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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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きのう、名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトから、はがきが届いた。「第17回歴史拠点整備プロジェクト会議の開催について」とある。

   
みだしの会議について、下記のとおり開催させていただきますのでご出席賜りますようお願い申し上げます。
なお、出席・欠席の連絡につきまして、事務局まで電話・FAXでご連絡いただきますようお願い申しあげます。
日時:平成20年12月8日(月)19:30〜
場所:名張市役所3階 302会議室
議題:
1.臨時総会に向けた理事及び委員の確認について
2.その他

どうも、ようわからん。近く、といったってどうせ年明けではあろうが、臨時総会が開かれるらしいことはわかる。だが、だからといって、なぜいまごろ「理事及び委員の確認」などといったことをせねばならんのか。それにまた、どうして事前に出欠を連絡しなければならんのか。そんなことはこれまで、当方の知るかぎりでは、ただの一度もなかったはずである。それにだいたい、月曜の夜7時半から会議なんかやられた日には「水戸黄門」がみられぬではないか。いったいなにを考えておるのか。
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なんかもうあれである。いやである。やなせ宿を話題にすることじたいがいやである。いやんばかんのやなせ宿、みたいな感じになってきているのであるけれど、つらつら思い起こして考えてみるに、名張まちなか再生プランの素案が発表されて以来ということになるのだから、思いもかけず長いつきあいとはなった。つきあいが長くなれば愛着も深まる道理であるし、だれからも望まれることなく生まれてきた子供だという境涯のふびんさもあいまって、なんとかしてやりたいと考えるのが人の情、甲斐もなく微力を尽くしてきた次第であるが、もうどうしてやることもできない。つきあいもそろそろおしまい、といったことになりそうである。

いかんいかん。きのうからなぜか別れ話モードである。こんなことではいかんのじゃが、ともあれ、やなせ宿の整備事業は明らかな失敗に終わった。大失敗じゃ。そしてその失敗は、やはり事業の最高責任者がしっかりどっしり引き受けるべきものである。あたりまえの話である。それにそもそもあれである。失敗といったって、こんな失敗はごくごくかわいいものである。抱き寄せて頬ずりしてやりたいくらいの失敗ではないか。しかもありがたいことに、失敗をフォローできる可能性はまだ残されている。やなせ宿の運営にはいまだ不確定要素が多いのだから、現時点において最良の善後策を講じることで、もしかしたらマイナスをプラスにかえることもできるのではないか。

とはいえ、きのうも記したとおり、名張市長にリーダーシップを発揮していただかなければどうしようもない。だというのに、そんな気配はまったくみえない。それができる権限を手にしており、それをなすべき立場にもいらっしゃるというのに、たとえばきのう引いた今年度の施政方針にあるごとく、やなせ宿なんてまったくの他人ごと、みたいな感じなのはどうしたことか。理解できない。むしろリーダーとしての腕のみせどころではないかとさえ思われるのであるが、ほんとにどうしたことなのか。もっとも、リーダーシップの裏づけとなる求心力の問題に眼を転じてみても、ちょっとどうかなと思われぬでもないから、ま、結局はこんなところか。

しかし、検証だけはせねばなるまい。不可欠である。やなせ宿の整備事業はどうして、かくも無惨な失敗に終わったのか。その点を検証して今後にいかすこと、二度とおなじあやまちをくり返さないよう努めることが、関係各位には望まれるはずである。だが、これも無理か。過ぎたことごちゃごちゃいったってしかたねーじゃねーか、とか、責任のなんのといまから犯人捜ししてどーする、とか、いーんだよおれの腹が痛んだわけじゃねーんだから、とか、そんなこといってうやむやにしてしまおうとする連中が多いのであろうな。

しかたあるまい。深く反省すべき関係各位になりかわり、というよりは、事業の最高責任者になりかわり、当方が反省点をあげておくことにする。反省点は、ななつある。名張市ななつの大罪、といったところか。

ひとつ、ただの思いつきだった。

ふたつ、なにも考えなかった。

みっつ、すっとこどっこいに丸投げした。

よっつ、勝手な都合を押しつけた。

いつつ、すっとこどっこいの迷走を放置した。

むっつ、わけがわからなくなった。

ななつ、知らん顔をした。

こういったところであろうか。ななつの大罪それぞれについて、死ぬほどくわしく述べることはもとより可能なのであるけれど、なんかもういや、いやんばかんのやなせ宿。

といったような次第である。名張まちなか再生プランの素案に眼を通して以来、なんぼなんでもこれはまずかろうとびっくりし、なにしろ旧細川邸を歴史資料館として整備するなどと気のふれたようなことが書かれているかと思うと、せっかく寄贈してもらった旧桝田医院第二病棟のことはいっさい出てこないというでたらめぶりだったものだから、なんとかしてやんなくちゃなと思ったのが運のつき。よくもこんなばかなことにめいっぱい、時間と労力をそそぎこんできたものである。われながら、ばかだと思う。

しかしまあ、しつこく記すが、もうおしまいである。旧桝田医院第二病棟の地があやしげな神社のような、淫祠邪教の聖地のような場として整備されることもみとどけたことであるし、あとは、名張まちなかのことなんかもう知ーらないっと、ということになる。ならざるをえない。当方にできることはもう、なにもないのである。あるとすれば、名張まちなか再生委員会をぶっ壊してやることくらいなものなのだが、あれはもう壊れたのかな。規約の見直しを早急に進め、臨時総会にはかるとのことであったが、6月の定期総会からもう半年が経過した。あすから12月ではないか。臨時総会は、早くても年明けということになるようである。それ以前に、あの委員会、いまではなーんにも活動していないみたいだから、実質的にはもうぶっ壊れているといっていいのではないか。

したがって、今後はこのブログも、いよいよ、最終決戦というか、頂上作戦というか、名張市は乱歩をどうする気? という究極のテーマに特化、ないしは先鋭化されることになる。それにしては、市長との面談の場の連絡がいっこうにもたらされないのは、ちょっとおかしい。おっかしいなあ。おっかしいなあ。おっかしいけれどまあそれはそれとして、そんなことにばかりかかずらい、時間を浪費しているのもあほらしいといえばあほらしいゆえ、このブログにかける時間を減らして、そのぶん、調べものや書きものにまわすことにした。

もう何年も前、というか、それこそ四年前のことになるが、旧桝田医院第二病棟が名張市に寄贈されたとき、ここになんらかの乱歩関連施設が整備されたら、本を一冊、まとめるべきだろうなと考えた。乱歩と名張の関係を説く本である。名張の人には乱歩のことがよくわかり、乱歩ファンには名張のことがよくわかる。そんな本である。タイトルは『乱歩と名張』と決め、準備も進めていた。そういえば、8月28日付エントリにもおんなじことを書いておいたっけ。

8月28日:少年少女乱歩手帳のあとに

このエントリにあるとおり、

──とりあえず、予定していた本をまとめるのは中止した。『乱歩と名張』と題した本で、四年ほどまえから構想を温めていた。というか、準備もしていて、桝田医院第二病棟が乱歩に関連してどのように整備されるのか、旧細川邸が乱歩と関連づけられるのかどうか、このふたつの問題が決着をみたら仕上げにかかろうと思っていたのだが、ご存じのとおり笑うべき結末となったので、『乱歩と名張』などという本を出すのはあほらしくなった。もう出さない。

といった仕儀となった。かわりに、三重県と乱歩の関係をちょこっとまとめておくべきだろうと方針を変更し、夏ごろからぼちぼちと執筆していた。つまり、8月28日の時点では書きはじめていたのだが、これが予想以上に難しい。なにが難しいのかというと、読者を高校生以上と想定しているからである。つまりまあ、はっきりいって、じつにおこがましい話であるが、世間で教養と呼ばれるものとあんまり縁のない人にも、じゅうぶん理解していただける内容にしたい、と天につばするほどの上から目線で考えたからである。

