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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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江戸川乱歩年譜集成

明治42年●1909 明治44年●1911

 

明治四十三年(一九一〇)

 

年齢:十五歳→十六歳、数え年十七歳

学年:中学校三年→四年

住居:愛知県名古屋市南伊勢町二番

 

三月十六日(水)

名古屋市の鶴舞公園で第十回関西府県聯合共進会が開幕。六月十三日(月)まで。[愛知県図書館:愛知の博覧会][近代デジタルライブラリー:関西府県聯合共進会記念写真帖][近代デジタルライブラリー:関西府県聯合共進会調査報告

平井太郎、名古屋市で開かれた博覧会で旅順海戦館に入館。翌日、自宅の離れ座敷でその真似をし、近所の子供に見物させた。[旅順海戦館/大正15年8月]

 

四月十九日(火)

太郎、学校行事で名古屋城天守閣へ行く。[貼雑年譜]

 

この年

太郎、博文館発行の「冒険世界」十一月号を手に写真を撮影。[新保博久:解題 雑誌フリークとしての江戸川乱歩(『江戸川乱歩と13の宝石 第二集』光文社文庫)/2007年9月]

 

この年か

太郎、学校をよく休むため医師の健康診断を受けた結果、心臓が弱いことが判明。繁男が学校内の寄宿舎に入ることを発案し、太郎も生活の変化を喜んで同意、寄宿舎生活を始めた。[貼雑年譜]

 

この年

太郎、寄宿生二人と満州に渡って牧畜をやるため寄宿舎から逃亡したが、汽車にも乗らないうちに捕まり、停学を命じられて一か月あまり自宅で過ごした。[準名古屋人/昭和26年10月][貼雑年譜]

 

[2012年5月13日]

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江戸川乱歩年譜集成

明治43年●1910 明治45年・大正元年●1912

 

明治四十四年(一九一一)

 

年齢:十六歳→十七歳、数え年十八歳

学年:中学校四年→五年

住居:愛知県名古屋市南伊勢町二番

 

七月十四日(金)

平井和佐、七十二歳で死去。津市乙部、浄明院に葬られる。[貼雑年譜][平井系譜]

和佐は大須観音そばの万梅という大衆料理屋が好きで、明治末期、太郎をよくつれていった。[味オンチ/昭和32年7月号]

 

[2012年5月14日]

江戸川乱歩年譜集成

明治44年●1911 大正2年●1913

 

明治四十五年・大正元年(一九一二)

 

年齢:十七歳→十八歳、数え年十九歳

学年:中学校五年→大学予科一年

住居:愛知県名古屋市南伊勢町二番

→慶尚南道馬山→東京市麻布区一ノ橋

→下谷区湯島天神町→小石川区春日町

 

三月十七日(日)

平井太郎、愛知県立第五中学校を卒業。第一回の卒業式で、卒業生は六十六人。[瑞陵会ホームページ:瑞陵高校の歩み年表

 

四月六日(土)

名古屋市の御園座で「ジゴマ」の上映開始。十五日(月)まで。[永嶺重敏:怪盗ジゴマと活動写真の時代(新潮新書)/2006年6月]

太郎、御園座で駒田好洋の「ジゴマ」巡業を観る。友人と二人で三晩つづけて通った。[探偵映画往来/昭和23年8月][わが青春の映画遍歴/昭和31年11月]

 

六月

平井繁男の平井商店が破産し、太郎は第八高等学校への進学を断念。繁男は破産の整理事務を友人や店員などに任せ、太郎とともに朝鮮に渡って、馬山にいた旧友の家に落ち着いた。繁男は開墾事業を志していたが、なすこともなく一か月ほどを過ごすうち、太郎は早稲田大学への入学を決意、繁男の許可を得た。[父母のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]

 

七月

太郎、馬山から旅費だけを手に上京。[父母のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]

 

七月三十日(火)

*明治から大正に改元。

 

八月

太郎、麻布区一ノ橋付近に住んでいた繁男の友人、菅生辰次郎の家に居候し、早稲田大学予科中途編入試験に通う。菅生は繁男の郡役所時代以来の友人で、丸ノ内の奥田正吉商店に勤めていた。[貼雑年譜]

 

