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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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低能ってやつは、もしかしたらあれか? この低能がこの低能がこの低能が、という悪罵嘲罵痛罵怒罵漫罵冷罵を浴びつづけていると、かたくなになり意固地になり、ますます低能になってしまうのか? これが女の子の場合であれば、そういうことはないでもない。かわいいかわいい、とことあるごとに声をかけていると、女の子はかわいさの度合を確実にアップさせる。そういうことはある。ただしこれ、かわいいかわいい、といってるこっちが自己暗示にかかってしまって、相手の女の子がかわいくみえてくるというだけの話なのかもしれんが。しかし、名張市という名の低能自治体は、意を決し、鋭意努力し、総力をあげて、みずからの低能に磨きをかけつづけているとしか思えない。なんかもう、低能一直線なのである。それも、ただ低能になってるというだけではなく、自分が低能であるということを嬉々として満天下に知らしめている、という感じがする。大丈夫か。

毎日新聞:名張市政功労者:映画「悪名」の故田中監督を特別表彰へ 文化振興に寄与 /三重(3月7日)

名張市制施行五十五周年という中途半端なメモリアルイヤーにちなみ、市政功労者の表彰がおこなわれる、という記事である。見出しには、一昨年12月になくなった映画監督の田中徳三さんの名があげられているが、そのほかに「芥川賞作家の伊藤たかみ、大蔵流狂言師の茂山七五三、江戸川乱歩長男の平井隆太郎の3氏を表彰する」とのことである。どうした低能。気はたしかか。

田中徳三さんといえば、去年の4月11日、大阪のシネ・ヌーヴォという映画館へ田中さんの「鯨神」を観にいった。シネ・ヌーヴォで田中徳三監督作品の特集が組まれていたのである。大阪にむかう近鉄特急のなかで、小島毅さんの『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)を読んだ。4月15日付のエントリに、その本からいささかを引用した。

4月15日:公設民営について憤る

引用したところを再掲しておく。

   
中国の皇帝は勝手になれるものではない。古来、「天命」という観念が大手を振って通用しているため、皇帝すなわち天子たりうるのは、天の意思にかなう人物でなければならないとされてきた。実際には武力や詐術で新王朝をひらき、皇帝の地位をものにしてきた者たちも、かたちのうえでは「自分は天命を受けている」ことを証明しなければならなかった。そのためのさまざまな煩雑な手続きや方策が、中国三千年の歴史を彩ってきた。
と、ここで、そうした「前近代的なばかばかしい形式主義」をわたしたちに嗤う資格が、かならずしもないことを述べておく。「選挙による代表制民主主義」のことである。いま「永田町」で活躍している人たちは、主権者たる国民が日本という国家を運営してもらうために選択した人、ということになっている。そして、それこそがかれらの正当化根拠である。毛並の良さや学力は、(実際にはともかく)形式上の要件ではない。選ばれたからこその政治家なのである。そして、わたしたち(の多く)はこの仕組みを是認している。だが、本当にそうなのか? そこで選ばれている人たちは本当に代表たる器をもった人たちなのか? お子様たち(なんとかチルドレン)もおられるようだし……。
これについて、しばしば選挙制度の不備や民度の未熟さといった理由があげられたりするけれど、わたしは問題はもっと根源的なところにあると思う。「代表制民主主義」という仕組み自体が虚構にもとづくということをふまえなければ、いつまでも同じことが繰り返されていくだけだろう。
中国における「天命」思想も、ある意味でこれと同質の虚構であった。当事者は本気では信じていない。しかし、それなしには周囲を納得させることができない。そこで、天命を得たとみせかける工夫がいろいろと人為的になされることになる。あたかも、主権者の審判を仰ぐべき政策の中身の検討を二義的なものにして、まずは「どうやったら当選するか」の技術論が横行しているように。

引用の要諦は、最後のほうにある。「代表制民主主義」という虚構に身を添わせるため、政策なんか二のつぎ三のつぎ、重要課題は「どうやったら当選するか」というただ一点、すなわち人生最大の目標は選挙に当選しつづけることにほかならず、それゆえ選挙に勝つためになにをすればいいのかということしか考えない、考えられない、そんな連中ばかりが多くなってんじゃね? ということである。むろん、ごろごろしておる。そんな連中はそこらじゅうにごろごろしておることであるから、この本のこのあたり、いつか引用することになるかもしれんな、と思われ、しかし、読みっぱなしだったらすぐに忘れてしまうだろうな、とも思われたので、昨年4月15日付エントリにわざわざ引用しておいた次第である。

