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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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 乱歩記念館はもうおしまいにしような
 
 ふと気になったのだが、怪人19面相君がただのばかではなく、意外にもそれなりの学習能力を有しているとしたらどうであろうか。おとといのエントリで、「文意を理解しづらいところが少なからずあるたどたどしい日本語で、なにがしかの好戦的な主張を日常的に展開している可能性が高い」とプロファイリングされたことを勘案して、以前のように突然なりをひそめてはしまわず、たどたどしくもなければ好戦的でもない、そんな文章をどっかの電子掲示板にしれっと投稿しているかもしれんのである。しかしなあ、怪人19面相君、角を矯めて牛を殺す、ってことばを知ってるか? 君が妙にお行儀のいい文章を書いたところで、そんなものは面白くもなんともないと思うぞ。いつもの調子でぎゃあぎゃあかましてやれよぎゃあぎゃあ、みたいなことはどうだってよろしい。
 
 問題なのは、なにも考えることなくただの思いつきで、さあ乱歩記念館をつくろうぜ、みたいな血迷ったことを口走るのは、いくらなんでももうやめとこうな、ということである。しかしこんなこと、いくら名張市にいってやったって、お役所のみなさんは歯牙にもかけない。貴重なご意見としてありがたくうけたまわりました、とかなんとかいいながら、聞き置くだけで聞き流す、みたいなことでおしまいになってしまう。ほんと困ったものである。とはいうものの、いくらなんでも、たんなる思いつきで乱歩記念館構想を派手にぶちあげる、みたいな真似はいいかげんにしとかにゃならんぞ。
 
 そこで本日は、名張市における乱歩記念館騒動をお題にご機嫌をうかがう。なにしろここ名張市においては、指折り数えればもう四十年ほども以前から、さあ乱歩記念館をつくろうぜ、という話が浮かんでは消え、消えては浮かびしてきたのである。むろん四十年も昔のことなんて、さすがのおれもくわしくは知らない。知っていることだけを綴っておくことにして、ネタはふたつある。かりに名づければ、平成9・1997年バージョンと平成18・2006年バージョン、このふたつである。ただしこのふたつのネタ、過去において当ブログでしつこくつかいまわしてきたものである。新鮮なネタではないことをお断りしておく。
 
 ではまず十三年前、平成9・1997年バージョン。この年1月11日付中日新聞の伊賀版に、こんな記事が掲載された。
 
 20080307a.jpg
 
 当時の名張市長が新年の記者会見で、乱歩記念館の建設を表明したという記事である。おれが名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託を拝命したのは平成7・1995年の秋のことで、この記事が出た当時にはなにをしていたのかというと、年末年始に一日の休みもなく、市立図書館が発行する江戸川乱歩リファレンスブック1『乱歩文献データブック』の索引づくりを進めていた。むろん、乱歩記念館構想のことなんて、おれはいっさい知らなかった。当時の市立図書館長も、市長部局からはなにも伝えられていなかったと記憶する。
 
 乱歩記念館に関連して記しておくならば、平成8・1996年の春のこと、市長に会いたい、とおれは希望した。名張市が乱歩のことをどう考えているのか、乱歩のことを施策にどう位置づけているのか、位置づけようとしているのか、あるいは、乱歩記念館構想はまだ生きているのか、それとも死んでしまったのか、そういったことを確認しておく必要が生じたからである。すると、当時の教育長からストップがかかった。ばーか、図書館の嘱託ふぜいが市長に面会できると思ってんのか、訊きたいことがあるんなら教育長のとこへ来いこら、というわけである。おれのほうだって、ばーか、おめーみたいなこんにゃく野郎になに訊いたってらちが明かねーから市長に会わせろっつってんだよ、とは思ったのだが、お役所のヒエラルキーを盾にとられたのではいたしかたない。市役所の教育長室で教育長にお会いした。
 
 話のついでに、市長は乱歩のことをどうお考えなのか、と教育長にお訊きしたところ、乱歩記念館をつくりたいと考えているのではないか、とのことであった。具体性はまるでなく、市長にはそういう意向がおありらしい、といった程度のことだったのだが、なにがどう転んだって実現する見込みはゼロだと思われた。むろん、そうお考えになることは市長の自由である。おれは市立図書館乱歩資料担当嘱託として、名張市には乱歩記念館なんて必要ない、という考えを教育長にお伝えしておいた。
 
 それから一年もたたぬうちに、市長の口から乱歩記念館構想が飛び出したのである。おれは呆気にとられたが、結局のところ、ただそれだけのことであった。乱歩記念館構想1997バージョンは、なんの動きもないまま立ち消えになってしまった。かなりあとになって、市役所の内部で確認したところ、
 
 「あのときは、乱歩記念館のことで動いた職員、ひとりもいませんでしたわてなあ」
 
 とのことであった。それはまあ、そうであろう。名張市役所の中の人には、乱歩記念館のことで動くなどという気の利いたことは、とてもできないはずである。もっともこの場合、市役所のみなさんが能なしである、ということが問題なのではない。なんの成算もなしに乱歩記念館などという大風呂敷をひろげてしまった市長っていったいどうよ、ということが問題なのである。つまり、ただの思いつきで適当なことかましてんじゃねーよ、ということであり、要するに、こういうことにほかならない。
 
