三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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緊急告知です。
京都にお住まいだったミステリー作家の多島斗志之さんが昨年12月19日、自死をほのめかす手紙を残して失踪されたニュースはご存じのかたもおありだろうと思います。ご家族は伏見警察署に捜索願を提出し、いっぽうでブログを開設、ゆかりの地に足を運ぶなどの捜索活動をつづけておられます。年明けには伊賀にもおいでになり、多島さんが取材で訪れたことのあるJR柘植駅を中心に捜索されたとのことですが、多島さんの安否は依然として不明です。
年末から気になっていたニュースなので、サイトのほうでは1月4日付の記事としたのですが──
名張人外境:人外境主人残日録 > 新年四日目は悄然として日常生活に戻る(1月4日)
ミステリー関係者のかたから協力要請のメールが届きましたので、とりあえずこのブログで告知することにいたしました。詳細はご家族のブログでお読みください。
父、多島斗志之を探しています。:トップページ
捜索用チラシの掲出や配付にご協力いただけるかたは、お手数ですがご家族のブログにご連絡いただければと思います。よろしくお願いいたします。
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名張まちなか再生委員会は、いたましいことにご臨終である。10月18日の説明会、といったって、あんなものは説明でもなんでもない。名張市がてめーらの勝手な都合を一方的に並べたてただけの話である。ただの茶番であった。それでもあの説明会で、名張市としてはノルマ達成、ということになる。あとは天下晴れて、名張地区まちづくり推進協議会との協働とやらに勇往邁進できる運びとなった。いっぽう、もう協働のバートナーではない、と名張市長からじきじきに三行半をつきつけていただいた名張まちなか再生委員会は、はたしてどうなるのか。説明会を最後に自然消滅してしまう可能性もないではないのだが、ここはやはり臨時総会を招集し、きれいにきっちり解散しておくことが必要であろう。
こうなると、残る問題はこれである。
やなせ宿である。無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館である。市民のあいだには、公民館としてはほぼつかいものにならない、という評価が定着しつつあるようであるが、そもそもこれは、公民館ではない。ではいったい、なんであるのか。いまだにわからない、というのが正確なところである。なんのための公共施設なんだか、そんなことはだれにもわからない。どうしてこんなものをつくったのか、それもだれにもわからないのだが、つくってしまったんだからしかたがない。市民の血税で維持管理企画運営が進められているのだが、なんかもう、ほんとにどうしようもないぞあんなもの。まったくもって意味不明の施設である。ま、しいていうならば、失政のシンボルとしての意味はおおいにあるのだが。
というか、おれも名張まちなか再生委員会の一員ではあるのだから、その意味においては、やなせ宿の整備が完全に失敗し、さっぱりわけがわかんないもののもうどうしようもないということだけはよくわかる、みたいな事態に立ちいたってしまったことにかんして、責任というやつがある。すなわち、名張市民各位にお詫びをしなければならない立場にある。だから、お詫びを申しあげる。血税一億円をつぎこんで、眼もあてられぬていたらくとなった。ほんとに申しわけないと思う。
本来であれば、細川邸整備事業の、というか、まちなか再生事業の最高責任者である名張市長が、やなせ宿にかんするあれこれの失敗を市民に詫び、最善の対処を約束すべきところではあるが、遺憾ながら、お役所には失敗ということばがない。失政の結果どのような事態がもたらされても、それを追認しつづけるのがお役所というところである。それから、いうまでもなく、責任ということばもない。かりにあるとすれば、他人の責任、というやつである。自分の責任、ということばはない。失敗もしておらず、そもそも責任はない、かりにあるとすれば名張まちなか再生委員会の責任である、だから再生委員会とは縁を切った、これは正しい判断である、したがって、どうしていちいち市民に詫びを入れなきゃなんないの? ということになる。
「さ、そろそろテロにすっか」
きょうは一日、いいお天気のようである。
先日、東京でお会いした石塚公昭さんから、けさ届いていたメールでお知らせいただいたのだが、荒俣宏さんのブログに神奈川近代文学館の「大乱歩展」が、というか、山本松寿堂謹製「二銭銅貨煎餅」が登場している。
荒俣宏のオークション博物誌:大乱歩展を見に行く(10月19日)
「大乱歩展」にいらっしゃった荒俣さん、「帰りに事務所に寄ったら、三重県で売られている『二銭銅貨』のお菓子を戴いた」とお書きである。この二銭銅貨煎餅は、たぶん、おれが10月2日、神奈川近代文学館におもちしたものだと思う。念のために書いとくと、名張市民の血税ではなく、自腹で買っておみやげにしたものである。その二銭銅貨煎餅、まさか荒俣さんにご賞味いただけるとはなあ。山本松寿堂のご主人と奥さんも、さぞや大喜びされることであろう。写真まで掲載されていて、キャプションは「乱歩が生まれた三重県名張町の二銭銅貨煎餅」。著作権も肖像権も無視して、心のなかで荒俣さんにお詫びを申しあげつつ、天下御免の無断転載。
荒俣さんのブログには、「『二銭銅貨』のお菓子を戴いた」のあとにつづけて、
「いまや、乱歩は町おこしの決め手でもある。そういえば、来年開催の名古屋市開府400年記念事業でも、名古屋と縁があった乱歩さんをからめた舞台もつくろうという企画ももちあがっている」
とも記されている。こうなると、三重県にも頑張ってもらわなければならんなあ。三重県が展開する「美し国おこし・三重」で、いったいどんな乱歩関連事業がくりひろげられるのか、乱歩がどんな「決め手」になるのか、全国の乱歩ファンが注視してくれるであろうからなあ。名張市名物、官民協働の出番でもある。名張市が、官民協働でやります、っつってんだから、これはもう事業の失敗がしっかり約束されたようなものなのだが、いまからそんな決めつけるようなこというのも酷というものであろう。関係各位には、なんとか頑張ってもらいたいものである。失敗したら腹かっさばきます、っつーくらいの気合でやってもらいたいものである。さもないと、三重県も名張市も、乱歩ファンから完全に見放されてしまうぞ。うわっつらだけのご町内イベントでお茶を濁したりしたら、三重県民や名張市民が恥をかく、ということにもなってしまう。
だいたいが名張市は、このところ、かなり評判がわるいからな。なんどもしつこく記すけど、先日も東京で、
「乱歩の生家を復元する話はどうなったんですか」
「乱歩の生誕地碑には屋根くらいつけなきゃ」
「ミステリー文庫はどうしたあッ」
「乱歩に関係のある都市が集まってなにかやる、という話はどうなったんですか」
「乱歩生誕地の広場は、みる価値ありますか」
とかもうほんと、たいへんだったんだぞ。しかし、三重県と名張市が官民の協働で乱歩関連事業を展開するというのだから、とりあえず、けりはつけておくべきかもしれんなあ。けりというのは、名張市による回答のことである。つまり、おれは東京で、たとえば、「乱歩の生家を復元する話はどうなったんですか」とか、「ミステリー文庫はどうしたあッ」とか、そんな質問を受けたわけである。しかし、おれには答えようがない。だから、本来であれば、名張市公式サイト「市長への手紙」を利用して、そうした質問を送信し、名張市の回答をゲットするべきなのである。その回答をネット上で公表して、全国各地で名張市のことを気にかけてくださっている乱歩ファンのみなさんに、これこれこういった事情でございます、とお知らせするべきなのである。
しかし、そんなことしたって、まともな回答はとても期待できない。なにしろ名張市では、言論が死んでおるのである。理路整然とした質疑応答なんて、とても望めないのである。だから、東京で寄せられた質問もそのまま放置しておくつもりだったのだが、三重県と名張市が官民の協働で乱歩関連事業を展開するというのであれば、全国の乱歩ファンから注視されることになるのだし、というよりは、興味を抱いていただかねばならんのだし、乱歩ファンの協力を要請しなければならんシーンも出てくるものと思われる。だったら、新しい事業に着手する以前に、名張市にたいして寄せられた質問にきっちり答えておくべきであろう。それが礼儀というものである。
しかし、しかしなあ、おれはこれまでにも、「市長への手紙」を利用して、乱歩にかんすることでいえば、たとえば、市立図書館が収集した乱歩関連資料はどんなふうに活用するのよ、みたいなことを質問したこともあったのだが、その答えはこんなんだったんだぞ。
中 相作 さま
このたびは「市長への手紙」をお寄せいただき、ありがとうございました。
名張市立図書館が所蔵する江戸川乱歩関連資料を活用するための具体的な方針につきましては、現在のところございませんが、今後、図書館活動の一環として、江戸川乱歩に関連する図書や雑誌などの資料を、収集・保存に努めてまいりたいと考えています。
今後とも、貴重なご意見・ご提案をお寄せいただきますようお願いします。
平成20年10月 9日
名張市長 亀井利克
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なんの方針もないけれど、資料の収集と保存に努めます、とかいってくれるんだから、腰がくだけそうになってしまうよな。へなへなへな、てなものである。しかも、資料の収集ったって、具体的なことはここには記さないけれど、その実情はじつにひどいものなんだぞ。なにしろ乱歩のことを知ってる人間が、市立図書館にはひとりも存在しないんだからな。とにかく、「市長への手紙」を利用してなにを尋ねてみたところで、名張市役所の中の人はまともな回答なんてしてくれないのだから、乱歩ファンから寄せられた質問を送信したって意味はない。とはいえ、三重県と名張市が官民の協働で乱歩関連事業を展開するというのであれば、質問を放置しておくわけにはいかんしなあ。悩ましい問題だよなあまったく。なんでおれがこんなことで悩まなければならんのか、とは思うけど。
ところで、三重県と名張市が官民の協働で展開する乱歩関連事業の関係各位は、きょうが乱歩の誕生日だということをご存じなのかな。そんなことさえご存じないというのであれば、けがしないうちにしっぽを巻いて、とっとと逃げを打ったほうが利口かもしれんぞ。ほれ。ほれほれ。