どんな感じなのか、現物をごらんいただく。冒頭の三枚を引用。

   
三重県にあった国と藩
江戸時代のことから、話を始めよう。四百年ほど時代をさかのぼる。当時、日本には六十六の国があった。
いま、国といえば、国家のことを連想する。日本という国、日本という国家。だが、国という言葉は、地域を意味することもある。北の国といえば、北のほうの地域のことだ。ほかに、一定の区域を指して、国という場合があった。いまでいえば都道府県にあたる。行政区画と呼ばれるものだ。
現在の三重県のエリアには、かつて、そうした行政区画としての国が、四つ存在していた。北から中央にかけて伊勢の国、東に志摩の国、西に伊賀の国が位置し、南には紀伊の国の一部があった。古代から近世まで、つまり江戸時代が終わるまで、この名称は一貫して使用された。いまでも、他人の出身地を尋ねるとき、「お国はどちらですか」という人がいる。国籍ではなくて、いわゆる生国、生まれた国を尋ねているわけだ。
国の範囲には、古代には、多少の変遷があった。早い話が、伊賀の国は天武九年(六八〇)、伊勢の国からわかれて独立したとする資料もある。ただし、日本のオフィシャルな歴史書である『日本書紀』には記されていないから、史実としてそのまま鵜呑みにはできないかもしれない。いずれにせよ、そういった分割や統合を経て、九世紀の初頭には、国のエリアが確定した。日本には六十六の国がある、ということになった。
古代までさかのぼって、もう少し説明を加えておこう。それぞれの国には、最初、朝廷から国司という役人が派遣され、行政事務を担当した。朝廷というのは、天皇が政治をおこなう場所のことだが、天皇を頂点とした政権を意味する言葉でもある。その朝廷の力はしだいに衰え、武士が台頭してくる。時代区分でいえば、平安時代が終わり、鎌倉時代が始まって、武家政権が日本を支配するようになった。朝廷の国司は、名目だけの存在になってしまった。
鎌倉時代、政権は鎌倉幕府が握っていた。源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を置いたから、こう呼ばれる。幕府とは、もともとは武家政権のリーダー、あるいはその屋敷の意味だが、将軍がひきいる政権そのものを示す言葉としても使用されるようになった。
鎌倉幕府は、国ごとに守護という役職を設置し、治安の維持などにあたらせた。守護には、幕府直属の有力な武士が任命された。時代が進むにつれて、守護はそれぞれの国で力を強め、領国を拡大して、守護大名という存在になる。南北朝から室町時代にかけてのことだ。鎌倉時代の守護は中央から派遣された役人だったが、守護大名は領地との関係を深め、領主の性格を濃くしてゆく。
守護大名は、さらに成長する。それぞれの国に古くから住んでいた有力者を従え、実質

人はなにごとが起こったかと思うかもしれぬが、乱歩と三重県の関係を説くためには、まず津藩藤堂家と乱歩のかかわりを明らかにしておかなければならない。となると、藤堂高虎のことから入るのが王道ということになるのだが、そうなると津藩とはなにか、大名とはなにか、幕藩体制とはなにか、幕府とはなにか、あるいは国とはなにか、いろいろ説明しなければならぬことが出てきて、結局はごらんのとおり、江戸時代のことからはじめた話が、さらにさかのぼって古代のことにまで及んでしまう。なんかもう、かったるくなってくるわけね。

むろん、実際に本のかたちで出版されることになるのかどうか、それはわからない。しかし、とりあえず原稿を書きあげてしまわないと話にならないから、夏に書きはじめたものの、かったるくなってほったらかしにしてあったものを、なんとか書き継いでかたづけてしまいたい。で、当面、ブログは二のつぎ三のつぎ、ということにするしかないという結論にいたった。ということをここに記して、自分にプレッシャーをかけておきたい、という考えもある。もしかしたら、原稿書きがいやになって、頻繁にブログに逃避してくる、みたいなことになるかもしれんなとも思われるのであるが。

ちなみに、本のタイトルは、まだ仮題ではあるが、『江戸川乱歩と伊勢志摩伊賀』ということにしている。伊勢、志摩、伊賀、というみっつの地名は、現在の市の名前ではなく、旧国名である。したがって、名張という地名はタイトルには出てこない。じつにすっきりしている。隠と書いてなばりと読みます、なんてことを嬉しげに吹聴している向きもあるくらいだから、名張には隠れていることがお似合いなのではないか。乱歩というビッグネームを自己顕示の道具にしてちゃらちゃら調子こきたい向きには残念なことであろうが、なにしろ当方、名張なんて、けけけ、いじめてやる、ネグレクトしてやる、ぼろぼろにしてやる、ぼこぼこにしたろかこら、けけけ、てなものなのである。これがまあ、四年にわたって名張まちなか再生プランにおつきあいしてきた人間の、いやさ人間豹の、天をも恐れぬ結論である。けけけ。しっかし人間豹が、けけけ、とかいってはいかんだろうなあ。けけけ、とかいっておってはなあ。
きのうも記したごとく、やなせ宿を運営するのはひとまず来年3月31日までとし、4月1日以降はクローズドとするというのも、いわゆる選択肢としてはありだと思う。とにかく、なにも明確にしないまま来年度もずるずるやります、というのがいちばんいけない。いったん白紙に戻して、仕切り直しを図ることがぜひとも必要であろう。

しかし、仕切り直しが必要であるということすら、だれひとり考えておらんのではないか。やなせ宿関係者のなかで、来年4月1日以降のやなせ宿のことを真剣に考えている人間など、ひとりも存在しないのではないか。考えてみれば、ふびんな話である。かわいそうな話である。

かわいそうなはこの子でござい、という話である。だれからも望まれることなく生まれてきた赤子のようなやなせ宿は、いまだになんのための施設なのかが判然としない。子供にたとえていえば、自分がだれなのかがわからない。アイデンティティを確立できていない。そんな子供である。にもかかわらず、だれも救いの手を差し伸べようとはしない。

当方とて、これ以上はどうしようもない。やなせ宿のために可能なかぎりのことはしてきたつもりであるが、なさけないことに無力であった。だからもう、あきらめてくれ。当方のことは忘れてくれ。なんかそこらのおねえさんに別れ話を切り出してるような気分になってきたが、ほんとにもう、やなせ宿にしてやれることはなにもなくなったというのが実感である。

もっとも、いつかも記したごとく、こんなものは名張市長の鶴のひと声でどうにでもなる問題である。市長がリーダーシップを発揮しさえすれば、事態はいくらだって打開できるはずである。かりにやなせ宿を閉鎖するということになっても、それを判断し、実行するのは、やはり市長であるべきなのである。しかし、しかしなあ。

名張市公式サイト:施政方針 平成20年3月

引用。

   
まちなか再生につきましては、本年6月にオープン予定の旧細川邸「やなせ宿」は、市民をはじめ、多くの来訪者の交流拠点施設として、地域の皆様方が主体となって、多様な事業が展開されるよう大いに期待をいたしているところでございます。

これだもんよ。ここに色濃く表れているのは、「地域の皆様方が主体となって」という文言にも明らかなとおり、徹底的な主体性の放棄である。行政がばかみたいに主体性放棄を決めこみ、そこらの程度の悪い「地域の皆様方」に丸投げをかましつづけた結果がこれなのである。だからこそ、いま、強力なリーダーシップのもとに行政の主体性を発揮することが、名張市長に望まれているのである。望まれているはずなのであるが、しかし実際には、ま、あきまへんやろな、といったところか。んなもん、あきまっかいな、みたいなことであろうか。

