市のまちなか再生事業なのである。おなじ愚をくり返さないためには、出発の時点で、まちなか再生ってなに? という一点にかんする合意にいたっておくことが肝要なのである。
 
 ついで、まちなか再生とやらを達成するために、具体的になにをすればいいのか、なにができるのか、それを考える。必死になって考える。おのずから、答えは出てくるはずである。答えのなかには、行政と連携しなければ実現できないこともあるはずである。どうするのか。行政と手を組めばいいのである。協働とかいうやつである。行政に話をもちこめばいいのである。もちこまれれば、行政だって無視はできない。市民組織がもちこんだ提案を実現するために、どんな補助金をひっぱってくることが可能かな、みたいなことも考えなければならぬであろう。市民組織と行政が手を携えて、まちなか再生とやらを進めてゆけばいいのである。それが協働というものなのではないか。
 
 少なくともおれは、そんなふうな考えをもっている。だから、歴史拠点整備プロジェクトの会議では、名張まちなか再生委員会なんかとっととつぶしてしまい、行政のひもつきではない新しい組織をつくったほうが絶対にいいぞ、と力説したのだが、残念ながら賛同は得られなかった。しかし、9月4日に開かれるはずだった理事会さえ、このままでは案内もなく流れてしまいそうな雲行きである。総会がいつのことになるのか、冗談ではなく見当もつかない。委員会運営がここまで膠着してしまったら、ほんと、つぎになにをするのかを熟慮決断したうえで、委員会なんかとっとと解散してしまったほうがいいのではないか。むろん、まちなか再生とやらに主体的に向き合い、そのために知恵をしぼり汗を流す、という覚悟がないのであれば、いつまでもたらたらだらだらしているしかないとは思うけどな。
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 9月を迎えた。4日金曜の夜には名張まちなか再生委員会の第六回理事会が開かれることになっているのだが、いまだに案内のはがきが届かない。8月7日の第五回理事会において、第六回は9月4日午後7時30分から、という出席理事一同の合意をみたにもかかわらず、また先送りなのかな。案内のはがきを出さないことで、理事会を永遠に先延ばししつづける、ということなのかな。インチキや不正行為をすべてうやむやにしてしまうために、名張まちなか再生委員会を無理やり開店休業状態にもちこんでしまう。もはやそれくらいしか、打つ手がなくなってしまったということなのかな。なんともなさけない話である。
 細川邸をめぐる癒着結託ラインの変遷を確認しておく。
 
名張市 ←→ 名張地区特定住民
 
 最初はこうであった。名張のまちに残る細川邸を整備する、ということは、名張のまちの特定の住民に便益を供与することである、と考えるのが、名張市のデフォルトの発想なのである。
 
 その発想が具体化する。
 
名張市 ←→ 名張まちなか再生委員会
 
 名張まちなか再生委員会が結成され、細川邸はこの委員会の私物である、という暗黙の了解が市と委員会に共有された。
 
 ついで、私物化に鮮明な輪郭が与えられる。つまり、便益を供与される人間の絞り込みがはじまった。
 
名張市 ←→ 名張まちなか再生委員会
        ↓
       NPOなばり
 
 細川邸を特権的に占有する団体として、NPOなばりの結成が画策された。しかし、頓挫してしまったため、べつの組織の発足が検討される。
 
名張市 ←→ 名張まちなか再生委員会
        ↓
       まちなか運営協議会
 
 まちなか運営協議会は、発足した、ということになっている。癒着結託ラインはこうなった。
 
名張市 ←→ まちなか運営協議会
 
 まちなか運営協議会はダミーに過ぎないから、細川邸あらためやなせ宿における癒着結託ラインは、実質的にはこうである。
 
名張市 ←→ 名張地区まちづくり推進協議会
 
 これが現状である。だからまあ、細川邸を税金で整備して特定の住民に特権的に提供する、特定の住民の私物化に供する、という名張市の所期の目的は、つつがなく達成されたわけだよな。特定の住民の顔ぶれこそ、当初といまではすっかり入れ替わっているものの、癒着結託構造そのものには揺るぎがない。公共施設として整備されながら、ついに明確な公共性を付与されることがなく、しかしまあ、しいていうならば無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館であるという一点にわずかながら公共性の名残をとどめて、ところが実際はなんかもうひどいものなんだよなこれが、みたいなことをいいだすときりがなくなってしまうけれど、とにかくまあ赤っ恥というほかない大失敗に終わったとはいうものの、癒着結託構造を基盤とした施策をここまで強引に推進した点は、さすが名張市、みごとなものである。でもって、これから先はどうすんの?
 
 平成20・2008年6月
 
 さて、去年である。6月1日、名張まちなか再生委員会の総会が開かれた。おれは5月28日に開かれた役員会で委員会への加入が認められ、総会に出席したのだが、なさけないことに総会におけるインチキを見抜けなかった。むろん、まちなか運営協議会をめぐるインチキである。みずからの不明を恥じつつ簡単に確認しておくと、インチキの構図はこうである。
 
名張まちなか再生委員会
  ↓
 まちなか運営協議会
 
 おととしの総会で、まちなか運営協議会の設置案が承認された。だから当然、去年の総会では、協議会の設置にかんして報告がなされなければならない。つまり、こうである。
 
名張まちなか再生委員会
  ↑
 まちなか運営協議会
 
 しかし、報告はなかった。しかも、こうなるべきでもあった。
 
名張まちなか再生委員会
  ↓↑
 まちなか運営協議会
 
 協議会は、委員会の中核を担う内部組織として設置される、ということになっていた。だから、両者の関係性は、委員会と協議会の双方の規約に明確に定められていなければならない。が、昨年の総会では、協議会設置にともなう規約の改正はおこなわれなかった。この場合、去年の総会では、これから委員会の規約改正を検討いたしまーす、ということが宣言されておったのだから、協議会にかんする規約も総会後にあわせて検討するつもりだったんでーす、といういいわけは通用しない。今年1月25日の臨時総会に示された規約改正案には、まちなか運営協議会のことなんてどこにも書かれておらなんだのだからな。
 
 6月7日、やなせ宿が開設された。本来であれば4月にオープンしているべきところ、いろいろすったもんだがあったから、二か月遅れてこの日になった。以来、一年二か月あまり、先日も記したとおり、やなせ宿はいま、癒着結託構造を基盤とした行政運営モデルの失敗例として、名張まちなかに無残な姿をさらけだしている。癒着結託構造を覆い隠してくれるはずだった虚飾や粉飾はすべて、跡もとどめず、影もかたちもなく、きれいに雲散霧消してしまった。どこがまちなか再生だよ。どこが歴史資料館だよ。どこが官と民との協働だよ。ぜーんぶうそっぱちだったじゃねーかインチキ自治体。やなせ宿にはいまや、名張市政の愚昧と腐敗がふたつながらまざまざと顔を覗かせているのである。
 
 平成21・2009年X月
 
 今年である。いつのことになるのかはわからんが、年内に開かれるはずの名張まちなか再生委員会の総会で、このまま順当にことが進めば、おれが委員長に就任することになる。ほんと、どうなるのであろうな。
 おとといの夜、名張市役所で名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの会議が開かれた。議題は、第五回理事会の報告、など。なんの意味もない会議であった、ということだけを報告しておいて、癒着結託構造の話をつづける。
 
名張市 ←→ 名張まちなか再生委員会
 
 名張まちなか再生委員会の発足によって、こういった癒着結託ラインが誕生した。両者が共有していたのは、細川邸は私物である、という認識である。だからほんと、ひどいものであったな。それなりの手続きを経て決定された名張まちなか再生プランの内容を、歴史拠点整備プロジェクトのごくわずかな数の人間が、勝手に変更してしまうのである。細川邸を歴史資料館にはいたしません、などと決めてしまうのである。私物なんだから好きなようにできる、という認識がそうさせたのであろう。というか、そもそも決定というのがどんなことなんだか、それすら理解できてない連中が集まっていたのである。
 
 名張まちなか再生委員会の内部で、具体的にどんな検討が進んでいたのか、それはわからない。しかし、ぽつりぽつりと、ひどい話が洩れ聞こえてくることはあった。たとえば、あるメンバーは、
 
 「おれはこの事業で一億円の予算を好きなようにつかえるねん」
 
 と口走っていたというし、
 
 「おれはまちづくりのことなんかどうでもええねん。税金つこて細川邸を自由にできたらええねん。遊べたらええねん」
 
 と公言してはばからぬメンバーもあったという。むろん伝聞の話だから、事実かどうかは不明である。とはいえ、いかにもいいそうだな、と思わせるだけのリアリティを帯びた風聞ではあった。そんなうわさをまことしやかに伝えられているような連中が、癒着結託構造のうえにあぐらをかき、官民の協働とやらに参加していることを笠に着て、なんの権限もないくせに市職員に偉そうな口を利き、市職員をあごでつかったりもしていたのである。それでまた、こういう手合いってのは、じつによく湧いてくるものなのである。おなじ穴のむじな、と呼ぶべき手合いのことは、8月8日付のコメントに記した。
 
08月08日 (土) :解散は遠くなりにけりの巻 > とんでもないことに首つっこんで五度目の夏を迎えた
 
 なんのことかというと、やはり四年前の夏、こんなことがあったわけな。
 
名張人外境 > エジプトの怪人たち
 
 細川邸の裏に、スフィンクスとピラミッドを描いたばかでかい看板が押っ立てられた。さる市民団体が、名張市の市民公益活動実践事業のひとつとして押っ立てたのである。なんなんだこれは、と思ってウェブサイトでおちょくってやったところ、この巨大看板、大受けであった。たとえば、名古屋で人に会って酒を飲んだとき、こちらからはなにもいってないのに先方からこの話題がもちだされて、こんなふうに感心された。
 