おとといの説明会、報告の追加である。この件について。
10月13日:横浜東京甲府旅日記(三) > 記事が手許にありませんので副委員長の文書をどうぞ
名張まちなか再生委員会の副委員長から名張市長に提出された「亀井市長に『名張まちなか再生委員会』関する質問と提案。そして少々の感想。」の件である。提出の日付は10月8日で、文書による回答を「出来るだけ早急(5日間程度)に」求める内容であったが、説明会の時点では、回答はいまだ用意されていなかった。しかし、市長から副委員長に、回答する、との確約がなされた。
とはいうものの、実際のところ、ことばはすでに無力である。げんに、おとといの説明会、口頭による説明とやらがおこなわれたのだが、説明を受けるほうが納得し、得心できたかというと、そんなことはまるでない。なにが説明されているんだか、それすらよくわからない。名張市は名張まちなか再生委員会から退会する、あるいは、名張まちなか再生委員会は名張市にとって協働のパートナーではない、といった通告が、合理的な根拠や明確な理由をいっさい示すことなく、きわめて一方的に押しつけられただけである。したがって、文書による回答を求めてみたところで、まともな回答はとても期待できない。ここ名張市において、言論はもう、死んでいるからである。
ただし、ごく単純なものであれば、言論はまだ生きている。幼児にも理解できることばなら、名張市においても通用する。たとえば、申しわけありませんが二銭銅貨煎餅を買ってくれませんか、みたいな単純なことば、わかりやすい要請、イエスかノーかで答えられる問いかけであれば、名張市にだって通用する。おれが先日、名張市公式サイト「市長への手紙」を利用したゆすりたかりで実証してみせたとおりである。名張市からは、打てば響くようなレスポンスのよさで、買います買います、買いますからいじめないでください、みたいな回答があった。だから、余談ながら、名張市ってめちゃめちゃテロに弱そう、とおれは思った。それから、ネット上で公開されたゆすりたかりならまだいいけれど、市民の眼がまったく届かない場で、不逞のやからが名張市にゆすりたかりを働いている、みたいなことがあるのではないか、とも感じた。そして、ゆすりたかりに遭った名張市は、唯々諾々とそれに屈してしまっているのではないか、とも考えてしまった。しっかりしような名張市。
それにしても、困ったものだな、と思う。過ぎたことではない。大失敗に終わったまちなか再生事業のことを、いまさら困った困ったと嘆いてみたってしかたがない。困ったものだな、というのは、これからのことである。名張市には学習能力がかけらもないということなのか、協働とかいうお題目への反省がまるでみられないのである。名張まちなか再生委員会に功績と呼べるものがあるとしたら、協働などというきれいごとのもとにうすらばかがうすらばかを集めてみても、そんなものはしょせん破綻するしかねーんだよばーか、ということを市民にひろく知らしめた点に求められよう。だというのに、かんじんの名張市は、蛙のつらに小便とでもいうのか、協働とやらの有効性を検証してみることなど、まったく考えておらんようなのである。げんに説明会では、三重県が手がける「美し国おこし・三重」の尻馬に乗っかった官民協働事業のことが発表された。
三重県公式サイト:美し国おこし・三重
三重県知事は、懲りていらっしゃらないのであろうか。じつに無残な失敗に終わった三重県の官民協働事業「生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」で懲りたはずじゃねーのかよ、とおれは思う。おれがあれほど諄々と道を説き、ばかなことはおやめなさいと訓戒を垂れてさしあげたというのに、「文化力」だの「地域の多様な主体」だのと寝言みたいなお題目のもと、またしてもおなじ愚をくり返すとおっしゃるのか。もっとも、平成16・2004年に実施された「生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」は前知事の時代にレールが敷かれたもので、現知事は右も左もわからぬままそのレールをお進みになっただけの話であった。そんなことはおれにも重々わかっていたのであるが、それにしてもこの事業に携わっている官民双方のうすらばかはいったいなんなんだ、とは思われたので、われを忘れるほど激怒してしまい、知事にもついつい、てめーはばかなのかこの腐れきんたま、みたいな礼を失したメールをお出ししたこともあったっけ。反省しなきゃな。
それで名張市は、おとといの説明会における市長の説明によれば、この「美し国おこし・三重」の一環として、官民の協働による事業を手がけることになったという。しかも、それがなんと、乱歩関連事業なのだという。どんな事業が展開されるのかは知らないが、よほどしっかりしなければ、名張市は笑われてしまうぞ。なにしろこのあいだ、ちょっと上京しただけで、
「乱歩の生家を復元する話はどうなったんですか」
「乱歩の生誕地碑には屋根くらいつけなきゃ」
「ミステリー文庫はどうしたあッ」
「乱歩に関係のある都市が集まってなにかやる、という話はどうなったんですか」
「乱歩生誕地の広場は、みる価値ありますか」
などといったお叱りやお尋ねが、乱歩ファンのみなさんから雨あられと飛んできたほどなのである。しかも、つい先日のエントリにも記したとおり、ここ名張市においては、「なにしろまあ、ろくに乱歩作品を読もうともせず、乱歩のことを知ろうともせず、ただ乱歩というビッグネームを自己顕示の素材として利用し、ご町内でうわっつらだけ乱歩乱歩とかっこつけてりゃ機嫌がいい、みたいな連中ばっかりなのである。官民双方、そんな手合いばっかりが、名張市というごくごく狭い小さな世界で、みずからの快だけを求めて乱歩乱歩と幅を利かせておるのである」ということが、すっかりばれてしまっておるのである。
そんなところへもってきて、官民協働の乱歩関連事業を手がけるというのだから、おれとしては、おまいらいきなり地雷踏んでどうするよ、と心配せざるをえないのだが、よし、わかった、ちょうどいい。こんな協働事業、どうせ失敗するに決まってんだから、名張市における協働とかいうやつがどれほどインチキなものなのか、この「美し国おこし・三重」の乱歩関連事業を手がかりとして満天下に知らしめてやろうかな。それとも、そんなことは、やっぱやめとこうかな。やろうかな。やめとこうかな。どっちらっにしようかなっ。いやー、なんかもう、乙女のごとく心が揺れ動いてしまうよなあ。これはまあ、
「さ、そろそろテロにすっか」
みたいなことなのであって、やるかやらないか、まだ確定はしてないんだから、関係各位はいまから涙目にならなくたっていいんだぞ。
われらが名張まちなか再生委員会、いよいよご臨終ということになった。きのう、名張市役所で説明会とやらが開かれた。ま、いってみればお通夜である。
配付された資料がこれ。
三ページ目のメンバー表にはアミをかけられた行があって、スキャンすると完全につぶれてしまう。画像ソフトで補正してみたが、それでもほとんど読めない。すまんなどうも。
なぜか、こんなチラシも配られた。
ま、交通事故には気をつけたいものである。
委員会側の出席者は、委員長と副委員長を含め、事務局は除いて、たしか十二人。ごくこぢんまりしたお通夜であった。説明会といったって、おととい記しておいたとおり、9月15日の名張市議会決算特別委員会におけるやりとりを一歩も出るものではない。
09月20日:いうべきことなどないの巻
09月26日:また先送りでござるかの巻
要するに消化試合で、まさしく、いうべきことなどなにもない。なにをいっても、なにを質問しても、むなしいばかりである。言論は死んでいる。暴政はまかり通る。これもおととい記したとおり、名張市民には、泣き寝入りするか、テロリズムに走るか、そのふたつの道しか残されていないのである。おれはどっちなのかというと、
「さ、そろそろテロにすっか」
みたいな感じにやや傾いているのだが、むろんまだ確定ではない。なんつか、乙女のごとく心が揺れている状態なのであるが、いずれにしても、説明会なんてのはもうどうだってかまわない。お通夜に連なっているだけの話である。とはいえ、黙って聞いていると、例によって例のごとく、不毛な質疑があり、不用意な誤解がある。だから、説明会の流れが妙なほうに行きかけたとき、それを修正するために軽く発言した。
不毛な質疑というのは、名張まちなか再生委員会から名張地区まちづくり推進協議会が抜けた理由はなにか、といったものである。そんなことは、まちづくり推進協議会に尋ねなければわからない。尋ねたところで、会員個々の判断である、という返答しか返ってこないはずである。個々の判断というのは、退会届に書かれてあった退会理由にほかならない。以前、再生委員会の事務局で確認したところでは、退会理由はふたつにわかれていたという。ひとつは、一身上の都合。もうひとつは、携わっていたプロジェクトの終了。再生委員会としては、そこまでのことしかわからない。それ以上のことは、推測ということにしかならない。そんな質疑に時間を費やすべきではない。
不用意な誤解というのは、名張地区まちづくり推進協議会が抜けてしまった現在も、名張まちなか再生委員会は名張市の協働のパートナーなのか、という点にかんするものである。これには、9月15日の特別委員会で、行政サイドから明確な答えが出されている。パートナーではない、という答えである。この日の説明会では、市長答弁がややあいまいだったせいか、ひきつづきパートナーである、と誤解した委員があった。だから、それを訂しておいた。名張まちなか再生委員会はもはや協働のパートナーではないが、いまの再生委員会に関係している各種団体それぞれとは、今後も必要に応じて協働のパートナーとなる用意がある、というのが名張市の真意である。
それから最後に、ひとつだけ確認しておいた。まちなか再生事業は大失敗であったが、それでもなお、この事業を当初の予定どおり十年がかりで進めるのか、という点である。市長の回答は、継続したい、というものであった。こんなことを質問する必要はなかったのだが、事業が大失敗であった、ということを声を大にしていっておきたかったので、あえて発言の機会を求めた次第である。