それにしても、この四年間、まちなか再生事業を回顧してみると、むろんさまざまに問題はあったけれど、総体としていちばん大きく迫ってくるのは、やはり名張市長の無定見と無責任という問題ではあるまいか。どうもそんな気がする。
長かったんだか、短かったんだか。江戸川乱歩生誕地碑広場の整備が終われば、名張まちなか再生事業にまつわる数年来のすったもんだが、ひとまず終結をみることになる。

名張市が旧桝田医院第二病棟の寄贈を受けたのは、平成16・2004年11月のことであった。ちょうど四年前である。それでまあ、四年もの時間をかけて、結局はこのざまなのである。あやしげな神社のような、淫祠邪教の聖地のような、なんとも異様な空間が現出することになった。

それにしても、四年である。まったく無駄な四年であった。ほんとうは無駄ではなかったはずなのだが、無駄な結果に終わってしまった四年間であった。つまり、当方の有益なアドバイスを名張市がいっさい聞き入れようとしなかったから、結果としてすべてが無駄であった、ということになった。まったくまあ、なーにいってやったって、これっぽっちも聞きゃしねーんだからなあ。

とはいえ、問題はまだ残っている。江戸川乱歩生誕地碑広場は、完成したらそれっきりである。活用だの運営だのを考える必要はない。しかし、お察しのとおり、やなせ宿はそうではない。整備は終えたものの、運営面でけりをつけるべきこと、白黒をはっきりさせておくべきことが少なからずある。いまだ不確定な要素がある。しかし、そんなことを本気で考えている人間は、おそらくひとりもおらんであろう。だから、考えてみることにする。

やなせ宿の運営は、来年3月末までは、まちなか運営協議会に委託されている。初年度の委託費は二百五十万円である。しかし、そのあとはどうなるのか。あとがあるのか。それがどうも、よくわからない。そもそも、なんのための施設なのかがはっきりしておらんのだから、どうやって運営すればいいのか、明快なことはだれにもいえないのである。

ならば、どうする。名張市はやなせ宿の運営にかんして、来年度から指定管理者制度を導入するとしている。だが、実現可能な話であるとは、あまり思えない。なんのために存在してるんだか、いまだにあいまいな施設である。つまりは、どうやって管理すればいいんだか、いまにいたってもだれにもわかっていない施設なのである。指定管理者もくそもないではないか。

かりに指定管理者を募集するというのであれば、そのまえにひとつ、募集しなければならぬことがあるのではないか。やなせ宿をどのように利用すればいいのか、そのアイデアを募る必要がある。名張市の広報紙や公式サイトで、やなせ宿の施設と設備の概要、それから立地やなんかを紹介しつつ、これをいったいどんなふうに利用すればいいでしょう? と市民に、いやいや、市民でなくてもいいのだが、とにかくプランやアイデアを募ることが必要なのではないか。

ばかみたいな話であるが、それはしかたがない。なにしろ、活用の方向や目的がまるで決まっていなかったにもかかわらず、とっとことっとこ施設だけが完成してしまったのである。赤っ恥をさらすことになるようだが、とにかく正直になって、人の知恵を借り、活用の方向や目的をきっちり決めることが先決である。それが明確になってはじめて、指定管理者を募集することが可能になるはずである。だが、それでもやっぱり、ばかみたいな話であることには変わりがない。

それはそうであろう。なんの必要もない施設、だれひとりとして望んでいなかった施設を、一億円もかけて建設したのである。そのあとから、文字どおりあとづけで、施設の意義や目的を明確にすることができ、指定管理者制度を導入することができたとしても、やなせ宿を維持管理運営するための委託費として、毎年毎年、税金がそそぎこまれることになるのである。なんでそんなばかなことやってんの? わざわざ税金を無駄づかいするために施設つくったの? とそこらの小学生からツッコミが入ることにもなりかねない。

だから、いちばんに考えるべきなのは、できるだけ税金をつかわないで済む施設にする、ということかもしれない。となると、もっとも手っ取り早いのは、やなせ宿を叩き売ってしまうことである。もっとも、買い手がつくかどうかは疑問である。手をあげる人間など、たぶんひとりもいないのではないか。それに、かりにやなせ宿にビジネスの芽を見いだし、購入希望の名乗りをあげる人間がいたとしても、売却するのは不可能であろうと思われる。国の交付金を受けている関係で、制度上、右から左へ売り飛ばすことはできないことになっているはずである。

売り払うのが無理なのであれば、経済的に自立した施設とすることを考えなければならない。まちなか再生の拠点であるとか、観光交流の拠点であるとか、そんなうそっぱちを並べるのはもうおしまいにして、とりあえず日銭を稼ぐことを考えなければならない。となれば、有力候補はやはり飲み屋か。さいわい、現在の食堂化路線と方向性はおなじだから、昼は食堂、夜は飲み屋、そういうことにしてしまう。

そういうことにしてしまえば、名張市はその手の業者にやなせ宿を貸すだけでいいのである。いまだって、やなせ宿の蔵のひとつは、どうしてそういうことになったのか、そういうことが制度のうえで可能だったのか、もうひとつよくわからないのだが、とにかくFMなばりのスタジオということになっているのだから、厨房をはじめとしたほかのエリアも、蔵と同様に貸し付けることは可能であろう。

つまり、日銭を稼げる業者に貸し付けて、ショバ代のあがりを名張市の収入とすればいいのである。しかし、この不景気である。新町あたりに食堂兼飲み屋を開店してみても、たちどころに商売繁盛とはまいらぬかもしれん。なにか特色を打ち出し、他店との差別化を図って、独自の魅力をアピールすることが必要であろう。となると、たとえば韓国クラブなんてのはいかがなものであろうか。いいママ、紹介してやろうか。

かりに食堂兼飲み屋化路線が無理だとなると、なんかもう万事休すである。やなせ宿は4月1日から閉鎖ということにもなりかねない。いや、むしろそうすべきかもしれない。開設一年ほどで閉鎖に追いこまれてしまった公共施設、なんて感じで放置しておけば、名張市における輝かしい失政のシンボルとなるし、さすがにこれではまずかろうと、地域住民が主体的に知恵をしぼりはじめる契機になるかもしれない。

四年の月日を経過して、現時点における結論は、やなせ宿は来年4月1日から閉鎖すべし、ということになった。なかなか名案だと思う。
きのう、名張市丸之内の喫茶店JUNへ忘れものの本を取りにいったついでに、本町にある江戸川乱歩生誕地碑広場の写真を撮ってきた。いまだ整備工事の最中であるが、あやしげな神社のごときたたずまいはすでにまぎれもない。

広場の前から、本町通りのほうにむかって撮影したのがこれ。

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斜め前から撮影した広場。

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広場の入口になるらしい二本の石柱、その奥に生誕地碑。

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これで白い玉砂利でも敷きつめれば、あまり気色のよろしくない神道系宗教施設がいっちょあがり、といった風情である。神道色が強くなると創価学会あたりからクレームが寄せられる可能性も出てくるから、そういった点の配慮は当然必要であろうけれど、あとは生誕地碑の前に賽銭箱でも設けておけば、それでもうほぼ完璧なのではないか。完璧なまでにとんでもないスポットの誕生である。やなせ宿もとんでもないスポットになってしまったが、ロケーションというやつをいっさい無視して整備されている乱歩生誕地碑広場も、とんでもなさでは引けはとらない。あまりにもとんでもないから腹を立てる気力も失せてしまった次第であるが、それにしてもほんと、こんなところに淫祠邪教の聖地みたいなのつくってどうする。
芦辺拓さんの講演「〈乱歩〉を生きた男──戦略的な、あまりに戦略的な」を拝聴してあらためて感じたのは、乱歩にかんする話を聴く喜び、とでも呼ぶべきものである。それはまあ、ミステリ作家がサッカーや子育ての話をするのも悪くはないけれど、乱歩が生まれた名張の地で講演していただくのだから、それなりの覚悟で正面から乱歩のことを語ってもらいたいというのが個人的な要望である。

