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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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『名張市史』(昭和49・1974年)の「第九編 神社」から引用。ルビは〔 〕で代用し、一字さげの段落はインデントで示す。

   
愛宕神社 新町
〈由緒〉 江戸時代に名張の各町内では町の鎮守に愛宕神社をまつるところが多かった。愛宕神社は火之迦具土命〔ひのかぐつちのみこと〕を祀り、同神の霊をしずめることによって火難を防ごうとの信仰である。このように名張町内に愛宕神社の普及したのは全町を焼尽した宝永大火からである。伝によれば、宝永の大火後、名張町民がはじめ黒田字尻江の地に愛宕社を勧請し、“火伏せ”の神として全町民が信仰していたが、のち各町に分祀したものという。この本元の黒田愛宕神社は明治41年4月1日宇流富志禰神社境内社興玉神社に合祀されたが、その『明細帳』にいう。
「当社は簗瀬村一村崇敬の神社にして、宝永八年十月十三日火災にかかり、全村ことごとく灰燼となり、人民の困窮一方ならず、ここにおいて社家神前に探神湯〔くがたち〕をなし神勅を請いしに、火之迦具土神のタタリなりと。翌年春、山城国葛野郡愛宕神社の御分霊を勧請し当地に鎮座せりと、古老の伝説なり」。
新町の愛宕神社もこうして黒田から分祀されたものだが、旧社地は新町橋詰め(現北村酒造店倉庫)にあった。名張町内の愛宕神社中もっとも殷賑をきわめ、6月24日(旧暦)の祭礼には遠近からの参詣客でにぎわった。明治41年の合祀後も社地・社殿はそのまま残し、祭礼当日は還座を請うて旧来どおりの盛祭をつづけた。いわゆる「蔭祀り」である。昭和26年、新町橋架設工事にさいし現在地に移した。同時に木屋町にあった御旅所や新町橋詰にあった水神碑も境内に移した。
〈祭礼〉7月24日。愛宕祭としては格別の行事はないが、昭和初年にはじまった花火大会は新町川原で催されるので、「あたごさん」の名は花火大会の代名詞のようになっている。

花火大会がはじまったのは、昭和6・1931年のことである。前年、近鉄の前身にあたる参宮急行電鉄の大阪・山田間が開通、名張駅が開設されのを機に、観光客誘致を目的として企画された。

名張川納涼花火大会として、毎年7月24日の恒例だったが、今年は見物客の利便をはかるため、土曜の開催に変更、7月28日に催された。

「愛宕祭としては格別の行事はないが」とあるが、近年は、といってももう三十年ほどになるのか、祭礼は「愛宕の火祭り」として営まれ、白装束の町民が松明を手に名張川を渡る演出がつづけられている。それが終わってから、花火大会。

新町には、寺院はない。
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