九月

太郎、早稲田大学政治経済学部予科に入学。横浜市に住む叔父・岩田豊麿の世話で、下谷区湯島天神町の小活版屋、雲山堂に住み込み、学校の余暇に印刷を手伝ったが、南京虫と過労のため三か月ほどで辞めた。雲山堂主人に雑誌の発行を勧めてみたが、容れられなかった。[貼雑年譜]

 

十二月六日(金)

太郎、早稲田大学雄弁会が陸軍の二個師団増設問題をテーマに開いた懸賞演説会に参加し、増設反対の立場から演説したが、賞には入らなかった。[貼雑年譜]

 

十二月

太郎、雲山堂主人の親戚の紹介で、小石川区春日町の下駄屋の二階に住んでいた苦学生二人の仲間入りをし、四畳半に三人住まいで自炊生活をする。のちに一人加わり、四人暮らしとなった。職業は写字だったが、仕事はあまりなかった。一か月一人五円ほどで食費、間代をまかなった。このころには母方の祖母・本堂つまから月七円ずつ仕送りを受けていた。学校の月謝は四円五十銭程度だった。[貼雑年譜]

 

[2012年5月15日]

江戸川乱歩年譜集成

明治45年・大正元年●1912 大正3年●1914

 

大正二年(一九一三)

 

年齢:十八歳→十九歳、数え年二十歳

学年:大学予科一年→本科一年

住居:東京市小石川区春日町→牛込区喜久井町五番地

 

三月

平井太郎、帝国少年新聞の発行を企画し、「主意書」「推薦状」「支部について」を印刷。費用として菅生辰次郎の弟・邦三に二十円を出資してもらったが、資金がつづかず、新聞も発行できなかった。[貼雑年譜]

 

三月二十七日(木)

太郎、上京した母方の祖母・本堂つまと牛込区喜久井町五番地に住宅を借りて同居。つまは太郎の苦労を見かねて上京した。名古屋から太郎の弟・通を呼び寄せて三人で暮らしたが、通は夏ごろ、朝鮮の父母のもとに帰った。家には本堂つまの表札と並べて帝国少年新聞社の札を掲げた。[貼雑年譜]

 

七月

太郎、早稲田大学経済学部予科修了。[貼雑年譜]

 

九月

太郎、早稲田大学政治経済学部本科に進み、経済学を専攻する。[貼雑年譜]

 

九月二十五日(木)

太郎の親友、丹下高福が名古屋市で死去。太郎、丹下家から届いた電報の裏に「吃驚落胆」「南無阿弥陀仏」と記す。[貼雑年譜]

 

[2012年5月16日]

江戸川乱歩年譜集成

大正2年●1913 大正4年●1915

 

大正三年(一九一四)

 

年齢:十九歳→二十歳、数え年二十一歳

学年:大学本科一年→二年

住居:東京市牛込区喜久井町五番地

→牛込区西江戸川町→東京市外戸塚町

→牛込区喜久井町

 

二月

平井太郎、級友数人を誘って原稿用紙を綴じた回覧雑誌「白虹」を発行。一年あまりのあいだに五冊ほど出し、太郎は「経済学上の欲望の研究」、翻訳「経済学と心理学の関係を論ず」、幻想小品「夢の神秘」、叙事詩「オルレアンの少女」を寄稿した。[貼雑年譜]

 

五月

太郎、横浜から上京した叔父・岩田豊麿一家が牛込区西江戸川町に借りた家に祖母・本堂つまと同居。[貼雑年譜]

 

八、九月ごろ

平井きく、通と敏男を伴って朝鮮から上京、 東京市外戸塚町の早稲田大学野球場のそばに素人下宿を開業。太郎とつま、岩田家からここに移る。[貼雑年譜]

 

九月ごろ

太郎、菅生辰次郎の紹介により、憲政会院外幹事だった川崎克が経営する自治新聞の編集を手伝い、月五円の手当を稼いだ。[先生に謝す/昭和31年2月][貼雑年譜]

 

十一月五日(木)

自治新聞第一号が発行され、太郎が書いた記事「金原明善翁」が掲載された。自治新聞は大正四年一月号で資金難のため廃刊。[貼雑年譜]

 

十一、十二月ごろ

太郎、家族とともに牛込区喜久井町に転居。八、九月ごろまで住んだ家とは別の借家で、朝鮮の繁男も引き上げてきて家族が揃った。[貼雑年譜]

 

この年

太郎、主として宗教について記した「漫筆録」二冊を執筆。[貼雑年譜]

 