 「つまりあれですね、名張には、エジプトの看板を立てよう、といいだした人がいて、そうだそうだー、と賛成した人が最低ひとりはいる、ということですね」
 
 おれは、いやいや、それどころではなくて、名張市のお役所にも、それがいいそれがいい、いいぞいいぞー、という人がいて、エジプト看板掲出企画に税金が投入されることになったわけなのである、と答えておいた。なんかもう、名張市では官民あげて、名張市はばかだばかだー、と宣伝したいらしくってさ、とでもいっておかなければしかたがなかったのであるが、そのあと、秋になって東京へ行ったときにも、やはりこの話題が出て、
 
 「そんなまちに住んでるのって、やっぱり、大変なんでしょうね」
 
 と初対面の女性から同情されたりもした。
 
 で、四年前の夏、8月2日のことであるが、おれのウェブサイトの掲示板に、エジプト看板掲出企画の関係者らしい投稿者が大挙して押し寄せてきた。大挙ったってわずかに三人だったわけだが、なかで抜きん出てばかであったのが「怪人19面相」と名乗る男であり、そのばかがみごとなまでにばかの頂点をきわめたのが、8月4日付の投稿なのであった。ちなみに、一連の投稿が寄せられはじめた8月2日ってのは、名張まちなか再生委員会から、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 という通知があったまさにその日である。ま、わかりやすいっちゃじつにわかりやすい話なんだよな。
 
   
怪人19面相   2005年 8月 4日(木) 20時 6分  [220.215.61.171]
 
勘違い馬鹿のお方、いずれ近いうちに会うたるで。
連絡したるからまっとれ。
県民の血税を搾取なさったごとき事業をなさったオマエ、図書館嘱託のいんちきおっさん。
いろいろ返事を書いて頂いて有難う。
そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!
回りくどい難しい言い回しでわかりにくいことくどくどゆうな、ボケ!
 
以上。
 
尚私は♂です。
商工会議所で会う理由もありません。
割と回りくどいのが嫌いな性格の人間です。
だいぶ我慢をしてメールを書いています。
 
推理作家の大家よくお考えあれ!!
 
 いま読んでも、不覚にも大笑いしてしまう。眼にしみるほどのばかである。ほんと、このばかはいったい、なんだったんだろうな。ちょっと突っついてやったら、
 
 「そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん」
 
 とうろたえまくって本音を吐いてしまい、
 
 「20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!」
 
 などと幼児のような悲鳴をあげて他者を排除してしまう。この程度のばかが、驚くべきことに、公益の名のもとに税金つかった事業に関係していたのである。悲鳴をあげながら遁走してしまったから、このばかがいったいどこのだれであったのか、さっぱり見当もつかんわけではあるのだが、なんか、共通するものが感じられるよな。
 
 「そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!」
 
 「おれはまちづくりのことなんかどうでもええねん。税金つこて細川邸を自由にできたらええねん。遊べたらええねん」
 
 並べてみると、おなじ人間がしゃべったとしか思えない。むろん、同一人物であるかどうかは判然としないが、癒着結託構造を公益だの協働だのといった大義名分で粉飾しても、お役所が寄せ集めようとするのは、あるいは、市民のなかから群がり寄ってくるのは、たいていこういった連中でしかないのである。自分たちだけの価値観を協働だの公益だのということばで一般化しようとし、それにたいして正当な批判を向けてくる他者は有無をいわさず、悲鳴のように感情的なことばで排除してしまう。そういった観点からみれば、たとえばこのことばも、自分たちだけの価値観を無理やり一般化しようとし、それを正当に批判しそうな他者をあらかじめ排除するためのものだった、というわけなのである。
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 ここで、懐かしの怪人19面相君に伝言である。19面相君、気をつけろよな。「勘違い馬鹿のお方」みたいな感じで2ちゃんねるの名張市政スレあたりに書き込みなんかしたら、それが君の投稿だっていうことは一発でばれてしまうからな。ま、せいぜい気をつけたまえよな。
 
 さて、発足二年目の平成18・2006年、名張まちなか再生委員会の総会で、名張市から細川邸を提供される民間団体として、NPOなばりを発足させることがきまった。癒着結託ラインはこんなぐあいになった。
 
名張市 ←→ 名張まちなか再生委員会
        ↓
       NPOなばり
 
 名張市からNPOへの細川邸の提供は、あくまでも特権的なものである。つまり、まったくの無条件無競争で、NPOが細川邸を独占的に手に入れることになっていた。他者の介入は認められない。まさしく、外部の人間の話を聞く考えはない、というやつであるが、翌年、名張市考査委員会による事務事業評価報告書では、こうした特権性が「NPO法人への特命は望ましくない」と批判されることになる。いくら黄金の癒着結託ラインだからといって、そこまであからさまに便益の供与かましてんじゃねーよ、という寸法である。
 
 しかし、このNPO設立構想は、あえなく頓挫してしまう。理由は不明である。むろん、細川邸をどんな施設にすればいいのかが決められなかった、ということもあるのだろうが、公設民営方式というやつを実現することが不可能だった、ということもあったのではないか。いずれにせよ、こうした事態を受けて、平成19・2007年の総会で、NPOなばりに代わる組織として登場してきたのが、まちなか運営協議会だったのである。
 
名張市 ←→ 名張まちなか再生委員会
        ↓
       まちなか運営協議会
 
 まちなか運営協議会は、じつはいまだ正式には発足していないのだが、この名を名乗る団体はげんに存在していて、やなせ宿の運営を委託されている。つまり、現実に、こういう癒着結託ラインが誕生したのである。
 
名張市 ←→ まちなか運営協議会
 
 この癒着結託ラインにおいて、両者は深く深く手を結ぶことになったはずである。平成19・2007年といえば、つまりおととしのことであるが、名張市がすっかり涙目になっていた時期である。細川邸の改修工事は順調に進んでいたけれど、なんのための施設にすればいいのかは白紙の状態、特権的に運営を丸投げするはずだったNPOは空中分解してしまい、もしかしたら細川邸は工事が終わってもオープンできないかもしれない、という可能性だって皆無ではなかった。そんなことになったら、全国に赤っ恥をさらすことになる。国土交通省からも、ばーか、底抜けのばーか、とお叱りを頂戴してしまうことであろう。名張市、涙目。死ぬほど涙目。
 
 だから、名張市にとっては、まちなか運営協議会こそが唯一の頼みの綱だったのである。名張市には運営協議会が、白馬にまたがった騎士にさえみえたのではないか。なんでもいってください、おっしゃるとおりにいたします、奴隷とお呼びください、みたいなことになったとしても、決して不思議ではない状態だったのである。すなわち、市民の眼などまったく届かない闇のなかで、名張市とまちなか運営協議会とが、共犯者のごとく強く強く手を握りあったことは想像にかたくない。でもって、これまでにもしつこく指摘してきたそのとおり、まちなか運営協議会は名張地区まちづくり推進協議会のダミー団体にほかならないのである。
 
 ではここで、ひとつお知らせである。おととい開かれた歴史拠点整備プロジェクトの会議は、先述したとおりなんの意味もない会議であったが、終わってからコメダ珈琲名張店に入って票読みしてみたところ、早くも当確が出ました、ということになった。衆院選の話ではない。名張まちなか再生委員会の話である。次期委員長はおれ、という当確である。役員の任期は一年である。だからつぎの総会では、必ず役員改選がおこなわれる。委員会の規約には「委員長、副委員長は、理事の互選により定める」とあるから、総会前の理事会が互選の場ということになる。そこでおれが次期委員長に立候補し、かりに現委員長と決選投票、ということになったとしたらどうよ。現委員長に一票を投じることになるであろう理事の面々は、8月の3日と4日にいっせいに退会してしまっているのである。だから、票読みしてみると、現委員長よりおれのほうが得票が多い、ということになった。当確である。新委員長の誕生である。国政よりひとあし早く、政権交代が決まったのである。
 
 しかしこうなると、名張市と名張地区まちづくり推進協議会による黄金の癒着結託コンビは、どんな手をつかってでも名張まちなか再生委員会の総会開催を阻止し、委員会そのものを解散に追い込まなければならなくなった、ということであろうな。どんな手をつかっていただいても誠心誠意お相手いたす所存ではあるが、なんならあれだぞ、やっぱり退会届は撤回することにいたしました〜、とかいって理事が大挙してカムバックしてくれることになったとしても、おれ個人としては全然OKだぞ。広く温かい心をもって、いくらでもお迎えするつもりである。とりあえず、そのあたりを一考してみるのも一興であろう。
 こうして振り返ってみればみるほど、名張市における癒着結託構造の強固さには驚かされるばかりなり。確認しておくと、最初はこうであった。
 
名張市 ←→ 名張地区特定住民
 
 名張市が細川邸を改修整備すると決めたとき、たぶんすこぶるオートマティックに導き出された構図が、これであったはずである。細川邸を整備するということは、とりもなおさず、名張地区の特定住民に便益を供与することにほかならない、みたいなことを、名張市はぼーっとぼーっと考えたんじゃね? とおれは推測している。要するに、われわれが住むここ名張市では、癒着結託構造を保持し、より強固なものにすることこそが、市政における大前提なのである、などといってしまうのは乱暴すぎる話であるが、そういう傾向は絶対にあると思うんだよなおれは。そして、遅ればせながらそうした認識に立ってみると、なんかもうわけわかんね、というしかなかったあれこれの不審が、まるで魔法が解けたみたいに、よどみなく胸に落ちてくるわけなのよ。たとえば、名張まちなか再生プランがそうではないか。
 
   
 老朽化した部分を除却し、町屋の風情を大切にして母屋と蔵を改修します。また、来街する市民の便に配慮して、駐車場、公衆トイレと喫茶コーナーを設置します。歴史資料館の主用途は資料の展示ですが、多様な市民ニーズに応えるために物販や飲食などを含む複合的な利用も可能なものとします。なお、歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします。
 市民に何ども足を運んでもらえる歴史資料館とするために、江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示するほか、市民が関われる利用方法を工夫します。たとえば、芭蕉生誕360年祭のからくりコンテストのようなイベントで展示した作品、市民文化祭や市の美術展の出品作、個人や文化サークルなどが作成した作品(例:能面、絵画)を展示したり、小波田地区の「子供狂言」などを招致したり、名張地区以外の市民も参加できる方法が考えられます。また、庭に面した風格ある和室を冠婚葬祭や茶会など、市民も利用できる方法を検討します。市民が関わることのできる場と機会を提供することによって、主催者としてあるいは参加者としてさまざまな市民の来館が期待できます。
 
