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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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新年も七日目を迎えた。月曜である。正月気分など、すでにどこにもない。あわただしい日常がはじまっている。

新年早々あわただしいのも考えものだから、ひさしぶりにカテゴリ「名張の民俗」。四十年前の名張の正月をながめてみる。

『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第1章 季節のコヨミ」から引用。

   
□□1月

正月 名張地方の村では、終戦後も正月と盆は旧暦で行なうところが多かった。それが新暦に統一されたのは、ここ十数年来のことである。正月の行事・風習も、全国的な現象だとはいえ、当地方でも年とともに変わりつつある。門松のすがたはほとんど見られない。だい一、正月にたいする考えそのものが変わってしまったのだ。戦争前まで、まだこんなわらべうた(童唄)が子供たちに口ずさまれていた。「正月さんどこまで奥の山のすそまで団子くしにさしてねぶりねぶりござった」。正月さんは歳の神である。門松は歳の神を迎える道しるべであり、依代(よりしろ)でもあった。この神を、くしにさした団子をなめながら来たというふうに、身近かに、まるで友だちのように擬人化したこの唄は、待ちわびた正月がきた喜びと感激を天真らんまんに流露させたものである。だが、いまの子供たちは、はたしてこれだけの感動を正月にかよわせていることだろうか。

四十年前の感懐である。四十年が経過したいま、子供たちには、正月を迎えて感動するということが、たぶんないのではないか。もういくつ寝ると、と正月を心待ちにすることもないのではないか。

   
〈除夜の鐘〉 大みそかの夜は、商店は“店じまい”にいそがしく、銭湯・床屋・パーマ屋などは二時、三時まで営業、ふつうの家庭ではNHKテレビの紅白歌合戦にかじりつく。これがすむと、やがて各地の名寺古刹から除夜の鐘が実況放送される。元町の専称寺、黒田の無動寺、夏見の福典寺、鐘のある寺は除夜の鐘をつくのだが、市民のほとんどはテレビの除夜の鐘で新しい年を迎える。

店じまいといえば、四十年ほど前には商店の正月休みが長く、もちろん自動販売機なんてものもなかったから、おおみそかの夜、店じまいまぎわのたばこ屋に駆けこんで、正月用のたばこを買いだめする客があったことをおぼえている。紅白歌合戦は国民的テレビ番組であったが、いまや凋落いちじるしい。去年のおおみそかはどうだったかというと、紅白歌合戦には一瞥もくれず、酒を飲みながら格闘技番組をながめていたのではなかったか。除夜の鐘は、聞こえたんだかどうなんだか、よくおぼえていないようである。

   
〈初詣で〉 元日の朝、“宮まいり”といって氏神に初参りするのが旧例である。町の氏神“お春日さん”には、十二時をすぎると、店じまいをすませた町家の人々が、そのままのふだん着でぼつぼつ現れる。だが、近年は遠方の有名神社に初詣でする風がしだいにふえている。一つはレジャー時代の影響である。近鉄は終夜運転、乗車賃・おみやげ付伊勢初詣でクーポン券を大々的に前売して初詣で客の吸引に大わらわ、電車も沿道も超満員で、ゆっくり初詣で気分にひたったり、一年の幸福をいのったりできる環境ではない。伊勢神宮とならんで、三輪明神への初詣でも多い。三輪の明神は“商売の神”(この頃ではプラス“交通安全の神”)として名張の商家に多くの信者をもっており、毎月1日、月参りする人も多い。ご念のはいった信心家は、伊勢からの帰りに三輪へまわり、その帰りに氏神へ立寄る。

氏神の「お春日さん」は宇流冨志祢神社のこと。お春日さんであれどこであれ、ことしも初もうでには無縁な新年であった。この項つづく。
きのうのつづき。きょうでおしまい。

