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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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なんかもうあれである。いやである。やなせ宿を話題にすることじたいがいやである。いやんばかんのやなせ宿、みたいな感じになってきているのであるけれど、つらつら思い起こして考えてみるに、名張まちなか再生プランの素案が発表されて以来ということになるのだから、思いもかけず長いつきあいとはなった。つきあいが長くなれば愛着も深まる道理であるし、だれからも望まれることなく生まれてきた子供だという境涯のふびんさもあいまって、なんとかしてやりたいと考えるのが人の情、甲斐もなく微力を尽くしてきた次第であるが、もうどうしてやることもできない。つきあいもそろそろおしまい、といったことになりそうである。

いかんいかん。きのうからなぜか別れ話モードである。こんなことではいかんのじゃが、ともあれ、やなせ宿の整備事業は明らかな失敗に終わった。大失敗じゃ。そしてその失敗は、やはり事業の最高責任者がしっかりどっしり引き受けるべきものである。あたりまえの話である。それにそもそもあれである。失敗といったって、こんな失敗はごくごくかわいいものである。抱き寄せて頬ずりしてやりたいくらいの失敗ではないか。しかもありがたいことに、失敗をフォローできる可能性はまだ残されている。やなせ宿の運営にはいまだ不確定要素が多いのだから、現時点において最良の善後策を講じることで、もしかしたらマイナスをプラスにかえることもできるのではないか。

とはいえ、きのうも記したとおり、名張市長にリーダーシップを発揮していただかなければどうしようもない。だというのに、そんな気配はまったくみえない。それができる権限を手にしており、それをなすべき立場にもいらっしゃるというのに、たとえばきのう引いた今年度の施政方針にあるごとく、やなせ宿なんてまったくの他人ごと、みたいな感じなのはどうしたことか。理解できない。むしろリーダーとしての腕のみせどころではないかとさえ思われるのであるが、ほんとにどうしたことなのか。もっとも、リーダーシップの裏づけとなる求心力の問題に眼を転じてみても、ちょっとどうかなと思われぬでもないから、ま、結局はこんなところか。

しかし、検証だけはせねばなるまい。不可欠である。やなせ宿の整備事業はどうして、かくも無惨な失敗に終わったのか。その点を検証して今後にいかすこと、二度とおなじあやまちをくり返さないよう努めることが、関係各位には望まれるはずである。だが、これも無理か。過ぎたことごちゃごちゃいったってしかたねーじゃねーか、とか、責任のなんのといまから犯人捜ししてどーする、とか、いーんだよおれの腹が痛んだわけじゃねーんだから、とか、そんなこといってうやむやにしてしまおうとする連中が多いのであろうな。

しかたあるまい。深く反省すべき関係各位になりかわり、というよりは、事業の最高責任者になりかわり、当方が反省点をあげておくことにする。反省点は、ななつある。名張市ななつの大罪、といったところか。

ひとつ、ただの思いつきだった。

ふたつ、なにも考えなかった。

みっつ、すっとこどっこいに丸投げした。

よっつ、勝手な都合を押しつけた。

いつつ、すっとこどっこいの迷走を放置した。

むっつ、わけがわからなくなった。

ななつ、知らん顔をした。

こういったところであろうか。ななつの大罪それぞれについて、死ぬほどくわしく述べることはもとより可能なのであるけれど、なんかもういや、いやんばかんのやなせ宿。

といったような次第である。名張まちなか再生プランの素案に眼を通して以来、なんぼなんでもこれはまずかろうとびっくりし、なにしろ旧細川邸を歴史資料館として整備するなどと気のふれたようなことが書かれているかと思うと、せっかく寄贈してもらった旧桝田医院第二病棟のことはいっさい出てこないというでたらめぶりだったものだから、なんとかしてやんなくちゃなと思ったのが運のつき。よくもこんなばかなことにめいっぱい、時間と労力をそそぎこんできたものである。われながら、ばかだと思う。

しかしまあ、しつこく記すが、もうおしまいである。旧桝田医院第二病棟の地があやしげな神社のような、淫祠邪教の聖地のような場として整備されることもみとどけたことであるし、あとは、名張まちなかのことなんかもう知ーらないっと、ということになる。ならざるをえない。当方にできることはもう、なにもないのである。あるとすれば、名張まちなか再生委員会をぶっ壊してやることくらいなものなのだが、あれはもう壊れたのかな。規約の見直しを早急に進め、臨時総会にはかるとのことであったが、6月の定期総会からもう半年が経過した。あすから12月ではないか。臨時総会は、早くても年明けということになるようである。それ以前に、あの委員会、いまではなーんにも活動していないみたいだから、実質的にはもうぶっ壊れているといっていいのではないか。