 歴史資料館にかんする記述である。主用途は「資料の展示」「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示」とあるばかりで、内容はきわめて粗雑である。ところが、副次的な用途になると、なんだかんだとよけいな文言がいっぱい連ねられていて、不自然なまでに饒舌なのである。ほんと、わけわかんね。しかし、細川邸整備構想の本質が癒着結託構造にもとづく特定住民への便益の供与であったのだと仮定してみれば、いかにもすんなり納得できてしまうんだよなこれが。要するに、歴史資料館ってのはやっぱりただの看板、細川邸整備構想に公共性を付与するためのかりそめの看板でしかなかった、ということになる。いちおう歴史資料館ではあるけれど、ほんとのところは「物販や飲食など」も含め、施設を提供された特定の住民が好き勝手にしていいんだよ、というのが名張市の本意であったはずであり、プランはそれを担保するために、からくりコンテストが、市民文化祭が、市の美術展が、子供狂言が、と歴史資料館には関係のないことまでかくも饒舌に、まるでいいわけを並べたてるみたいにくどくどと、思いつくままに列記しているという寸法だろう。
 
名張市 ←→ 名張地区特定住民
 
 こういった癒着結託構造が、まぎれもなく、最初から、そこには存在していたのである。名張まちなか再生プランは、そうした癒着結託構造を正当化するためのプランであった、というわけだよな。だったら、プランの最初にこんなふうに書いとけよ。
 
 ──名張まちなか再生プランは、国土交通省のまちづくり交付金を利用して細川邸を改修し、いちおうは歴史資料館にするということにはなってるんですけど、そこはそれ、魚心あれば水心、そのあたりのことはもう自由にしていただいて結構でございますので、とにかく税金で整備した細川邸を名張地区の特定住民のみなさんに自由におつかいいただくと、まあそういったことを狙いとしたプランでございます。ちなみに申し添えますと、いうまでもないことではございますが、まちなか再生なんかとはなんの関係もないプランとなっております。なお、僭越ではございますが、異論は認めないことにしております。
 
 最初っからこんなふうに明記しとけよばーか、とかいまごろいってやっても手遅れだけど、そのプランには、黄金の癒着結託ラインとでも呼ぶべきものが、こんなぐあいに示されていた。
 
   
 管理運営を担う民間組織には、リピーターが確保できるような企画運営能力をもつことが期待されます。歴史資料館の立ち上がり期には、地元組織やまちづくり協議会が企画展示や施設管理に協力して、円滑な歴史資料館の管理運営に取り組みます。
 
 図式化すると、こんなあんばい。
 
名張市 ←→ 地元組織やまちづくり協議会
 
 これが平成17・2005年版の癒着結託ラインである。このラインに沿って、名張まちなか再生委員会が発足した。つまり、こうなる。
 
名張市 ←→ 名張まちなか再生委員会
 
 黄金の癒着結託ラインである。しかし、おれはそんなこと知らなかったし、そもそもピュアな心根のもちぬしでもあるんだから、名張まちなか再生プランを一読して、あー、こりゃひどいな、歴史資料館なんかできるわけねーじゃん、そのうえ、桝田医院第二病棟のことがなんにも書かれてねーじゃん、と思い、わざわざパブリックコメントを提出したというのにこれがあっさり黙殺されて、しかし、おれはめげない、くじけない、なにしろ心根がピュアなものだから、細川邸を歴史資料館にすると決まったのならしかたがない、それならそれで、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示」するというんだから、おれは名張の歴史についてもまったくの素人というわけではないんだし、しかしとりあえず乱歩のことを教えてやらなければならない立場ではあるんだから、いちどレクチャーの場を用意するように、と名張まちなか再生委員会に要請してやったところがさ、しつこくいうけどこれだもんよ。
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 ひでーもんだよなまったく。おれのこのピュアな心根をどうしてくれんだばーか。まったく、ここまでのばかがこの世に存在するのか、と思われる次第ではあるのだが、癒着結託ラインの存在を考慮に入れれば、やっぱいきなり腑に落ちるわけな。連中は要するに、歴史資料館のことや乱歩のこと、そんなものはどうでもよかったのである。癒着結託ラインに無関係な人間が口をはさんでくることがいやだったのである。恐かったのである。要するにこの、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 という耳を疑う発言の背後には、人の私物に他人が口出してんじゃねーよ、という悲鳴が隠されていたとみるべきであろう。さよう。私物である。名張まちなか再生委員会の発足以来、名張市と再生委員会とのあいだでは、細川邸はいずれ結成される民間団体の私物である、という認識が共有されていたと判断される。そう判断すると、またしてもあれこれいろんなことが、ほんとにすーっと胸に落ちたり腑に落ちたりしてくるんだよな。
 
 ところで、もう神発言、というしかないこの、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 という発言にかんして、徳島県の小西昌幸さんからメールを頂戴した。小西さんのOKを頂戴して、全文をご閲覧に供する次第である。
 
   
「現段階では乱歩にかんして
外部の人間の話を聞く考えはない」
 
これは恐るべき、
恥ずべき、
笑うべき、
呆れるべき回答でした。
私は当時、徳島でこの文章を見て本当にビックリしました。
今でもあらためてビックリしています。
イッタイ誰のご発言なのか、
そのお名前を(フルネームを具体的に)知りたいとさえ思います。
 
【恥】という字をその人は知らないのでしょうか。
 
名張市が全国に誇れる乱歩資料集(4冊)を出版されましたが、
全て中相作さんが深く関係した物だったことは、
どんなアホでもご存じのことです(そのはずです)。
 
先のような無残なトンデモ発言をする発想というのは、
たぶん、
「自分だって充分賢いはずなのに、
あんなサングラスの品の悪い酒飲み(すみません、中さんのことです)
ばかりが注目されて、
なんとなく面白くない」
と言うようなしょーもない次元の、
うんと程度の低〜イ、
ジェラシーやらコンプレックスを持った人の
醜い本音というシロモノではないでしょうか。
 
今でも時々ありますが、
徳島で「海野十三について知りたいが、
どうしたらよいか」というような疑問を持った人が、
地元地方紙の文化部に問い合わせの電話をかけたりすることがあるようです。
そんな時、新聞社の人は
「北島町立図書館の小西さんが
海野十三の会の
幹部だからきいてみてはどうですか」と紹介してくださったりします。
地道に地域で活動をしていると、
そういう関係が自然に出来てきます。
 
名張市の自治体当局や、
有識者やコンサルタントは
どうして謙虚な気持ちを
持てなかったのでしょうか。
 
しかも、建物の寄付という
大ヒット企画(地権者の申し出)の仲介者は、
中さんだったのです。
いくらサングラス姿で酒飲みであっても、
乱歩研究では日本トップレベルの
中さんだったからこそ、
そして中さんの地に足をつけた活動を世間が認めたからこそ、
施設の寄付のお申し出をいただいたのであろうと容易に想像できます。
 
だから
【乱歩にかんして】
【外部の人間の】
【話を聞く考えはない】
という文節の一つ一つが
私には、全てマッタク、
到底、徹頭徹尾信じられません。
もう一度書きますが、
発言者の名前(フルネーム)を具体的に知りたいくらいです。
 
これは、やはり名張市の上層部などの
奇怪なプライド
(無知なのに、ふんぞり返っていたい。
能力がないのに、威張り倒す態度だけは身につけている
無残な田舎官僚体質)が
災いとなったのだと思います。
 
ソレニシテモ、と私は思います。
 
全国には千数百の自治体がありますが、
ここまでひどい対応は、そうそうないのではありますまいか。
 
徳島ラーメンのブームは
地元タウン誌の編集部や
地元ラジオのあるキャスターが
火の玉のようになって努力して仕掛けた結果でした
(私は仕掛け人関係者と全て面識あり)。
その過程の出来事では、県庁の観光課に県外から
徳島ラーメンの問い合わせがあっても
「それはうちは関係ない。タウン誌がやっているだけです」
などという思い切りゴールをはずす対応がやはりあったようです。
そう言う場合は、地元ラジオでタウン誌編集長が思いっきり嘆いてみせたりして、
どんどん良い流れに変えてゆきました。
今では観光課も徳島ラーメンを観光資源のひとつにしています。
人間だから誤った対応をすることもある。
そのときは、事態を隠したり、ごまかしたりしてはいけない。
謙虚に非を認め、謝罪して軌道修正したらよい。
それだけのことなのだ。
 
なのに、ごまかし続けて名張市の委員会や
コンサルタント業者や市当局は行き詰ってしまった。
 
上に書いたように
誤った対応をしたときは誠意を持って謝罪するべきなのです。
この場合は中さんに謝罪して知恵を貸してくださいと
三顧の礼で迎えるべきであった。
 
だがもう手遅れである。
 
中さんはサッカーの試合に例えておられましたね。
サッカーボールを置いて、
後は蹴るだけで
誰でもゴールできるように、
中さんがそこまで条件を整えてさしあげたのに、
あろうことか名張市当局は、
中さんをマッタク無視して
「サッカーボールの蹴り方は」とか
「サッカーボールの構造は」とか
「コンサルに聞いてみますか」などといって
まったくトンチキな議論を始めてしまった。
助言しようとすると「外部の意見を聞く気はない」とはねつけた。
そして、「ホウ蹴ってみたら転がるものですな」などといって、
コンサルタントや大学の先生と時間つぶししている間に、
なんと自分のゴールにシュートを決めてしまったのではないでしょうか。
 
驚くべきことです。
全てはちっぽけなプライドや、
みにくいコンプレックスが原因で
このような災いをなしたのではないかと私は思います。
人間も自治体の体質も、
結局は謙虚に耳を傾ける素直な気持ちが本当に大切なのだと痛感します。
 