しかしそれにしても、われながらみごとなものである。昨年4月15日付エントリにおいても、中先生いいだけわめいておるではないか。ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあわめきつづけである。よくもまあ飽きもせず、おんなじことばかりここまでわめきつづけられるものだと感心してしまう次第ではあるが、おなじことばかりわめいている、ということは、換言すれば、いってることにぶれがない、ということである。もうひとついっとけば、名張市という名の低能自治体は年がら年じゅうぶれまくりなのである、ということでもある。ついでだから、昨年4月15日にわめいたところを引用しておく。

   
そもそも細川邸の整備事業において、たとえ形式的なものであるにせよ、市議会のチェックや市民のパブリックコメントをクリアしたのは名張まちなか再生プランの段階までである。細川邸を歴史資料館として整備するという構想が、すくなくともかたちのうえでは、市議会の承認や市民の合意を得たのである。そのあと方針が二転三転し、歴史資料館が結局やなせ宿になってしまったペテンのごとき変更は、名張まちなか再生委員会が密室の内部で、ごくわずかな数の人間のまさしく恣意によっておこなったものでしかない。正当性などどこにもない。あるわけねーだろそんなもん。

にもかかわらず、名張市はそれを諒としてきた。名張まちなか再生委員会の事務局に足を運んで、委員会の非を諭し、道理を説いてやっても蛙のつらに小便であった。プランの目玉である細川邸の整備構想に変更を加えるのであれば、名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集して練り直しをさせるのが本来である。それを指摘してやっても馬の耳に念仏であった。名張市は何も考えず、何も決めようとせず、それまでの過誤にみちたプロセスをまったく無批判に諒とするだけ、そして先送りに先送りを重ねるだけであった。

そのうえ名張市は、細川邸の私物化をも諒としていた。当初から公設民営方式で細川邸を整備すると明言しながら、そのいっぽうで、名張まちなか再生委員会が競争原理を周到に排除し、「同委員会が立ち上げた団体」だけに特権的独占的に細川邸の運営をまかせるという専横を、名張市は一も二もなく容認していた。当然のこととして認めていた。何が民営化だこら。すくなくともこの場合、名張市における民営化とは、特定の市民への便益の供与にほかならない。あらかじめ決められていた特定の市民に、細川邸を整備したうえで提供すること。それが公設民営の正体だったのである。

ばかかこら低能。だから住民監査請求までかましてやったではないか。「同委員会が立ち上げた団体」がそこらの駅弁大学にいらっしゃる御用学者先生の研究室に研究とやらを依頼したとき、名張市はいったい何をしたか。その研究とやらの対価を市民の税金で支払ったのである。どこにそんな必要がある。いつまでも特定の市民と癒着してんじゃねーぞこの低能自治体がと、わざわざ住民監査請求までかましてかーん、かーん、かーんと警鐘を鳴らしてやったではないか。いいかげんに気づけよ。しかし気づかねーんだよなこれが。

まさしく蛙のつらに馬の耳、重要なことにまったく気がつかないでいるあいだに、名張市にとってまことにぐあいの悪い事態が出来した。あてがはずれてしまった。便益を供与されるべき「同委員会が立ち上げた団体」が、ひらたくいえばケツを割ってしまったのである。細川邸から手を引いてしまったのである。整備された細川邸を提供されても、実際にはろくな便益が見込めないと判断したのか、あるいは細川邸を運営する能力がないと自覚したのか、そのあたりのことは知りようがない。しかしとにかく、YOUの記事にあるとおり、「同委員会が立ち上げた団体」がさっさと逃げを打ってしまった結果、「同委員会設置の『まちなか運営協議会』が当面の運営を行うことが決定した」のである。

やなせ宿の運営は、来年度から「指定管理者を目指して運営団体を公募し、同協議会も新たな運営組織を再発足する」ということになった。ならざるをえなかった。民営化の眼目のひとつであるはずの競争原理が、開設二年度目にしてようやく発動するというみっともなさである。だが、そんなことがはたして可能なのか。なんのために整備したのかすらあいまいな施設である。国土交通省のまちづくり交付金をせしめる必要から、ただ観光交流施設という名目だけで整備された施設である。民営化がどうの指定管理者がこうのと痴呆のごときうわごとを垂れ流すまえに、やなせ宿とはいったいなんなのか、どういう目的で整備したのか、それを行政の主体性において明確に説明することが必要であろう。それが先決であろう。それができるか。できるのか。できるのかよ。けっ。できねーんだろうなあなさけねーことによー。

