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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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小島毅さんの新刊『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)を読んでいたら、選挙による代表制民主主義なんて虚構である、という話が出てきた。

引用。

   
中国の皇帝は勝手になれるものではない。古来、「天命」という観念が大手を振って通用しているため、皇帝すなわち天子たりうるのは、天の意思にかなう人物でなければならないとされてきた。実際には武力や詐術で新王朝をひらき、皇帝の地位をものにしてきた者たちも、かたちのうえでは「自分は天命を受けている」ことを証明しなければならなかった。そのためのさまざまな煩雑な手続きや方策が、中国三千年の歴史を彩ってきた。
と、ここで、そうした「前近代的なばかばかしい形式主義」をわたしたちに嗤う資格が、かならずしもないことを述べておく。「選挙による代表制民主主義」のことである。いま「永田町」で活躍している人たちは、主権者たる国民が日本という国家を運営してもらうために選択した人、ということになっている。そして、それこそがかれらの正当化根拠である。毛並の良さや学力は、(実際にはともかく)形式上の要件ではない。選ばれたからこその政治家なのである。そして、わたしたち(の多く)はこの仕組みを是認している。だが、本当にそうなのか? そこで選ばれている人たちは本当に代表たる器をもった人たちなのか? お子様たち(なんとかチルドレン)もおられるようだし……。
これについて、しばしば選挙制度の不備や民度の未熟さといった理由があげられたりするけれど、わたしは問題はもっと根源的なところにあると思う。「代表制民主主義」という仕組み自体が虚構にもとづくということをふまえなければ、いつまでも同じことが繰り返されていくだけだろう。
中国における「天命」思想も、ある意味でこれと同質の虚構であった。当事者は本気では信じていない。しかし、それなしには周囲を納得させることができない。そこで、天命を得たとみせかける工夫がいろいろと人為的になされることになる。あたかも、主権者の審判を仰ぐべき政策の中身の検討を二義的なものにして、まずは「どうやったら当選するか」の技術論が横行しているように。

たいして意味はない。ちょっと引用してみたかっただけである。

おとといのつづき。

伊賀タウン情報YOU:総工費1億円 名張の観光交流施設「やなせ宿」どうなる?何する?

引用。

   
一方、実質的な運営は市の「公設民営」の方針から、05年6月に組織された、市民らによる「名張まちなか再生委員会(田畑純也委員長)」が民営化について協議してきた。その結果、当初は同委員会が立ち上げた団体が運営を任される予定だったが、これまでの役員会などで、同委員会設置の「まちなか運営協議会」が当面の運営を行うことが決定した。名張市が09度の指定管理者を目指して運営団体を公募し、同協議会も新たな運営組織を再発足するという。

「正当化根拠」ということでいえば、ここにはそれこそ何もない。この記事にあるとおり細川邸にかんしては、「当初は同委員会が立ち上げた団体が運営を任される予定」であった。だが、そんな予定にはかけらほどの正当性もない。ひとえに名張まちなか再生委員会の恣意でしかない。

そもそも細川邸の整備事業において、たとえ形式的なものであるにせよ、市議会のチェックや市民のパブリックコメントをクリアしたのは名張まちなか再生プランの段階までである。細川邸を歴史資料館として整備するという構想が、すくなくともかたちのうえでは、市議会の承認や市民の合意を得たのである。そのあと方針が二転三転し、歴史資料館が結局やなせ宿になってしまったペテンのごとき変更は、名張まちなか再生委員会が密室の内部で、ごくわずかな数の人間のまさしく恣意によっておこなったものでしかない。正当性などどこにもない。あるわけねーだろそんなもん。

にもかかわらず、名張市はそれを諒としてきた。名張まちなか再生委員会の事務局に足を運んで、委員会の非を諭し、道理を説いてやっても蛙のつらに小便であった。プランの目玉である細川邸の整備構想に変更を加えるのであれば、名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集して練り直しをさせるのが本来である。それを指摘してやっても馬の耳に念仏であった。名張市は何も考えず、何も決めようとせず、それまでの過誤にみちたプロセスをまったく無批判に諒とするだけ、そして先送りに先送りを重ねるだけであった。

そのうえ名張市は、細川邸の私物化をも諒としていた。当初から公設民営方式で細川邸を整備すると明言しながら、そのいっぽうで、名張まちなか再生委員会が競争原理を周到に排除し、「同委員会が立ち上げた団体」だけに特権的独占的に細川邸の運営をまかせるという専横を、名張市は一も二もなく容認していた。当然のこととして認めていた。何が民営化だこら。すくなくともこの場合、名張市における民営化とは、特定の市民への便益の供与にほかならない。あらかじめ決められていた特定の市民に、細川邸を整備したうえで提供すること。それが公設民営の正体だったのである。

ばかかこら低能。だから住民監査請求までかましてやったではないか。「同委員会が立ち上げた団体」がそこらの駅弁大学にいらっしゃる御用学者先生の研究室に研究とやらを依頼したとき、名張市はいったい何をしたか。その研究とやらの対価を市民の税金で支払ったのである。どこにそんな必要がある。いつまでも特定の市民と癒着してんじゃねーぞこの低能自治体がと、わざわざ住民監査請求までかましてかーん、かーん、かーんと警鐘を鳴らしてやったではないか。いいかげんに気づけよ。しかし気づかねーんだよなこれが。

まさしく蛙のつらに馬の耳、重要なことにまったく気がつかないでいるあいだに、名張市にとってまことにぐあいの悪い事態が出来した。あてがはずれてしまった。便益を供与されるべき「同委員会が立ち上げた団体」が、ひらたくいえばケツを割ってしまったのである。細川邸から手を引いてしまったのである。整備された細川邸を提供されても、実際にはろくな便益が見込めないと判断したのか、あるいは細川邸を運営する能力がないと自覚したのか、そのあたりのことは知りようがない。しかしとにかく、YOUの記事にあるとおり、「同委員会が立ち上げた団体」がさっさと逃げを打ってしまった結果、「同委員会設置の『まちなか運営協議会』が当面の運営を行うことが決定した」のである。

やなせ宿の運営は、来年度から「指定管理者を目指して運営団体を公募し、同協議会も新たな運営組織を再発足する」ということになった。ならざるをえなかった。民営化の眼目のひとつであるはずの競争原理が、開設二年度目にしてようやく発動するというみっともなさである。だが、そんなことがはたして可能なのか。なんのために整備したのかすらあいまいな施設である。国土交通省のまちづくり交付金をせしめる必要から、ただ観光交流施設という名目だけで整備された施設である。民営化がどうの指定管理者がこうのと痴呆のごときうわごとを垂れ流すまえに、やなせ宿とはいったいなんなのか、どういう目的で整備したのか、それを行政の主体性において明確に説明することが必要であろう。それが先決であろう。それができるか。できるのか。できるのかよ。けっ。できねーんだろうなあなさけねーことによー。
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