さて、名張まちなか再生委員会に入会して、一年半ほどが経過した。入会の目的は、一にも二にも委員会をぶっ壊してやることであった。粒々辛苦の甲斐あって、そろそろ壊れかけてきたかな、と思っていたところ、驚くべきことに、というか、これはもう常識では考えられないことなのだが、名張市がみずから手をくだして、再生委員会をきれいにぶっ壊してくれた。ありがたい話である。むろん名張市は、ぶっ壊してはいない、委員会から引いただけだ、というであろうが、そんないいわけが通用するはずがあるまい。みずから発足させた委員会をみずから解散させることすらしない、それほど名張市が無責任だというだけの話である。いつものようにうわっつらをとりつくろってはいるものの、名張まちなか再生委員会は名張市がぶっ壊したのである。これは衆目の一致するところであろう。
ここでつらつら振り返るに、自慢ではないけれど、名張まちなか再生委員会のインチキを、わけてもまちなか運営協議会の設立にかんするインチキを、理事会の席で指摘してやったのはおれである。名張地区まちづくり推進協議会の会員が再生委員会から大挙して退会し、さらには、名張市そのものが再生委員会から撤退するにいたったのも、直接のきっかけはそこにある。むろんこれは、ただの推測に過ぎない。しかし、きわめて蓋然性の高い推測である。その推測をさらに重ねると、名張まちなか再生委員会は、というか、名張まちなか再生委員会を牛耳ってきた名張地区まちづくり推進協議会の面々は、まちなか運営協議会の設立にかんするインチキをあばかれた時点で、音をあげてしまったのである。もう、ごまかしようがない。いいつくろうことはできない。それを悟ってしまったのである。
きのうの説明会で、質問に立った委員のひとりが、ある文書の引用を読みあげた。非公開の文書だが、再生委員会の正副委員長が打ち合わせをおこなったときのメモである。そのメモによれば、その打ち合わせの場に、名張地区まちづくり推進協議会の会長の意向が伝えられた。どんな意向か。推進協議会は再生委員会から引かせてもらい、協議会のやるべきことを淡々とやってゆく、まちなか再生という大きな事業は市に任せる。そんな意向であったという。むろん実際には、そんなことにはなっておらず、名張市は名張地区まちづくり推進協議会をパートナーとしてまちなか再生事業を進めてゆくと明言しているのであるが、それはともかく、自分たちのインチキをいいつくろうことができなくなったと悟った推進協議会は、インチキそのものをなかったことにしてしまうために、つまりは、くさいものに蓋をしてしまうために、一般の委員にはみえないところで、委員会から引くのなんのと見苦しい画策を進めていたらしい。そうした事実が、きのう読みあげられたメモからうかがえた次第である。
でもって、名張市はどうしたのか。きのうの説明会では、推進協議会が引くと申し出たとき、市はそれを慰留したのか、引くなと説得したのか、との質問も出されたのだが、事務局の返答は、しなかった、というものであった。要するに、推進協議会のいいなりなのである。再生委員会より推進協議会がだいじ、ということなのである。しかし、推進協議会による画策は不発に終わった。退会をちらつかせて解散を迫ったものの、再生委員会は解散しないことを確認した。脅しは裏目に出てしまった。ここからはまた推測でしかないのだが、ならば、名張市の出番である、ということになったはずである。くさいものに蓋をするために、名張市はもう、なりふりかまわず、みさかいもなく、前後のことはなにも考えず、こんなことをしてしまったら、おまえら正味あほやったん? と市民をあきれ返らせる結果になるということすら理解できないなさけなさで、再生委員会を葬り去ってしまうことにしたのである。
慶賀である。まことに慶賀である。まったく予想もしていなかったことながら、委員会をぶっ壊すという一点において、おれと名張市、双方の目的がみごとに一致したのである。いってみれば、おれが爆弾を仕掛け、名張市が導火線に火をつけた結果、名張まちなか再生委員会は木っ端微塵に吹っ飛んでしまったのである。これはもう、だれがなんといったって、みごとなまでの協働である。おれと名張市が協働して、ひとつの目的を達成したのである。うすらばかがうすらばか集めてうわっつらだけとりつくろって喜んでる、というのが名張市における協働の実態なのであるが、その唯一無二の例外として、おれと名張市の協働による名張まちなか再生委員会解散大作戦は歴史に名を刻むことになったのである。
きのうの説明会では、名張まちなか再生委員会を再建するために、つまり、委員会のセカンドバージョンを発足させるということなのだが、名張市にそのための場をセットするよう求める声が、委員側から出された。市長回答は、市と委員会の役員で話し合う、ということであったが、おれにはもう、そんなことはまったく関係がない。委員会のセカンドバージョンが誕生したところで、そんなものに入会する気はさらさらない。まちなかよさようなら、という寸法である。
名張まちなか再生委員会は、いったいどうなるのか。たぶん、ちかく臨時総会を開いて、解散を決議する、ということになるはずである。それが委員会の、いってみれば本葬である。本葬のあとは、また酒蔵空間にでも集まって、名張まちなか再生委員会解散記念大宴会でぱーっと盛りあがることにしような。
名張まちなか再生委員会の説明会があすに迫った。つまり、実質的に、あす18日が委員会の命日となる。
説明会の案内を再掲。
名張まちなか再生委員会説明会の開催について(ご案内)
仲秋の候、皆さまにおかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
平素は、当委員会の活動にご尽力を賜り厚くお礼申し上げます。
さて、9月4日の第6回理事会におきまして、市より当委員会からの退会表明がありました。つきましては、下記のとおり説明会を開催させていただきますので、万障繰り合わせのうえご出席賜りますようご案内申し上げます。
なお、9月30日現在の名張まちなか再生委員会委員名簿も合わせて送付させていただきますのでよろしくお願いします。
記
開催日時 平成21年10月18日(日)
開会:14時00分 閉会:15時30分
開催場所 名張市役所3階 301・302会議室
説明事項 名張まちなか再生委員会からの市の退会について
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いやまあ、実質的に、というのであれば、9月15日に開かれた名張市議会決算特別委員会で、実質的なかたはついていた。
09月20日:いうべきことなどないの巻
09月26日:また先送りでござるかの巻
このときと同様の一方的な通告が、あすの説明会でもなされるはずである。論理にも合理にも、ものの道理にもまったく無縁な身勝手きわまりない通告がおこなわれ、かりに質疑応答があったとしても、午後3時30分までと時間は切られている。とにかく一時間半、説明会の場をやり過ごせば、あとは晴れて無罪放免、名張市は名張地区まちづくり推進協議会との黄金の癒着結託関係を堂々と、よりいっそう強固なものにできるという寸法である。
いっぽう、名張まちなか再生委員会はどうか。ご臨終である。命日である。とっとと解散するのがいいとは思われるのだが、かりに存続したとしても、同好会と呼ぶしかない組織になってしまうのは眼にみえている。せいぜいが月にいちど、日が暮れてからどこかに集まって、あーでもない、こーでもない、と小つまらぬ話題に花を咲かせるのが関の山であろう。それならいっそ、名張地区まちづくり推進協議会に入会したほうが、まだまちなか再生とやらのために尽力することが可能なのではないか。あるいは、来春の改選へ向け、名張まちなか再生委員会として市長候補の擁立を画策する、みたいなことを考えるのもいいかもしれない。むろん不調に終わりはするだろうが、同好会で無駄話してるよりまだましじゃね? という気はする。
いずれにせよ、星新一ではないけれど、人民は弱し、官吏は強し、というのはいまだ変わらぬ真理なのである。腐敗堕落をきわめたお役所が、金銭欲や名誉欲で眼を血走らせた特定の住民と、あからさまなまでの癒着結託を重ねている。そして、それを当然のこととわきまえている。弱い人民の前には、泣き寝入りするか、テロリズムに走るか、そのふたつの道しか残されていない。しかも、このところの名張市における暴政と言論の死は、いまやテロリズムにじゅうぶんな根拠を与えかねないものである。テロリズムっつったらえらいもので、
「さ、そろそろ風呂にすっか」
というのであればとてものどかな感じだけれど、
「さ、そろそろテロにすっか」
となったりしたらこれは剣呑。ほんと、気をつけろよな名張市。
旅日記、完結篇。上京も四日目となると、もうへろへろである。
10月5日(月)
重い。バッグが重い。行く先々で頂戴した雑誌のたぐいや、通りすがりの新刊書店で購入したあれこれの本、そんなものを詰め込んであるせいで、バッグがものすごく重い。のみならず、甲府でいただいたおみやげの紙袋もある。これを抱えて移動するのはたいへんだ、と思われたので、まず東京駅へ出た。八重洲口に近い構内のコインロッカーに、バッグと紙袋を押し込む。八重洲口から三越前まで歩けば、国立劇場がある半蔵門までは地下鉄ですぐである。身軽になって八重洲ブックセンターに立ち寄り、バッグがさらに重くなっては困るから、文庫本を二冊だけ買った。一冊は、今野敏さんの『隠蔽捜査』(新潮文庫)。「大乱歩展」の内覧会で、名張市が主催するミステリー講演会「なぞがたりなばり」、今年の講師は今野さんに決まった、と聞きおよんだからである。講演会の日程はよくわからない。まだ秘密なのであろう。
今野さんの小説を読むのははじめてなのだが、帰りの新幹線と近鉄特急でひもといてみたところ、なんというのか、びっくりするくらいシンプルな小説である。それはまあ、巻末解説が北上次郎さんだから、シンプルな作品であろうな、と察しはついていたのだが、予想した以上に、真っ向唐竹割りみたいなシンプルさであった。むろんミステリー作品ではあるのだが、謎解きの面白さを主眼にしたものではまったくない。警察庁の中年キャリアが、周囲から変人と呼ばれながら、正論を押し通し、原理原則を貫いてゆく話である。なんか、ゆくりなくも、腹を抱えるくらいの皮肉になっている。なにしろわれらが名張市では、まちなか再生事業ひとつとってみても如実に知られるごとく、正論だの原理原則だのが顧みられることはまったくないのである。名張市役所のみなさんには、今野さんの『隠蔽捜査』をぜひご一読あれ、と皮肉とともにお薦めしておく次第である。気になるお値段は本体五百九十円。