この年か

太郎、ポーの「黄金虫」を読んで驚愕に近い感じを受け、海外探偵小説を愛読し始める。ドイル作品も読み、翻訳や創作を試みたほか、暗号にも興味をおぼえた。[私の探偵趣味/大正15年6月][ポオと通俗的興味/昭和4年3月][探偵小説四十年 ポーとドイルの発見/昭和24年10月・11月][貼雑年譜]

 

[2012年5月17日]

江戸川乱歩年譜集成

大正3年●1914 大正5年●1916

 

大正四年(一九一五)

 

年齢:二十歳→二十一歳、数え年二十二歳

学年:大学本科二年→三年

住居:東京市牛込区喜久井町→牛込区赤城下町

→牛込区新小川町

 

二、三月ごろ

平井繁男、家族で牛込区赤城下町に転居。一家がもっとも困窮したころで、繁男は火災保険会社に勤務し、太郎も内職をしながら大学に通った。[貼雑年譜]

 

四月ごろ

繁男、家族で千代田区丸ノ内の三菱ビル地下室に転居。ビルには奥田正吉商店が事務所を借りており、奥田の好意でその地下に住むことになった。[貼雑年譜]

 

七月から八月

太郎、暑中休暇中、川崎克の紹介により、下谷区上野黒門町附近の小学校にあった市立図書館で貸出係として働いた。[貼雑年譜]

 

九、十月

繁男、家族で牛込区新小川町に転居。[貼雑年譜]

 

十一月

太郎、川崎克の紹介により、京橋区本八丁堀の天野という株式仲買人の家で家庭教師を務めた。天野家は川崎の実妹の嫁ぎ先で、太郎は三人の子供を同時に教えた。翌年七月に大学卒業するまで週二回ずつ通い、謝礼は月五円だった。[貼雑年譜]

 

この年

太郎、大学三年当時、時局財政経済問題研究会に加わって研究報告「交戦国の財政」を発表した。[貼雑年譜]

 

[2012年5月18日]

江戸川乱歩年譜集成

大正4年●1915 大正6年●1917

 

大正五年(一九一六)

 

年齢:二十一歳→二十二歳、数え年二十三歳

学年:大学本科三年

職業:加藤洋行勤務

住居:東京市牛込区新小川町

→牛込区新小川町三丁目一九番地

→大阪市西区靭中通二丁目

 

一月二十二日(土)

平井繁男、家族で牛込区新小川町三丁目一九番地へ転居。岩田家と共同の住まいで、家族は、岩田家が六人、平井家が、繁男、きく、太郎、通、敏男、本堂つま。[貼雑年譜]

 

三月一日(水)

太郎、探偵小説に関するメモを整理して清書し、製本した「奇譚」の「Preface」を執筆。[探偵小説四十年 手製本「奇譚」/昭和24年11月][奇譚][貼雑年譜]

 

三月十三日(月)

繁男の次女・玉子、誕生。[貼雑年譜][平井系譜]

 

七月

太郎、早稲田大学を卒業。卒業論文は「競争進化論」。卒業までに、大正五年の日記帳に探偵小説「火縄銃」の下書きを執筆した。卒業直前には、アメリカに渡航して皿洗いでもしながら英語に習熟し、アメリカやイギリスで英文の探偵小説を発表することを夢見た。先輩にも相談したが、賛成してくれる人はなく、費用も工面できなかった。[二十年前の日記/昭和10年12月][探偵小説四十年 アメリカ渡航の夢/昭和24年11月|最初の密室小説/昭和24年11月][貼雑年譜]

 

八月

太郎、川崎克の紹介により、大阪市靭中通二丁目の加藤洋行に就職、二階に寄宿する。経営者の加藤常吉も川崎同様、代議士だった。木綿結城縞の一重に綿の角帯で赴任し、命じられていないのに店の庭の掃除をすることから始めたが、衣服や勤務の一風変わったスタイルは加藤洋行支配人の覚えがめでたかった。南洋方面から受注した雑貨の仕入れを担当し、大阪市内外の問屋を歩き廻った。勤務のあとは毎晩、同僚に盛り場などを案内され、大阪の遊蕩的な雰囲気に親しんでいった。[先生に謝す/昭和31年2月][若気のあやまち/昭和34年2月][貼雑年譜]

 

年末

太郎、帆船一艘分の二百トンほどの雑貨を一手に仕入れて手柄を立て、暮れに思いがけないボーナスを貰って遊蕩をおぼえた。[貼雑年譜]