芦辺さんの講演のように新しい乱歩像が提示されるのもいいし、生前の乱歩に会ったことのある人の話も貴重であろう。そういった観点から講師を選ぶとなれば、まっさきに思い浮かぶのは小林信彦さんあたりか。ただし、なぞがたりなばり講演会は日本推理作家協会におんぶにだっこの催しだから、協会のメンバーではない講師を招くことはできない。

とはいえ、名張市はそろそろあぼーんなのである。おとといのまちなかミニツアー参加者のみなさんにも、名張市はもう財政的にアウトなので、なぞがたりなばり講演会が今年でおしまいになる可能性もゼロではない、といったようなことをお知らせしておいた。この期におよんで、だれの講演が聴きたいか、みたいなことを考えてもせんかたはないかもしれない。

芦辺さんの講演のあとは、参加者から質問を募っての質疑応答、つづいてサイン会。すべての行事が終了したあと、芦辺さんや平井憲太郎さんとあぼーん目前自治体のスタッフは、名張市内某所で伊賀牛宴会という段取りになっていた。当方も招かれていたのだが、そうは行かない。遠方からおこしいただいた人たちをもてなさなければいけない。このあたり、公務員というのはじつに気が利かない人種だから、当方のような市民がそのぶん配慮しなくてはならんのである。

名張シティホテルにチェックインする人もあったので、名張市総合福祉センターふれあいに午後5時再集合ということにした。三十分ほど時間があったから、ふれあい前の喫茶店JUNにのたくりこみ、生ビールを注文。窓の外にまちなかミニツアーの女性参加者がみえたので、店から出ていって身柄確保。東京のかたであったが、いっしょにビールを飲むことになった。

午後5時、顔ぶれがそろったので、榊町の番じゃ屋敷へ。市外からの参加者は、愛媛、大阪、東京の在住者ということになった。例年ならもう少し、大阪や兵庫あたりから訪ねてきてくれるのだが、きょう24日に神戸で横溝正史関連イベントがあるせいか、あるいは風邪にでもやられたのか、いつものメンバーはのきなみ欠席である。生ビールのあと焼酎に移行し、黒霧島の一升瓶を一本キープしたのだが、きれいに空っぽになってしまった。だれがこんなに飲んだのか、と思って尋ねてみたところ、中先生です、とのことであった。

酔っぱらってわけがわからなくなり、東京からの女性参加者は、日帰りの予定だったのが名張泊まりとなったのか、それすらよくわからない。そういえば、名張市総合福祉センターふれあいのロビーで三重県書店商業組合名張支部が芦辺さんの著書など本を売っていたので、ちょっとだけ購入したのだが、その本をJUNに忘れてきてしまった。休みが明けたら取りにゆかねばならない。しかしまあ、わけがわからなくなりながらも、最後は平尾の中むら西口店で飲み、名張市長選挙の話なんかをしたことがかすかに記憶に残っているのだが、とにかくまだタクシーのある時間に帰宅することができた。

そんなこんなで、本日は神戸の横溝正史イベントに顔を出すことになっている。なぞがたりなばりに埼玉から参加してくださった男性が、じつは正史イベントにも足を運ぶのだとおっしゃっていたから、たぶんお会いすることになるであろう。

以上、なぞがたりなばり講演会とまちなかミニツアーの報告であった。まちなかミニツアーが来年も開催されるのかどうかは知らないが、もしも開催されるのであれば、案内役は名張市職員か、あるいは乱歩蔵びらきの会メンバーか、そのあたりが担当するべきである、ということは重ねて指摘しておきたい。
きのうは好天に恵まれた。なぞがたりなばり講演会の関連イベント、まちなかミニツアーの案内役も、コートなしのセーター一枚で済ませることができた。ツアーを終えて、講演会場の名張市総合福祉センターふれあいに顔を出した。いあわせた名張市生活環境部のお嬢が、いいお天気でよかったですね、と声をかけてくれたので、はっはっは、それはもう案内役の心がけがいいからなのさ、とお決まりの返事を返したところ、きゃはは中さん、だーれもゆうてくれへんから、きゃはは、と笑われてしまった。図星である。自分でほめてやらないことには、だれも当方の心がけなどほめてくれんのである。

毎日新聞:なぞがたりなばり:「乱歩、常にそばに」 名張で作家・芦辺拓さん講演 /三重

まちなかミニツアーは午前10時、近鉄名張駅東口に集合。改札を出たところで、怪人二十面相に扮した名張市の若手職員が参加者を出迎えるという趣向であった。マイクロバスに乗りこみ、まず桜ヶ丘の市立図書館へ。一階の乱歩コーナーをそそくさと見学し、二階の視聴覚室で十分間あまり乱歩講座。ふたたびバスに乗車して、丸之内の名張藤堂家邸跡前で下車。そのあとは徒歩でまちなかを散策するという寸法である。中町のはなびし庵では、座敷にあがって影絵「乱歩誕生」を鑑賞。おなじく中町の山本松寿堂では、二銭銅貨煎餅がそこそこの売れゆき。本町の大和屋では、もなかの試食が好評であった。

そのあとは、いよいよ本町の江戸川乱歩生誕地碑広場へ。広場の整備作業が進められていたが、あやしげな神社のようなたたずまいになっていて、いささか驚いた。カメラを持参していなかったので、画像をご覧いただくことができないのだが、いずれ出直して撮影してくるつもりである。それにしても、どこのだれがあんな図面を引いたものか。いっそ生誕地碑の前に賽銭箱でも設置すればいいのではないか、と思われる眺めであった。

つづいて、新町のやなせ宿の前を通過。もちろん、一億円かけてわけのわからない施設を整備してしまった、ということは声を大にして説明しておいた。無駄に立派な公衆便所をぜひご利用いただきたい、と力説してみたところ、勇気ある男性参加者が突入してくれることになったのだが、便所の前の格子戸に鍵がかかっている。すぐそこにみえている便所に、すんなり入ることができない。なんのための公衆便所か。焦ってるやつならちびってしまうぞ。しかたないからやなせ宿の入口から入ってもらったのだが、あの狭く小さい入口が、この内部にはいったいなにがあるのかという疑問を抱かせるらしく、ほかの参加者も身をかがめるようにしてやなせ宿に入ってゆく。きのうのやなせ宿入場者数、大きく跳ねあがったはずである。

昼食は鍜冶町の清風亭でうな重。一部、中町のかみ六にまわった参加者もあった。当方は清風亭派で、二階の座敷に怪人二十面相もふくめ十二人が陣取った。参加者にお訊きしてみると、みなさんきのうのうちにお帰りとのことであった。遠いところでは東京や埼玉からもおみえだったので、もしも名張に一泊されるのであれば、お酒のお相手はいくらでも務めます、と熱弁をふるったのであるが、残念至極なことであった。

ちなみに、清風亭のうな重と肝吸い、ひとり千百円という料金だったのだが、市民の税金で支払ってくれることになっていた。もとより自腹を切るつもりだったのだが、そういうことならと気が大きくなって、そしたらビールもつけてくれ、と市職員に依頼したところ、そッ、そんなことはできません、とのことであった。さすがあぼーん目前の名張市、じつに細かい。ともあれ、名張市民のみなさんには、ごちになってありがとう、と心からお礼を申しあげる次第である。

講演会は、午後1時30分開演。芦辺拓さんが「〈乱歩〉を生きた男──戦略的な、あまりに戦略的な」と題しておはなしになった。今年で十八回目を迎える名張市主催のミステリ講演会の歴史のなかで、最初から最後まで一貫して乱歩のことが語られたのは、今回が初めてではないか。馳星周さんの講演はサッカーの話題がメインであったし、戸川昌子さんの場合は子育ての話にシャンソン二曲つきであったと記憶する。