12月4日:《乱歩と名張》設立趣意

「展望」の三段落目。

   
このほか《NPO乱歩と名張》は、書籍の出版、催事の開催などを通じ、乱歩が生まれた名張のまちの魅力を広く発信する活動も視野に入れている。《NPO 乱歩と名張》が名張市や市立図書館などと連携し、「名張市乱歩文学館」と「なばり乱歩ライブラリー」とを基本にしたさまざまな事業を進めることは、名張市 が掲げる“市民主体のまちづくり”の実践にほかならない。NPO結成を目指す組織として、乱歩生誕地碑の建立記念日にあたる11月3日、ここに《乱歩と名張》を設立する。

というわけで、NPOの発足を準備するための組織を昨年11月3日につくった。そのうえで、NPOが細川邸を拠点として利用することが可能かどうか、名張まちなか再生委員会に打診した。なんの返答もないまま、年があらたまった。年があらたまるというのはふしぎなもので、たとえ二か月前のことでも、去年のことはもう過ぎたことだという気になってくる。

むろん、NPOをつくる話はまだ生きていて、名張まちなか再生委員会からの返答待ちの状態であるが、返答の結果、NPOが細川邸を利用できる可能性がみえてきたとしても、クリアしなければならない問題は山積している。それらの問題は、名張市と話し合うことでしか前に進まない。しかし、名張市にまともな話し合いができるのであろうか。まともにものごとを考えることが可能であろうか。

たぶん、無理ではないか。まともにものごとを考える、などという芸当は、名張市にはとても無理なのではないか。尻ぬぐいのためのNPOをつくってみたところで、そもそも名張市には、尻ぬぐいが必要であるという事実さえ理解できておらんのではないか。困ったもんだよなあ。

じつに困ったものではあるが、まあ、こちらとしてはできるだけのことはやってきたつもりである。やるべきことはやってきたつもりである。江戸川乱歩にかんしても、名張まちなか再生プランにかんしても、めいっぱいのことはしてきたつもりである。だから、年があらたまったいまの時点では、すべては過ぎてしまったことであり、思い残すことは何もないという心境である。

名張まちなか再生委員会から返答があるのかどうか、あるとしてもどんな返答になるのか、さっぱりわからない状態であるが、とはいえ、さっぱりわからないなりに、1月3日にも記したとおり、これはもうどうにもならんだろうな、という気はするのだが、そんなことはなんかもうどうだってよくなってきた。いくら歯ぎしりをしてみたところで、結局なるようにしかならぬであろう。人事を尽くして天命を待つ、というのはこういうことであろうと思う。

というわけで、ずいぶんすっきりした年明けとなった。なにしろ天命待ちである。NPOをつくるという方向性にあやまりはないはずで、江戸川乱歩のことも名張まちなかのことも、お役所にまかせておいてもろくなことにはならない。それはすでにして自明である。それならば、意のある市民がNPOをつくったうえで、官民の協働とかいうやつで市民主体のまちづくりたらいうものを進めるしか道はないはずである。で、そのためになすべきことは、思いつくかぎり去年のうちにやってしまった。すなわち天命待ちなのである。

以上、「《乱歩と名張》設立趣意」の補足説明を五回にわたって記してきたが、以前から主張してきたことをくり返すしかない堂々めぐりには、われながらかなりうんざりした。名張まちなか再生委員会から返答があるまで、名張まちなか再生プランがらみの話題は控えることにしたい。
きのうのつづき。

12月4日:《乱歩と名張》設立趣意

「展望」の二段落目。

   
また、名張のまちの再生を考える場合、江戸川乱歩という作家やミステリーという文芸ジャンルが、有効に活用されるべき素材であることは疑いを入れない。げんに、名張市には細川邸に「ミステリー文庫」を開設し、市立図書館に展示されている乱歩の遺品や著書を移管して公開する構想があると伝えられるが、それらの管理運営が専門知識を有さない組織に委ねられた場合、「ミステリー文庫」の整備が取り返しのつかない禍根を残すことにもなりかねない。《NPO乱歩と名張》は、細川邸に「なばり乱歩ライブラリー」を開設することを提案し、その管理運営を手がけることも目的のひとつとしている。

名張まちなか再生プランの具体化はみるも無惨な失敗に終わったが、それは最初から予見されていたことであった。細川邸の活用にかんして、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示する」などというただの思いつきしか記されていないプランが、なんの疑いもなく正式決定されたのが、まずおかしい。というか、ありえない。異常である。気はたしかか。