坂田明さんのイベントを
サエキけんぞう氏と職場で仕掛けたときに
坂田さんは、
「(音楽は)若い頃は一に勝ち負けだったが、
歳を取ると一に年輪、二に人格、三、四がなくて五に勝ち負け」
とおっしゃっていました。
 
中さん、私は最近とみに思うのです。
人間、謙虚でないといけませんねえ。
そして最後は人柄ですねえ。
アア。
手遅れって寂しいですね。
 
なんだか、しみじみしてしまいました。
くれぐれもビール飲み過ぎないようにしてください。
 
小西昌幸
(53歳、北島町立図書館・創世ホール館長)
 
 もうずいぶん昔、三十年ちかくも前の話になるが、名張市長の、というのはむろん当時の市長のことだが、女性スキャンダルが市議会で話題にされたことがあった。スキャンダルといっても可愛いもので、市議会がとりあげたのにはそれなりのわけというやつがあったのだが、とにかく一般質問で追及されたのだから、当然のことながら新聞で報道されることになる。一般質問が終わり、議会が休憩に入って、記者たちが市長を取り囲んだ。これはその記者のひとりから聞いた話なのだが、不面目な話題を新聞で報じられることになった市長は、伊勢新聞で報道されるのがいちばんつらい、と洩らしたという。
 
 伊勢新聞の発行部数がどれくらいあるのか、当時もいまもおれは知らないのだが、いずれ微々たるものであろう。微々たる、なんていってしまっては伊勢新聞に失礼だけれど、たいしたものではないはずである。その伊勢新聞をなぜ恐れるのか。理由は、記事が県内全域に流れるから、ということであった。つまり、全国紙で報道されるといっても、たいていの場合、伊賀版の紙面なのである。スキャンダルは伊賀地域内で喧伝されるに過ぎない。しかし、伊勢新聞はちがう。南北に長い三重県の北のはしから南のはしまで、配達されるのは同一の紙面なのである。伊賀地域住民以外にも、スキャンダルが知られてしまうわけである。それがつらい、と当時の市長さんはおっしゃったそうである。ま、牧歌的な時代であった、ということだよな。
 
 それがどうよ。いまやインターネットの普及により、伊賀版に載った新聞記事だってウェブニュースになったとなれば即時に全国、いや全世界の人間に読まれる可能性がふつうにある、という時代になってしまった。ちなみに、こんな検索を試みてみると、どうなるか。
 
2ちゃんねるニュース速報+ナビ:名張
 
 「【三重】名張桔梗丘の岡村さん、高総文祭書道の奨励賞を作品市長に披露」とか、「【三重】アダルト雑誌など約150㌔を不法投棄、名張市職員を停職3か月」とか、「【社会】エロ本など150キロを不法投棄した名張市職員(47)、3カ月の停職処分 - 三重」とか、「【社会】菅家さんにあやかりたい…「名張毒ぶどう酒事件」の奥西死刑囚、「早く再審の判断」と語る」とか、「【物流/地域経済】廃校になった小学校の校舎、ヤマト運輸が丸ごとコールセンターに 三重県名張市」とか、いろいろ出てくる。しかも、マスメディアによる報道以外に、個人がブログを利用して発信するパーソナルな情報もある。ブログ記事なんてほとんどは屑みたいなものであって、受信するにあたってはそれなりのリテラシーってやつが必要になってくるわけだが、とにかくだれにだって、たとえば読み書きさえあやしい市議会議員にだって、ブログによる情報発信とやらが可能になっているのである。つまりまあ、名張市が赤っ恥かいた場合、それが伊賀地域で笑われるだけで済む、なんて時代では全然なくなってるわけな。いやー、恐ろしい世の中になったもんだよな。くわばらくわばら。
 
 それで、小西さんがお書きになっている「発言者の名前(フルネーム)」についてであるが、おれはたぶん、それを知っているはずである。なにしろおれはいま、名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトチームの一員である。そして、このプロジェクトこそが四年前の夏、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 などとふざけたことをほざきやがった張本なのである。そのプロジェクトに入ったんだから、おれの耳にはそれとなく、あんなこといったのはあいつですぜ、みたいなチクリは入ってくる。ただし、裏は取ってない。だから、そのチクリが事実かどうか、おれにはわからんのである。しかし、いまのおれにはもうさ、そんなことはどうだってよくなってるわけなんだ。いまやおれはね、そんな個人なんかじゃなくってさ、もっともっと大きなものに喧嘩を売ってんだからさ、とかうっかり書いてしまいそうになったが、そんなことはないそんなことはない。うそうそ。大うそ。おれはだれにも喧嘩なんか売ってないんだから、まあ安心してくれ。ほんと、なんの心配もいらんのだからな。
 こうして検証してみると、なんかもう、すさまじいな、という気がしてくる。すごみが漂ってるよな実際。凄絶なまでに無茶苦茶なのである。要するに、名張市はなにも考えられなかった。なにひとつ、決めることができなかった。細川邸をどうするか。なにも決められないまま、いまにいたっているのである。凄絶なまでに無茶苦茶である、というしかないではないか。
 
 まず存在していたのは、細川邸を適当に改修して、名張地区の特定の住民に特権的に提供する、というぼんやりしたおもわくであった。たぶん名張商工会議所あたりから、細川邸なんとかしろよ、とかケツを叩かれて、じゃあ丸投げすればいいんだろう、みたいなぼんやりしたおもわくが、名張市に生じたのであろう。たとえば、既設の体育館の運営を民間団体に丸投げする。あるいは、新たに保育所を建設して、その運営を民間団体に丸投げする。その程度のことなら、名張市にだって可能である。施設の用途があらかじめ決まっているからである。そういった丸投げは、名張市がむしろ得意とするところである。しかし、細川邸の場合は、いささか事情がちがっていた。用途が決まっていなかったのである。
 
 したがって、細川邸をどんな用途で使用するか、名張市はまずそれを決定しなければならなかった。どうしたのか。丸投げである。丸投げばか、とでも呼んでやってくれ。みずからはなにも考えようとせず、名張地区既成市街地再生計画策定委員会なんてものを発足させて、検討を丸投げしたのである。委員会が出した結論は、細川邸を歴史資料館に、というものであった。脳内妄想である。実現できるはずのない構想である。しかし、名張市はそれでもよかったのであろう。細川邸がなにになろうと、そんなことはどうでもいい。とにかく改修し、丸投げすればそれでいい、みたいなところであったのだろうと推測される次第であるが、なにしろ実現不可能な構想である。歴史資料館構想の具体化を丸投げされた名張まちなか再生委員会は、当然の結果として、構想を早々に投げ出してしまった。細川邸を歴史資料館にはしない、と決めてしまった。だからといって、いい代案が浮かぶわけではない。
 
 その時点で、名張まちなか再生プランを練り直せばよかったのである。おれはそういってやったのである。名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集し、必要なら新しい委員も加えたうえで、細川邸をどうするのか、桝田医院第二病棟をどうするのか、しっかり検討するべきだったのである。むろん、再招集によって、多少の混乱は生じたであろう。しかしそれは、その時点で判明した問題点を解決するための、避けることのできない混乱なのである。そのとき解決にあたっていたら、混乱はその場かぎりのもので済んだのである。ところが、その混乱を避け、問題を解決することなく先送りしてしまったから、混乱は雪だるまのように大きくなりつづけた。いまや、やなせ宿の大混乱は相当なものではないか。先日聞きおよんだところでは、4月に雇用されたやなせ宿の常勤事務員もすでにお辞めになったとの由である。なんだか知らんが、かなり混乱しているのであろうな。
 
 名張まちなか再生委員会は、プランニングのための組織ではない。名張地区既成市街地再生計画策定委員会によってまとめられたプランを実施するための組織である。にもかかわらず、細川邸の活用策を一から検討しなければならない、ということになってしまった。むろん、無理である。そんな能力はない。検討なんか進むはずがない。とりわけ大きなネックになったのは、名張まちなか再生プランにあった「公設民営方式」という文言であったと思われる。いくら細川邸を改修して民間団体に丸投げしても、独立採算で運営できるとは考えられない。だからこの件にかんしても、練り直しが必要だったのである。立ち止まって考え直すことが必要だったのである。それをしなかったから、事態はいよいよひどいことになっていったのである。
 
 どうひどくなったのか。とにかく話がまとまらない。整備後の細川邸、つまりやなせ宿を特権的に提供される民間団体として、名張まちなか再生委員会の平成18・2006年度総会で顔を出してきたのは「NPOなばり」であった。しかし、このNPOがどうにも進退きわまってしまった。だから翌年、つまりおととしの総会では、そのNPOに代わる組織として「まちなか運営協議会」が顔を出した。だが、この協議会による検討も、なかなかすんなりとは進まなかったようである。そのせいで、去年の4月に予定されていたやなせ宿のオープンは、二か月も遅れて6月になってしまった。現在ただいま、やなせ宿の運営は、名張市から委託を受けたまちなか運営協議会が担当している。名張市から支払われる委託料は、昨年度が約百二十万円、今年度が約四百八十万円。つまり、独立採算ではまったくない。しかも、この協議会が正式にはいまだに発足していないことは、すでに述べてきたとおりである。
 
 それで結局、やなせ宿ってなんだったんだろうね、という話になると、癒着結託を基盤とした行政運営モデルの失敗例、みたいなことになるのではないか。失敗の原因は、いうまでもなく、税金で整備して特定の市民に提供する施設の用途が不明だった、ということである。いちばん知恵をしぼらなければならない点をおろそかにし、まあ知恵なんてないんだから無理もない話なのであるが、だれかがなんとかするだろう、みたいな主体性放棄をかましてるから、にっちもさっちも行かなくなってしまった。うすらばか何十人何百人と集めてみたところで、だれにもなんともできないのである。だからまあ、やなせ宿ではいま、名張市名物の癒着結託構造が無残なしかばねをさらしている、ということになるだろう。まちなか再生だの歴史資料館だの、あるいは協働だのといったうわっつらの虚飾はいまやことごとく、はがれ落ち、押し流され、吹き飛ばされ、あとには名張市政の愚昧と腐敗とがふたつながら顔を覗かせている、みたいなところなのだと思う。
 