芦辺さんの講演は熱のこもったもので、タイトルどおり、タクティシャンとしての側面を浮かびあがらせることで新しい乱歩像を提示した。とはいえ、芦辺さん、相当しゃべりにくかったであろうな、とも思われる。なにしろ、乱歩の孫でいらっしゃる平井憲太郎さんが東京から駆けつけてくださって、最前列で講演をお聴きだったからである。じつは先日、当方が日本推理作家協会の土曜サロンでしゃべったときも、憲太郎さんがわざわざおいでくださって、むろんそれはとても嬉しく光栄なことであったのだが、憲太郎さんの前で憲太郎さんのおじいさんのことを乱歩乱歩と呼び捨てにするのは、やはりじつに心苦しいことであった。

芦辺さんの講演内容は、もしかしたら名張市のオフィシャルサイトに掲載されることになるかもしれない。そうなったら、じっくりお読みいただきたい。ちなみに、光文社文庫版の江戸川乱歩全集第二十二巻『ぺてん師と空気男』の巻末エッセイは芦辺さんのご担当で、タイトルは今回の講演とおなじ「〈乱歩〉を生きた男──戦略的な、あまりに戦略的な」である。えへん。当方の名前も出していただいてあるので、一部を引用しておく。えへんえへん。「何と後世のアカデミズムや評論家の諸氏は、いともやすやすと乱歩の残した言葉に乗せられ、信じ込んでしまっていることでしょうか!」という文章につづいて──

   
たとえば、初期作品以外は「生きるとは妥協すること」の産物で、そこでの名声を「虚名」だと言えばハイハイハイ、「魔術師」における時計塔の首切りシーンが「ポーの短篇の着想を通俗化したもの」とあれば具体的な作品名を確かめもしなかったり(最近、乱歩ファン諸氏のご協力と藤原義也氏の指摘により、偽文「ある苦境」と判明しました)と、あっさり撒き餌に飛びつき、検証もせずに彼の意のままとしか思えない〈乱歩〉像を描いて怪しまない先生方。彼らは乱歩に関して生じた私の疑問や疑惑に、何一つ答えてくれませんでした。
近年そうした不満は、右の『子不語の夢』や中相作氏編纂の『江戸川乱歩リファレンスブック』によって解消されつつありますが、それとは別に、乱歩の作品だけでなく彼の作家人生をたどるうち、私の中で見えてきた人物像がありました。それは、探偵小説を愛し、全身全霊をそれに捧げ、同時に空恐ろしいほど生涯を戦略的に生き貫き、〈乱歩〉という名のもとで生涯の七分の四を生きた男の稀有な姿でした。それも、しばしば戦略的でありすぎるほどに……。

『子不語の夢』は三重県民の、『江戸川乱歩リファレンスブック』は名張市民の税金で出版したものであるが、じつに有意義な税金のつかいみちであったとあらためて思い返される。名張市もこの路線で行ってれば乱歩の生誕地として胸を張ることができたのであるが、最近はばかなことばっかやっておって、乱歩都市交流会議とかいう愚劣な思いつきのあとは、あやしげな神社のような乱歩生誕地碑広場の登場となる。ばかか実際、みたいなことはどうでもいいのだが、芦辺さんの乱歩像に興味がおありのかたは、とりあえずこの巻末エッセイに眼を通されたい。気になるお値段は本体千と四十八
円。むろん、芦辺さんのエッセイだけ立ち読みするという手もある。
会う人ごとにいちいち説明するのが面倒になってきたので、そうした負担の軽減につながるかと考え、ここにいささかを記しておく。ごくドメスティックな話題である。

11月7日、母が死去した。午後2時30分、入院先の病院でのことである。八十八歳であった。

おととしの夏、暑さのせいで体調を崩して入院し、退院したあとも介護老人保健施設と病院とを往復して、二年あまりが過ぎていた。すでに清明な意識はなく、いつ行っても、病院のベッドでただ眠っているばかりであった。とくにどこが悪いということはなく、肺炎の症状が出たり改善されたり、といった状態がつづいていた。

9月30日、入院先の病院から電話があった。相談があるという。行って、医師から、ものを食べたり飲んだりすることができなくなった、いまは点滴で生命をつないでいるが、いずれ点滴もできない状態になる、との説明があり、そのあとの栄養補給はどうするか、と質問された。結局、過剰な延命措置は望まない、ということに決め、10月1日、その旨を記した書類に署名捺印して提出した。点滴が入らなくなれば、生命が終わりを迎える。そういう終末を選択した。

だからといって、すぐに終わりが来るわけではない。近い将来であるという覚悟はできても、むろん予測などつくものではない。10月1日の時点では、10月26日にさる短歌会で講師を務めることが決まっていて、これは会場が伊賀市だし、万一の場合には日程を先送りしてもらうことも可能とのことだったので、あまり心配はしていなかったのだが、11月15日には、東京にある日本推理作家協会の書記局で話をする予定が入っていた。これは、はずすことができない。じつに悩ましく日々を過ごさなければならなかった。

だから、ちょうどうまいぐあいに、などと記すのは不謹慎なことであるが、死んでくれたものだと思う。11月7日に死去し、翌8日の土曜日が通夜、9日が葬儀で、10日には初七日を済ませた。親族と近隣に知らせただけで、葬儀はごく簡素なものにした。たまたま9日が休刊日だったこともあって、日刊紙地方版の訃報欄に掲載されたのは、たしか11日のことであった。

母には妹がふたりいて、7日に連絡すると、ひとりはひ孫のお宮参りで奈良県にいた。奈良で一泊する予定だったところを、夜遅くわざわざ帰ってきてくれた。もうひとりの妹は、夫、つまり当方の叔父にあたるわけだが、その叔父から一枚の短冊をことづかってきてくれた。短冊には、叔父の筆で、母の俳句が記されていた。母が詠んだ俳句のなかで、叔父がいちばん好きな句だという。

母はいまの土地に住んで、近隣の高齢者がやっている句会に加えてもらった。俳句などまったく未知の世界だったはずだが、それなりに句作を楽しんでいたようである。叔父が短冊に書いてくれたのは、当方にとっては初見のものであったが、なかなかいい句だと思われたので、9日の葬儀が終わる間際、喪主挨拶のなかで披露しておいた。こんな句である。

恙なき夕餉の祈り蜆汁
(つつがなきゆうげのいのりしじみじる)

喪に服す、というような殊勝な心がけなどさらさらなく、母の死がえらくショックである、といったようなこともまるでない。いまの時点では、長くひきつづいていた悩ましい問題にひとまずピリオドが打たれ、そのことで安堵している、というのが正直なところである。アドバンスコープからやなせ宿についてしゃべってくれという要請があれば、それはもう二時間でも三時間でも四時間でも五時間でも、喪中もくそも関係なく、というか、こうなりゃ弔い合戦じゃねーか、上等である、官民双方のうすらばかにかんして悪口雑言罵詈讒謗のかぎりを尽くしてやる用意はいくらだってあるのだが、残念ながらそんな要請があるわけはないのである。

母親のあぼーんにかんする話はここまでとするが、あぼーんといえば、名張市あぼーんの日程がそろそろみえてきたらしい。きのう開かれた市議会全員協議会において、平成23・2011年度決算の時点で早期健全化団体に転落する可能性が高いことが明らかにされたという。けさの日刊紙地方版でいっせいに報じられているが、現時点ではウェブニュースは掲載されていない。YOUの記事をリンクしておく。

