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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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『名張市史』下巻( 昭和36・1961年)の「第四編 産業」から、『三重県下商工人名録』(明治26・1893年)に記された名張町の「商工人」のうち、本町のデータを引用。

   
営業種目 屋号 経営者
玉滝薬・売薬・小間物 木津善 木津善支舗
呉服太物・はかり 矢の五 藤野支店
呉服太物 かせ屋 竹原吉六
呉服太物 丁字屋 山村彦三
古着太物 八幡屋 奥田藤八
綿・木綿・糸 矢の根屋 藤野新蔵
錦糸・木綿・酒造 若狭屋 辻森多吉
洋綿・糸・木綿 苧喜 前川喜兵衛
小間物・書籍 大和屋 岡村常三郎
時計・寒暖計   今堀支店
畳表・紙・砂糖・荒物 大和屋 岡村甚三郎
国産紙・木綿 栗田屋 栗田定助
国産紙・砂糖・畳表・荒物 矢の根屋 藤野栄助
酒造 木屋正 大西政之助
酒造・荒物 くず徳 松田徳兵衛
醤油・酢製造 矢の根屋 藤野平右衛門
酢製造・陶器 長田屋 長田奈良次郎
煙草製造 天然堂 東瀬済
米・水車業   山村与三兵衞
前挽・金物 近江屋 木村嘉十郎
乾物・青物・砂糖 田中屋 田中逸之助
魚類・肥料 魚重 福喜多重兵衞
魚類 古山屋 古山伝次
菓子飴製造 山城屋 竹田五左衞門
古道具 酔古堂 福喜多重次郎
新古道具 古手屋 古矢弥太郎
旅館・料理 環翠楼 新伝太郎

記載された名張町の商工人は、五十七人。うち二十七人を、本町が占める。江戸時代以来、商業の中心地としてにぎわいをみてきた町で、明治時代なかばにもまだメインストリートでありつづけた。現在もなお、この町にみることのできる屋号は、丁字屋、大和屋、木屋正、田中屋、といったところか。
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『名張市史』下巻( 昭和36・1961年)の「第四編 産業」から、『三重県下商工人名録』(明治26・1893年)に記された名張町の「商工人」のうち、榊町のデータを引用。

   
営業種目 屋号 経営者
西洋小間物
岩本源三郎
紙・砂糖・畳表・荒物・薬・運送 小間物屋 岡島新八郎
米・油・肥料 古手屋 池田仁七郎
金物・打刃物 藤川屋 藤本清平
打刃物 鍛冶勘 藤田勘兵衛
材木 短野屋 木村菊松
青物・乾物   山村由右衛門
通運会社
小川松太郎

いまもひきつづいて営業している店は、一軒もない。
撮影は、11月11日午後、小雨があがったあと。路面が濡れている。

20071119a.jpg

場所はここ。北のほうにむかって撮影。



『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
榊町 『三国地誌』宇流富志禰神社の項に「いま簗瀬に榊町あり、土俗相伝う。神護景雲年中、常陸国より遷幸(鹿島神)の時、先駆〔みさきはらい〕の榊の枝を御鎮座の後この地に衝植えしが、遂に根を生じて繁茂し、近古までその木あり。よって町の名になれりという。昔はこのあたりまで社地にして、俗にいわゆる馬場先なり。故に榊町の入口に大鳥居あり」とある。この伝説は信じがたい。町の形成せられた江戸時代の初期にはこのあたりが名張町のはずれで、江戸中期に書かれた『伊水温故』でもなお榊町は「上野口」となっている。旧鎮守は八阪社。

この町には昔、名張郵便局があった。『角川日本地名大辞典24 三重県』(昭和58・1983年)によれば、開設は明治7・1874年。同18・1885年、本町に移転し、大正8・1919年、ふたたび榊町へ。昭和39・1964年、栄町に移転するまで存続した。

榊町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 194人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 171人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 092人(名張市公式サイト、11月1日現在)
榊町に名張郵便局があったころ、その郵便局の前で、東田という写真屋が営業していた。その家の男の子と、名張小学校から名張中学校まで同期だったのだが、その後の消息はいっさい不明である。
『名張市史』には、昭和35・1960年から翌年にかけて出版された上下二巻本と、昭和49・1974年に出版された一巻本の改訂版とがある。