 ──ほんとにもう、お役所あたりのうすらばかがめいっぱいおよろしくないおつむで適当なこと勝手に決めてんじゃねーぞこのすっとこどっこい、いっぺん泣かしたろかこら、と思われてなりません。
 
 名張市の構想があっけなくうやむやになってしまったあと、東京の豊島区が旧乱歩邸を乱歩記念館として整備するらしい、という話が伝わってきた。やれやれ、とおれは思った。名張市に乱歩記念館を建設する必要なんてまるでないけれど、蔵書をはじめとした乱歩の遺産を保存活用する公的機関は絶対に必要である。豊島区が手をあげてくれたのは、おれにはとても心強いことであった。豊島区は記念館建設のための調査を開始し、区の学芸員おふたりが名張市まで足を運んでくれて、その夜はおれと三人、鍜冶町の清風亭でおおいに盛りあがったりもしたのだが、財政難がネックとなり、豊島区は構想を断念してしまった。
 
 あとを受けて、立教大学が名乗りをあげた。旧乱歩邸の土地家屋や蔵書のたぐいは立教大学に譲渡され、平成14・2002年の4月1日から大学の管理下に入ることが発表された。おれはちょうど江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』をつくっている最中だったのだが、どうしても調べがつかないものは乱歩邸の土蔵にある蔵書に頼らざるをえず、ならば立教の管理下に入ってしまうまでにと、いま思い出しても冷や汗が出るほどの厚かましさで土蔵の調査をさせてもらったものであったが、その後、乱歩の遺産はめでたく立教大学のものとなり、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが設立されるにいたった。やれやれ、とおれは思った。これでもう、さあ名張市に乱歩記念館をつくろうぜ、などという世迷いごとを口にする手合いは一掃されることであろう、と。
 
 ところが、それはおおきに見込みちがいであった。世迷いごとをなんの考えもなく口走ってくれる連中が、またぞろわいてきたのである。まちなか再生事業にわいて出たのである。あの事業のことを筆にするのはもううんざりなのであるけれど、名張市は乱歩をどうすればいいのかということを考えるうえにおいては、こっだらばかなことは二度としてはなんねぞ、という恰好の見本として、どうしても筆にしておかなければならない。すなわち、乱歩記念館構想2006バージョンである。あっさり流して書いておこう。
 
 名張市は、乱歩生誕地碑がその中庭にある桝田医院第二病棟の寄贈を受けた。おりしも、名張まちなか再生プランが策定されている最中であった。しかし、まとめられたプランの素案には、桝田医院第二病棟のことはいっさい記されていなかった。だというのに、名張まちなか再生プランを具体化するために組織された名張まちなか再生委員会は、桝田医院第二病棟の活用策の検討をはじめた。すると、出てきた。乱歩記念館とか乱歩文学館とか口走る手合いが、なんにもできないくせにわいて出てきた。いつのまにか、乱歩記念館だの乱歩文学館だのという構想が、そこらにわいて出てきたのである。
 
 平成18・2006年、そのあたりのことが新聞でも報道されるようになった。中日新聞の6月19日付ウェブニュース「市街地再生へNPO/名張の委員会 来年度の設立を確認」では「本町の民間病棟跡地に『江戸川乱歩文学記念館』(仮称)を建設する計画などの再生事業が進んでいる」、毎日新聞の6月20日付ウェブニュース「細川邸:改修、交流館に 名張まちなか再生委が計画──来年秋開館へ /三重」では「ミステリー作家・江戸川乱歩の生誕地に隣接する、同市本町の旧桝田医院第2病棟敷地を『乱歩文学館』として活用する計画を進めてきた。老朽化が進む旧桝田医院第2病棟を取り壊し、木造長屋の乱歩生家を復元する計画で、館内にミステリー作品を集めた読書室を設ける案もある」なんてことが報じられたわけである。
 
 うすらばかがまーた乱歩記念館とかいってやがるのか、とおれは思った。そんなもんできるわけねーだろ、つか、そんなもんつくってなにするっつーの? とも思った。それにしてもひどいものだな、とも思わざるをえなかった。なにしろ、上に引いた毎日新聞の記事にある「木造長屋の乱歩生家を復元する」も、「ミステリー作品を集めた読書室を設ける」も、もとはといえばおれがパブリックコメントに記したアイデアなのである。むろんおれは、桝田医院第二病棟の跡地に乱歩記念館をつくれ、などとばかげたことを口走ってはいない。病棟の跡地と旧細川邸を連動させて活用するために、具体的なアイデアを盛りこんだコメントを提出したのである。
 