 平成19・2007年7月
 
 7月30日、おれは名張市の監査委員に「名張市長に対する措置請求書」を提出した。住民監査請求ってやつである。全文はこちら。
 
2007年09月20日:住民監査請求2007
 
 このころには、細川邸も、桝田医院第二病棟も、まちなか再生事業も、そんなもののことはもう、どうでもよくなっていた。というか、どうにもならなくなっていた。この三者がいずれも無惨な結末を迎えることは、すでに避けがたい情勢になっていた。まあえらいものだな、とおれは思ったな。癒着結託構造が名張市政をいいだけ歪めている。だからまあ、住民監査請求のひとつもかまして、警鐘ってやつを打ち鳴らしてやるべきなんじゃねーの、と考えた。で、そこらのNPOが勝手に決めたことにいちいち税金つかっていいと思ってんのかよすっとこどっこい、みたいなことをぶちかましてやった。
 
 請求の参考資料として提出した大河漫才がこれ。
 
 
 平成19・2007年9月
 
 9月20日、名張市の監査委員から住民監査請求を棄却する旨の通知があった。全文はこちら。
 
2007年09月21日:住民監査請求棄却
 
 要するに、そこらのNPOが勝手に決めたことにいちいち税金つかったっていいんでーす、だって協働なんだもーん、ということであった。名張市の癒着結託構造に監査委員がお墨付きを与えた、という寸法である。
 
 平成19・2007年10月
 
 名張市考査委員会による事務事業評価報告書が発表された。
 
 
 「中心市街地活性化事業」は、総合評価が「継続(事務改善)」であった。委員会による意見はつぎのとおり。
 
   
・「まちなか再生委員会」の位置づけが不明確であり、責任主体の明確化が必要である。
・指定管理者の導入は公募を前提とすべきであり、NPO法人への特命は望ましくない。
・計画が楽観論過ぎるので、組織、権利関係を明確にするため、条例の担保が必要である。
・ワークショップとしての位置づけを明確にし、事業決定権は市長にあることを明らかにする必要がある。
 
 NPOに特権的に施設を提供することにたいし、「望ましくない」とのイエローカードが出されている。にもかかわらず、やなせ宿にはいまだに指定管理者制度が導入されていない。名張市ってのは、人の意見に耳を傾ける、ということを知らないのではないか。人の意見が理解できない、ということもあるのであろうが。
 
 事務事業評価報告書では、市民から寄せられた評価も公表された。「中心市街地活性化事業」には、「休止」という評価が出されていた。つまり、そんな事業やめとけよ、と市民からレッドカードが突きつけられたわけである。意見はこんなんであった。
 
   
大学教授や市民ボランティアの委員会が策定された「名張市まちなか再生プラン」のアクションプランの実施は、一般市民には何もみえない状況です。
ただ「細川邸一部解体工事」と推測される「蔵」が無残な姿で現れ、周辺が解体されているのだけが、目に入るのみです。目玉の一つとされた「江戸川乱歩記念館」の建設も中止されたとのこと。市長が地元の期待に応えて、「不退転の決意で実現させる」と公言され、庁内には専任のプロジェクトチーム7〜8名も配置していると聞き及んでいますが、活動の様子も市民には伝わらない。
また、地区の【まちづくり推進委員会】には地元選出の市会議員2名が委員になっているとのことですが、一般市民には、全く状況の分からない「中心市街地活性化事業」になっているのが実情と思われます。
 
 ま、ぼろくそである。なにやってんの? なにがしたいの? 市民には全然わかんない、と市民があきれ返っているのである。しかし、というか、そして、というか、いずれにしても市民の眼にはいまやもう、やなせ宿に癒着結託構造が無残なしかばねをさらしつづけ、市政の愚昧と腐敗とがふたつながら顔を覗かせていることが、このうえもなくありありと映じているのではないかしら。名張市ってのはなんかもうほんと、はんぱなくすげーよな。
 名張まちなか再生委員会の事務局から、きのう、歴史拠点整備プロジェクトチームの会議が開かれる、という通知のはがきが届いた。
 
   
第20回歴史拠点整備プロジェクトチーム会議の開催について
 
 みだしの会議について、下記のとおり開催させていただきますのでご出席賜りますようお願い申し上げます。
 
 
【日時】
平成21年8月18日(火)19:30〜
 
【場所】
名張市役所 4階 405会議室
 
【議題】
1.第5回理事会の報告について
2.プロジェクトの再編について
3.その他
 
 さて、歴史拠点整備プロジェクトチームのみなさんや、四年前の夏に、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 とかなんとかふざけたことほざいてくれた低能はいったいどこのどいつだよ、みたいなことはいいださないから、とりあえず安心してくれ。
 
 平成19・2007年2月
 
 名張まちなか再生委員会に乱歩関連施設整備事業検討委員会とかいうのがつくられて、名張市役所で第一回会合が開かれた。2月1日のことである。招かれたので顔を出し、こんな検討委員会に協力する気はいっさいない、といってきてやった。名張まちなか再生委員会なんてずーっとインチキばかりかましてるのであって、おれにはそんなインチキに荷担する気なんかさらさらないもんね、といってきてやった。
 
 名張まちなか再生委員会の内部でどんな話が進んでいたのか、当時もいまもおれにはよくわからないのだが、桝田医院第二病棟の跡地に乱歩文学館を建設する、みたいなことになっていたようである。しかし、名張市に乱歩文学館なんて必要ない、というのがおれの一貫した主張なんだから、お呼びいただいても役には立てない。おれの考えは、名張市に提出したパブリックコメントに記したとおりである。桝田医院第二病棟の地には乱歩の生家を復元し、細川邸は乱歩の関連資料なんかも展示した市立図書館ミステリ分室にすればいいのである。
 
 いつもいうことだけど、乱歩と名張はほとんど無縁なのである。唯一の接点が、新町にかつて乱歩の生家が存在し、そこに生誕地碑が建立されたという事実なのである。そうした事実を根拠として、市立図書館は開館準備の段階から乱歩関連資料を収集し、それにもとづいて江戸川乱歩リファレンスブックの刊行などの事業を積み重ねてきたのだから、名張市が乱歩にかんしてなにをやるにしたって、そうした地道な蓄積を基盤とするべきなのである。それがおれの考えである。それにだいたいが、桝田医院第二病棟が位置しているのは人家の建て込んだ一画であって、ああいった場所に人を長く滞留させる文学館なんてつくるべきではない。無理がありすぎる話である。
 
 しかし、おれのパブリックコメントは、あっさり無視されてしまったのである。おれの提案を検討すべき時期なんて、とっくの昔に過ぎてしまっていたのである。細川邸は初瀬ものがたり交流館にいたします、桝田医院第二病棟には乱歩文学館を建設いたします、みたいなことを名張まちなか再生委員会がなんの根拠も権限もなく勝手に決定し、さあ協力してくださいと虫のよすぎることをいってきてくれたところで、おれにはできることなんてなにもないわけなのよ。それにこら、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 とかなんとかふざたけことほざきやがったのはてめーらじゃねーかばーか。この期におよんで、にっちもさっちも行かなくなってから泣きついてきてんじゃねーよばーか。いよいよ外部の人間の話を聞く段階がやってまいりました、みたいな話が通用するとでも思ってんのかばーか。とにかくもう、ばーか、といってやるしかなかったわけな。それで結局、乱歩関連施設整備事業検討委員会はこれっきりでおしまいになり、二度と開かれることがなかったのである。
 
 平成19・2007年6月
 
 6月2日、名張まちなか再生委員会の新年度総会が開かれた。おれはこの日、神戸文学館で開催されていた企画展「探偵小説発祥の地 神戸」に足を運び、名張市立図書館のお宝蔵書のひとつである横溝正史の『真珠郎』がちゃんと展示してもらってあるのを確認して、企画展関係各位と酒を飲んでから帰宅した。総会のことなど気にもとめていなかった。
 
 翌3日付の毎日新聞ウェブニュースを無断転載しておく。
 
   
名張まちなか再生委:総会で乱歩施設巡り紛糾 事業計画案、承認先送り /三重
 
 官民一体で名張市の活性化推進を目指す「名張まちなか再生委員会」(田畑純也委員長)の07年度総会が2日、同市役所で開かれ、関係者約50人が出席した。市財源での実現が困難とされる江戸川乱歩顕彰施設の整備計画を巡り議論がまとまらず、今年度の事業計画案は、同事業を除いて承認される異例の事態となった。【傳田賢史】
 
 冒頭、来賓として出席した亀井利克市長が「全国に例のない試み。住民が支えあう、まちなか再生を成功させたい」と力説した。その後、今年度役員の改選や、施設整備後の管理運営に当たる「まちなか運営協議会」設置が承認された。
 
  続いて、事業計画案の検討に入った。乱歩関連施設整備事業で、生誕地の「旧桝田医院第2病棟」(同市本町)の解体工事費などに計950万円が計上された計 画案に対し、出席者から「昨年度の計画案では乱歩文学館の整備が明記され、総会で承認もされた。変更に関し、なぜ何の情報もないのか」「市長が『乱歩』を どうしたいのかが見えてこない」などと不満の声が相次ぎ、承認が先送りされた。
 
 総会後、同市の荒木雅夫・まちなか再生担当監は「予算の制約や、建設後の維持管理費などを考えると、市としては難しい」と話した。
 
 同委は、乱歩事業に関して改めて役員会を開いて方向性を決めた上で、臨時総会を開く方針。
 
 6月13日、名張市6月定例会の一般質問がはじまった。翌14日、読売新聞伊賀版のトップにこんな見出しが躍った。五段抜きであった。
 
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 産経新聞は四段抜きでこう。
 
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 同日付の中日新聞ウェブニュースを無断転載。
 
   
江戸川乱歩の生家復元計画を断念 名張市長が表明
 
 名張市の亀井利克市長は十三日、本町の旧桝田医院第二病棟跡地に地元出身の作家江戸川乱歩の生家を復元して「乱歩文学館(仮称)」を整備する計画を断念し、跡地は広場として記念碑を建立する程度にとどめる考えを示した。市議会一般質問で明らかにした。
 