ごく一般的な話として述べておくと、つまり、やなせ宿とはまったく関係のない話として述べておくわけであるが、「特定の市民への便益の供与」というやつは、「どうやったら当選するか」という課題をクリアするための、きわめて有効な手段なのである。ま、こんなこと、いまさら指摘する要もないことではあるのだが、それにしても、やなせ宿はどうなったのかな。今年4月から、どういうことになるのかな。昨年4月の時点では、平成21・2009年度から「指定管理者を目指して運営団体を公募し、同協議会も新たな運営組織を再発足する」とされていたわけなのであるが、指定管理者の公募なんておこなわれなかったし、まちなか運営協議会が新たな運営組織を発足させた、みたいな話も聞こえてはこない。いったいどうなっておるのかな。というか、なーにやってんだこの低能、狸のきんたまみたいにいつまでもあっちこっちぶれまくってんじゃねーぞこの低能自治体。

といったような感じで、おらおらおらこの低能がよー、みたいなことばっかかまされてると、低能はいよいよ低能になってしまうものなのか、というのが本日のテーマなのであるが、ほんとにまあ嬉々として低能なのであるから、みていていっそ壮快だという気がしないでもない。もちろん、名張市政功労者表彰の話である。ただし、いうまでもないことを念のために記しておくけれど、表彰をお受けになる故田中徳三さん、伊藤たかみさん、茂山七五三さん、平井隆太郎さん、いやいや、最後だけは平井隆太郎先生とお呼びしたいところなのであるが、とにかくこの四人のかたについて、どうこう申しあげるつもりはまったくない。あたりまえである。

さて、ばかかこら低能。名張市の市政功労者というのは、いったいなんなんだ。ごくわずかなものでもいいから名張市にゆかりのある著名人有名人をピックアップし、名張市政とはなんの関係もないみなさんでいらっしゃるというのに、なぜか市政功労者の名のもとに表彰する。こんなばかなことがほんとにうれしいのか。うれしいのであろうな。ビッグネームはすべからく自己顕示の素材にすべし、というのが田舎者の合言葉なのだものな。だからまあ、ここらのあほがなにかというと口にする乱歩顕彰ってやつと、構造的にはまったくおんなじなのである。例によって例のごとく、まーた漫才から引用しておく。

   
「乱歩顕彰とかよくいわれますけど」
「それがおこがましいんです」
「なんでですねん」
「顕彰ゆうのは世に知られていないものをひろく知らせることなんです」
「それやったら乱歩は大メジャーですから顕彰なんか必要ないわけですね」
「事実はまったく逆なんです」
「何が逆なんですか」
「乱歩という有名作家の名前を利用して名張市というあまり知られていない自治体を有名にしたいだけの話なんです」
「それが市民要望の本音ですか」
「市民のみならず行政サイドの願望もそうなんです」
「そしたら乱歩文学館構想の正体はやっぱり自己顕示欲とかそんなんですか」
「そこらのお姉さんが有名ブランドに執着する以上のものではありません。要するにうわっつらだけなんです」

よかったなあ低能自治体。市政功労者表彰にかこつけて、トップブランドを手にすることができたではないか。しかしなあ、きょうび女子高生だって、ブランド品なんてただのジコマン、とかいってるぞ。ジコマンというのは自己満足のことなのであって、マンという響きからいやらしい意味を想像されても困るのであるが、ブランド品ゲットして喜ぶのはただの自己満足にすぎんのである、そんなことでしか自己顕示できんようなやつはあほなのである、みたいなことは女子高生だって認識しているのであり、しかしながら、自己満足とは知りながらもブランド品に惹かれてしまう悲しい女のさが、女心のせつなさつらさ、みたいなものも女子高生は自覚しているのであるから、女子高生ってのもあれでなかなかあなどれんものなのだぞ。

いやまあそんなことはどうでもいいけれど、なあ、低能自治体。市政功労者表彰ってのは、ほんとにいったいなんなんだ。市政への功労ってのは、いったいどういうことなんだ。故田中徳三さん、伊藤たかみさん、茂山七五三さん、平井隆太郎さん、いやいや、最後だけは平井隆太郎先生とお呼びしたいところなのであるが、とにかくこの四人のかたが文化振興に寄与してくださいましたので、名張市として表彰させていただきたいと思わさせていただいております、ということなのであろうが、それはほんとのことか。茂山さんは名張市内で子供狂言の指導を担当してくださっているはずだから、たしかに名張市の文化とやらとの接点はおありであろうが、ほかの三人のかたはいったい、名張市における文化振興のどんな局面に寄与してくださったというのかな。みたいなこといっても、低能だから理解できんか。

それならそれでしかたないけど、こら教育委員会、おまえらはいったいなにをしておったのだ。文化振興といえば、おまえらの守備範囲ではないか。名張市における文化振興というのは、いったいなんなんだ。著名人有名人と仲よくなって、ひたすらちゃらちゃらちゃらちゃらすることが、おまえらにとって文化の振興ということなのか。そんなもん、おれのケツもちはほんまもんのやくざだもんね、とかいって喜んでるそこらのチンピラと、構造的にはまったくおんなじではないか。いやいや、市政功労者表彰をお受けになるかたを、よりにもよってそこらのやくざといっしょにしてはいけない。ご無礼つかまつった。