昭和36・1961年刊の二巻本下巻、「第四編 産業」に、明治26・1893年6月に津市の三重日報社が出した『三重県下商工人名録』から、名張町のデータが引かれている。

当時の下横町、現在の中町のデータは次のとおり。

   
営業種目 屋号 経営者
呉服太物 くたらや 堀内源助
綿糸・油 鍵屋 関元利祐
酒造 会津屋 梅田伝二
酒造 玉利屋 喜多村角太郎
酒造 綿屋 角田半兵衛
金物 会津屋 梅田千代松
旅館 小田屋 小田喜三郎

明治時代、名張のまちの商業の中心は本町で、この『三重県下商工人名録』によれば、二十七軒の商店が軒をならべていた。中町は上の七軒。この七軒のうち、現在も営業をつづけているのは、当時は綿屋という屋号だったらしい、すみた酒店だけである。

リンク:伊賀まちかど博物館 はなびし庵(すみた酒店)

その後、大正11・1922年に伊賀鉄道、昭和5年に参宮急行電鉄が開通するなど、名張のまちに変化がもたらされ、商業にも影響をおよぼした。本町は中心地ではなくなり、上本町、中町、榊町というラインが新たな繁華街となった。中町にも商店が増えた。

往年の活気はどこにも求めようがないものの、いまの名張まちなかで、商店街のおもかげをいちばんよくとどめているのは、この中町である。
10月22日に撮影。この日、この中町の通りを経由して、平尾の宇流冨志祢神社から新町のお旅所まで、みこしが練った。

20071026a.jpg

撮影地点はここ。交差点に立ち、北西方向にむかって撮影。



『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
中町 旧称下横町、昭和16年4月1日、中町と改称。町の中央という意味、上本町と榊町にはさまれた商店街である。宇流富志禰神社の一の鳥居(石の鳥居)はこの町の入口にある。
名張町内の道路が舗装をはじめたのは戦後だが、中町では大正10年7月、全長二百メートルにわたって舗装を実施した。

江戸時代、名張藤堂家邸の大手門からまっすぐつづいていたのが本町の通り。それに直交する通りは、横町と呼ばれ、その交差点を境に、つまり上の写真の撮影地点を境に、上横町と下横町にわかれていた。現在、上横町は上本町、下横町が中町。

『角川日本地名大辞典24 三重県』(昭和58・1983年)にもとづいて、中町にあった金融機関と、それが開設された年。
  • 明治33・1900年、名張銀行。
  • 大正11・1922年、農工銀行支店。
  • 昭和23・1948年、名張町農協。
  • 昭和25・1950年、勧業銀行支店。
  • 昭和26・1951年、南都銀行支店。
  • 昭和28・1953年、第三相互銀行支店。
中町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 222人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 184人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 098人(名張市公式サイト、10月1日現在)
上に掲載した写真のほぼ中央に、宇流富志禰神社の一の鳥居が小さく写っている。この鳥居については、またあらためて。
『名張市史』(昭和49・1974年)の「第九編 神社」から引用。