八重洲ブックセンターを出て右に歩き、まっすぐ進んで日本橋川にかかる常盤橋を渡れば、地下鉄の三越前駅である。半蔵門線で、大手町、神保町、九段下、そのつぎが半蔵門の駅。駅から出て、人の流れについてゆくと、じき国立劇場に到着する。乱歩歌舞伎第二弾「京乱噂鉤爪(きょうをみだすうわさのかぎづめ)」は、この日が二日目。3日の大宴会でごいっしょだった巻き込まれ型参加者の高校の先生は、初日の舞台を先生仲間とご観劇の予定、とのことであったが、この日の客席では、トーク&ディスカッションと大宴会の双方にご参加いただいたかたおふたりに再会した。
日本芸術文化振興会:10月歌舞伎公演「京乱噂鉤爪」
月曜だったせいか、入りはさほどでもない。開演は正午。昨年上演された第一作「江戸宵闇妖鉤爪(えどのやみあやしのかぎづめ)」は、舞台こそ幕末に変更されていたが、ストーリーはおおむね乱歩の「人間豹」に沿っていて、美女を残虐にもてあそぶ人間豹と明智小五郎の対決が描かれていた。第二作は、まったくのオリジナル脚本。鏑木幻斎という陰陽師が出てくるのだが、これが幕末の動乱に乗じて国家転覆をたくらみ、天下をわがものにせんとするわるいやつで、幕末版安倍晴明というか、陰陽師版由井正雪というか、そういった役どころである。人間豹と明智の対立の構図は、この新しいキャラクターが加わったことで、第一作よりは後景に退いてしまうことになる。
主人公の人間豹そのものも、第一作よりさらにいっそう、人性と獣性に引き裂かれた悲劇的な存在として肉づけされ、明智との擬似的な父子関係を暗示する脚本にもなっていて、そういった点からいっても、第一作のシンプルさは影をひそめている。「人でなしの恋」めいた人形愛を盛り込むなど、脚本にはいろいろ苦労もしのばれたが、「乱歩が歌舞伎になった」というキャッチコピーどおり、乱歩作品が歌舞伎化されたということだけで話題になった第一作のインパクトには、やはりおよばないといったところか。
とはいえ、じゅうぶん愉しめる舞台である。とくに市川染五郎さんの宙乗りは、第一作では舞台と二階観客席のあいだを最短距離で移動するだけだったが、今回は両者を対角線で結び、しかも、腰のあたりを水平軸にして全身でぐるんぐるんと回転する、つまり頭が上になったり下になったりするわけだが、ぐるんぐるんと回転しながら客席の上を斜めに通過してゆく荒業にパワーアップされていた。これだけでもみる価値があるというもので、ふんだんにお金をかけた舞台の醍醐味がだれにも満喫できるはずである。
ところで、昨年の乱歩歌舞伎を機に結成された乱歩都市交流会議は、いったいどうなったのか。去年は国立劇場のロビーで観光PRや物産販売などをおこなったのだが、今年はどうなのか。上京前日、神奈川近代文学館へのおみやげにする二銭銅貨煎餅を購入するべく立ち寄った山本松寿堂では、「今年はとくになんにもゆうてきてくれてませんねけど」とのことであった。で、今年のロビー。パンフレットと台本を買い求め、ふと横をみると、こんなコーナーがあった。
これだけであった。乱歩と三重のかかわりを紹介するパネルと、乱歩都市交流会議加盟都市のポスター、それから観光パンフレット、そういったものが掲示されたり置かれたりしているのだが、人だかりはまるでない。近くには、「大乱歩展」を紹介するパネルや、乱歩の遺品などを展示したガラスケースもあって、そっちはそこそこ人を集めていたのだが、乱歩都市交流会議のコーナーはいいだけ不人気とみえた。やる気というものが少しもうかがえないコーナーであった。しかしまあ、名張市のやることである。だいたいがそんなところであろう。乱歩都市交流会議が発足したときから、こんなことになるのは眼にみえていたのである。
2008年11月02日:すっとこどっこい見本市
2008年11月02日:乱歩都市交流会議の真実
な。いってやったとおりではないか。まったくもってあほらしい。好きにしろばーか、といってやるしかないのであるが、それにしてもわざわざ東京まで足を運び、ふらふらと出向いた先で、名張市という自治体が腰もくだけそうになるほどばかなのだという事実に直面させられるのは、市民のひとりとしては面白くない。例によって例のごとく、またしても思いつきと知らん顔ではないか、と暗澹たる気分にさせられるのはたまったものではない。恥ずかしさや腹立ち、いきどおりとともに、肩身が狭いような感覚にもとらわれてしまう。ほんと、困ったものである。
舞台がはねた。劇場から出て、半蔵門駅まで歩こうとしたところ、眼の前に東京駅行きのバスが停車している。地下鉄を利用するのは中止して、トーク&ディスカッション、大宴会、乱歩歌舞伎、とずっとごいっしょする結果になった福島県の乱歩ファン、長谷川泰久さんとふたりで乗り込んだ。長谷川さんは、名張市立図書館が『乱歩文献データブック』をつくっていたとき、その話をどこからか聞きつけられて、市立図書館に協力を申し出てくださったかたである。名張にはそれ以前から、乱歩の生誕地だからという理由で、たびたび来てくださっていたらしい。トータルの名張訪問回数は、もう十回に近いのではないか。
もっとも、昨今の名張市には、乱歩ファンの興味を惹くようなことはまったくない。長谷川さんも五年前においでいただいてから、ということは、じつに無残な失敗に終わった三重県の官民協働事業「生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のとき以来ということか、とにかく名張にはご無沙汰とのことであった。バスに揺られながら、「乱歩生誕地の広場は、みる価値ありますか」とのお尋ねをいただいたので、いいえ、全然、とお答えしておいた。
なにしろもう、ひどいものなのである。ちょっと上京しただけで、お会いしたみなさんから、
「乱歩の生家を復元する話はどうなったんですか」
「乱歩の生誕地碑には屋根くらいつけなきゃ」
「ミステリー文庫はどうしたあッ」
あるいは、
「乱歩に関係のある都市が集まってなにかやる、という話はどうなったんですか」
「乱歩生誕地の広場は、みる価値ありますか」
といったぐあいにお叱りやお尋ねを頂戴できるのも、乱歩の生誕地である名張市に、乱歩にかんしてなにかしらの期待を寄せていただいているからなのであるが、それがもう、いまやさっぱりわやである。ひどいものである。なにしろまあ、ろくに乱歩作品を読もうともせず、乱歩のことを知ろうともせず、ただ乱歩というビッグネームを自己顕示の素材として利用し、ご町内でうわっつらだけ乱歩乱歩とかっこつけてりゃ機嫌がいい、みたいな連中ばっかりなのである。官民双方、そんな手合いばっかりが、名張市というごくごく狭い小さな世界で、みずからの快だけを求めて乱歩乱歩と幅を利かせておるのである。
まったくいやになるけれど、そういった傾向が顕著になってきたのは、じつに無残な失敗に終わった三重県の官民協働事業「生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の翌年、ということは、名張まちなか再生委員会が発足した年にあたるのだが、平成17・2005年の夏、旧細川邸の裏に突如としてこんなものが出現したころから、すなわち、うすらばかがうすらばか集めて協働協働とわめきだしたころからであった。それにしても、このおまぬけな看板が登場したときの衝撃は相当なものであったようで、乱歩が歌舞伎になった、というのとおなじくらい、名張がエジプトになった、ということのインパクトは凄かったらしい。東京あたりの乱歩ファンの一部では、いまだに語り草になっていた。
東京駅で長谷川さんとビールでも、とも思ったのだが、なにしろへろへろである。むこうもお疲れみたいだったので、そのままお別れし、缶ビールを買って、午後4時発の新幹線のぞみに乗った。文庫本を読むのにやや疲れ、たばこを吸おうと思って眼をあげると、中川昭一元財務・金融担当大臣の死去を報じる電光ニュースが流れている。反射的に、自殺か、と思い、しばらくして、軽いショックのようなものを自覚した。なにしろ、おなじ昭和28・1953年の生まれである。ということは、中日ドラゴンズの落合博満監督や、元読売ジャイアンツのウォーレン・クロマティ選手、それからまた、と同年生まれの著名人をあげればきりがなくなるのだが、やはりおないどしだった栗本薫さんも、今年の5月に亡くなっている。なんかもう、ほぼ同世代の人間が、あっちこっちでばたばたと星になっているな、と思い返すと、耳もとで忌野清志郎さんの歌が聞こえるような気がした。「ガラクタ」である。
「僕に聞かせておくれ 君たちの悪いたくらみを
僕に見せておくれ 君たちの貪欲な黒い腹を
でも そんなに簡単にはいかないさ」
とキヨシローは歌ってた。
「僕に聞かせておくれ 君たちの罪のカラクリを
僕を傷つけておくれ 君たちの卑劣なやり方で
でも そんなに簡単にはいかないさ」
と歌ってた。
「僕に聞かせておくれ 君たちの悪いたくらみを
僕を傷つけておくれ 君たちのいつものやり方で
でも そんなに簡単にはいかないさ
君たちじゃあ多分無理だろう
君たちはガラクタの集まりなんだから」
ってな。
以上、報告であった。こちらの勝手でご登場いただいたみなさんには、あらためてご海容をお願い申しあげておきたい。また、名張市民各位にたいしては、二銭銅貨煎餅のお礼をしつこくも申しあげておく次第である。たいした報告ではなかったかもしれぬが、市民の血税で観光旅行に行っときながらろくに報告もしやがらぬそこらの腐れ市議会議員の先生がたよりは、ま、ちっとはましだな、とお思いいただければ幸甚である。
永遠のJガールこと新矢由紀さんからメールを頂戴した。新矢さんのブログ「永遠のJガール」が、こういう仕儀になったという。
永遠のJガール:ブログをひとまず卒業しますね(10月12日)
当ブログ10月11日付エントリ「横浜東京甲府旅日記(二)」でリンクした「永遠のJガール」の記事が読めなくなったため、そのことわりのメールをいただいたのだが、仔細はいかようにもあれ、ご卒業とおっしゃるのだから、とりあえず、おめでとうございます、と申しあげておきたい。
その新矢さんが、今年の3月、山梨県甲府市湯村にある竹中英太郎記念館にいらっしゃった。記念館の館長、金子紫さんのブログに掲載されたその日の記事がこれ。
竹中英太郎記念館 館長日記:名張人外境の中様が・・・・・(3月29日)
お名前の「紫」は「ゆかり」とお読みいただきたいのだが、当ブログにその金子紫さんのことを記したところ、紫さんからコメントを頂戴した。
04月01日:金子紫さんと英太郎記念館
このコメントへのレスで、「今年の秋には、神奈川近代文学館で『大乱歩展』が開かれますし、ほかの団体による乱歩関連イベントも夏ごろから催されると聞きおよんでもおりますので、上京したおりにはぜとひも甲府まで足を伸ばし、お邪魔したいものだと考えております。お目にかかるのが気恥ずかしいような気もいたしますが、勇を鼓してお訪ねしたいと思います」と約束してあった甲府行きを、10月4日に果たしてきた。やっぱりちょっと、恥ずかしかったが。