いやいや、気はたしかではないのである。あほなのである。だいたいが名張まちなか再生プランをつくるに際して、名張のことなど何も知らぬ駅弁大学の御用学者だの、あるいはご町内の目先のことしかわからぬ区長会だの名張地区まちづくり推進協議会だの、いやいや、やめておこうやめておこう。いまさら何いったって取り返しはつかぬのである。だが、ひとつだけ気がついたことを記しておこうか。例の役立たずな学者先生の件である。三重大学の公式サイトにある浦山研究室のページをごらんいただこう。

三重大学公式サイト:浦山研究室

トップページに、「まちづくりの現場に「名張まちなか再生プラン」市民ワークショップを追加しました」という案内があるから、それをクリックする。と、驚くべし、リンクされているのはこのページなのである。

名張市公式サイト:ワークショップ等の経過(その1)

名張市の公式サイトにリンクを設定してあるだけの話である。おちょくっとるのかこら。名張まちなか再生プランの市民ワークショップにかんするご報告は名張市公式サイトのこのページをもってかえさせていただきます、みたいなインチキが通用すると思うておるのか。

ついでだから、おひまなかたはこのページもごらんになられよ。

浦山研究室:新町自治会の主体的まちづくり

新町というのは名張市の新町のことである。新町自治会と浦山研究室とが手を携えて、新町を舞台とした主体的まちづくりとやらを考えてみたということらしい。コンテンツのひとつに「プロジェクト2 歴史資料館(細川邸)」というのがある。「ここれらページの作品は1998年度M1ゼミ生の三好綾子、延与早紀子、楊静寧が作成しました」との註記がある。プロジェクト2の画像を無断転載しておこう。無断転載に文句があるのならいつでもいってこいこら三重大学。

20080105a.gif

しかし、するってえとあれかよ。細川邸を歴史資料館として整備する構想ってのは、もとをたどれば十年ほど前、駅弁大学の学生さんがお勉強で絵図を引いたものだったのかよ。細川邸は三重大学にお通いの坊ちゃん嬢ちゃんたちの教材だったのかよ。それがまったく無批判に名張まちなか再生プランに継承され、いったんは正式に決定されながら、歴史資料館なんてつくれるかばーか、とあっさり見捨てられてしまったってことなのかよ。何やってんだばーか。名張市はあの浦山益郎さんとかおっしゃる学者先生にいいだけふりまわされ、いいようにぼったくられてたってことなのかよ。ばーか。

いやいや、やめておこうやめておこう。いまさら何いったって取り返しはつかぬのである。それにこちらにだって限界というものがある。なんの限界か。尻ぬぐいの限界である。名張市というのはなにしろものごとを考えないから、市立図書館つくって江戸川乱歩の資料を集めまーす、みたいなことまでは考えつくのだが、その先に進めない。資料をどうやって活用すればいいのかがわからない。だから尻ぬぐいしてやったのである。とりあえず目録つくりゃいーんだよ、とつくってやったのである。資料活用の方向性を定めてさしあげたのである。そのあとはインターネットである。せっかく目録つくったんだからネット上で公開するのがふつうだろーが、といってやっても理解できない。だから尻ぬぐいしてやったのである。個人サイトを開設して目録を公開してやったのである。資料活用の新たな方向性を示してさしあげたのである。

おなじことである。細川邸を歴史資料館にしまーす、といきなり話が出たのである。深い考えなど何もなく、まったくの思いつきで名張まちなか再生プランが策定されたのである。そんなインチキ構想が実現すると思ってんのかばーか、とか思って、あのおそまつなプランの尻ぬぐいをしてやったのである。パブリックコメントを提出してさしあげたのである。しかしいっさい無視しやがる。無視するのは勝手だけど、歴史資料館なんてできるわけねーだろばーか、とか思っていたらこのざまである。まーた尻ぬぐいかよ、とか思ってNPOつくることを思いついたのである。