YOU:5年以内の黒字化目指す 中期財政見通しを公表 名張市

だからまあ、どこの大学教授であれ馬の骨であれ、こんな時期に名張市長になどなるものではないというのである。市長選挙に出馬するなどと口走ってる時点で、あ、名張市の現状をなにも理解していない人間なのだな、ということがまるわかりなのである。それにしても、名張市の財政もいよいよあぼーんか。あぼーん、ということばもいまや死語なのかもしれぬが、ともあれ、うたた感慨を禁じえない。

さて、あす11月22日は、いずれ名張市のあぼーんにともなってピリオドが打たれることになるはずのなぞがたりなばり講演会、その第十八回が催される日である。どうせピリオドということになるのなら、今年の芦辺拓さんの講演会でおしまいにしてしまえば、有終の美が飾れるものと思われるのであるが、そうも行かんのであろうな。というのも、なぜか名張市役所のみなさんには、財政難にかんする危機意識というやつがうかがえない。少なくとも一般市民の眼には、そうとしかみえない。職員が危機意識なんかもったってどうにもならない、という心理もあるのかもしれぬが、とにかくそういった印象である。

要するに、市職員のみなさんにとっては、すべてが他人ごとなのである、といったことなのであろう。したがって、みずからの利害得失に直接かかわることであれば、つまりたとえば退職金なんかのことにかんしては、市役所のみなさんはそれはもうたいへんな危機感を抱いていらっしゃることであろう。しかし、われら名張市民はじつに大きくてとても広い心をもって、わざわざ起債までして、つまり借金してまで市職員のみなさんに退職金をお受け取りいただいているのである。借金の返済は子や孫の代のことになるのかもしれぬが、市や市民の将来のことだって、市役所のみなさんにはしょせん他人ごとなのではないか。

いやいや、話が横道にそれてしまったが、根っこの話は共通していて、名張市役所のみなさんはもうちょっと身を入れて仕事をしてはどうか、ということである。自分の頭をつかい、手足を動かし、汗を流してはどうか。いつまでも人のふんどしで相撲とってんじゃねーぞうすらとんかち、という話なのである。あす22日の午前中、なぞがたりなばりのイベントとしてまちなかミニツアーが催される。名張市の担当セクションから、ツアーの案内役を依頼されている。むろん、やぶさかではない。

やぶさかではないのだが、それくらいのことは市職員でもできるはずである。ごく簡単なことである。市職員が無理でも、なぞがたりなばりの共催団体である乱歩蔵びらきの会には可能であろう。名張のまちを乱歩がらみで案内することもできなくて、いったいなんのための共催団体か。なんのために乱歩という冠を掲げておるのか。まったくわけがわからぬ。

問題はまだある。名張市長との面談が実現しておらぬということである。名張市公式サイト「市長への手紙」を利用したやりとりで、市長からじきじきに「今後とも、貴重なご意見・ご提案をお寄せいただきますようお願いします」との依頼を頂戴したから、そのための場を要請している。しかし、うんともすんとも返答がない。ならば、市長は当方の協力を拒否していらっしゃる、と判断せざるをえない。市長から協力を拒否されている市民が、名張市主催のまちなかミニツアーで案内役を務めるわけにはいかんのではないか。

なにしろこちとら、本気である。本気で怒っているのである。名張市は乱歩をどうする気? というテーマを、市長に本気で問い質したいと考えているのである。そう考えているところへ、乱歩都市交流会議などというたわけたニュースが飛びこんできて、いよいよ腹を立てているところである。腰がくだけそうになりながら激怒しているところである。カテゴリ名のとおり人間豹刺止鉤爪、にんげんひょうとどめのかぎづめをスイッチオンするべきところなのかもしれないけれど、まだそこまでは逆上していない。

そういった次第であるから、当然の結果として、まちなかミニツアーの案内役を引き受けるわけにはまいらぬ。いつまでも当方をあてになんかしていないで、市職員がみずからのスキルアップを図る場、あるいは、乱歩の名を冠した市民団体がその存在意義を示す場とするべきなのであるし、そもそも、市長からNOをつきつけられている人間が、まさかそんな嬉々としてたりらりらーんと行政の手駒を務めるわけにはまいらぬではないか。

とはいえ、まあ、なぞがたりなばり担当セクションの苦衷が理解できぬということもない。こうみえて当方、名張市職員のみなさんの苦衷というやつは、結構理解できているつもりでいるのだが、それはともかく、当方が出張らねば、話がはじまらぬであろう。話がおさまらぬのであろう。それにそもそも、市職員の苦衷はどうでもいいとしても、まともな案内ができないとなれば、まちなかミニツアーの参加者に、とくに遠方から参加してくださる人たちに、はなはだしく礼を失してしまうことになる。それはもちろん、当方の本意ではない。

だから、結局、節を屈して、筋の通った話ではまったくないゆえお恥ずかしいかぎりなのであるが、あす22日のまちなかミニツアー、たりらりらーんと案内役に立つこととした。なんかもう、ばかみたいな話である。
プログ開設一周年を迎え、いろいろ回顧しているところであるが、結局のところ、この一年間でもっとも大きなできごとは、といってもむろん個人的なことであり、人からみればごく些細なことにすぎないのだが、それにまた、個人的に大きなことならあっち関係こっち関係、ほかにもないではないのだが、要するにこのブログ的にもっとも大きかったことはといえば、いうまでもなく名張市立図書館とおさらばしたということである。

敵だの味方だの、勝っただの負けただの、そういった単純な二項対立に身を置く気はまるでないのだが、話をわかりやすくするために、あえて敵と味方という対立軸をもちだして話を進めると、市立図書館とおさらばしたということは、いつでも、心おきなく、思う存分、全身全霊で、名張市という自治体を敵にまわすことができるようになった、ということである。

いやいや、早まってはいけない。まだ、敵にまわしたわけではない。まわそうとしているわけでもない。好んでことを構えようとしているわけではまったくない。当方、きわめて温厚な人間である。ああ、ほとけさまのような人だ、といわれることさえないではない。しかし、いくらほとけさまのような人間だって、さすがに腹に据えかねる、ということはある。なにしろほとけさまなのだから、てめーらしまいにゃまとめて張っ倒すぞこら、などとはあんまり思わんのであるが、膝の力が抜け、腰からくずれ落ちてしまいそうになることはある。

まったくまあ、ひどいものであった。よくもここまでつぎつぎと、わずかな期間で、みごとなまでに下手を売りつづけることができたものである。なんのことをいってるのかというと、もちろん江戸川乱歩のことである。毎度おんなじことを書くけれど、ミステリー文庫だの乱歩文学館だのと大風呂敷をひろげておいて、結局は実現できない。せっかく寄贈を受けた桝田医院第二病棟は、とどのつまり殺風景な広場にすることしかできない。乱歩が生まれた新町に公共施設を整備するというのに、それを乱歩に関連づけることすらできない。ほんと、膝の力が抜け、腰からくずれ落ちてしまいそうになってしまった。

しかも当方、みてらんねーなーまったく、と思って、名張まちなか再生プランの素案が発表されて以来、時宜を得たアドバイスというやつを重ねてきたのである。それをウェブサイトで公表もした。だというのに、なにも聞き入れようとせんのだからなあ。どころか、悪いほうへ悪いほうへ進んでいってしまうのだからなあ。面倒みきれねーやばーか、とさじを投げてしまうのも、まったくもって無理からぬ話ではないか。

さらにしつこく記すけれど、名張市は乱歩文学館なんて建設しなくてもいいのである。そんなをものつくらなくたって、市立図書館が収集してきた乱歩関連資料があるのだから、それを活用して、身のたけ身のほどにふさわしいサービスを展開すればいいのである。地道だが必要なことを着実につづけてゆくだけでいいのである。ちゃらちゃらした自己顕示に走らなくたって、それが結局は名張市の名を高めてくれるのである。