しかしこら、名張市教育委員会。おまえらはほんとによくない。以前にもいってやったことだが、おまえらどうして、名張まちなか再生プランにストップをかけようとせなんだのじゃ。旧細川邸を歴史資料館にいたします、などという気のふれたようなことが、あのプランには書いてあったのじゃ。できるわけねーじゃねーか、と、ふつうは思うはずである。だったら教育委員会、なぜそれをゆうてやらなんだのじゃ。おまえらの守備範囲ではないか。低能と呼ぶしかない市長部局の暴走を、おまえらどうして阻止しようとはせなんだのじゃ。おまえらいったい、だれのために働いておるのじゃ。市民のために仕事をしておるのではないのか。

いやいや、こんなこといったってしかたないか。名張市教育委員会だって、低能であることに変わりはないのだものなあ。教育ということばが泣いておるからなあ。まったくまあ、右も低能、左も低能、ある意味まさしく地獄である。低能地獄と呼ぶしかないよなあ。天下晴れての低能自治体として、名張市は一歩一歩、着実に地歩をかためておるのだものなあ。とくに取り柄と呼べるものはないのであるが、この名張市には、官であると民であるとを問わず、低能だけは売るほど転がってるんだもんなあ。とはいえ、いくら売るほどあるからって、買ってくれる人なんてどこにもいないんだもんなあ。やれやれだよなあ。

──大工町寺町米町仏町低能買ふ町あらずやつばめよ

寺山修司で締めてみた。いやいや、こんなこといってたら修司ファンから叱り飛ばされるか。

──兎追ふこともなかりき故里の低能地獄の壁の絵の山

すまんな。寺山修司ファンの諸兄姉、ほんとにすまんな。

──間引かれしゆゑに一生欠席する低能地獄のおとうとの椅子

すまんなとは思うけど、とまんなくなってきたぞ。

──町の遠さを帯の長さではかるなり低能地獄より嫁ぎきて

すまんすまん。ほんとにすまん。

──夏蝶の屍ひそかにかくし来し低能地獄の中の一冊

いやいや、ほんとにもうやめておこう。ご無礼つかまつった。
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名張市民全員を市政功労者として表彰する件について
 ●市民様
 ご投稿ありがとうございます。
 名張市政功労者表彰にかんしましては、毎日新聞で報じられた四人のかた以外に、どんな人たちが表彰されるのかをまったく知りませんので、仰せのような「選挙利用」の実態がもうひとつよくわからないのですが、いずれにせよ、幼稚で中途半端なことだとは思います。もしも私が市政功労者表彰制度を選挙に利用するとしたら、四の五のいわずに市民全員を市政功労者として表彰いたします。名張市に住んでくれてるってだけで市政にとってはなによりの功労ですし、こんなところによくぞお住まいくださいまして、と感謝状もおまけにつけてしまいます。時節柄ということもありますから、市民全員に名張市独自の定額給付金をばらまいてみるのもいいかもしれません。これで落選したら眼もあてられませんけど。
 毎日新聞で報道された四人のかたの表彰にかんしていえば、これはもう、名張市という自治体の貧しさがみごとなまでに露呈してしまっていて、市民のひとりとしては冷汗三斗の思いです。貧しさというのは、むろん財政的な貧しさのことではありません。精神の貧しさです。貧すれば鈍するのは世のならいとはいえ、いくら財政が苦しくたって、毅然たる信念を持続することは可能なはずですし、そうした高い精神性こそが「凛とした市政」につながってゆくのではないかとも思われるのですが、貧しさ、さもしさ、あさましさ、さらには「選挙利用」のための右顧左眄ばかりが眼についてしまうのは、どうにも困ったものだと思います。困った困ったこまどり姉妹、みたいなところでしょうか。
 今後ともよろしくお願いいたします。
人間豹 URL 2009/03/09(Mon)07:45:09 編集
無題
中先生のお説、まっこと至極当然
お説のように、今回の功労表彰は
現職市長の選挙利用と聞きます
人間内部、人格、知識、知恵等
なにもない人ほど、他人の功労や
物品に寄生するものです。
乱歩の顕彰などはそのいい例です
乱歩や田中さんの顕彰ではなく無理
に拘わり、自分本人を顕彰?アピール
したいだけでしょう。身分不相のブランドや高級外車なんかもそうでしょうね 真に自分を磨きたいものです
市民 2009/03/08(Sun)11:21:28 編集
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