 亀井市長は「二〇〇六年度のまちなか再生委員会総会で、生家復元をイメージした乱歩関連施設の整備に向け、施設計画や維持管理運営方針などを検討していくことになったが、その後、住環境面への配慮や維持管理費の在り方などから、市として施設整備計画を見直すことになった」と説明した。
 
 跡地は「広場として乱歩生誕地碑や生誕の証しが分かるモニュメント的な整備にとどめ、乱歩顕彰の場として整備する方向でまちなか再生委員会役員会などと引き続き協議を進めたい」との考えを示した。
 
 旧桝田医院第二病棟の土地約四百平方メートルと木造平屋の建物約二百六十平方メートルは〇四年十一月に所有者の桝田寿子さんから「まちづくりに生かして」と市に寄贈があった。近くに乱歩の生家があったことから敷地内に乱歩の生誕地碑が建つ。
 
 市と跡地利用法について協議していた乱歩顕彰グループ「乱歩蔵びらきの会」の的場敏訓代表は、市既成市街地の活性化策を企画立案する官民協同組織・名張まちなか再生委員会の総会で「乱歩文学館整備は決まったこと」とし「覆すにしても再生委員会などときちっと話し合って決めるべきであり、納得できない」と話している。
 
 (伊東浩一)
 
 うすらばかがうすらばか寄せ集めて大騒ぎしたあげく、とどのつまりがこのざまなのである。つける薬もありゃせんがや。
 
 いやいや、とどのつまりもくそもないのである。こうなることは最初っからわかっていた。名張まちなか再生委員会には、乱歩関連施設構想を具体化する能力なんてまったくなかったのである。ついでにいえば、歴史資料館構想にかんしても同様である。初瀬街道からくり館だの、初瀬ものがたり交流館だの、その場その場の思いつきで看板の名称をころころ変えてみることしかできない。最終的にはやなせ宿という看板を掲げたものの、その実態は無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館と呼ぶしかないしろものなのである。乱歩文学館もおんなじことで、看板の名称を考えることまでしかできない。その先はまるで考えることができない。企画力もなければ発想力もなく、それ以前になんの知識も見識もない。そんなことは最初からわかりきったことではないか。
 
 名張まちなか再生委員会の発足直後、会員名簿に眼を通して、こんな連中に歴史資料館のことなんか考えられるわけねーじゃん、と思ったから、おれは委員会の規約にのっとって、乱歩のことをレクチャーするための場を設けるように要請した。その申し出にたいし、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 とかなんとかふざけた返答しかできないんだから、名張まちなか再生委員会にはそもそも、歴史資料館構想に携わる資格さえなかった、というべきであろうな。ばーか。
 
 名張まちなか再生委員会もばかであるが、名張市もまたばかなのであって、いちおうの図式としてはこうである。
 
名張まちなか再生委員会
 ↓
名張市
 ↓
名張市議会
 
 名張市は名張まちなか再生委員会にたいし、桝田医院第二病棟をどう活用すればいいのか、そこにどんな乱歩関連施設をつくればいいのか、検討をゆだねていたわけである。だというのに、委員会側の結論が出ていない段階で、乱歩文学館は断念いたします、みたいなこと口走ってどうするよ。名張市にはものの道理がわかっておりません、名張市は委員会の自立性や主体性を認めておりません、委員会なんて行政の手駒でございます、名張市のいってる協働なんてこの程度のものでございます、ひとことで申しあげますならば、名張市はあほなのでございます、あらあらかしこ、みたいなことをみずから暴露してしまってどうするよ。乱歩文学館とやらを断念するなら断念するで、名張まちなか再生委員会と話をつけるのが筋ってもんじゃねーか。
 
 いやいや、筋もくそもないか。なにしろ、おれがふと思いついて委員会の事務局に確認するまで、桝田医院第二病棟にかんする進捗状況の報告その他、名張市は桝田敏明先生のご遺族になんの連絡もさしあげてなかったってんだからな。つける薬もありゃせんがや。こうなるともう、名張市にはそもそも、桝田医院第二病棟の寄贈を受ける資格さえなかった、というべきであろうな。ばーか。
 いやー、飲み過ぎ飲み過ぎ。きのうはお盆だからって昼間っから酒くらっちゃってさ、きょうはもうしんどいしんどい。しかし、しんどくてもつづける。
 
 平成17・2005年10月
 
 この年、いつのことであったか、名張のまちをぶらぶらしていたとき、細川邸は歴史資料館にはならないらしい、との風聞を耳にした。とんでもないことだな、とおれは思った。名張まちなか再生委員会という組織は、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 なんてこといってくるくらいだから、とんでもないばかであることには間違いがないのであるが、名張まちなか再生プランがどんなふうにして決められたのか、それすら理解できておらんのではないか、とおれには思われた。ちょっと図式化してみる。
 
名張地区既成市街地再生計画策定委員会
 ↓
名張市議会
 ↓
名張市民
 ↓
名張市
 
 まず、策定委員会がプランの素案をまとめた。名張市はその素案を市議会の重要施策調査特別委員会に示し、市議会議員による検討がおこなわれた。そのあと、名張市は素案を公開して、市民のパブリックコメントを求めた。それだけの手順を踏んで、最終的に名張市がプランを決定したのである。プランの内容はひどいものだが、決定にいたるプロセスには問題はない。正当な手続きを経て決定されたプランである。でもって、名張まちなか再生委員会には、この決定を覆す権限なんかいっさい与えられておらんのである。つまり、図式化すればこんな感じ。
 
名張地区既成市街地再生計画策定委員会
 ↓
名張市議会
 ↓
名張市民
 ↓
名張市 → 名張まちなか再生委員会
 
 名張まちなか再生委員会は、プラン策定のためのラインには位置していない。決定されたプランの実施組織として、名張市が発足させた委員会なのである。むろん、諸悪の根源は名張まちなか再生プランである。細川邸を歴史資料館にいたします、などという脳内妄想を並べたプランを決定してしまった名張市がいけない。ばかである。ちっとはものを考える癖もつけような、みたいな話なのである。歴史資料館なんて、最初っからできっこなかったのである。それはわかる。それはわかるが、名張まちなか再生委員会に歴史資料館構想を変更する権限はない。あるわけがない。
 
 あとになって、名張市に公文書公開請求を提出して議事録を入手したところ、この年7月29日に開かれた歴史拠点整備プロジェクトの第二回会合で、こんなことが決定されていた。
 
   
1. 決定事項
 ・細川邸は、歴史資料館ではなく“(仮称)初瀬街道からくり館”を基本テーマとする。
 
 とんでもない話である。枝葉末節の問題ではない。細川邸の問題である。プランの目玉の問題である。くり返しいうけれど、細川邸を歴史資料館にいたします、などという脳内妄想を実現することが不可能であるのは最初から知れていた。だから、歴史資料館構想に変更を加えなければならないというのは、現実問題としてはよく理解できる話である。だがそれは、所定の手続きを踏んで決定されたことなのである。市議会と市民のチェックを経て、名張市が決定したことなのである。その決定を、名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトが、つまりごくごくわずかな数の人間が、市民の眼の届かない場所で、だれに相談することもなく、報告することもなく、まったくの独断でひっくり返せるわけなんかありゃせんのである。
 
 こうなると、問題はまちなか再生事業のみにはとどまらない。ここ名張市において、決定というのはいったいなんなんだよ、という問題になってくる。なんでもありかよ、という話になってくる。で、こういう話になってくると、名張まちなか再生プランにはなにも記されていなかった桝田医院第二病棟の活用策を、なんでもありの歴史拠点整備プロジェクトが検討してるってのも明らかにおかしな話だよなあこら、という点も指摘せざるをえなくなってくる。だから、まあいちいち書きだせばきりがないほどいろいろなことがあったのだが、ごく簡単に概略だけをたどっておくと、この年10月、おれは事務局にたいして、名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集し、プランを練り直させるように要請した。せっかくおまとめいただいたプランではございますが、残念ながらてんでつかいものになりませんので、恐れ入りますが細川邸と桝田医院第二病棟の活用策をご検討ください、といってやれよといってやった。
 
 平成18・2006年1月
 
 年が明けた。名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集する話は、いっこうに進まなかった、だからおれは、この年1月、名張まちなか再生委員会の当時の委員長から面談の機会を頂戴して、善処をお願いした。にもかかわらず、事務局からはうんともすんともいってこない。
 
 平成18・2006年5月
 
 あっというまに5月になった。ようやく、事務局から返答があった。前年10月に要請した名張地区既成市街地再生計画策定委員会の再招集は、できません、とのことであった。むろん、できるわけがない。てめーらのつくったプランが無茶苦茶だからこちとら苦労してんだよばーか、などということを、事務局が策定委員会にいいだせるわけがない。そんなことはわかっておるのだから、返答くらいとっととしろよ、という話なのであるが、再招集できないということが確認できたのだから、こちらはつぎの手をくり出すまでである。おれは事務局に、それなら行政が主体性を発揮してみろよ、といってやった。要するに、こういうことである。
 
名張地区既成市街地再生計画策定委員会
 ↓
名張市議会
 ↓
名張市民
 ↓
名張市
 
 名張市は、市議会と市民から素案にたいする意見を求めたうえで、最終的にみずからの判断でプランを決定したのである。だから、そのプランに不備があり、策定組織を再招集できないというのであれば、行政が主体性を発揮して、みずからの責任でプランに変更を加えればいいのである。あのプランはつかいものになりませんでしたので、ちょちょいのちょいと変更を加えました、と市議会ならびに市民に報告するだけでいいのである。それが行政の責任ってやつなのである。その程度のことは、市長裁量の範囲内でいくらでもかたがつくはずではないか。しかし、その程度のこともできんのである。名張市にはその程度のことすらできなんだのである。やれやれ、どーしよーもねーなーまったく。ことここにいたってしまっては、さすがのおれにももう、名張市と名張まちなか再生委員会にたいして、好きなだけインチキかましてろばーか、といってやること以外、できることはなくなってしまったのであった。
 