湯村の杜竹中英太郎記念館:トップページ
湯村というのは、名のとおりの温泉郷で、弘法大師によって開かれ、武田信玄の隠し湯でもあったとされている。
10月4日(日)
東京から甲府まで、どうやって行ったらいいのか。まずそれがわからない。とりあえず新宿まで出るのがいいらしいと聞いて、新宿駅で降り、駅員さんにあれこれ教えてもらって、午前9時30分発の特急かいじに乗車した。かいじは、漢字で書けば甲斐路であろう。かーいーのーやまやーまー、ひにーはーえーてー、わーれしゅーつーじーんにー、うれーいーなーしー、といったところである。甲府に着いたのは、午前11時20分ころのことであった。
まずいかな、とは思った。時間がまずい。竹中英太郎記念館は、紫さんが主宰していらっしゃる個人美術館なのである。入館するということは、よその家を訪問するのとおなじことなのである。だから、お昼どきにお邪魔するのはいかにもまずかろうな、とは思った。思ったが、なにしろ個人美術館である。拝見するのにさほど時間はかからないであろう、と考え、そそくさとおいとますることにして、タクシーに乗った。すぐに到着。こんなところである。
襟裳屋:湯村の杜 竹中英太郎記念館
やや急な坂を歩いてのぼり、近所の犬に吠えられたりしながら、記念館へ。ドアを開けて入館すると、先客らしい男性と黒ずくめのいでたちの女性がおはなしをしていらっしゃった。その女性が紫さんだとすぐに察しはついたのだが、ご挨拶はあとまわしにして、さっそく展示品を拝見。上のリンク先に記されているとおり、竹中英太郎のアトリエを化粧直しした施設だから、ひとことでいえば狭い。狭いスペースに作品や雑誌などがみっしりと展示されていて、空気はいかにも濃密である。気力体力の衰えているときに訪問したら、英太郎作品の妖気にやられてしまうのではないか、という気さえした。静かに流れているのは、アマリア・ロドリゲス歌うところのポルトガル歌謡ファドである。
作品以外にも、みるべきものは少なからずあった。たとえば、大きく引き伸ばされた英太郎のポートレート。モノクロームの写真が壁に掲げられて、英太郎がまっすぐこちらをみつめているのだが、その眼がなんとも柔和な印象であった。なんといっても、あの竹中英太郎である。人を射すくめるような鋭いまなざしを投げかけていてもいいはずなのに、じつにやさしげな眼の色である。意外な感じがした。ほかに、英太郎の名刺というのもあって、これはかなり面白かった。名前を横書きにした普通の名刺なのだが、左下のすみに小さな爆弾の絵が配されている。黒くて球形で、豚のしっぽのような導火線のついた爆弾である。英太郎のユーモア感覚がうかがえるようで、やはり意外な感じがした。
館内を一巡すると、先客の男性が紫さんに、英太郎は作品を制作するとき老眼鏡をかけていたのかどうか、みたいなことを質問していらっしゃった。割り込んで、ご挨拶を申しあげた。男性は、アトリエを記念館に化粧直ししたときの、大工さんというのか、建築屋さんというのか、そういうかたであったのだが、「いまは手術で水晶体を調節して老眼をよくすることもできるんだけど、そんなことしたら脳味噌がパニック起こしちゃうからよくないんだって」、ははあ、そしたらやっぱり、からだ全体がじわじわ衰えていくのにまかせるのが自然でいいわけですか、「そうそう。そういうことらしいよ」などと、紫さんが淹れてくださったコーヒーを味わいながら、老眼談義に花を咲かせる。
あとで紫さんからお聞きしたところによると、少し以前、全国のミステリーファンで組織するSRの会の全国大会が山梨県で開かれ、会員が大挙して記念館を訪問した。SRの会のブログでは、そのときのことがこんなふうに報告されている。
SRの会:SR全国大会報告2009(9月8日)
このとき、館内に置いてある木製の椅子が足りなくなったらしい。そこでその、大工さんというのか、建築屋さんというのか、とにかくその熟年男性に椅子を数脚、新しくつくってもらって、その日がちょうど納品の日であったとのことである。その男性客がお帰りになって、時計をみると、すでに正午は過ぎている。こちらもそろそろ、とおいとましようとしたところ、紫さんから昼食にお誘いいただいた。まずいな、と思った。お昼どきにお邪魔したのは、やっぱ相当まずかったな、と思った。しかも前日、弥生美術館の堀江あき子さんから、事前に電話してから訪ねるように、とアドバイスをいただいていたというのに、なんとなく電話しそびれたままお邪魔したのである。これはほんとにまずかったぞ、と思いはしたのだが、ありがたくご厚意に甘えることにした。
竹中英太郎記念館は、急遽、休館ということになった。じつに申しわけのないことであった。紫さんが運転する自動車に乗せていただいて、どこかそのへんの食堂へ、と思っていたら、到着したのはホテルであった。その五階あたりにある、いかにも高級そうな和食の店であった。いやー、ほんとにまずかったぞこれは、と思ったのだが、遠慮なくご馳走になることにした。この日のことは、紫さんのブログにこう記されている。
竹中英太郎記念館 館長日記:名張市の中様が・・・・・・(10月4日)
紫さんは「昼食をご一緒しながら楽しい時間を過ごさせて頂き嬉しく思います」と書いてくださっているが、こちらにとっても無上の幸福を感じる時間であった。窓の外には、よく晴れた空のもと、甲府のまちが遠くまでひろがり、そのむこうには山が迫っている。紫さんによれば、晩年の英太郎がその眺望をこよなく愛惜したという、甲斐の山々である。ビールを何杯もおかわりしながら、実のお嬢さんから英太郎のことをあれこれお聞きできたのは、まさに「無上の幸福を感じる時間」であった。そういえば、立教大学に移管される以前の旧乱歩邸で、平井隆太郎先生から乱歩のことをあれこれうかがったときにも同質の時間を経験した、といまは思い当たる。
記念館に展示されていた英太郎のポートレートについて、やさしそうな眼の色だったのが意外でした、と打ち明けると、「あの写真、わたしが撮ったんです」との由。ああ、なるほどな、と思った。あれは最愛の娘にむけたまなざしであったのか、ならば腑に落ちる、と得心した。「画集の表紙にもつかったんです」とのことだったので、帰宅してさっそくながめてみた。画集というのは、三年前、英太郎の生誕百年を記念して発行された『竹中英太郎』のことである。表紙はこんな感じ。
この表紙の写真はかなり焼き込んであるから、さほどでもない感じなのだが、記念館に展示されているポートレートは白を生かした仕上がりになっていて、英太郎の視線はもっと柔和でやさしげだったという印象がある。実際のところはどうなのか、気になるとおっしゃるかたは、ぜひ竹中英太郎記念館に足を運んで確認されたい。そのおりには、事前に電話を入れてからおいでになることを、強くお勧めしておく次第である。
いろいろうかがって、竹中英太郎って、やっぱり、かっこいい人ですからね、と申しあげたところ、紫さんは、間髪を入れず、「はい、かっこいい人でした」とおっしゃった。それは、娘の身びいきなんかではまるでなく、きわめて客観的な評言であるように聞こえた。竹中英太郎は、たしかにかっこよかったのである。実際、いくつになってもおしゃれでダンディな人であったらしいのだが、それとはべつに、心映えのかっこよさ、というものもあったはずである。4月1日付エントリにも引いたが、「太陽」の昭和63・1988年1月号に掲載された生前最後のインタビューで、英太郎はこんなことを述べていた。
何か新しいものを求めようとする意欲は今もあるんです。私がものごころついた時分の教えというのは体当たり。右も左もそうでしたね。体をぶつければ本望だと。何かぶっつけたい、そして死にたいという気持ちは今もあります。だから、こいつを殺せば世の中が良くなるとか何百人が助かるということがあればね、そういう悪い奴が目の前にいれば、ふっ飛ばされるかもしれんが、八一歳、体をぶっつけてもいいという気持ちは今も持っているんです。
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これはいったい、なんなんだろうな、と思う。八十歳を過ぎてなお、世のため人のためならば、いつでもひとりのテロリストとして死んでゆく用意がある、と恬淡として宣言している。それが英太郎なのである。気骨、反骨、侠骨、なんと呼んでもいいけれど、こうした心映えはもう、かっこいい、としかいいようがないものだと思う。
ところで、谷崎潤一郎の「細雪」には、英太郎作とおぼしい挿絵の話が出てくる。蒔岡家四人姉妹の末っ子、妙子が行きつけにしている鮨屋のシーンである。新潮文庫なら中巻255ページ、中公文庫なら511ページで、その鮨屋の主人がこんなふうに描写されている。
彼女に云わせると、此処の親爺は「新青年」の探偵小説の挿絵などにある、矮小な体躯に巨大な木槌頭をした畸形児、──あれに感じが似ていると云うことで、貞之助達は前に彼女から屡々その描写を聞かされ、彼がお客を断る時のぶっきらぼうな物言い、庖丁を取る時の一種興奮したような表情、眼つきや手つき、等々を仕方話で委しく説明されていたが、行って見ると、又本物が可笑しいほど彼女の真似によく似ていた。
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三年ほど前に「細雪」を再読したとき、ここに出てくる「『新青年』の探偵小説の挿絵」という文言が、英太郎の挿絵を念頭に置いて書かれたらしいことに気がついた。妙子という娘の人物像を肉づけする材料として「新青年」や探偵小説が使用されている、ということなのだろうが、その挿絵が英太郎のものだとわかって読んでゆくと、鮨屋の主人というのが妙にありありと眼前に浮かんでくるような気になる。いずれにせよ、谷崎が英太郎の挿絵を印象深く記憶にとどめていたことは、ほぼ間違いのないところだろう。再読して、へーえ、と思ったので、そのことをおはなししてみたところ、紫さんは「細雪」にそんな描写があることはご存じなかったという。あとでコピーをお送りします、と申しあげておいたのだが、名張に帰ってから、コピーじゃまずかろう、と考え直し、ブックスアルデ名張本店をのぞいてみたところ、新潮文庫は三分冊がちゃんと揃っていなかったので、田辺聖子さんの解説が収録されている一冊本の中公文庫を購入し、紫さんにお送りした。
竹中英太郎記念館 館長日記:「細雪」の中に・・・・・(10月9日)