尻ぬぐいにつぐ尻ぬぐい。人生は尻ぬぐいとみつけたり、ってそんなもんみつけてんじゃねーぞばーか。尻ぬぐいにも限界ってものがあるっつってんだろーがばーか。
きのうのつづき。

12月4日:《乱歩と名張》設立趣意

「展望」の最初の段落を引用。

   
《NPO乱歩と名張》の目的のひとつは、名張市立図書館の収集資料やリファレンスブックにもとづきながら、乱歩作品と関連文献の資料調査をさらに重ね、乱歩に関する総合的データベース「名張市乱歩文学館」をインターネット上に構築することである。それは、長い期間にわたって乱歩関連資料を収集してきた名張市の責務であると同時に、乱歩の生誕地碑建立や記念館建設運動に尽力した先人の志を受け継ぎ、新たな形で再生させることでもある。が、名張市には遺憾ながらそうした認識は存在せず、収集資料の活用についても白紙の状態である。

本来なら名張市が手がけるべきことであるけれど、そんなところまで考えがまわらないみたいだから、NPOつくってお役所をフォローしてやるか、という話なのであったが、しかしまあ、どうやら無理みたいだな、というのが年頭における実感である。

それならそれで、すでにあるデータベースはどうするか。ウェブサイト名張人外境には、名張市立図書館が発行した江戸川乱歩リファレンスブック三冊、つまり『乱歩文献データブック』『江戸川乱歩執筆年譜』『江戸川乱歩著書目録』のデータを掲載しているのだが、リファレンスブックの著作権は市立図書館が有している。それを勝手に個人サイトに掲載するのは、あきらかに著作権法違反である。いままではまあいいとしても、きのうも記したとおり、今年の3月いっぱいで名張市立図書館と縁が切れてしまう予定である。完全に無縁となった人間が、いつまでも市立図書館の著作権を侵害しつづけていていいのかよ、とは思う。

名張人外境から「乱歩文献データブック」「江戸川乱歩執筆年譜」「江戸川乱歩著書目録」のデータを削除してしまえば、何も問題はない。だが、自分でいうのもあれなのだけれど、あれはそこそこ有用なデータベースではあるので、きれいに削除してしまうとなると、とてもおおげさなことをいってしまうのだけれど、公共の利益に反することになるのではないか、とも思われる。どうすっかなあ。
新年も三日目となった。愉快な闖入者のせいで長く中断していたのだが、12月7日付エントリ「設立趣意補足 1」のつづきを記す。昨年11月3日に発足した《乱歩と名張》の設立趣意書を補足する。

12月4日:《乱歩と名張》設立趣意

「経緯」の二段落目を引用。

   
名張市ではその後も、乱歩にちなんだ公的施設の構想が一再ならず浮上したが、そのたびに潰え去った。そのときどきの状況はどうあれ、単なる生地であるという稀薄な関係性のみを根拠として乱歩の記念館ないしは文学館を整備するのは、現在ではむしろ無謀な試みであると判断される。かりに乱歩の名を冠した施設整備を行うのであれば、規模においても運営においても、“大乱歩”の名にふさわしいものを目指すことが要請される。そうでなければ、名張市が乱歩を矮小化したという謗りは免れないであろう。また、旧乱歩邸の土地や家屋、乱歩の蔵書などは2002年、遺族から立教大学に一括して譲渡されており、乱歩にちなんだ本格的な記念館や文学館の建設は、いまや実質的に不可能であるとさえいえる。

このとおりのことである。名張市に乱歩文学館だの乱歩記念館だのを建設する必要はない。何度もくり返してきたことであるから、ここには大河漫才「僕の住民監査請求」から引用するにとどめる。