 平成18・2006年6月
 
 6月18日、名張まちなか再生委員会の総会が開かれた。おれにはなんのかかわりもないことである。
 
 
 名張市公式サイトに掲載されている「平成18年度総会添付資料」によれば、この日の総会において、名張まちなか再生プランにこんなふうな変更が加えられた。アンダーラインは変更または追加された箇所。
 
   
 市民に何ども足を運んでもらえる『初瀬ものがたり交流館』とするために、江戸時代の名張城下絵図など名張地区に関係の深い資料を展示するほか、市民が関われる利用方法を工夫します。たとえば、芭蕉生誕360年祭のからくりコンテストのようなイベントで展示した作品、市民文化祭や市の美術展の出品作、個人や文化サークルなどが作成した作品(例:能面、絵画)を展示したり、小波田地区の「子供狂言」などを招致したり、名張地区以外の市民も参加できる方法が考えられます。また、庭に面した風格ある和室を冠婚葬祭や茶会など、市民も利用できる方法を検討します。市民が関わることのできる場と機会を提供することによって、主催者としてあるいは参加者としてさまざまな市民の来館が期待できます。
 管理運営を担う民間組織には、リピーターが確保できるような企画運営能力をもつことが期待されます。『初瀬ものがたり交流館』の立ち上がり期には、(仮称)NPOなばり(実行委員会)が中心となって、円滑な施設の管理運営に取り組みます。
 また所有者より寄贈のあった乱歩生誕地碑に隣接する桝田医院第2病棟は、江戸川乱歩関連施設として整備を行い、『初瀬ものがたり交流館』との相乗効果を図ります。
 
 プランに記されていた「歴史資料館」は、前年7月の歴史拠点整備プロジェクトの会合では「初瀬街道からくり館」ということにされたのだが、この総会ではさらに「初瀬ものがたり交流館」に変更され、その「初瀬ものがたり交流館」とやらを名張市から特権的に提供される民間団体として、「NPOなばり」がぬーっと顔を出してきた。そして、プランにいっさい言及がなかった桝田医院第二病棟には、「江戸川乱歩関連施設」とかいうものが整備されることになった。これらは、名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトに所属するごく少数の人間が、市民の眼も届かなければ声も届かない場所、いってみれば完全な密室の内部で、完全な独断によって決定したものなのである。
 
 乱歩関連施設について述べておくと、桝田医院第二病棟の跡地にそんな施設を建設するというのであれば、つまり、名張まちなか再生プランではなぜか白紙の状態でございましたので、手前ども名張まちなか再生委員会がちゃっちゃと決めてしまいました、というのであれば、本来はこういったプロセスが必要とされるはずである。
 
名張まちなか再生委員会
 ↓
名張市議会
 ↓
名張市民
 ↓
名張市
 
 しかし、こんなプロセスはいっさいなかった。いやまあ、なにもおれだって、こんなプロセスを実現しろとまではいわない。本来ならば、という話をしているだけである。で、なにがいいたいのかというと、ただそれだけの話である、ということなのである。名張まちなか再生委員会が桝田医院第二病棟の跡地に乱歩関連施設を建設することを決めました、といってみたところで、そんな決定はただそれだけのものであり、それが正式な決定となるまでには、こういったプロセスが必要になる。
 
名張まちなか再生委員会
 ↓
名張市
 ↓
名張市議会
 
 名張まちなか再生委員会が乱歩関連施設について最終的な結論を出す。名張市はその結論を検討し、これでよしということになったら、事業化の準備を進める。乱歩関連施設を建設するための予算案をまとめ、市議会に提案する。その予算が認められた時点ではじめて、乱歩関連施設の建設が正式に決定されたということになるのである。だから、名張まちなか再生委員会による乱歩関連施設にかんする決定は、ただそれだけのものだったのである。それでもってまあ、いうまでもないことをあえていっとくと、こんな決定、おれにはなんの関係もないものであった。知ったことかよばーか、いいだけインチキかましてろばーか、みたいなことでしかなかった。
 きのうのつづき。盆でもつづける。まちなか再生事業の検証をつづける。しかしまあ、ここまでですでに結論は出てるわけで、諸悪の根源は名張まちなか再生プランであり、そこらのうすらばか寄せ集めてあんなプランつくらせたのが間違いだったのである。以前からいってるとおり、第一歩から間違ってたのである。というより、そもそも、細川邸を適当に改修して特定の地域住民に提供するというのが事業の大前提だったわけだから、第一歩を踏み出す以前から間違ってたっていったほうが正確か。まあとにかく、名張市なんてわけのわかんないことばっかやってるわけなのである。
 
 平成17・2005年8月
 
 ここで訂正。おれはきのうのエントリで、名張まちなか再生委員会の事務局から、歴史拠点整備プロジェクトのためのレクチャーにかんして、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 との電話があったのは7月29日のことだと記した。しかし、これはおれの間違いで、じつは8月2日のことであった。7月29日は歴史拠点整備プロジェクトの第二回会合が開かれた日で、この会合においておれの申し入れ、つまりレクチャーのことが話し合われ、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 という結論が出された。それが8月2日に伝えられた、という寸法だったのである。しかし、それにしても、ほんと、おれは腰を抜かしそうになったぞ。なにしろ、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 なんてこといってくんだからなあ。よほどのばかでも、ここまでばかなことはいえないと思う。名張まちなか再生委員会がここまでばかだとは、さすがのおれも察することができなかった。なーにが「現段階では」だばーか。歴史資料館をどうすっぺや、という検討がはじまった段階だからこそ、そのために必要なことを教えてやろうっつってんじゃねーか。なーにが「外部の人間」だばーか。委員会の内部の人間がうすらばかばかりだから、必要な知識や情報を外部から注入してやろうっつってんじゃねーか。なーにが「話を聞く考えはない」だばーか。ばかが上から目線で偉ッそうなことほざいてんじゃねーぞばーか。しかしまあ「考えはない」というのはまさしくそのとおりで、なんの考えもないままに事態はするする推移して、歴史資料館あらためやなせ宿も、桝田医院第二病棟あらため乱歩生誕地碑広場も、なんかもうとんでもないことになってしまったじゃねーか。「考えはない」なんてこといってないで、少しは考えろよばーか。
 
 少しは考えろよばーか、とかいまごろいってやっても手遅れなのであるが、やなせ宿ならびに乱歩生誕地碑広場の惨状をみるにつけ、おれのパブリックコメントが実現されていたら、展開はまったくちがったものになっていたわけなんだよな、とため息まじりに思わざるをえない。もしも実現されていたら、桝田医院第二病棟の地には乱歩の生家が復元されていたのである。こんな簡単なことが、どうして名張市にはできなかったのか。名張に乱歩の生家が復元されました、なんてことを全国発信できたとしたら、それを受信した人間には、たとえかなりのばかであっても、あ、生家があるというのだから、名張は乱歩の生誕地なんだな、という程度のことは理解できるのである。そのことだけで、名張市のPRにはおおいに役立っていたはずなのである。むろん、乱歩の生家という眼にみえるものが生まれたら、いわゆる観光スポットにだってなっていたのである。
 
 しかも、その乱歩の生家から歩いてすぐのところに、名張市立図書館ミステリ分室ができていたのである。いまの市立図書館は平尾山のてっぺんにあるから、名張のまちの人が歩いていける施設ではない。とくに高齢者と呼ばれる人にとっては、距離があるうえに急な坂道をのぼりおりしなければならないこともあって、身近な施設では全然ない。名張地区に存在しているのに、名張地区住民からは遠い図書館、みたいなことになってしまっている。だから、細川邸を市立図書館の分室にするというだけで、そこには少なからぬ意義が生じてくるわけだし、しかもこれが日本にただひとつしかないミステリ専門の公立図書館、それも古い民家をリフォームした図書館で、それがなんとわが国における探偵小説の父と呼ぶべき江戸川乱歩が生まれた町にあるというのだから、こんな面白い話はないではないか。だいたい名張市ってのは、注目されたいとか、誉められたいとか、そういう傾向の強い自治体なんだから、だったらおれのパブリックコメントを採用することで、おおいに注目されたり誉められたりすることになっていたはずなのだが、残念だったなインチキ自治体。
 
 そういえば、おれのパブリックコメントでは、名張市立図書館ミステリ分室は基本的に新刊を購入せず、全国のミステリファンから蔵書の寄贈を受け付けて書架の充実を図る、みたいなことになっている。おれがパブリックコメントを提出した年の翌年にあたる平成18・2006年、改革自治体として知られる福島県の矢祭町が、というか、現在ただいまは住民基本台帳ネットワークへの参加を拒否しつづけていることで話題になっている矢祭町が、全国から図書の寄贈を募って町立図書館を開設するという試みに着手し、それこそ全国的な注目を集めたものであった。だから、もしも名張市がそれに先がけてミステリ分室構想を進めていたら、改革自治体としてもぐーんと株があがっていたはずだったのだが、残念だったなインチキ自治体。
 
 とにかく、細川邸にかんしては、とりあえず市立図書館のミステリ分室ということにしてしまって、あとはもう好きなようにつかいまわせばよかったのである。おれなんて、パブリックコメントには書かなかったけれど、ミステリ分室の一画で酒を飲ませてもいいな、とかも考えていた。ショットバーRAMPO、なんちゃってさ、立ち飲みしかできないカウンターを設けて、出るのはウイスキーとビールだけ、つまみも落花生だけにして、とかいいだすと公立図書館でアルコールを提供するのはいかがなものか、みたいなこといいだすばかが出てくるのであるが、こんなばかのいうこと聞いてたらなんにもできんぞ実際。先日ご閲覧に供した徳島県の小西昌幸さんから頂戴したメールに、いったいなんと書かれてあったか。
 