といったようなことをだなあ、それはもうだれにだってわかるように身をもって教え諭してやったというのに、名張市教育委員会にはそれがわからんのだからなあ。どころか、なおかつ、あまつさえ、教育委員会から当方、おまえのやったことは無駄である、意味のないことであった、市立図書館はおまえの示した路線を引き継がない、と明言されてしまったのだからなあ。だからといって、張っ倒すぞてめー、などとは思わない。当方、きわめて温厚な人間である。ほとけさまのような人間である。

だから、それならそれでかまわない、と思った。しかし、だとしても、だったら収集資料はどういうふうに活用するのか、集めた資料が有している可能性をどんなぐあいに開花させるのか、それを示してくれと頼んだ。前教育次長に頼んだ。梨のつぶてであった。なんの返答もなかった。しかしまあ、教育委員会からNOといわれてしまった人間が、いつまでも市立図書館に身を置いているべきではないであろう、と、ほとけさまのような人間である当方は考えた。

そんなこんなで、身を引いた。ことしの3月末をもって、名張市立図書館から身を引いた。以前からこのブログに記していたとおり、ひとりの市民として、名張市公式サイト「市長への手紙」を手がかりに、名張市は乱歩をどうする気? というテーマを追い求めることにした。で、じつにちんたらしていたのであるが、ようやく先日、市長、教育長、前教育次長との面談を要望するまでにいたった。しかし、実際には、おさんかたのうちお出ましいただいたのは教育長おひとりであった。いつまでも逃げてんじゃねーぞひょうろくだま、などとは思わない。当方、きわめて温厚な人間である。ひきつづいて市長との面談を要望してある次第であるが、名張市の広報対話室からいまだに連絡を頂戴できぬのはどういうことか。どういう料簡だいったい。

いやいや、早まってはいけない。市立図書館とおさらばしたからといって、ただちに名張市を敵にまわしたということになるわけではない。ひとりの市民として、名張市は乱歩をどうする気? ということを確認し、提案できることは提案したいと考えているだけである。だから、これも以前からいってるとおり、仁義なき戦いなんかではまったくない。むろん、いまのところは、という話なのであるが。


「仁義なき戦い」は深作欣二と笠原和夫の作品である、というのが当方の認識なので、第五作「完結篇」は「仁義なき戦い」ではないということになってしまうのだが、一般的にはこれも当然「仁義なき戦い」シリーズの一作である。

YouTubeを検索すると、第一作のこんなバージョンも掲載されていた。


みてみると、坂井鉄也が広能昌三にこんなことをいっている。

「昌三、こんなの考えてるこたあ理想よ」

思いがけず、不覚にも、理想ということばに感動をおぼえてしまった。なぜか。もしかしたら、おとといの夜、テレビニュースでみたオバマ次期アメリカ大統領の勝利演説のせいなのではないか。シカゴの公園に集まった二十万人を前におこなわれたあの演説は、むろん断片的な映像であったし、テロップで訳が流されはしたものの、英語なんだからちんぷんかんぷんではあったのだが、それでも、オバマ次期大統領の弁論術が聞きしにまさるたくみなものであることは理解できたし、そのスピーチがその場にいあわせた人の心に届き、人の心に響いているらしいことも感じられた。

検索してみると、gooニュースに演説全文の翻訳が掲載されていた。

gooニュース:「アメリカに変化がやってきた」 オバマ次期米大統領の勝利演説・全文翻訳 <特集・米大統領選>

みごとなスピーチだと思う。腕利きのスピーチライターがついているのであろう。たとえばYouとWeのつかいわけがうまいし、最後に百六歳の女性の話題をもってくるところなど、心憎いとしかいいようがない。それを、けっして激することなく語りかけるオバマ次期大統領の弁舌も、やはりみごとなものであったとあらためて思う。

そのニュース映像をみながら感じたのは、少なくともこの演説の場には、理想ということばが、あるいは、夢と希望ということばが、しっかりしたリアリティを帯びて存在している、ということであった。その場かぎりの野外劇のように、幕が降りてしまえばたちどころに雲散霧消してしまうものであるにしても、いまこの場では、理想、夢、希望、そういったことばが実体のあるものとして躍動していると感じられた。

ひるがえってわが国には、などというのも野暮だけれど、理想ということば、夢と希望ということばが、たとえその場かぎりのものであるにせよ、確実な手ごたえを帯びて語られる場がどこかにあるのか。どこにもないような気がする。「Yes, We can」ということばが、だれかから発せられることがあるのか。この日本という国では、「No, You can not」といってやりたくなるようなやつばかりが幅を利かせているのではないか。

そんなことをぼんやり考えていたところ、思いがけず、坂井鉄也の「昌三、こんなの考えてるこたあ理想よ」というせりふにぶつかった。それで、理想ということばに、と胸を突かれたような思いがしたのではないか。終戦直後の広島のやくざがふつうに口にしていた理想ということばは、われわれからいかに遠いものになってしまったのか。高度成長期に一世を風靡し、不遇な晩年を送って死去した東京ぼん太の「夢もチボーもないね」という決めぜりふ、それがギャグではなくなってしまったのがいまの日本社会ではないのか。ま、いろいろあらーな、とかいってる場合じゃないぞほんとに。

次期アメリカ大統領の話題から、次期名張市長の話題にスライドする。8月5日、2ちゃんねる名張市政スレにこんなレスが投じられた。

三重県名張市の市政について語りませんか?:531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 17:08:31 ID:2PqEI141

「関西地区帝大教授の人間が市長選に出る」という話である。話というか、与太である。もっとも、この話なら、当方だって知らないわけではなかった。ただし、この情報がどんな経路で伝わっていったのか、それがわからなかった。後続のレスもふくめ、情報に誤りが多いことも気にかかっていたのだが、そのうち話題にのぼらなくなったから、沙汰やみになったものと思っていた。

ところが、きのうの夜、ある知人から電話がかかってきて、おたがいに酔っ払っていたから他愛もないことを話しこんでいたところ、むこうから次期市長候補の話が出た。むろん、2ちゃんねるで「関西地区帝大教授の人間が市長選に出る」とうわさされた人物のことである。じつをいうと「関西地区帝大教授」というのは誤りで、とはいえ、関西地区にある大学の教授であることにはまちがいがないのだが、いろいろ話を聞いてみて、ようやく、この話が2ちゃんねる名張市政スレまで伝達された経路を推測することができた。この推測、たぶん当たりである。この推測に立てば、誤情報が多かったことも納得できる。

で、電話をかけてきた知人によれば、その電話というのは大阪からかかってきたのであるが、話はまだ生きていたらしい。当人はともかく、知人はそこそこ乗り気になっているようである。やめとけやめとけ、というのが当方の主張である。電話でも、そう伝えておいた。当方、その人物を支援する気は、いまのところゼロである。しかし知人は、おまえのブログで市長選挙へむけた布石を打ってくれ、と懇願する。当方、もしもその人物を支援する気になったとしたら、だれに頼まれなくたって布石の百や二百や三百、いくらだって打ってやるのだが、いまはその気になれない。とかいいながら、あんまり愛想のないこともできないから、ここにこうして記しておくことにした。これでその知人から、酒の一杯もおごってもらえるはずである。

話が横道にそれてしまったが、とにかく早まってはいけない。当方、名張市を敵にまわしているわけではない。敵にまわしたいと思っているわけでもない。市長選挙のことなんかより、まずは乱歩のことである。市立図書館から身を引いたとはいえ、名張市には乱歩のことをしっかりやってもらいたい、という願いには変わりがない。心ならずも敵にまわることになるのか、不本意ながら仁義なき戦いの火蓋を切らざるをえないのか、そのあたり、結局は、市長との面談の結果次第ということになるしかないであろうな、と、ほとけさまのような人間である当方はそのように考えている次第である。
9月17日付エントリのつづきである。