   
栄林寺 揚柳山・清浄院 本町
〈寺歴〉 浄土宗知恩院派 本尊阿弥陀如来。『伊水温故』にいう、「昔は念仏堂という。昔日は柳寺と号し鍜冶町にあり。筒井順慶天正九年伊賀兵乱に和州笠間口より討入る。時に大内川原にて順慶の従士菅田左衛門佐、当国の郷士森田浄雲に行逢い、一戦をとげ、菅田ついに討たる。菅田の弟二人あり。おのおの出家し、その一人を定誉と名づく。定誉当寺に住侶し、柳寺を改めて栄林寺と号す。これ中興開山なり」と。信憑性のうすい『伊水温故』ではあるが、栄林寺の沿革に関してはおおむね信じてよいだろう。新町・辻安茂家記録によれば、元和5年に柳寺にほど近い鍜冶町で酒造業をはじめた初代辻源次郎が檀家となり浄誉(定誉は誤り)を中興開山として栄林寺を創建したとある。大和から移住したばかりの辻氏は名張に自家の菩提寺を確定するため浄誉を迎えて開山としたのだろう。たぶん浄誉はそのころ柳寺にあって兄の菩提を弔っていたことかも知れぬ。現在の鍜冶町・柳原町一帯を総称して柳原と呼んでいたから寺名はこの所在地によったのだろう。寺跡は定かでないが、現在の公設市場付近と推定する。
宝永大火はこの栄林寺が火元であった。下男部屋から出火したという。九年後の享保4年鍜冶町七兵衛宅から出火した火災にも類焼した。再度の火災ののち寺地を現在地に移し再建した。現在の本堂と山門はこの時の建造にかかる。
江戸時代中期にこの栄林寺が念仏堂の通称で呼ばれ、この前の通り(本町の一部)を念仏堂町といったこともある。
はじめ黒田・法然寺(廃)の末寺であったが、しだいに寺勢さかえ、法然寺を末寺とするようになった。
明治24年、元町にあった薬師堂と庚申堂を買取って境内に安置した。
〈所蔵〉 金泥極彩色当麻曼荼羅写軸、延命地蔵尊。
〈行事〉 1月8日初薬師、8月24日延命地蔵会式。
〈境内〉
薬師堂。本尊薬師如来(伝、春日仏師作)。元町、現中井医院の地にあった薬師寺(林昌寺ともいう)が明治初年廃寺になったとき本堂・本尊ぐるみ買受け管理していたが、明治24年4月にいたり境内に移置した。ほかに十二神将像も安置する。
金剛堂。本尊青面金剛像、ほかに二童子など四体を安置する。元町にあった庚申堂を買受け、明治24年4月前記薬師堂とともに境内に移したものである。この庚申堂については丸之内・大森英郎所蔵、松山順学の『諸事記録帳』によってその沿革を知ることができる。
宗泰寺の西隣に宝珠山快行院教春寺という修験宗の寺院があった。庚申堂の名で聞こえ、年に六度の開帳日には遠近から参詣者で雑踏を極めた。元町の鎮守稲荷神社(現・簗瀬稲荷神社の前身)はこの庚申堂の境内を一部借地して文化3年に創建したものである。この庚申堂は延宝2年に宇治醍醐三宝院の末寺として少覚という僧侶の手で創建された。本尊の青面金剛は大阪四天王寺に安置してあった三体(青面・白面・赤面)のうちの一体を勧請したものと伝えられる。
明治5年宗教制度の改正で修験宗が廃止されたので、同7年10月真言宗に帰入した。しかし無檀で寺院経営の見込みが立たず、同年11月15日三重県令あて廃院帰属願を提出した。翌8年1月15日付で許可。しかし廃院しても庚申日の会式はその都度当局の許可をうけ続けていた。だが、明治10年1月の会式を最後に二百年の伝統をもつ“名張の庚申さん”も姿を消した。しかし信徒の間では何とかして庚申堂を再興しようと本町の山本山三郎・竹田五左衛門・藤野平右衛門・松田藤兵衛の四人が発起人となって種々苦心したが、どうにも方途がつかなかった。そのとき栄林寺住職静永瑞誠と檀家総代小西長七が講中に相談して同寺へ譲受けたいと申出た。「直ちに開帳、永世に及び年六度の庚申日に会式相営み、衆庶参拝致させ度く、該寺は勿論、市中の都合にも相成候故」というのが譲受けの理由であった(松山順学『移転明細記』)。明治24年のことであった。よって同年3月26日本堂・本尊・付属品一式百三十円で同寺へ売渡すことになった。
観音堂。十一面観音・三十三観音を安置する。
芭蕉句碑。「市人よ此傘の雪売ふ」、文化14年建碑(→第十一編・文芸)
初瀬街道々標。「文化元年甲子春三月吉祥日」に建てたもので「右はせみち」を示している。いま名張小学校庭に保存の道標に取替える前に立っていた小さいもの。

「第十一編 文芸」にある芭蕉句碑の項は、いずれ、「本町 ・文学碑」とでもして引用することにする。

きのうのエントリ「本町」に掲載した本町通りの写真で、手前左にみえる築地塀が、栄林寺の塀である。

本町には、神社はない。
本町の通り。きのうの午後1時ごろ撮影した。

20071013a.jpg

撮影地点はここ。江戸川乱歩生誕地碑につづく路地へ入るあたり。ほぼ東北方向、丸之内のほうにむかって撮影。



『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
本町 江戸時代からこの町名は変わらない。大為陶器店前から新町境までを江戸中期には念仏堂町と呼ぶこともあったが、これはその町なかにある浄土宗栄林寺が念仏堂と別称されていたことによる。本丸の入口(大手門は旧警察署の入口のところにあった)にあたる町内第一の主要部で大商店が軒をつらねていた。明治になってもこの地位は変わらず繁栄をほこったが、戦後は交通事情等の変化により商店街・繁華街としての首座は他へ譲らねばならなくなった。