したがって、今後はこのブログも、いよいよ、最終決戦というか、頂上作戦というか、名張市は乱歩をどうする気? という究極のテーマに特化、ないしは先鋭化されることになる。それにしては、市長との面談の場の連絡がいっこうにもたらされないのは、ちょっとおかしい。おっかしいなあ。おっかしいなあ。おっかしいけれどまあそれはそれとして、そんなことにばかりかかずらい、時間を浪費しているのもあほらしいといえばあほらしいゆえ、このブログにかける時間を減らして、そのぶん、調べものや書きものにまわすことにした。

もう何年も前、というか、それこそ四年前のことになるが、旧桝田医院第二病棟が名張市に寄贈されたとき、ここになんらかの乱歩関連施設が整備されたら、本を一冊、まとめるべきだろうなと考えた。乱歩と名張の関係を説く本である。名張の人には乱歩のことがよくわかり、乱歩ファンには名張のことがよくわかる。そんな本である。タイトルは『乱歩と名張』と決め、準備も進めていた。そういえば、8月28日付エントリにもおんなじことを書いておいたっけ。

8月28日:少年少女乱歩手帳のあとに

このエントリにあるとおり、

──とりあえず、予定していた本をまとめるのは中止した。『乱歩と名張』と題した本で、四年ほどまえから構想を温めていた。というか、準備もしていて、桝田医院第二病棟が乱歩に関連してどのように整備されるのか、旧細川邸が乱歩と関連づけられるのかどうか、このふたつの問題が決着をみたら仕上げにかかろうと思っていたのだが、ご存じのとおり笑うべき結末となったので、『乱歩と名張』などという本を出すのはあほらしくなった。もう出さない。

といった仕儀となった。かわりに、三重県と乱歩の関係をちょこっとまとめておくべきだろうと方針を変更し、夏ごろからぼちぼちと執筆していた。つまり、8月28日の時点では書きはじめていたのだが、これが予想以上に難しい。なにが難しいのかというと、読者を高校生以上と想定しているからである。つまりまあ、はっきりいって、じつにおこがましい話であるが、世間で教養と呼ばれるものとあんまり縁のない人にも、じゅうぶん理解していただける内容にしたい、と天につばするほどの上から目線で考えたからである。

どんな感じなのか、現物をごらんいただく。冒頭の三枚を引用。

   
三重県にあった国と藩
江戸時代のことから、話を始めよう。四百年ほど時代をさかのぼる。当時、日本には六十六の国があった。
いま、国といえば、国家のことを連想する。日本という国、日本という国家。だが、国という言葉は、地域を意味することもある。北の国といえば、北のほうの地域のことだ。ほかに、一定の区域を指して、国という場合があった。いまでいえば都道府県にあたる。行政区画と呼ばれるものだ。
現在の三重県のエリアには、かつて、そうした行政区画としての国が、四つ存在していた。北から中央にかけて伊勢の国、東に志摩の国、西に伊賀の国が位置し、南には紀伊の国の一部があった。古代から近世まで、つまり江戸時代が終わるまで、この名称は一貫して使用された。いまでも、他人の出身地を尋ねるとき、「お国はどちらですか」という人がいる。国籍ではなくて、いわゆる生国、生まれた国を尋ねているわけだ。
国の範囲には、古代には、多少の変遷があった。早い話が、伊賀の国は天武九年(六八〇)、伊勢の国からわかれて独立したとする資料もある。ただし、日本のオフィシャルな歴史書である『日本書紀』には記されていないから、史実としてそのまま鵜呑みにはできないかもしれない。いずれにせよ、そういった分割や統合を経て、九世紀の初頭には、国のエリアが確定した。日本には六十六の国がある、ということになった。
古代までさかのぼって、もう少し説明を加えておこう。それぞれの国には、最初、朝廷から国司という役人が派遣され、行政事務を担当した。朝廷というのは、天皇が政治をおこなう場所のことだが、天皇を頂点とした政権を意味する言葉でもある。その朝廷の力はしだいに衰え、武士が台頭してくる。時代区分でいえば、平安時代が終わり、鎌倉時代が始まって、武家政権が日本を支配するようになった。朝廷の国司は、名目だけの存在になってしまった。
鎌倉時代、政権は鎌倉幕府が握っていた。源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を置いたから、こう呼ばれる。幕府とは、もともとは武家政権のリーダー、あるいはその屋敷の意味だが、将軍がひきいる政権そのものを示す言葉としても使用されるようになった。
鎌倉幕府は、国ごとに守護という役職を設置し、治安の維持などにあたらせた。守護には、幕府直属の有力な武士が任命された。時代が進むにつれて、守護はそれぞれの国で力を強め、領国を拡大して、守護大名という存在になる。南北朝から室町時代にかけてのことだ。鎌倉時代の守護は中央から派遣された役人だったが、守護大名は領地との関係を深め、領主の性格を濃くしてゆく。
守護大名は、さらに成長する。それぞれの国に古くから住んでいた有力者を従え、実質