   
「乱歩文学館を望む市民の声はあるのとちがいますか」
「そんな市民がどこにいるねん」
「それを聞いてどうするんですか」
「思いきり叱り飛ばしたるねん」
「叱らんでもええやないですか」
「不心得な市民は叱り飛ばしたらなあかんのですけどたしかに乱歩文学館をつくろうという声は昔からあったんです」
「それやったらよろしがな」
「けどそうゆう市民要望にはきちんとノーをつきつけとかなあきません」
「なんでですねん」
「どうして名張市に乱歩文学館を建設しなければならないのか。かんじんの理由がその要望からは欠落してるんです」
「なんでそんなことわかりますねん」
「そしたら乱歩文学館が必要やゆうてる市民つかまえてなぜそんな施設を税金で建てなあかんのか質問してみなさい」
「どないなりますねん」
「誰のために文学館を建てるのか。そんなもん建てて何をするのか。質問に答えられる市民はひとりもいないはずです」
「乱歩顕彰とかよくいわれますけど」
「それがおこがましいんです」
「なんでですねん」
「顕彰ゆうのは世に知られていないものをひろく知らせることなんです」
「それやったら乱歩は大メジャーですから顕彰なんか必要ないわけですね」
「事実はまったく逆なんです」
「何が逆なんですか」
「乱歩という有名作家の名前を利用して名張市というあまり知られていない自治体を有名にしたいだけの話なんです」
「それが市民要望の本音ですか」
「市民のみならず行政サイドの願望もそうなんです」
「そしたら乱歩文学館構想の正体はやっぱり自己顕示欲とかそんなんですか」
「そこらのお姉さんが有名ブランドに執着する以上のものではありません。要するにうわっつらだけなんです」
「それで乱歩文学館の中身のことがいつまでも決まらなかったわけですか」
「うわっつらのことしか考えられない人間にできるのはせいぜい乱歩文学館ゆうハコモノの名称を思いつくぐらいです」
「そこから先には一歩も進めないと」
「本も読まんような連中が文学館とかいいだすから話がおかしくなるんです」

名張人外境:僕の住民監査請求

つづいて、「現況」の一段落目。

   
私は1995年、名張市立図書館から請われて嘱託となったが、つねに主眼を置いてきたのは収集資料の活用であった。市立図書館が開設準備の段階から収集してきた乱歩関連資料は、全国の図書館にも類を見ない貴重な蔵書であり、その活用の道を探るのが図書館本来の責務であることは論をまたない。収集資料を体系化し、未収集の資料を調査して、1997年に『乱歩文献データブック』、1998年に『江戸川乱歩執筆年譜』、2003年に『江戸川乱歩著書目録』とい う三冊の目録を、名張市立図書館の「江戸川乱歩リファレンスブック」として発行した。

ばかみたいな話である。乱歩にかんする資料を収集したのはいいけれど、それをどう活用するのかということはまったく考えない。それでいて、乱歩の文学館がどうの記念館がこうのとばかみたいなことはしきりに口走る。名張市ってのはどうしようもない。もうちょっと地に足をつけてはどうか。ということで、地に足をつけて、市立図書館が収集した資料にもとづいて、江戸川乱歩リファレンスブックを発行したのである。

「現況」の二段落目。

   
インターネットが普及した現在、これらの目録の内容は市立図書館のウェブサイトで閲覧できるようになっているのが当然であり、乱歩の著書、作品、関連文献などに関しても、市立図書館のサイトで検索が可能になっているのが本来であると考えられる。が、それは実現していない。私はこれまでに二度、そのための予算要求を行ったが、いずれも果たされなかった。一般の蔵書の検索が可能な公立図書館のサイトで、その図書館が独自に収集した資料の検索ができず、発行し た目録のデータが閲覧できないのは、異常と呼んで差し支えない事態である。

これもばかみたいな話である。せっかくつくった江戸川乱歩リファレンスブックである。そのデータをインターネット上で公開するというあたりまえのことが、名張市にはどうしてできないのか。

「現況」三段落目。

   
乱歩が生まれた名張のまちに目を転じると、2004年度に策定された「名張まちなか再生プラン」の具体化が進められつつあるが、中心的課題と目されていた細川邸の活用については、具体的な決定を見ないまま来春の開館を迎えようとしている。これもまた異常な事態というしかない。私は2005年、プランの素 案に対して提出したパブリックコメントで、名張市立図書館に展示されている乱歩の著書や遺品、図書館が寄贈を受けたミステリー関連図書を細川邸に集め、ミ ステリー専門図書館として整備するよう提案した。受け入れられることはなかったが、この提案自体はいまも有効であると判断する。