『角川日本地名大辞典24 三重県』(昭和58・1983年)にもとづいて、以下に補足。

まず、警察関係。
  • 明治07・1874年、巡査屯所が設置され、のち名張警察署となった。
  • 明治19・1886年、名張警察署が峡間に移転した。
峡間は「はざま」、現在の丸之内。名張警察署は丸之内から昭和44・1969年、南町に移転。さらに平成8・1996年、蔵持町芝出の現在地に移転した。

つづいて、銀行関係。
  • 明治36・1903年、八十三銀行支店が新町から移転。
  • 明治39・1906年、名張銀行が中町から移転。
  • 大正08・1919年、百五銀行派出所開設。
  • 昭和09・1934年、三重県殖産無尽会社支店が木屋町から移転、八紘無尽会社となる。
  • 昭和20・1945年、八紘無尽会社が本店を津市から移す。
  • 昭和26・1951年、八紘無尽会社が太道相互銀行に改称。
  • 昭和39・1964年、太道相互銀行が名古屋市に本店を移す。
八紘無尽会社は昭和18・1943年、津市で設立。太道相互銀行と改称して、昭和44・1969年に名古屋信用金庫と合併、中京相互銀行となり、平成元・1989年、中京銀行となった。

太道相互銀行、のちの中京相互銀行、中京銀行のあった場所がここ。



この地図ではまだ中京銀行が生きているが、実際にはこんな状態。

20071013b.jpg

サンロードというアーケード商店街の入口がみえる。そのむこうがわ、駐車場になっているのが、かつて中京銀行のあった場所。

この場所でいつまで営業がおこなわれたのか、店舗が取り壊されたのはいつなのか、手許の資料やインターネットでは確認できない。

現在、名張市内の中京銀行は、名張支店(夏見字浅尾71番地2)、名張支店桔梗が丘出張所(桔梗が丘1番町6街区86番地)の二店舗がある。

百五銀行は明治11・1878年、第百五国立銀行として発足。同30・1897年、普通銀行に改組し、百五銀行となった。

大正8・1919年に開設された派出所が、のち名張支店となっていつまで存続していたのか、やはりにわかにはつかむことができない。

現在、名張市内の百五銀行は、桔梗が丘支店(桔梗が丘1番町2街区11番地)、名張支店(夏見3224番地3)、名張支店木屋町出張所(木屋町1386番地5)の三店舗がある。

現在、本町に金融機関は存在しない。

本町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 463人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 378人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 219人(名張市公式サイト、10月1日現在)
江戸川乱歩生誕地碑は、新町に建てられたあと、せまい路地をまたいで移転され、いまは本町にある。
『名張市史』(昭和49・1974年)の「第九編 神社」から引用。ルビは〔 〕で代用し、一字さげの段落はインデントで示す。

   
愛宕神社 新町
〈由緒〉 江戸時代に名張の各町内では町の鎮守に愛宕神社をまつるところが多かった。愛宕神社は火之迦具土命〔ひのかぐつちのみこと〕を祀り、同神の霊をしずめることによって火難を防ごうとの信仰である。このように名張町内に愛宕神社の普及したのは全町を焼尽した宝永大火からである。伝によれば、宝永の大火後、名張町民がはじめ黒田字尻江の地に愛宕社を勧請し、“火伏せ”の神として全町民が信仰していたが、のち各町に分祀したものという。この本元の黒田愛宕神社は明治41年4月1日宇流富志禰神社境内社興玉神社に合祀されたが、その『明細帳』にいう。
「当社は簗瀬村一村崇敬の神社にして、宝永八年十月十三日火災にかかり、全村ことごとく灰燼となり、人民の困窮一方ならず、ここにおいて社家神前に探神湯〔くがたち〕をなし神勅を請いしに、火之迦具土神のタタリなりと。翌年春、山城国葛野郡愛宕神社の御分霊を勧請し当地に鎮座せりと、古老の伝説なり」。
新町の愛宕神社もこうして黒田から分祀されたものだが、旧社地は新町橋詰め(現北村酒造店倉庫)にあった。名張町内の愛宕神社中もっとも殷賑をきわめ、6月24日(旧暦)の祭礼には遠近からの参詣客でにぎわった。明治41年の合祀後も社地・社殿はそのまま残し、祭礼当日は還座を請うて旧来どおりの盛祭をつづけた。いわゆる「蔭祀り」である。昭和26年、新町橋架設工事にさいし現在地に移した。同時に木屋町にあった御旅所や新町橋詰にあった水神碑も境内に移した。
〈祭礼〉7月24日。愛宕祭としては格別の行事はないが、昭和初年にはじまった花火大会は新町川原で催されるので、「あたごさん」の名は花火大会の代名詞のようになっている。