 

この年

太郎、三重県津市で徴兵検査を受け、第二乙種合格、歩兵補充兵となる。入営はせず、数年間、簡易点呼を受けた。[貼雑年譜]

 

[2012年5月19日]

江戸川乱歩年譜集成

大正5年●1916 大正7年●1918

 

大正六年(一九一七)

 

年齢:二十二歳→二十三歳、数え年二十四歳

職業:加藤洋行勤務→タイプライター販売員

→鳥羽造船所勤務

住居:大阪市西区靭中通二丁目

→東京市本所区中之郷竹町→大阪市此花区亀甲町

→三重県志摩郡鳥羽町→鳥羽町本町

 

五月ごろ

平井太郎、加藤洋行に勤務しながら酒や女遊びの放蕩をつづけるうち、仕事がいやになり、一人になる時間がないことにも耐えがたくなって、五月ごろ出奔、伊豆の温泉などを放浪する。熱海にしばらく滞在し、そのあと訪れた伊東の温泉宿で初めて谷崎潤一郎の作品を読んだが、「金色の死」がポーの作品に似ていることに驚いた。箱根に戻り、箱根八里の旧道を歩いてみたりした。[探偵小説四十年 谷崎潤一郎とドストエフスキー/昭和24年11月][小説を書くまで/昭和31年5月][若気のあやまち/昭和34年2月][貼雑年譜]

 

六月ごろ

太郎、一か月ほどの放浪のあと、東京に戻って本所区中之郷竹町に部屋を借りる。繁男ら家族はこの年、ふたたび朝鮮に渡り、さらに大阪へ転居していたが、その家へは顔を出しにくかったため、着物や時計などを質入れして露命をつないだ。吾妻橋を渡って浅草公園へ行き、朝湯、一膳飯、講釈、活動写真などで時間を過ごした。本所材木町の活動写真会社で江田不識という弁士を紹介してもらい、江田の自宅を訪ねて弟子入りを志願したが、無給と聞かされて引き下がった。[映画横好き/大正15年4月][活弁志願記/昭和26年1月][若気のあやまち/昭和34年2月][貼雑年譜]

 

七月ごろ

太郎、いどころを繁男に知られ、訪ねてきたきくに大阪市此花区亀甲町の家へ連れ帰られる。繁男は家二軒を借り、うち一軒を小工場として、通とともに軸受メタルを製造していた。太郎は四か月ほど居候し、タイプライターの販売員になって会社や商店を訪問したこともあったが、まったく売れなかった。この家で「火星の運河」という散文詩ふうの作品を書いた。[貼雑年譜]

 

十一月十一日(日)

太郎、繁男の知人の世話で、三重県志摩郡鳥羽町の鳥羽造船所に勤務した。電気部庶務係に配属され、月給は二十円。独身寮ができていなかったため、造船所内の社員クラブ二階に起居した。[貼雑年譜]

 

十二月

太郎、鳥羽町本町の稲垣家に下宿。[貼雑年譜]

 

[2012年5月20日]

江戸川乱歩年譜集成

大正6年●1917 大正8年●1919

 

大正七年(一九一八)

 

年齢:二十三歳→二十四歳、数え年二十五歳

職業:鳥羽造船所勤務

住居:三重県志摩郡鳥羽町本町

→鳥羽町城山→鳥羽町岩崎

 

平井太郎、鳥羽町城山にあった鳥羽造船所の済美寮に転居。深夜、近所の禅寺に一人で座禅を組みに行ったり、会社を休んで自室の押入れに寝ていたりした。文学や哲学への興味を示したことが技師長だった桝本卯平の気に入られ、気ままな勤め方を容認された。 深夜、悪友と寮から山田市へ遊びにゆくため自動車で峠越えをしたところ、自動車が崖から転落、崖の途中に生えていた数本の松の木に車体を支えられ、かろうじて命拾いをしたこともある。[貼雑年譜]

 

春ごろ

平井繁男、家族とともに大阪から朝鮮に渡り、忠清北道沃川郡青南面三南里にあった知人所有の青南鉱業所で監督として勤める。[貼雑年譜]

 

八月二十七日(火)