名張まちなか再生プランや細川邸の整備構想にかんしても、これまでに何度となくしつこいくらい記してきたから、ここにはくり返さない。名張まちなか再生プランが、新しい年を迎えて、近い将来にどんな帰結を迎えるのかという点にかんしては、残念ながらさっぱり見通しがつかない。

以上の「経緯」と「現況」を「官と民」という視点から整理しておくと、最初に来るのは民である。昭和27・1952年、乱歩がはじめて生家跡に立ったふるさと発見を契機として、昭和30・1955年に乱歩の生誕地碑が建立された。こうした一連の動きにたずさわったのは、本町で書店を営んでいた岡村繁次郎をはじめとする民の立場の人間であった。

昭和40・1965年に乱歩が死去し、それからしばらくして、名張市に乱歩記念館建設運動が起こった。これも民の動きである。しかし、運動は実を結ばず、昭和44・1969年に開設された名張市立図書館が、乱歩関連資料の収集を手がけることで、運動の意を継ぐこととなった。つまりここにおいて、民から官へのバトンタッチがおこなわれたのである。

民からバトンをうけた官においては、すなわち市立図書館においては、乱歩関連資料の収集がつづけられた。昭和62・1987年、市立図書館の移転に際しては、館内に乱歩コーナーが設けられ、乱歩の著書や遺品が展示された。しかし、収集資料の活用という点では、なんの動きもみられなかった。平成7・1995年、市立図書館は乱歩資料担当嘱託を雇い入れ、収集資料にもとづいて江戸川乱歩リファレンスブックを発行した。すなわち、民の立場にいた人間が官の一部に嘱託としてポジションを得ることで、図書館本来の責務である収集資料の活用が、多少なりとも前進した。ここにも官民のささやかな協働とかいうものを認めることが可能かもしれない。

しかし、そのささやかな協働にも限界があって、それを如実に実感させられることは少なからずあった。官の末端にポジションを得て何を主張し、何を提案してみても、容れられることはほとんどない。たしかに江戸川乱歩リファレンスブックを発行することはできた。予算300万円程度の単年度事業として目録を発行することは可能であった。だが、そのデータをインターネット上で公開し、将来にわたって増補をつづけてゆくという提案になると、扉はいともあっさりと鎖されてしまうのである。

ここで私事をうちあけておくならば、今年の3月末で一年単位の契約が切れるので、それを機に名張市立図書館とは無縁な人間になる予定である。もうあほらしいというか、やってらんないというか、知らんがなというか、とにかくあと白波と身を引くこととしたのだが、そうなると、名張市と江戸川乱歩を結ぶ糸はぷっつり切れてしまうかもしれない。それは惜しいことである。残念なことである。もったいないことである。

そんなことでいいのかどうか、鬱々と悩んだあげく、NPOをつくってはどうかという思いつきにたどりついた。もともと組織や団体にはできるだけかかわらないようにしてきた人間である。NPOのことなど何も知らない。しかしいろいろなことを考えあわせた結果、《NPO乱歩と名張》を発足させることで、昭和27・1952年のふるさと発見以来、ほそぼそとではあるが連綿として継承されてきた一本の線のうえ、つまりは乱歩と名張の関係性の継続という一本の線のうえに、いわゆる官と民との協働でより豊かな実りのようなものをもたらすことができるのではないか。そう考え、その可能性を探る第一歩として、とりあえず名張まちなか再生委員会に話をもちこんだのが昨年11月12日のことであった。

以来、新しい年を迎えても、名張まちなか再生委員会からはうんともすんとも応答がない。なんかもう、めんどくさくてしかたがない。というか、これはもうどうにもならんだろうな、という予感がする。予感というよりは、手応えである。もう名張まちなか再生委員会とか、あるいは名張市とか、まともに相手にするのはやめようかしら、という気がしないでもないかな、というのが平成20・2008年の年頭における抱負である。抱負というか、なんというか。

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