   
私の本音は、
誰か(たとえば自治体関係者)の強力なリーダーシップと、
誰か個人のよほど奇抜なアイデアが、
奇跡のように有機的に結びついたとき
はじめて、面白いこと(地域活性化)ができる【かもしれない】、
という考えです。
 
 人が聞いたら耳を疑ってしまうような奇抜なアイデアこそが、地域を活性化する可能性を秘めているのである。四角四面で杓子定規で、手あかのついたことしか考えられないうすらばかを何十人何百人と集めてみたって、なにもはじまりはしないのである。せいぜいが、歴史資料館をつくりましょう、みたいな月並みなことしか考えられなくて、おかげでこのざまじゃねーか。おれが提供した奇抜なアイデアを真剣に検討して、それなりのリーダーシップを発揮できる人間がいさえすればなあ、と悔やまれる次第なのであるが、いやいや、べつに人のせいにするわけではなくて、おれだってその気になればかなりのリーダーシップを発揮することが可能なのであるが、いかんせん権限がない。まるでない。ならば、権限をもっている人間はどうなのかな、とみてみると、リーダーシップなんてどこにもないのである。丸投げシップでこりかたまってやがる。だから結局、どうにもならなかったのである。ほんと、いろいろな意味で残念だったなインチキ自治体。ていうか、百年に一度のチャンスをむざむざピンチに変えてんじゃねーよすっとこどっこい。
 
 いやはや、いくら記しても愚痴でしかない。すべては終わってしまったのである。夢のように過ぎてしまったのである。四年前の3月、おれが提出したパブリックコメントを名張市があっさり蹴ってしまい、おなじ年の8月、おれの申し入れを名張まちなか再生委員会が、
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 とあっさり蹴ってしまった時点で、すべてはおしまいになっていたのであるが、ここでつらつら考えてみるに、あの四年前の夏には、もしかしたら名張市全体がおかしくなっていたのかもしれないな。軽く発狂していたのかもしれないな。なにしろ、名張市議会議員の先生がた二十人が、暑さのさかりの大阪は道頓堀でこんな狂態を演じてくれたのである。
 
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 しかしこれは、発狂と呼ぶべきほどのものでもないか。なんつったって名張市議会の先生がたなのだから、単にあほなのである、と考えたほうが自然かもしれない。その点、こっちは発狂といっても支障あるまいと思われるのが、やはり四年前の夏、細川邸の裏に現出されたこんな光景である。
 
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 なんかもう、いいだけきちがいじみてるよな。この一件にかんしては笑える話が山のようにあるのだが、きょうのところは武士のなさけでスルーしてやることにして、とにかくもう、あの夏、あの四年前の夏、あの夏ですべてがおしまいになってしまったのである。おれとしてはあの時点で、名張市にたいしても、名張まちなか再生委員会にたいしても、ばーか、死ぬまでばかやってろばーか、みたいな感じになってたわけなのである。そうすると、名張まちなか再生委員会がまた、唖然とするほどばかなことをしでかしてくれたものだから、おれはどうにも黙ってらんなくなったのである。
 きょうもきのうのつづき。
 
 平成17・2005年3月
 
 3月15日、おれは名張まちなか再生プランの素案にたいするパブリックコメントを提出した。プランには桝田医院第二病棟の活用策が記されていなかったのだから、寄贈の橋渡しをした人間としては黙ってるわけにはいかない。もうひとつ、細川邸を歴史資料館にするというでたらめな構想には、やはり釘を刺しておく必要があるだろうな、とも思った。というか、細川邸は乱歩にちなんで活用するのが最善の道である、とおれは考えていたわけね。そもそもあの細川邸、ろくなつかいみちがなかった、というのが正直なところだろう。プランに示された結論が歴史資料館という月並みきわまりないものだったのも、ま、無理からぬ話ではあったのである。だから、乱歩が生まれた新町にあるんだから、まるごと乱歩関連で活用すればいいではないかというのは、それなりに筋の通った考えかたである。
 
 乱歩関連で活用する、なんてこというとすぐ、やれ乱歩文学館だの乱歩記念館だの、短絡的なことしか考えられないばかが湧いてくる。しかし、さいわいなことに、おれはそこまでのばかではなかったから、細川邸は名張市立図書館のミステリ分室にすればいい、と考えた。なにかというと乱歩文学館とか乱歩記念館とか口走る連中は、なにしろばかなものだから、そういった看板を思いつくことしかできない。そこまでで思考が停止してしまう。文学館だの記念館だの、そんなものつくってなにすんの? と尋ねても答えることができない。市立図書館の分室ということになれば、図書館業務という基本のうえに、全国向けにも市民向けにも、さまざまな事業を展開することが可能なのである。名張市の身のたけや身のほどにぴったりフィットした施設でもある。でもって、もうひとつのポイントとして、桝田医院第二病棟の地には乱歩の生家を復元すればいいのである。これがパブリックコメントの内容であった。
 
 しかし、単に脳内妄想を並べただけのものであったとはいえ、わざわざ名張地区既成市街地再生計画策定委員会なんてやつを発足させ、いっちょまえにかっこつけて提出された素案なのである。その目玉である歴史資料館構想を根底から覆してしまう、なんてことは逆立ちしたって不可能なわけさ。そんなことはわかっていたけど、だからっつってなにもせんわけにはいかんのよな。徒労とは知りつつ、パブリックコメントを提出した。案の定、素案にはなんの修正も加えられなかった。この時点で、話はすでに終わっていたのである。おれのパブリックコメントを葬り去ったその時点で、先日も記したとおり、乱歩にかんする百年に一度とも呼ぶべき絶好のチャンスを、名張市はすっかりおじゃんにしてしまったのである。
 
 まちなか再生事業では、少しあとになって、市立図書館が寄贈を受けた書籍でミステリー文庫を、なんて構想が話題にされることになるのだが、あんなものは要するに、おれがパブリックコメントで示した提案のごく表面的な劣化コピーに過ぎない。図書館の寄贈本のことなんて、市民はおろか市職員だって知るはずのないことなんだから、元ネタがおれの提案だったことは火をみるよりも明らかなのである。そんなことだったら最初から、おれのアイデアを容れて素案を修正しておけよな、ということになるのだが、それは無理だったはずである。先述した理由以外に、名張市がまちなか再生事業でもくろんでいたのは、きのうも記したごとく、細川邸を適当に改修して特定の地域住民に提供することだったはずだからである。そんなところに市立図書館の分室なんてアイデアをもちだしても、名張市にはとても受け容れることはできなかったはずである。いやもう、なにしろお役所の人たちである。提案を理解することさえできなかったのではないか。
 
 もうひとつ、プランにあった「歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします」との文言について記しておく。公設民営というのは、おそらく、施設の整備は名張市がおこなうが、完成後の管理運営は民間団体が独立採算でやれ、ということであろう。プランを一読して、おれはそう判断した。だとすれば、はなから無理な話である。一般の商店経営さえ成り立たなくなり、シャッターストリート化やパーキングストリート化が進んでいる名張のまちに、せこい歴史資料館なんてのをつくってみたところで、民営なんかできるわけがない。まちなか再生のために施設を整備いたします、というのであれば、あくまでも市の責任で運営いたします、という程度の覚悟はどうしたって必要であろう。虫のいいことばかり並べても、そうは問屋が卸してくれないはずである。というか、実際に卸してくれなかったから、歴史資料館あらためやなせ宿ではいまもてんやわんやがつづいているのである。
 
 ともあれ、おれのパブリックコメントがこれである。
 
名張人外境:僕のパブリックコメント(pdf)
 
 平成17・2005年6月
 
 6月26日、名張まちなか再生委員会の結成総会が開かれた。おれはこの日、用事があって東京にいた。名張に帰って、新聞の報道で委員会のことを知った。へーえ、いちど事務局へ挨拶にあがんなきゃな、と思った。
 
 平成17・2005年7月
 
 7月1日、おれは名張市役所四階にある名張まちなか再生委員会の事務局を訪れた。名張まちなか再生プランには、細川邸を歴史資料館として整備し、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示」すると書かれてあるのだから、当時、名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託を務めていた身としては、知らん顔もできないのである。というか、いっぺんくらい図書館に顔を出せよな、という話だったのである。市立図書館には、郷土資料室もあれば乱歩コーナーもある。だというのに、名張まちなか再生プランをまとめた名張地区既成市街地再生計画策定委員会のみなさんは、ただのいちども市立図書館に足を運んでくれることがなかったのである。当時の市立図書館長に確認したことだから、これは間違いのない事実である。うすらばかというのはまったく恐ろしいもので、実際にどんな資料が存在しているのかすら確認しようとせず、ほんとに脳内妄想だけで歴史資料館構想をぶちかましてくれたのである。うすらばかがうすらばか寄せ集めて大騒ぎしてみたところで、しょせんこの程度のことなのである。
 
 名張まちなか再生委員会の事務局で、おれは総会資料と会員名簿に眼を通した。あ、こういうメンバーなら、やっぱおれがいろいろアドバイスしてやんなきゃな、と思った。しかも、名張まちなか再生プランではいっさい言及がなかった桝田医院第二病棟にかんして、委員会の歴史拠点整備プロジェクトが「桝田医院第2病棟跡地活用事業」を担当することになっていた。腑に落ちぬことではあったが、そういうことにするしかなかったのであろう。となると、いよいよ、乱歩にかんしておれがいろいろ教えてやらなければならんではないか。そこで委員会の規約をみてみると、「チーフは、必要があるときは、構成員以外の者の出席を求めて意見を聴くことができる」とあったから、この条項にのっとり、歴史資料館と桝田医院第二病棟を担当する歴史拠点整備プロジェクトを対象にしたレクチャーの場を設けるように、と事務局に要請した。
 
 一か月近くが経過した。7月29日のことである。事務局から電話があって、レクチャーの場にかんする回答がもたらされた。こんなんであった。
 
 「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
 
 おれは腰が抜けそうになった。

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