9月17日:開設一周年を迎えて 上

いま読み返してみたら、9月17日は中井英夫の命日だと書いてある。まちがいである。9月17日は中井英夫の誕生日なのである。あわてて訂正しておいた。

開設一周年には関係のない話題だが、他紙にやや遅れ、朝日新聞にも乱歩都市交流会議の記事が出た。

朝日新聞:「乱歩」の街 連携

この記事にも「情報発信」ということばが登場するが、それは具体的にどんなことなのか。要するに、物産販売なのである。国立劇場のロビーで二銭銅貨煎餅や乱歩ぱいのたぐいを販売する、ということなのである。むろん結構なことである。おおいにやっていただけばいいのである。問題は、名張市が情報発信というテーマをそんなレベルでしか考えることができない、という点にある。考える、というよりは、思いつく、といったほうが適切であろう。ものごとをまともに考える能力など、名張市にはまったくない。名張市には思いつきしかないのである。ま、その場その場で思いつきを口走り、それが実現できなかったら意味不明のいいわけ、いいつくろい、いいのがれを並べたててその場しのぎを決めこむだけ、責任なんてまったく問われることがないのだから、楽といえば楽なのであろうな。

さて、ブログ開設一周年を迎えて、といっても一年と一か月あまりが経過してしまったわけであるが、そもそもどうしてブログに手を染めたのかというと、理由のひとつとして、もしかしたらサイトのほうは閉鎖することになるのかな、サイトからブログに移行することになるのかな、というあいまいな予測があったからである。あったというか、いまもある。

当方のウェブサイト名張人外境は、平成11・1999年10月21日、江戸川乱歩の誕生日を期して開設した。開設にいたる簡単な経緯は、10月24日付エントリに記した。

10月24日:市教委を蹴散らす二蹴り目

サイトのメインコンテンツは、名張市立図書館が発行した『乱歩文献データブック』『江戸川乱歩執筆年譜』『江戸川乱歩著書目録』という三冊のリファレンスブックである。本来であれば、これらのデータは、乱歩の作品と著書にかんする高度な検索機能をプログラミングしたうえで、名張市立図書館のサイトに掲載されていなければならないのだが、名張市は財政難だからそれができない、ということになっている。リファレンスブックの内容以外に、乱歩にかんする情報も掲載している。最近は更新もとどこおりがちなのだが、いちおうはこんな感じである。

名張人外境:トップページ

しかし、いつまでも名張市立図書館の著作権を侵害しているわけにもまいらぬであろう。当方、名張地区ぬすっと推進協議会ではないのである。だからサイトを閉鎖して、というか、少なくとも江戸川乱歩リファレンスブックのデータは、いずれ削除してしまわなければなるまい。データそのものはたいへん充実していて、全国に存在する乱歩ファンなどにはおおいに重宝していただいているはずである。その意味では乱歩ファンの共有財産になっているといっても過言ではないのだが、しょせんは個人サイトである。当方が死んだら消滅してしまうものである。しかも当方、澁澤龍彦が死んだ齢まであと四年である。そんな人間が、名張市が面倒をみるべきデータをいつまでも個人として抱えこんでいるのも、なんだかばかみたいな話であると思われる。

とはいえ、もう少しなんとかならんものか、とも思われたので、人のふんどしで相撲がとれぬものかどうか、ちょっと考えてみた。書店はどうか、と思いついた。地元大型書店のサイトに、乱歩の作品と著書のデータを掲載して、高度な検索が可能なようにプログラミングする。江戸川乱歩リファレンスブックのデータを流用するわけではまったくないから、名張市立図書館の著作権を侵害することにはならない。ほかに、乱歩にかんする新刊などの情報を掲載してゆけば、それだけで有用なコンテンツになるのだし、乱歩が生まれたまちの書店が乱歩の本にかんする情報を発信する、というのはなかなか面白い話でもある。

ただし、無理な話でもあるはずである。当節、書店経営などというのは綱渡りのようなものである。そもそも、出版業界が悲鳴をあげている。新刊点数と書店の床面積は増えつづけているのに、書籍や雑誌の売りあげは相当な勢いで減りつづけている、というのが、本と書店をめぐる現状である。大都市に乱立する大型書店の一店が、ある日突然、閉店になってもふしぎでもなんでもない状況である。名張市だって事情は同様であろう。虫のいい申し出など容れられるわけがない、とは百も承知でいたのだが、とりあえずあたってみるかと考えて、名張市内の某地元大型書店の社長さんから時間を頂戴した。

社長さんには親身に話をお聞きいただいたのだが、そもそも成立するはずのない申し出である。むろん当方とて、虫がいいことを口走るだけでは申しわけがないゆえ、乱歩にかんするデータ以外に、オフィシャルサイトにたとえばこんなコンテンツを掲載すれば、乱歩ファンはもとより地域の人たちにも親しまれるのではないか、みたいな提案もそこそこしてはみたのだが、もとより直接的な利益に結びつく話ではない。世間話もまじえていろいろ話しているうちに、ひとつ某地元CATV局に話をもっていってみるか、ということになった。その場の話の流れで、そういうことにしていただいた。

ちょっとまずいかな、とは思った。当方、地元CATVには加入していないし、これから加入することもないと思う。そんな人間が、えー、こんちこれまた御社のサイトに乱歩のコンテンツをですね、などと申し出るのはいかにも見当ちがいな話である。とはいえ、CATV局が公共性の高い企業であることはまちがいないのだし、名張市が財政難でできないことをCATVが肩代わりするのは無茶苦茶不自然なことでもないであろう。乱歩の出身地にあるCATVのオフィシャルサイトに乱歩にかんするコンテンツがあるというのは、よく考えてみたら面白い話かもしれないなとも思われたので、某地元CATV局の会長さんと社長さんに、別々の日にお会いいただいた。

しかしこれは、もちろんそうなるしかないことではあったのだが、話がまったくかみ合わなかった。当方の申し出は、ほとんど常軌を逸したものなのであるから、かみ合わなくてあたりまえである。某地元大型書店にも某地元CATV局にも、こちらから無理をいって時間を頂戴したにもかかわらず、たんに迷惑をおかけしただけの結果に終わってしまった。もちろん、それぞれのトップのかたにお会いでき、話を聞いていただけただけでも、当方にとってはじつにありがたいことであった。おかげですっきりした、もうすっぱりあきらめよう、と考えたのがたしか6月下旬、名張市役所で名張ロータリークラブが教育委員会に「少年少女乱歩手帳」を寄贈した日のことであった。その場に顔を出すようロータリークラブから要請されていたのだが、あいにくと某地元CATV局にお邪魔する先約があったのではたせなかった、その日のことであったと記憶する。

そういえば、11月1日から16日まで、名張ロータリークラブ謹製「少年少女乱歩手帳」が福岡進出をはたしている。サイトのほうに記しておいた。

名張人外境:トップページ

お読みいただいたとおりである。情報発信というのは、たぶんこういうことなのである。わずかA3サイズ一枚の「少年少女乱歩手帳」であったとしても、面白くて質の高い情報でさえあれば、それをしっかりと受信し、そのうえで、福岡で開催中の展示会に展示してくださったり、「ハヤカワミステリマガジン」で紹介してくださったり、受信した情報をさらに発信してくれる人はかならず存在するのである。情報というのは、そうやって伝達されてゆくものなのである。

しかるに、名張市における情報発信とは、いったいどんなものなのか。国立劇場のロビーで物産販売をおこなうことなのである。これといった具体的な目的はなにもいままに、ただの思いつきで乱歩都市交流会議とやらをぶちあげることなのである。大丈夫かほんとに。というか、このまま野放しにしといていいのかよ、とさえ思う。

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