長く幸福な昼食が終わって、そのあとはまた、甲府名物のお菓子や、郷土料理の主役ほうとうのおみやげまでしっかりと頂戴し、こうなるともう、まずいかな、どころの騒ぎではまったくない。非常にまずいことになってしまったな、と思わざるをえない。とんだご散財をおかけしたうえに、ホテルから甲府駅まで自動車でお送りいただいたのだから、いくら恐縮してもしたりないほどのご歓待をたまわる結果となってしまった。いやもうなんか、ほんとに申しわけなかったな、と思いつつ、特急スーパーあずさで新宿に戻る。
紫さんとは飼い犬のこともひとしきりおはなししたから、そのせいででもあったのか、あるいは、上京三日目にして早くも里心がついたということか、この日の夜の夢には拙宅で待っている犬が出てきた。おのおのうーまーはかいたーるやー、つまこーにつーつがあらざーるや、あーらーざーるーやー、といったところであったのか。それにしても、短い旅の空で飼い犬の夢をみているようでは、たいしたテロリストにはなれそうもない。
帰宅してみると、むろん案ずることなどなにもなく、犬はいたってつつがなく暮らしていた。きのう撮ってやった写真がこれである。
写真のタイトルは、「見返り美人」とでもしておく。
すっかりばれてしまったみたいだな、という印象を抱いた。少し以前まで、一部の乱歩ファンのあいだには、名張市って結構すごくね? という認識が存在していた。市立図書館が長きにわたって乱歩関連資料を収集し、それにもとづいて江戸川乱歩リファレンスブックなんてのを出版したりしていたのだから、結構すごくね? と思ってくれる人があったのも当然である。しかし、もう、ばれている。名張市という自治体が、じつは腰もくだけそうになるほどばかなのだという認識が、一部の乱歩ファンのあいだにすっかり浸透してしまっている。そんな印象を受けた。とくに10月3日の大宴会では、
「乱歩の生家を復元する話はどうなったんですか」
「乱歩の生誕地碑には屋根くらいつけなきゃ」
「ミステリー文庫はどうしたあッ」
いやもうさんざんであったぞ。こうした声をお寄せいただけるというのは、おとといも記したごとく、乱歩の生誕地である名張市に興味をもってくださったり、名張のことを気にかけてくださったり、そういう人が全国に確実に存在していることの証左なのである。しかし、残念なことに、このところの名張市は、そういった人たちの信頼や期待をことごとく裏切りつづけている。それはまあ、ろくに乱歩作品を読もうともせず、乱歩のことを知ろうともせず、ただ乱歩というビッグネームを自己顕示の素材として利用し、ご町内でうわっつらだけ乱歩乱歩とかっこつけてりゃ機嫌がいい、みたいな連中ばっかりなんだから、乱歩ファンの信頼や期待に応えることなんてできるわけがないのであるが。
10月3日(土)
ミステリー文学資料館は豊島区池袋、光文社ビルの一階にある。開館は平成11・1999年4月。早いもので、もう十年が経過した。
ミステリー文学資料館:トップページ
開館十周年を記念して、トーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」が催されることになった。10月と11月の毎土曜日、九回にわたる連続講座が開講される。
ミステリー文学資料館:トーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」のご案内
10月3日、「『新青年』の作家たち」第一回の「江戸川乱歩」が開催された。この日は、神奈川近代文学館で「大乱歩展」が開幕し、小林信彦さんの記念講演会が催される日でもあった。えらい日に講師を担当することになったものである。むこうは午後2時から、こちらは午後1時30分から。みごとなまでにかぶっている。会場は光文社ビル地下一階の会議室、定員は三十五人と小規模な講座だが、「大乱歩展」で小林さんの講演会が開かれるとなると、トーク&ディスカッションに足を運んでくれる人などほとんどいないのではないか、三十五人どころか、五人とか六人とか、そんな程度の入りではないのか、と不吉な予感にさいなまれつつ当日を迎えた。
ミステリー文学資料館の館長は、評論家の権田萬治さんである。
権田萬治ホームページ Mistery&Media:トップページ
権田さんの、というか、当日はずっと権田先生とお呼びしていたので、以下、権田先生と記すことにするが、権田先生のブログには、この日のことがこんなふうに記されている。10月3日付記事(資料館の開館10周年行事始まる)をお読みいただきたい。
権田萬治ホームページ Mistery&Media:日記
不吉な予感は一掃され、権田先生もお書きになっていらっしゃるとおり、「狭い地下会議室はいっぱいになった」。会議室には楕円形のテーブルが置かれ、空いたスペースにはパイプ椅子が二列か三列並べられていたのだが、なにしろ狭いところだから、すぐいっぱいになるのである。念のために会場の証拠写真を、なんの証拠なんだかよくわからんのだが、とりあえず掲載しておく。
午後1時30分、開講。「涙香、『新青年』、乱歩」と題して、一時間ほどしゃべった。内容は省略する。近くウェブサイト名張人外境に記すつもりなので、内容を知りたいとおっしゃるかたはそちらでどうぞ。
一時間のトークのあとは、休憩をはさんで、ディスカッション。休憩に入ったところで、名張市民の血税で購入していただいた山本松寿堂謹製「二銭銅貨煎餅」が登場した。
先日もお知らせしたが、さっそくブログにとりあげてくださったかたがあった。ブログ記事の名義は菅野覚兵衛さん。
山口敏太郎の妖怪・都市伝説・UMAワールド「ブログ妖怪王」:乱歩の生誕地名物「二銭銅貨せんべい」(10月6日)
くどくどと記すが、ほんと、この日のトーク&ディスカッションに顔を出してくれるのは、小林信彦さんの講演会とかぶってしまった不幸を哀れんでくれる知り合いばかり、それもわずかに五、六人か、と不吉な予感にさいなまれていたので、菅野さんをはじめ見知らぬ乱歩ファンにたくさんおいでいただけたのは、じつにありがたいことであった。菅野さんからは会場で、名張市立図書館のことや乱歩にちなんだ名張の物産についてのご質問もいただいた。ことほどさように、乱歩の生誕地であるという理由で名張市に興味をもってくださっているかたは、全国に確実に存在しているのである。そのことをあらためて、名張市民各位にお伝えしておく次第である。
以下、思いつくまま、ご本人にはまったく無断で、当日ご参加くださったかたがたにご登場いただくことにして、まず「『新青年』の作家たち」の講師陣では、第二回「横溝正史」の浜田知明さんと、第六回「小栗虫太郎」の平山雄一さん。第三回「海野十三」の末永昭二さんにもおいでいただけるはずだったのだが、1日に逝去された作家、若山三郎さんのお別れの会が3日になったとのことで、急遽ご欠席となった。ほかに、末國善己さんと谷口基さんも駆けつけてくださった。お名前を列挙しただけだが、みなさんなんらかのかたちで評論や研究、さらには資料の発掘といった活動に携わっていらっしゃるかたで、いうまでもないことながら、乱歩にかんしてなにかとお世話になってきたみなさんである。
あと、大宴会の幹事役を買って出てくださった阿部崇さんと、奥さんの弓子さん。崇さんは日本にたったひとりしかいない小酒井不木の研究家で、じつに無残な失敗に終わった三重県の官民協働事業「生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」で不木と乱歩の書簡集『子不語の夢』を刊行したおりには、とても判読しづらい不木書簡の翻刻を一手に引き受けてくださったかたである。ウェブサイトはこちら。
奈落の井戸:トップページ
それから、当ブログでもおなじみの、というか、最近はあまりおなじみでもないのだが、永遠のJガールこと新矢由紀さん。新矢さんは今春、天下の吉本興業を円満退社され、東京にあるユマニテという芸能事務所にお勤めになった。とはいえ、ずいぶんおひさしぶり、というわけでもない。新矢さんのブログで調べみると、8月23日にお会いしている。
永遠のJガール:風人短歌会と常光寺の櫓(8月23日)
お読みいただいたとおり、義母の主宰する「風人」という短歌会があって、新矢さんはその最年少会員。例会は月一度、伊賀市で開かれているのだが、8月例会のあと、義母といっしょに拙宅を訪ねてくださったので、10月に上京することをお知らせした。トーク&ディスカッションのあと、大宴会にもおつきあいいただいたのだが、渋谷のバルコ劇場で翌4日まで上演されていた寺山修司作「中国の不思議な役人」の打ちあげが渋谷で待っているとのことで、会費五千円で飲み放題の大宴会から、ものすごく豪華な料理が並んでいるのであろうお芝居の打ちあげに、途中退席してそそくさと移動された。なにしろわれわれの大宴会では、芸能界関係者にはまずお目にかかれない。新矢さんがその業界の人だとわかったとたん、いきなり、「小川範子にお会いになったことはありますか」と質問する出席者があったのには笑ってしまった。
探偵小説研究家の、とお呼びしていいのかどうかよくわからないのだが、とにかく在野で横溝正史あたりの研究をこつこつとつづけていらっしゃる黒田明さんには、昨年の11月、神戸で催された正史の生誕地碑建立四周年記念イベントではじめてお会いした。その黒田さんもトーク&ディスカッションに来てくださって、おみやげまで頂戴した。昭和24・1949年に出た「アベック」という雑誌で、乱歩の関連文献が掲載されている。これである。
こうしてなにかと気にかけていただけるのは、いうまでもなく乱歩の偉大さのおかげである。気にかけていただいたといえば、弥生美術館学芸員の堀江あき子さんも、美術館のチラシと招待券をおみやげに、トーク&ディスカッションに参加してくださった。弥生美術館は文京区弥生にある。弥生式土器の、あの弥生である。
弥生美術館・竹久夢二美術館:トップページ
堀江さんにはじめてお会いしたのは、平成14・2002年のことである。名張市が「江戸川乱歩ふるさと発見五十年記念事業」の一環として、「探偵講談、乱歩を読む。」の池袋公演を催した。会場は豊島区民センター、共催は豊島区、出演は旭堂南湖さん。ちょうど堀江さんの『江戸川乱歩と少年探偵団』(河出書房新社)が出版されたころで、記憶はかなりあいまいなのだが、もしかしたらその献呈本を手に、探偵講談の会場を訪ねてくださったのではなかったか。探偵講談のあとには大宴会が控えていたので、かなり強引にお誘いして、大宴会にも加わっていただいた。翌日には、探偵講談のために上京していた当時の市立図書館長、それから、セクション名はなんであったか、とにかく探偵講談を担当していた部署の市職員ふたり、合計四人で弥生美術館にお邪魔した。地下鉄の根津駅で降りたのだが、美術館の場所がよくわからない。近所の奥さんに道を尋ねながらようやくたどりつき、堀江さんにはお昼をご馳走になったりもしたのではなかったか。その堀江さんから、トーク&ディスカッションのあとに頂戴したのが、このチラシである。
