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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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新町の通り。撮影時刻は、きのうの午後2時ごろ。

20071007a.jpg

撮影場所はここ。道のまんなかに立って、西のほうをむいて撮影。



明治27・1894年10月21日、江戸川乱歩はこの町で生まれた。ただし、乱歩の生家は、この通りには面していない。上の写真でいえば右のほうの、狭い裏道に面して建っていた。

『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
新町 新しくできた町という意味、各地にみられる町名である。寛永年間、藤堂高吉が来往(「来住」の誤植か──引用者註)した当時、本町・大為陶器店、南町・西方寺をむすぶ線上に松並木(旧字名並松の名のおこり)があり、これが往時の名張川の堤防であったという。高吉は川替え工事をおこない、河流を現在の位置に定着させ、新町の地を造成した。だから新しいといっても江戸初期のことであり、江戸中期以降にできた松崎町の「新地」などとは新しさがちがう。
初瀬街道・笠間街道・赤目街道をうける名張町の南玄関として殷賑をきわめたが、電車の開通、戦後における笠間・三本松方面の名張商圏からの離脱、名張駅を中心とするバスの発達等により利用度・交通量が激減し、旧時の繁栄はしのぶべくもない。
愛宕神社は宝永の大火後、名張町民が黒田の地に勧請した愛宕神社を分祀したもの、7月24日の愛宕祭は花火大会で知られる。
新町橋下流に渡し場があり、渡船二隻を備えていた。

三十年以上前の記述である。いまや、「旧時の繁栄はしのぶべくもない」どころの騒ぎではない。

名張まちなか全体がそうだが、ほぼ死に絶えている。商店街と呼ばれていたものはすべて消滅し、シャッターストリート、あるいは、パーキングストリートが現出している。なかに、ほそぼそと、経営をつづけている商店があるばかりである。

新町に昔あった商店を思い出そうとしてみても、意外にむずかしい。たとえば、このあたりに薬屋があったな、ということはわかっても、屋号までは浮かんでこない。

名張小学校で同期だった子供のなかにも、新町で商店を営んでいる家の子がいた。上の写真の左側のならびには、松山という菓子屋があって、そこの子供が同期だった。屋号は忘れたが、旅館の子もいて、姓は藤野といった。右側のならびには、黒田という豆腐屋の子がいたし、今井という畳屋の子もいた。

どの店も消えてしまった。同期生がどこで何をしているのか、まったく知らない。

新町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 565人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 539人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 275人(名張市公式サイト、10月1日現在)
「やなせ宿」という名前で整備されるらしい細川邸は、上の写真にみえる左側の家並みに位置している。そんなものをつくって何をしようというのか、名張市という名のインチキ自治体の考えることは、まるでわからない。
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