人はなにごとが起こったかと思うかもしれぬが、乱歩と三重県の関係を説くためには、まず津藩藤堂家と乱歩のかかわりを明らかにしておかなければならない。となると、藤堂高虎のことから入るのが王道ということになるのだが、そうなると津藩とはなにか、大名とはなにか、幕藩体制とはなにか、幕府とはなにか、あるいは国とはなにか、いろいろ説明しなければならぬことが出てきて、結局はごらんのとおり、江戸時代のことからはじめた話が、さらにさかのぼって古代のことにまで及んでしまう。なんかもう、かったるくなってくるわけね。

むろん、実際に本のかたちで出版されることになるのかどうか、それはわからない。しかし、とりあえず原稿を書きあげてしまわないと話にならないから、夏に書きはじめたものの、かったるくなってほったらかしにしてあったものを、なんとか書き継いでかたづけてしまいたい。で、当面、ブログは二のつぎ三のつぎ、ということにするしかないという結論にいたった。ということをここに記して、自分にプレッシャーをかけておきたい、という考えもある。もしかしたら、原稿書きがいやになって、頻繁にブログに逃避してくる、みたいなことになるかもしれんなとも思われるのであるが。

ちなみに、本のタイトルは、まだ仮題ではあるが、『江戸川乱歩と伊勢志摩伊賀』ということにしている。伊勢、志摩、伊賀、というみっつの地名は、現在の市の名前ではなく、旧国名である。したがって、名張という地名はタイトルには出てこない。じつにすっきりしている。隠と書いてなばりと読みます、なんてことを嬉しげに吹聴している向きもあるくらいだから、名張には隠れていることがお似合いなのではないか。乱歩というビッグネームを自己顕示の道具にしてちゃらちゃら調子こきたい向きには残念なことであろうが、なにしろ当方、名張なんて、けけけ、いじめてやる、ネグレクトしてやる、ぼろぼろにしてやる、ぼこぼこにしたろかこら、けけけ、てなものなのである。これがまあ、四年にわたって名張まちなか再生プランにおつきあいしてきた人間の、いやさ人間豹の、天をも恐れぬ結論である。けけけ。しっかし人間豹が、けけけ、とかいってはいかんだろうなあ。けけけ、とかいっておってはなあ。
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2ちゃんねるにみる現状とあきらめについてひとこと
 ●一市民様
 ご投稿ありがとうございます。
 2ちゃんねる地方自治・知事板の「三重県名張市の市政について語りませんか?」は、あれはあれでなかなかの良スレだと思われましたので、後継スレが立たないことが不思議だったのですが、しばらく待っていたらちゃんと2スレ目が立てられましたので、さっそくリンクいたしました。要領さえわかっていれば、探すのは容易なことで、旧スレにある「掲示板に戻る」というリンクで地方自治・知事板に戻り、「名張」ということばで検索をかけてみると(私が使用しているFirefoxというブラウザだと、表示された画面でキーワード検索を行うことが可能です)、一発でPart2を発見することができました。それにしても、この「三重県名張市の市政について語りませんか?Part2」をみるかぎり、名張市政の現状はいまや末期的症状と呼ぶしかないもののようです。年末を迎え、いやべつに年末であってもなくても関係ないのですが、けさのような師走の寒風にさらされていると、もはやなにをいってもむなしいばかりではないのか、というあきらめが身に迫ってくるような気がしてしかたありません。
 今後ともよろしくお願いいたします。
人間豹 URL 2008/12/06(Sat)08:01:27 編集
無題
名張の市政について語りませんかが閉鎖されたと思えば、パート2が立ち上がったのですね。このブログのリンクから入れました。でもよく探しはりますね さすがですわ
一市民 2008/12/05(Fri)12:45:10 編集
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