堀江さんから「あした、いかがですか」と美術館にお誘いいただいたのだが、いやー、じつはあした、甲府の竹中英太郎記念館にお邪魔するつもりなんです、と翌4日の予定をお伝えすると、「あ、それなら、事前に電話を入れてからいらっしゃったほうがいいですよ。あそこは個人美術館で、館長さんがお留守のこともあるみたいですから」と親切なアドバイスをくださった。
ここまでを読み返してみると、男性よりは女性の紹介のほうに、はるかに多く筆が費やされている。性別による差別が、ここには歴然と存在している。しかし、いたしかたあるまい。そういう人間なのである、と思ってあきらめていただきたい。
トーク&ディスカッションは、自分でいうのもあれだけど、好評のうちに終了した。会場の会議室でしばらく時間をつぶしたあと、いよいよ大宴会である。お世話になった権田先生や、苗字しか存じあげないのだが女性スタッフの安達さん、そのほかミステリー文学資料館のみなさんにご挨拶を申しあげ、おなじ池袋にある大宴会の会場にむかった。ここである。
ぐるなび:南部地鶏と江戸ちゃんこ 池袋 蔵之助
蔵之助とのつきあいも、もう十年以上になる。上京して、乱歩のことでお世話になったみなさんと飲むことになり、池袋で適当な店を探して、たまたま入ったのがこの蔵之助だったのだが、いつのまにか、大宴会は蔵之助、ということになってしまった。平成14・2002年、探偵講談池袋公演のあとの大宴会は、探偵講談の会場で飛び入りの参加者を募ったせいもあって、広い座敷に七十人ほどが押しあいへし合いする仕儀となった。あんな大人数の大宴会は、蔵之助でもめったにないのではないか。その日の幹事役は、その筋で「女王」の尊称をたてまつられているミステリーマニア、石井春生さんにお願いしたのだが、会費を集計した石井さんが、「中さ〜ん、『貼雑年譜』が買えるくらいお金が集まっちゃいましたよ〜」とうれしそうにおっしゃっていたのが記憶に残っている。『貼雑年譜』というのは、おとといも記したとおり、乱歩がつくったスクラップ帳なのだが、探偵講談池袋公演の前年に東京創元社から二百部限定の復刻版が出版され、内容のみならず本体三十万円という価格でも、乱歩ファンや探偵小説マニアをうならせていたのである。
10月3日の大宴会は、正式名称「『新青年』の作家たち」&「大乱歩展」 開幕記念大宴会。午後5時に開宴した。みごとなまでにシンプルな飲み会で、幹事の阿部さんの発声による乾杯のあとは、ただ飲み食いし、ひたすらしゃべりまくるだけである。挨拶もなければ自己紹介もない。近況報告もなければ演芸タイムもない。悪鬼のごとく飲み食いし、羅刹のごとくしゃべりまくる。ただそれだけの大宴会なのである。べつのテーブルには女王の石井さんもおいでくださっていて、ほかにも懐かしい顔をあちこちにおみかけしたのだが、とにかく飲むのが先である。ろくに挨拶もせず、悪鬼羅刹となりはてる。
午後6時ごろのことであったか、神奈川近代文学館で小林信彦さんの講演をお聴きになった一行がご到着。前日にもお会いした新保博久さん、石塚公昭さんのほか、『虚無への供物』で知られる作家、中井英夫の最後の助手、といった紹介はそろそろやめたほうがいいと思われるので、ここでは平井隆太郎先生の『乱歩の軌跡』(東京創元社)の仕掛け人、とご紹介しておくことにするが、カメラマンでもいらっしゃる本多正一さん、さらには年季の入ったミステリーファンで、名張においでいただいたこともある岩堀泰雄さんらのご一行である。本多さんは、小林さんの講演がはじまる前、会場で椅子に腰かけていらっしゃったところ、ある人がつかつかと歩み寄ってきて、「本多さん、きょうは中さん裏切ってこっちにいらっしゃったんですか」といわれてしまった、とおっしゃっていた。やはり、裏切り者のそしりはまぬかれぬところであろう。小林さんの講演の模様をお訊きしたところ、みなさん筋金入りの乱歩ファンだけあって、一般を対象にした講演内容には、ややものたりなさをお感じになったようである。講演の内容は、2ちゃんねるの一般書籍板でうかがい知ることができる。
小林信彦・中原弓彦 22:89−155
やがて、いわゆる宴たけなわ、というころおいになった。悪鬼羅刹がいよいよ本性をあらわにして、
「乱歩の生家を復元する話はどうなったんですか」
「乱歩の生誕地碑には屋根くらいつけなきゃ」
「ミステリー文庫はどうしたあッ」
となさけ容赦もあらばこそ、名張市にたいする批判をお寄せくださるわけである。先述のとおり、乱歩の生誕地である名張市に興味をもってくださったり、名張のことを気にかけてくださったり、名張市が乱歩にかんしてなにをするのか期待してくださったり、そういう人が全国には確実に存在しているのであるが、まことに遺憾なことながら、名張市にはもう、そうした期待や信頼を裏切りつづけることしかできない。なにしろ、ろくに乱歩作品を読もうともせず、乱歩のことを知ろうともせず、ただ乱歩というビッグネームを自己顕示の素材として利用し、ご町内でうわっつらだけ乱歩乱歩とかっこつけてりゃ機嫌がいい、みたいな連中ばっかりが幅を利かせているのである。みずからの無力不徳を棚にあげ、こんなことを申しあげるのははなはだ心苦しいかぎりではあるが、名張市にたいしてはなんの期待も抱いていただかぬよう、全国の乱歩ファンのみなさんに、ここでお願いを申しあげておく次第である。
そういえば、トーク&ディスカッションのあと、飛び入りで大宴会に参加してくださった男性があって、蔵之助では隣り合って着席したのだが、高校の先生だとおっしゃるこのかたから、「乱歩に関係のある都市が集まってなにかやる、という話はどうなったんですか」とのお尋ねを頂戴した。三重県にはまるで無縁なかたがどうしてこんなことをご存じなのか、といささか驚いた。名張市の提唱で発足した「乱歩都市交流会議」のことである。一年近く前の読売新聞のウェブニュースがまだ生きているから、リンクを掲げておく。
YOMIURI ONLINE:乱歩の偉業 後世に 「都市交流会議」発足へ(2008年10月29日)
こんなことにまで興味をもち、期待してくださっている乱歩ファンが、げんに存在するのである。なんとも申しわけがない。穴があったら入りたい。しかし、蔵之助の座敷には穴などどこにもなかったので、いやー、あれはただの思いつきなんです、と正直なところをお伝えしておいた。ただの思いつきですから、それ以上のことはなにもありません、先のことはなにも考えず、その場かぎりの思いつきをぶちあげただけの話ですから、そこからなにかがはじまることなんかまったくありません、思いつきをぶちあげて、あとは知らん顔をしている、それが名張市なんです、とお知らせしておいた次第なのであるが、こうなるともう、はた迷惑というしかあるまい。中身などなにもない思いつきでも、いったんニュースとなってインターネット上を駆けめぐれば、それを受信して期待してしまう人も出てくるわけである。じつに申しわけのない話である。申しわけないといえば、大宴会のいってみれば巻き込まれ型参加者であったこの男性、男子校の先生だというそれだけの理由で、周囲にいあわせた人間によって無理やり、というか、ごく当然のことのように、変態教師、ということにされてしまった。それもまた、まことに申しわけのないことであった。
午後8時、大宴会お開きの時間となった。最後にひとことだけご挨拶を申しあげることにして、トーク&ディスカッションからおつきあいくださったかたにも、小林信彦さんの講演会が終わってから駆けつけてくださったかたにも、わけへだてすることなく心からの謝意を表しておいた。ちなみに、横浜からいらっしゃった新保さんと石塚さんは、罪ほろぼしのつもりででもあったのか、「早稲田文学フリーペーパー」や「中央公論Adagio」といった大判の雑誌をプレゼントしてくれた。幹事の阿部さんは、蔵之助店長さん心づくしのクーポン券を手渡してくれる。これである。
エレベーターで一階におり、蔵之助のあるビルから出て、右に歩いてすぐのビル、こんどは階段を地下におりてゆく。悪鬼羅刹の二次会がはじまる。
10月2日から5日まで、横浜、東京、甲府あたりをさまよってきた。その報告を記す。名張市民各位には、3日に催されたトーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」で入場者にお配りした山本松寿堂謹製「二銭銅貨煎餅」の代金と送料を負担していただいたのだから、血税が有効につかわれたことをご報告申しあげなければならない。だったら3日のことだけを記せばいいのだが、そこはそれ、ものはついでである。というか、横浜にも甲府にも東京にも、乱歩の生誕地である名張市に興味をもってくださったり、名張のことを気にかけてくださったり、そういうかたは確実にいらっしゃる。そういうかたがたをご紹介することで、市民各位に乱歩という存在の大きさをお伝えしたいとも考える次第である。とはいえ、お会いした人に名前入りで、しかもご本人には無断でご登場いただくのは、いささか心苦しいことではある。そのあたり、あらかじめ関係各位のご海容をお願いしておきたいと思う。
10月2日(金)
神奈川近代文学館は横浜市中区山手町、港の見える丘公園にある。10月2日、翌日開幕する「大乱歩展」の内覧会が開かれた。
神奈川近代文学館:トップページ
午後1時過ぎ、みなとみらい線の元町・中華街駅に到着した。小雨が降っていたので、改札を出たところにあった売店で傘を購入。エレベーター経由で出口から出て、ぶらぶら歩くと、あなたとふたりではなく、春の午後でもなかったけれど、港の見える丘公園にたどりつく。内覧会は午後2時から。しばし公園内を散策する。展望台に立ち、眼下にひろがる港ヨコハマに愁いをふくんだまなざしを投げたあと、フランス山と呼ばれるエリアに踏み込む。長い階段があって、のぼりおりするだけで息が切れた。
神奈川近代文学館の入口で、乱歩令孫、平井憲太郎さんにお会いした。今年の2月、乱歩生誕地碑広場の完成式でお目にかかって以来である。いっしょに館内へ。受付で、文学館展示課長代理の鎌田邦義さんにご挨拶。持参した二銭銅貨煎餅をお渡しした。ちなみにこれは、名張市民の税金ではなく、自腹で購入したものである。ついで、文学館スタッフの渡辺恵理さんにもご挨拶。名刺をお渡ししたのだが、女性相手にすっかり動転し、手許もおぼつかなかったのであろう、「あ、二枚ありますよ」と名刺一枚、返品をくらう。おふたりとは、メールでは何度もやりとりしていたが、お会いするのははじめてである。
