三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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名張市民にとって乱歩とはなにか
これまでのところをまとめておく。まず、もう乱歩記念館の話はなしにしような、ということである。考えてみれば、名張市の発足以来こんにちまで、四人の市長のうち三人までが、なんらかのかたちで乱歩記念館構想をぶちあげては、はらほろひれはれとむなしく散ってきた。もうよかろう。なにも考えず、ただの思いつきで乱歩記念館構想を口走る愚は、いくらなんでもこれ以上くり返してはならんとぞ思う。
乱歩関連事業にかんしては、先日も記したとおり、今月21日のミステリ講演会「なぞがたりなばり」が終わってから俎上に載せるつもりである。ただし、煎じ詰めればこれもまた、
──ほんとにもう、お役所あたりのうすらばかがめいっぱいおよろしくないおつむで適当なこと勝手に決めてんじゃねーぞこのすっとこどっこい、いっぺん泣かしたろかこら、と思われてなりません。
ということになってしまうはずである。とはいうものの、ミステリ講演会がスタートした二十年ほど前に比べると、事情はいささか変化している。めいっぱいおつむがおよろしくないお役所の人と、同程度におつむがおよろしくない地域住民とが手に手を取って、いやもうなにがなにやら、いよいよわけがわかんないことになってきている。それが当節の風潮である。なんともえらいもので、おつむのおよろしくない人間というのは、おつむのおよろしくない人間としかつるまない。それはそうであろう。賢い人間とつるんだりしたら、自分のおつむのおよろしくなさがばれてしまう。だからおつむのおよろしくない人間ばかりが団子状態を呈していて、みてらんねーよばーか、と賢い人間が親切に救いの手を差し伸べてやろうとすると、
──現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない。
などとヒステリックな拒否反応を示してしまう。めいっぱいおつむのおよろしくない連中というのはまことに救いがたいもので、おたがいのおつむの程度を共通項として形成された狭小な世界だけがすべてなのである。世界は仲間内にしかないのである。その世界では、かたやお役所、こなた地域住民、めいっぱいおつむのおよろしくない人間がタッグを組み、馴れあいやもたれ合い、最終的には責任のなすりつけあいまで演じたあげく、可能性の芽をぐだぐだにしてすべてをぶち壊してしまう。一例をあげるとすれば、まちなか再生事業がまさしくそうであったな。名張まちなか再生委員会はどうなったか。ムラ社会的な価値観で押し流されていた委員会に市民社会的価値観を投げこんでやったところ、ほなやめさしてもらいまっさ、と名張地区まちづくり推進協議会はとっととトンズラを決め込んでしまった。異なった価値観をもつ人間とは同席できない、というわけである。おなじ価値観を有する人間以外は排除してしまう、というわけである。邪魔なやつを排除しようとしたけど排除できなかった、だったらこっちから排除されてやる、というわけである。しかも笑止千万。名張市は名張まちなか再生委員会と手を切り、名張地区まちづくり推進協議会との協働とやらでまちなか再生事業を継続するというではないか。手前どもはムラ社会的な価値観しか理解できません、ムラ社会的な馴れあいもたれ合いにおすがり申しあげております、とかみずから宣言してどうするよこのインチキ自治体。
だからまあ、名張市において乱歩のことを考えるにあたっては、協働であるとか新しい公であるとか、そういったうさんくさいお題目を正当な批判の対象とすることも必要になってくるであろう。そういえば、あいつはどうも超弩級のばかであったようだな、という認識が少なからぬ国民のあいだにひろがっているわが国の首相が、こんどはこんなことを口走っている。
中日新聞:『新しい公共』探す旅 「友愛」に続くあいまい理念(2月28日)
鳩山由紀夫首相が口にしたというこの一事だけをもってしても、新しい公共などという理念がいかにうさんくさいものであるかはたちどころに了解されるであろう。なにしろ新聞の見出しで、「あいまい理念」などとおちょくられている始末なのである。主体性を思いきりあいまいにしたうえで自分たちの身勝手な都合を国民に押しつけたい、というのが新しい公共とやらに隠された本音なのであろうけれども、この国はいったいどうなってしまうのであろうな。