本堂つま、東京市牛込区新小川町の岩田豊麿の家で死去。六十九歳。太郎、葬儀のため上京。つまの遺産二千円は岩田家と平井家末弟・敏男で折半し、本堂家の跡目相続者は抽籤で決めることになった。太郎がくじを引き、敏男が相続者になった。敏男の千円は朝鮮の両親が保管した。[貼雑年譜]

 

九月

太郎、鳥羽造船所の同僚と鳥羽おとぎ倶楽部を結成。鳥羽の劇場や小学校でおとぎばなしの会を開いた。[貼雑年譜]

 

十月六日(日) 

太郎、夜、坂手島の坂手小学校で鳥羽おとぎ倶楽部のおとぎ会を開き、教師の村山隆子と知り合って文通を始める。[妻のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]

 

十一月

太郎、物価騰貴で月給が三倍ほどになったため、鳥羽町岩崎にあった松田という医師の別荘を借りて住む。この家で初めてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」を読んだ。鳥羽造船所が雑誌「日和」を発行することになり、太郎が編集係となった。[貼雑年譜]

 

十一月十五日(金)

鳥羽造船所の雑誌「日和」第一号発行日。太郎、巻頭言「首途」などを発表し、カットも担当。伊勢新聞の新刊雑誌評で「日和」は鳥羽造船所と鳥羽町の「意志疎通円満ならしめ以て会社の隆昌と鳥羽の繁栄とに資せんとしたるもの」と評される。桝本卯平の後押しにより、太郎は雑誌編集に専念できる待遇になった。[貼雑年譜]

 

十一月ごろ

朝鮮にいた通と敏男、古本屋を開く心づもりで上京。その途中で鳥羽に滞在し、太郎と兄弟三人で古本屋を経営する話がまとまる。通と敏男は岩田の叔母の世話で、神田の古本屋へ見習いに入った。[貼雑年譜]

 

十二月十五日(日)

「日和」第二号発行日。太郎、巻頭言「厖雑より統一へ」などを発表。このころ、さまざまな事情から鳥羽造船所を辞めなければならなくなり、桝本卯平に「東京に出てしばらく勉強したいから」と退社を申し出て了解を得た。[貼雑年譜]

 

[2012年5月21日]

江戸川乱歩年譜集成

大正7年●1918 大正9年●1920

 

大正八年(一九一九)

 

年齢:二十四歳→二十五歳、数え年二十六歳

職業:鳥羽造船所勤務→三人書房経営

→支那そば屋

住居:三重県志摩郡鳥羽町岩崎

→東京市下谷区坂町→本郷区駒込林町六

 

一月

平井太郎、鳥羽造船所を退社して上京し、下谷区坂町の潜龍館に下宿。退職金は三百円だったが、料亭などに千円の借金があり、探偵小説を書き出してからすべて返済した。「日和」第三号は二山久に編集を依頼し、第三号用に同僚の追悼文をこの下宿で書いて送った。乱歩のあとを追って退社、上京した同僚や後輩に、二山久、井上勝喜、松村家武、本位田準一、野崎三郎らがいた。[貼雑年譜]

 

一月なかば

通と敏男は勤めていた古本屋を辞め、それぞれの店と悶着が起きたが、朝鮮の繁男は息子たちの意志に従って店を開くことに同意し、預かっていた敏男の千円を送ってきた。[貼雑年譜]

 

二月

太郎、東京市本郷区駒込林町六(団子坂上)に弟二人と古本屋、三人書房を開業。家族は、太郎、通、敏男。三人書房は主として芸術書を扱い、とくに小説が多かった。店舗は太郎が設計し、看板も太郎が描いた。店内には応接間のようにテーブルと椅子を置き、蓄音機で流行歌謡をかけた。竹久夢二装幀の楽譜類を仕入れ、ショーウインドウに飾って販売することも試みた。三人書房にインテリ青年が集まるようになり、ひとつのグループができた。石川三四郎の息子・千秋が特徴のある看板に引かれて店を訪れてきた。そうした青年たちと当時全盛だった浅草オペラのスター、田谷力三の後援会を組織し、三人書房から歌劇雑誌を発行することが決まった。[貼雑年譜]

 

四月ごろ

三人書房に鳥羽から上京した井上勝喜、野崎三郎が同居。[貼雑年譜]

 

五月七日(水)

田谷力三後援会が浅草公園の金龍館で第一回観劇会を開催。主催者名義は日本歌劇研究会で、田谷が独唱し、石川千秋が純金のメダルを田谷に贈った。観劇会の切符はかなり売れたが、金メダル製作代などの費用を差し引くと欠損だった。[貼雑年譜]