花火大会がはじまったのは、昭和6・1931年のことである。前年、近鉄の前身にあたる参宮急行電鉄の大阪・山田間が開通、名張駅が開設されのを機に、観光客誘致を目的として企画された。

名張川納涼花火大会として、毎年7月24日の恒例だったが、今年は見物客の利便をはかるため、土曜の開催に変更、7月28日に催された。

「愛宕祭としては格別の行事はないが」とあるが、近年は、といってももう三十年ほどになるのか、祭礼は「愛宕の火祭り」として営まれ、白装束の町民が松明を手に名張川を渡る演出がつづけられている。それが終わってから、花火大会。

新町には、寺院はない。
新町の通り。撮影時刻は、きのうの午後2時ごろ。

20071007a.jpg

撮影場所はここ。道のまんなかに立って、西のほうをむいて撮影。



明治27・1894年10月21日、江戸川乱歩はこの町で生まれた。ただし、乱歩の生家は、この通りには面していない。上の写真でいえば右のほうの、狭い裏道に面して建っていた。

『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
新町 新しくできた町という意味、各地にみられる町名である。寛永年間、藤堂高吉が来往(「来住」の誤植か──引用者註)した当時、本町・大為陶器店、南町・西方寺をむすぶ線上に松並木(旧字名並松の名のおこり)があり、これが往時の名張川の堤防であったという。高吉は川替え工事をおこない、河流を現在の位置に定着させ、新町の地を造成した。だから新しいといっても江戸初期のことであり、江戸中期以降にできた松崎町の「新地」などとは新しさがちがう。
初瀬街道・笠間街道・赤目街道をうける名張町の南玄関として殷賑をきわめたが、電車の開通、戦後における笠間・三本松方面の名張商圏からの離脱、名張駅を中心とするバスの発達等により利用度・交通量が激減し、旧時の繁栄はしのぶべくもない。
愛宕神社は宝永の大火後、名張町民が黒田の地に勧請した愛宕神社を分祀したもの、7月24日の愛宕祭は花火大会で知られる。
新町橋下流に渡し場があり、渡船二隻を備えていた。

三十年以上前の記述である。いまや、「旧時の繁栄はしのぶべくもない」どころの騒ぎではない。

名張まちなか全体がそうだが、ほぼ死に絶えている。商店街と呼ばれていたものはすべて消滅し、シャッターストリート、あるいは、パーキングストリートが現出している。なかに、ほそぼそと、経営をつづけている商店があるばかりである。

新町に昔あった商店を思い出そうとしてみても、意外にむずかしい。たとえば、このあたりに薬屋があったな、ということはわかっても、屋号までは浮かんでこない。

名張小学校で同期だった子供のなかにも、新町で商店を営んでいる家の子がいた。上の写真の左側のならびには、松山という菓子屋があって、そこの子供が同期だった。屋号は忘れたが、旅館の子もいて、姓は藤野といった。右側のならびには、黒田という豆腐屋の子がいたし、今井という畳屋の子もいた。

どの店も消えてしまった。同期生がどこで何をしているのか、まったく知らない。

新町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 565人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 539人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 275人(名張市公式サイト、10月1日現在)
「やなせ宿」という名前で整備されるらしい細川邸は、上の写真にみえる左側の家並みに位置している。そんなものをつくって何をしようというのか、名張市という名のインチキ自治体の考えることは、まるでわからない。

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