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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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『名張市史』(昭和49・1974年)の「第九編 神社」から引用。

   
栄林寺 揚柳山・清浄院 本町
〈寺歴〉 浄土宗知恩院派 本尊阿弥陀如来。『伊水温故』にいう、「昔は念仏堂という。昔日は柳寺と号し鍜冶町にあり。筒井順慶天正九年伊賀兵乱に和州笠間口より討入る。時に大内川原にて順慶の従士菅田左衛門佐、当国の郷士森田浄雲に行逢い、一戦をとげ、菅田ついに討たる。菅田の弟二人あり。おのおの出家し、その一人を定誉と名づく。定誉当寺に住侶し、柳寺を改めて栄林寺と号す。これ中興開山なり」と。信憑性のうすい『伊水温故』ではあるが、栄林寺の沿革に関してはおおむね信じてよいだろう。新町・辻安茂家記録によれば、元和5年に柳寺にほど近い鍜冶町で酒造業をはじめた初代辻源次郎が檀家となり浄誉(定誉は誤り)を中興開山として栄林寺を創建したとある。大和から移住したばかりの辻氏は名張に自家の菩提寺を確定するため浄誉を迎えて開山としたのだろう。たぶん浄誉はそのころ柳寺にあって兄の菩提を弔っていたことかも知れぬ。現在の鍜冶町・柳原町一帯を総称して柳原と呼んでいたから寺名はこの所在地によったのだろう。寺跡は定かでないが、現在の公設市場付近と推定する。
宝永大火はこの栄林寺が火元であった。下男部屋から出火したという。九年後の享保4年鍜冶町七兵衛宅から出火した火災にも類焼した。再度の火災ののち寺地を現在地に移し再建した。現在の本堂と山門はこの時の建造にかかる。
江戸時代中期にこの栄林寺が念仏堂の通称で呼ばれ、この前の通り(本町の一部)を念仏堂町といったこともある。
はじめ黒田・法然寺(廃)の末寺であったが、しだいに寺勢さかえ、法然寺を末寺とするようになった。
明治24年、元町にあった薬師堂と庚申堂を買取って境内に安置した。
〈所蔵〉 金泥極彩色当麻曼荼羅写軸、延命地蔵尊。
〈行事〉 1月8日初薬師、8月24日延命地蔵会式。
〈境内〉
薬師堂。本尊薬師如来(伝、春日仏師作)。元町、現中井医院の地にあった薬師寺(林昌寺ともいう)が明治初年廃寺になったとき本堂・本尊ぐるみ買受け管理していたが、明治24年4月にいたり境内に移置した。ほかに十二神将像も安置する。
金剛堂。本尊青面金剛像、ほかに二童子など四体を安置する。元町にあった庚申堂を買受け、明治24年4月前記薬師堂とともに境内に移したものである。この庚申堂については丸之内・大森英郎所蔵、松山順学の『諸事記録帳』によってその沿革を知ることができる。
宗泰寺の西隣に宝珠山快行院教春寺という修験宗の寺院があった。庚申堂の名で聞こえ、年に六度の開帳日には遠近から参詣者で雑踏を極めた。元町の鎮守稲荷神社(現・簗瀬稲荷神社の前身)はこの庚申堂の境内を一部借地して文化3年に創建したものである。この庚申堂は延宝2年に宇治醍醐三宝院の末寺として少覚という僧侶の手で創建された。本尊の青面金剛は大阪四天王寺に安置してあった三体(青面・白面・赤面)のうちの一体を勧請したものと伝えられる。
明治5年宗教制度の改正で修験宗が廃止されたので、同7年10月真言宗に帰入した。しかし無檀で寺院経営の見込みが立たず、同年11月15日三重県令あて廃院帰属願を提出した。翌8年1月15日付で許可。しかし廃院しても庚申日の会式はその都度当局の許可をうけ続けていた。だが、明治10年1月の会式を最後に二百年の伝統をもつ“名張の庚申さん”も姿を消した。しかし信徒の間では何とかして庚申堂を再興しようと本町の山本山三郎・竹田五左衛門・藤野平右衛門・松田藤兵衛の四人が発起人となって種々苦心したが、どうにも方途がつかなかった。そのとき栄林寺住職静永瑞誠と檀家総代小西長七が講中に相談して同寺へ譲受けたいと申出た。「直ちに開帳、永世に及び年六度の庚申日に会式相営み、衆庶参拝致させ度く、該寺は勿論、市中の都合にも相成候故」というのが譲受けの理由であった(松山順学『移転明細記』)。明治24年のことであった。よって同年3月26日本堂・本尊・付属品一式百三十円で同寺へ売渡すことになった。
観音堂。十一面観音・三十三観音を安置する。
芭蕉句碑。「市人よ此傘の雪売ふ」、文化14年建碑(→第十一編・文芸)
初瀬街道々標。「文化元年甲子春三月吉祥日」に建てたもので「右はせみち」を示している。いま名張小学校庭に保存の道標に取替える前に立っていた小さいもの。

「第十一編 文芸」にある芭蕉句碑の項は、いずれ、「本町 ・文学碑」とでもして引用することにする。

きのうのエントリ「本町」に掲載した本町通りの写真で、手前左にみえる築地塀が、栄林寺の塀である。

本町には、神社はない。
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