 

五月十二日(月)

鳥羽造船所の「日和」第三号発行日。発行が遅延し、これで廃刊となる。太郎が執筆した三重県知事らのインタヒュー記事、上京してから書いた「故高山康君追悼記」が掲載された。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、井上勝喜とともに雑誌発行の資金づくりに奔走、庄司雅行に初めて会い、出資を依頼したが、雑誌を出すだけの資金は集まらなかった。太郎、三人書房を弟二人に任せ、井上と二人で三人書房二階を借りて間代を払うことにした。[貼雑年譜]

 

七月

太郎、井上勝喜と智的小説刊行会を計画し、朝日、読売、時事の三紙に募集広告を出すが、挫折。翌年五月に再度計画した。[貼雑年譜]

 

七月ごろ

太郎、雑誌「東京パック」を発行していた下田という人物と知り合い、編集事務を月給制で引き受けることになる。漫画界の大家を訪問して原稿を貰い、編集する仕事だったが、乱歩は大家の絵のなかに自分の漫画も入れ、雑文その他の文章を一手に引き受けた。[貼雑年譜]

 

このころ

「東京パック」記者として、漫画家の小川治平、岡本一平、下川凹夫、前川千帆をたびたび訪問。吉岡鳥平とも親しくなる。[活字と僕と/昭和11年10月]

 

このころ

太郎、「東京パック」に執筆した「時局パックリ」が当局の注意を引き、三人書房二階へ高等係の刑事が訪ねてきた。刑事に気炎をあげながら、いささか得意を感じる。[貼雑年譜]

 

十月一日(水)

「東京パック」十月号(第十二巻第三号)の奥付発行日。奥付には「東京パック編輯局」として「東京市本郷区駒込林町六」と三人書房の住所を記載。太郎が編集した「東京パック」は九月号(第二号)から十一月号(第四号)までで、期間は八月から十月まで。下田憲一郎は昭和五年九月号の「編輯室から」で「東京パック」時代の太郎を回想した。[高島真:追跡『東京パック』(無明舎出版)/2001年1月]

 

十月ごろ

太郎、給料不払いのため、「東京パック」編集を三号かぎりで辞める。太郎が自分の漫画を載せたり、文章を署名入りで掲載したりしたため、漫画家たちから編集者が出しゃばりすぎると抗議されたこともあって、太郎のほうから辞めざるを得ないような処置がとられたという。[貼雑年譜]

 

十一月ごろ

太郎、生活が困窮し、井上と二人、別々に屋台の支那そば屋を営む。野崎三郎は撞球場に勤めていた。支那そば屋はなかなか儲かる商売で、多いときには一晩に十円以上売り上げがあり、純益は七円ほどになった。井上は数か月つづけたが、太郎は結婚しなければならなくなり、十日ほどで辞めた。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎、坂手島の村山隆子との結婚を決意する。隆子とは文通しただけで、親しく話し合ったこともなかったが、真面目な隆子が手紙に結婚のことを記し始めたので、太郎は結婚する意志がないことを手紙で隆子に伝えた。そのうえでよく話し合おうと思っていたが、その機会がないまま退職し、上京してしまった。坂手島では太郎と隆子の文通が狭い村に知れ渡っており、太郎の上京後、隆子は悲観のあまり病気になっていた。鳥羽町の医師の家で母親に付き添われて養生していたが、ついには危篤状態に陥ってしまう。鳥羽造船所の二山久から知らせを受けた太郎は結婚する以外にないと決意し、朝鮮の父の承諾を求め、結婚する旨の手紙を隆子に出した。隆子は床上げするとすぐ、兄・村山恒吉と三人書房にやってきた。[妻のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]

 

十一月二十六日(水)

太郎と隆子、牛込区新小川町にあった叔父・岩田豊麿の家で結婚式を挙げる。[貼雑年譜]

 

このころ

太郎と隆子、三人書房二階の六畳で井上、野崎と共同生活。朝鮮からきく、玉子が上京して、一階に住んでいたため、二階で四人が寝るほかなかった。隆子が上京して数日で太郎は支那そば屋を廃業。何か生活の方途を見出すまで隆子を鳥羽に帰すことにし、隆子は実家で二、三か月を過ごした。[私の結婚/昭和37年2月][貼雑年譜]

 

[2012年5月22日]

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