そんなことはともかく、二十年ちかく継続されているミステリ講演会については、またあらためて述べることになる。といったって、なにもいきなり叱り飛ばそうというのではない。二十年ほど前に決定された方向性が、いまなお有効かどうか。二十年ちかく事業をつづけてきて、どんな蓄積なり成果がもたらされたのか。そのあたりをじっくり考えてみるだけの話である。本来であれば、こうした検証はお役所の内部で、恒常的になされていなければならない。ところが、なにしろお役所である。検証なんてことばは存在していない。だから市民が検証してやる。それだけの話である。これこれ関係各位、いまから涙目にならなくたっていいんだぞ。
お役所レベルの構想や事業はべつにして、市民レベルの動きはどうか。名張市に乱歩の生誕地碑が建立されたのは五十五年前、昭和30・1955年のことであるが、それを受けて、市民レベルになにかしらの動きがあったのか。とくになかったようである。なにも伝えられておらず、どんな資料も残されていない。
よその事例はどうか。他都市のことはあまり知るところではないのだが、去年、実際に足を運んだところについて述べておくと、まず神戸市。東川崎町というところに平成16・2004年、横溝正史の生誕地碑が建立された。以来、地元の関係団体が協力して、金属製の生誕地碑をメンテナンスしたり、年にいちど講演会を催したりしている。去年は11月22日に講演会が催され、講師は有栖川有栖さん、主催は東川崎ふれあいのまちづくり協議会と神戸探偵小説愛好會。日本SFの父と称される海野十三は、昨年が没後六十年だった。生まれたのは四国の徳島市で、市内の公園には海野十三文学碑が建てられている。昨年の命日、5月17日に訪れると、海野十三の会のメンバーが文学碑の掃除に精を出していた。そのあと同会主催の講演会があって、講師は野村恒彦さん。神戸も徳島も、たぶん行政の支援などまるでなく、横溝正史や海野十三に崇敬の念を抱く関係者が会費を出し合ったり、おそらく自腹も切ったりして、地域に生まれた偉大な先人の業績をしのんでいる、といったところであった。
そこへ行くと名張市においては、みたいなことはミステリ講演会が終わってから記すわけであるが、ここで市民レベルのことをいささか述べておくならば、いまさらいうまでもないことではあれど、名張市民だからといって、乱歩作品を読まなければならぬということはない。乱歩という作家に親しまなければならぬ、ということはない。ことはあくまでも個人の問題である。個人の好き嫌い、趣味嗜好の問題である。他人が強制すべきことではまったくない。乱歩を好きになろうが嫌いになろうが、あるいはまったく興味を向けなかろうが、そんなのは名張市民それぞれの勝手である。お役所が音頭を取って、乱歩作品を読みましょうと市民に呼びかける必要も、乱歩のことをよく知りましょうと市民に訴える筋合いも、そんなものはいっさいないのである。市民それぞれ、もう好きにすればいいのである。
結局、おおかたの名張市民にとって、乱歩とはいったいなんであるのか。決して嗜好愛好の対象でもなければ、敬愛崇敬の対象でもない。名張という片田舎を少しでも有名にするための、えがたい素材でしかないのである。乱歩の知名度を利用して、名張をPRしたいというのが、なにかというと乱歩の名前を口にする市民の本音なのである。しかし、残念であったな。官民双方、めいっぱいおつむのおよろしくない連中がいくら頑張ったって、ろくなことはできない。うわっつらのことしかできない。ちまちましたご町内イベントでちゃらちゃらかっこつける程度の話にしかならぬのである。官民双方のめいっぱいおつむのおよろしくない連中が他者を排除してなにを考えてみたところで、ろくなことにはならんのである。
涙目になってる諸君も、その程度のことはわかるよな。だいたいがあれだぞ、おれはこれまでに、身のたけ身のほどをわきまえろ、とはいってきた。名張市には名張市の身のたけ身のほどというものがあるのだから、それに応じて乱歩のことをやればいいのである、とはいってきた。しかし、おまえらのおつむのレベルでやれ、とはいってない。乱歩作品をまともに読んだことがなく、乱歩がどういう作家だったのか、現在どのように受容されているのかを知ろうともしないような人間が、いやいや、こういったことはミステリ講演会が終わってから記すわけなのであるから、まあどうぞお楽しみに。
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