 これまでにもくり返し書いてきたことだから、筆にするのはほんとにうんざりなのであるけれど、話の流れを示すために書いておく。名張まちなか再生プランの素案が発表されたとき、そのあまりなおそまつさにおれは絶句した。こんなでたらめなプランが実現できるわけがない、と確信を抱いた。とくに気になったのは、桝田医院第二病棟の活用策についてなにも書かれていないことであった。だから、跡地をこんなふうに活用してはいかがかなものか、というアイデアも明記して、名張市にパブリックコメントを提出した。ところが名張市は、おれのコメントをいっさい無視してしまった。プランを素案どおり、つまり桝田医院第二病棟にはいっさいふれることなく、そのまま正式決定してしまったのである。
 
 そのでたらめなプランを具体化するために、名張市は名張まちなか再生委員会を発足させた。委員会の発足直後、おれは委員会の事務局を訪れ、再生委員会のメンバー表をみて、なんだ、うすらばかばかりではないか、と思った。名張まちなか再生プランには細川邸を歴史資料館として整備し、乱歩の関連資料も展示すると書かれてあったから、こんな乱歩のこともろくに知らないうすらばかを寄せ集めただけの委員会、ほっといたらなにをしでかすかわからんぞ、と心から憂慮されたので、乱歩のことをいろいろ教えてやるから、むろん名張のまちの歴史について教えてやってもいいのだが、とにかくそのための場を設けてくれんかね、と委員会に要請した。協力を申し出たのである。それをまああの委員会、えーい、いったいなんと返答してきやがったか。
 
 ──現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない。
 
 いっぺん絞め殺したろかこら、とふつうの人間なら激怒しているところであるが、おれはそんなことはいわない。ただまあ、ははは、うすらばかってのはやっぱどーしよーもねーなー、とは思った。で、乱歩記念館構想2006バージョンである。新聞報道によれば、名張まちなか再生委員会のうすらばかが、「江戸川乱歩文学記念館」だの「『乱歩文学館」だのの建設を検討しているという。むろん、あの委員会にそんなものを検討する能力はない。毛筋ほどもない。ところが検討しているというのである。検討内容はどんなものか。おれのパブリックコメントからのパクリである。ひどい話ではないか。名張市はおれのパブリックコメントを無視し、名張まちなか再生委員会はおれのパブリックコメントをパクってくれたのである。しかも、おれがそんなものは絶対に必要ないと主張していた乱歩文学館だの乱歩記念館だのとかいう看板のもとに、おれのアイデアを盗用してくれたのである。
 
 とはいうものの、せいぜいそこまでなのである。うすらばかにできるのは、しょせんその程度のことでしかないのである。まず、乱歩という名前から、脊髄反射的に文学館だの記念館だのという看板を思いつく。そのあとは、なにしろ自分たちにはなにも考えられないものだから、人のアイデアを平気でパクって検討に入る。しかし、残念だったなうすらばか。検討能力が皆無なんだから、検討なんてなにもできない。だから、なにも決められなかった。そこで名張市は名張まちなか再生委員会に見切りをつけ、桝田医院第二病棟の跡地を広場にすると独断で決定してしまった。どっちもどっちで困ったものだが、そんなてんやわんやが展開された結果、平成19・2007年の6月14日、読売新聞伊賀版にこんな見出しが躍ったのである。
 
 20090815b.jpg
 
 五段抜きであった。笑ってしまった。結局は、平成9・1997年に表明された乱歩記念館構想と、まったくおんなじことだったのである。1997バージョンも、2006バージョンも、乱歩記念館というたんなる思いつきを起点にして、1997バージョンはただそれっきり、2006バージョンは無分別に走り出してしまっただけ。結局なんにもできなかった。ただそれだけの笑い話だったのである。ご苦労であったな。
 
 だから、もうやめような。乱歩記念館がどうのこうのと、思いつきの世迷いごとを勢いで口走るのは、ほんとにもうやめにしような。名張市が乱歩をどうすればいいのか、それをまずじっくり考えて、いやいや、ものごとを考える能力のない人間に考えることを呼びかけるのは酷な話ではあるのだが、とにかくじっくり考えて、いろいろなことをいろいろな角度から死ぬほど考えて、名張市が身のたけ身のほどに応じていったいなにをすればいいのか、なにをすれば天国の乱歩にも喜んでもらえるのか、それを突きつめていったそのうえで、やっぱどうしても乱歩記念館というハコモノが必要だよな、という揺るぎない結論にたどりついたというのであれば、その時点ではじめて乱歩記念館の名前をぶちあげればいいのである。それが本来だと思うぞ。ところが、名張市においてはまったく逆のことしかみられなかった。最初に乱歩記念館の名前をぶちあげてしまって、あとはなにもできない。なにも考えられない。そんなことだけはもう、ほんとにおしまいにしてしまおうな。
 
 じつはこれ、乱歩のことにかぎった話ではない。名張市における官民双方のみなさんや、とにかくもう少しものを考える習慣を身につけような。名張市は乱歩をどうすればいいのかということを考えるエントリ「乱歩のことを考える」の第二回は、もうちょっと頭をつかって考えようぜ、ということを官民双方のみなさんに強く訴えて幕とする次第である。
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