展示会場には、息をするのも忘れてしまいそうになる展示品の数々。乱歩展はこれまでにも、平成15・2003年から翌年にかけて、池袋西武で豊島区の「江戸川乱歩展 蔵の中の幻影城」、池袋東武で立教大学の「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」が開かれ、それぞれにバラエティが楽しめたのだが、それにくらべると今回の「大乱歩展」、文学館による企画展の王道を行く観があった。圧倒的な充実ぶりである。初見の資料もたくさんあって、たとえば、乱歩が鳥羽造船所時代に編集した「日和」なんてのが、なにげに展示されている。乱歩がつくった『貼雑年譜』というスクラップ帳には、「日和」の切り抜きも貼り込まれているのだが、それとはべつに、完全なかたちのものが保存されていたらしい。お訊きしてみたところ、そんなものが残されていたことは憲太郎さんもご存じなかったという。
しばらくして、セレモニーが開幕。ロビーに集まったところで、人形作家の石塚公昭さんにお目にかかった。この「大乱歩展」ポスターの人形を手がけられたかたである。
石塚さんにはじめてお会いしたのは、平成9・1997年のことである。上京して、乱歩令息、平井隆太郎先生のお宅、つまりは旧乱歩邸にお邪魔したところ、石塚さんが浅草で作品展を開催中だということを教えてくださった。先生はすでに足を運ばれていて、石塚さんのことを「なかなか面白いあんちゃんですよ」とおっしゃっていた。それでその翌日、作品展の会場を訪れてみた。以来、おつきあいをいただいて、平成14・2002年に名張市が「江戸川乱歩ふるさと発見五十年記念事業」として開催した「乱歩再臨」のポスターには、無理をお願いして石塚さんの人形にご登場いただいた。これである。
館長の紀田順一郎さんや憲太郎さんらの挨拶のあと、ビールで乾杯。その直前、ミステリー評論家の新保博久さんが滑り込みでご到着。新保さんには平成17・2005年、名張を訪れていただいた。そのときのことは、翌年刊行された本格ミステリ作家クラブ編のアンソロジー『死神と雷鳴の暗号』(講談社文庫)収録の新保さんによる解説に、ちょっとだけ記されている。一段落だけ引用しておく。
かねがね三重県名張市を一度は訪れなければならないと思ってきたが、やっと二〇〇五年十一月になって宿願を果せた。江戸川乱歩生誕地碑建立五十周年を記念して、東京の推理劇専門劇団フーダニットが初の地方公演、辻真先書き下ろし脚本による「真理試験─江戸川乱歩に捧げる」を上演したせいもあって、どうにか重い腰を上げられたものだ。
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ミステリー研究家で東京創元社の前社長、戸川安宣さんにもお会いした。戸川さんが名張においでくださったのは、たしか平成16・2004年、じつに無残な失敗に終わった三重県の官民協働事業「生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のおりであったと思う。戸川さんはその翌年、何万冊というミステリー関連の蔵書を成蹊大学に寄贈され、その整理に通っていらっしゃったのだが、整理作業からもそろそろ手が離れるとのことであった。翌日、池袋で開かれる大宴会にお誘いしたところ、「東京にいないんですよ」との由。ブログで拝見したところ、3日と4日は金沢にいらっしゃったようである。
パン屋のいないベイカーストリートにて:大乱歩展(10月3日)
立教大学教授の藤井淑禎さんにも、ひさしぶりでお目にかかった。おととし、立命館大学で開かれた「国際乱歩コンファレンス」以来のことである。名張においでいただいたこともあって、平成16・2004年のまだ寒い時期であったと記憶する。「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」準備のご挨拶ということであったか、鳥羽市と名張市に足を運んでくださった。車谷長吉さんの「赤目四十八瀧心中未遂」の舞台になった赤目滝をご覧になりたいとのご所望を受け、当時の市立図書館長が運転する市の公用車で赤目滝を訪れたのだが、やたら寒い日であった。駐車場に駐めてあった公用車のバッテリーがあがってしまい、べつの公用車でブースターケーブルをもってきてもらう、という一幕もあった。
立教大学大学院の院生にして同大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターにお勤めの落合教幸さんも、藤井さんに同行していらっしゃった。平成17・2005年、立教大学で催された「読売江戸川乱歩フォーラム2005」のあと、新宿ゴールデン街の「幻影城」という店にごいっしょして、それ以来のご無沙汰である。そういえば、新宿始発の山手線車内でごくわずかな時間、不覚にも居眠りをしてバッグを置き引きされたのは、「幻影城」を出て、新宿駅で落合さんにお別れしたあとのことであった。落合さんからは、「『大衆文化』で『D坂の殺人事件』の草稿を紹介しました」と教えていただいた。「大衆文化」は同センターの刊行物で、「大乱歩展」に間に合わせるべく第二号の編集が進められたらしい。東京から戻ったら、拙宅にも一冊、お送りいただいてあった。これである。
小酒井美智子さんもいらっしゃっていたので、ご挨拶申しあげた。美智子さんは、乱歩と親交のあった探偵作家、小酒井不木の令息、望さんの夫人、ということになる。稲木紫織さんの『日本の貴婦人』(光文社知恵の森文庫)で昭和生まれの貴婦人十六人のおひとりとして紹介されているくらいだから、日本を代表するセレブリティ、セレブ中のセレブ、といっても過言ではない。平成16・2004年の春、愛知県の蟹江町で不木の生誕地碑が除幕されたおり、はじめてお目にかかったのだが、秋になって突然お電話をいただき、「名張でなにかあるの? 行くわよ」とのことだったので驚いてしまった。この年、じつに無残な失敗に終わった三重県の官民協働事業「生誕360年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」が催され、事業のひとつとして不木と乱歩の書簡集『子不語の夢』を刊行した。秋にはその関連イベントが名張市で催されたのだが、そのことを美智子さん、どこかから聞きつけられて、わざわざ電話をかけてきてくださったのである。むろん、名張においでいただいて、清風亭での大宴会にご出席をたまわり、翌日、青少年センターの前でお別れしたはずである。五年ぶりの再会であったが、名張のこともよくおぼえてくださっていて、うれしい思いがした。
やはり『子不語の夢』でお世話になった古本屋さん、不木宛乱歩書簡の所有者でもいらっしゃる岡田富朗さんにも、思いがけずお目にかかることができた。ちょっとおみそれしていたところ、むこうから声をかけてくださった。平成16・2004年の夏、不木宛乱歩書簡のことで軽井沢にあるお店までご挨拶にあがり、というか、ちょっとしたトラブルが発生したためお詫びにあがったのだが、奥さんともどもご歓待いただいた。秋には、ご夫婦で名張にも足を運んでくださった。この日も奥さんとごいっしょで、「また軽井沢にも来てくださいよ」などと短い立ち話でお別れしたのだが、「大乱歩展」になにかを出品なさったのかどうか、お訊きしておけばよかったと思う。
高木晶子さんには、はじめてお会いした。推理作家、高木彬光のお嬢さんである。色鮮やかなワンピース姿の女性がいらっしゃって、それとなく洩れ聞こえてくるおはなしから、もしかしたら高木晶子さんかな、と見当がつき、新保さんにお訊きしたところ、まさにそのとおりだったので、紹介していただいた。晶子さんは昨年、『想い出大事箱 父・高木彬光と高木家の物語』(出版芸術社)を出版された。「乱歩に筆を折らせた男」というタイトルの文章も収録されているエッセイ集で、あの本を拝読してとても面白い女性なのだろうなと思っていたのですが、お会いしてみたら思っていたとおりのかたでした、と正直に告白しておいた。乱歩の晩年、昭和37・1962年のことであるが、探偵文壇関係者のもとに「ランポキトク」という電報が届く怪事件があった。きわめて悪質ないたずらで、犯人は不明、いわば迷宮入りになったのだが、高木彬光家で電報局からの電話をお受けになったのが、ほかならぬ晶子さんだったという。当時の興味深いエピソードをいろいろと教えていただいたので、そのことをぜひ活字にしてください、とお願いしておいた。「名張は以前、近鉄特急でなんども通ったことがありますよ」とのことだったので、いちどお立ち寄りください、ともお願いしておいた。
そろそろビールにも飽きてきたな、と思っていると、石塚さんが「中さん、あそこに怪人二十面相と黒蜥蜴がありますよ」と教えてくれる。ビール瓶と料理が山盛りになったテーブルをみると、伊賀市上野東町、ヴァインケラー・ハシモト謹製の日本酒「怪人二十面相」と「黒蜥蜴」が一本ずつ、やや所在なげに立っている。戸川さんからの差し入れだという。こんなことなら名張市からも、木屋正酒造謹製「幻影城」とすみた酒店謹製「乱歩誕生」を発送しておくのであった、と思ったのだが、あとの祭りである。未開封だった「黒蜥蜴」を勢いよく開け、石塚さんとふたりでせっせとあおる。
そろそろ酔っ払ってきたな、というところで、内覧会はお開き。出席者の姿もずいぶん減っている。石塚さん、新保さんと三人でおいとますることにして、玄関で見送ってくださった渡辺さんに、近くでビール飲めるとこありますか、と質問し、手ごろな喫茶店を教えていただいたので、渡辺さんも強引にお誘いしようかと思ったのだが、よく考えてみたらお仕事中である。残念ながら遠慮して、他日を期すことにした。雨はあがっている。店に入って三人でビールを飲み、いよいよ酔っ払って店を出る。駅の方向がよくわからなかったので、通りすがりの近所の奥さんに道をお訊きした。これがえらく親切かつ気さくな奥さんで、ずっと同道して、歩きながらのらちもない話にもよく乗ってくださった。お別れするときには、なぜか名刺まで交換した。通りすがりの近所の奥さんがどうして名刺を携行していらっしゃったのか、そのへんはよくわからない。
無事に駅に着き、電車で渋谷へ出て、蕎麦屋を探した。みあたらない。適当にみつけたラーメン屋に入ったところ、ラーメンも缶ビールも券売機で食券を買う、というシステムの店であった。三人で乾杯。この日のことは、石塚さんのブログにも記されている。
明日できること今日はせず:『大乱歩展』 内覧会(10月2日)
石塚さんは隅田川を越えて木場へお帰りになり、新保さんとは新宿駅でお別れした。横浜で買った傘は、新保さんといっしょに入った渋谷駅の便所に忘れてきた。