三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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きょうもきのうのつづき。
平成17・2005年3月
3月15日、おれは名張まちなか再生プランの素案にたいするパブリックコメントを提出した。プランには桝田医院第二病棟の活用策が記されていなかったのだから、寄贈の橋渡しをした人間としては黙ってるわけにはいかない。もうひとつ、細川邸を歴史資料館にするというでたらめな構想には、やはり釘を刺しておく必要があるだろうな、とも思った。というか、細川邸は乱歩にちなんで活用するのが最善の道である、とおれは考えていたわけね。そもそもあの細川邸、ろくなつかいみちがなかった、というのが正直なところだろう。プランに示された結論が歴史資料館という月並みきわまりないものだったのも、ま、無理からぬ話ではあったのである。だから、乱歩が生まれた新町にあるんだから、まるごと乱歩関連で活用すればいいではないかというのは、それなりに筋の通った考えかたである。
乱歩関連で活用する、なんてこというとすぐ、やれ乱歩文学館だの乱歩記念館だの、短絡的なことしか考えられないばかが湧いてくる。しかし、さいわいなことに、おれはそこまでのばかではなかったから、細川邸は名張市立図書館のミステリ分室にすればいい、と考えた。なにかというと乱歩文学館とか乱歩記念館とか口走る連中は、なにしろばかなものだから、そういった看板を思いつくことしかできない。そこまでで思考が停止してしまう。文学館だの記念館だの、そんなものつくってなにすんの? と尋ねても答えることができない。市立図書館の分室ということになれば、図書館業務という基本のうえに、全国向けにも市民向けにも、さまざまな事業を展開することが可能なのである。名張市の身のたけや身のほどにぴったりフィットした施設でもある。でもって、もうひとつのポイントとして、桝田医院第二病棟の地には乱歩の生家を復元すればいいのである。これがパブリックコメントの内容であった。
しかし、単に脳内妄想を並べただけのものであったとはいえ、わざわざ名張地区既成市街地再生計画策定委員会なんてやつを発足させ、いっちょまえにかっこつけて提出された素案なのである。その目玉である歴史資料館構想を根底から覆してしまう、なんてことは逆立ちしたって不可能なわけさ。そんなことはわかっていたけど、だからっつってなにもせんわけにはいかんのよな。徒労とは知りつつ、パブリックコメントを提出した。案の定、素案にはなんの修正も加えられなかった。この時点で、話はすでに終わっていたのである。おれのパブリックコメントを葬り去ったその時点で、先日も記したとおり、乱歩にかんする百年に一度とも呼ぶべき絶好のチャンスを、名張市はすっかりおじゃんにしてしまったのである。
まちなか再生事業では、少しあとになって、市立図書館が寄贈を受けた書籍でミステリー文庫を、なんて構想が話題にされることになるのだが、あんなものは要するに、おれがパブリックコメントで示した提案のごく表面的な劣化コピーに過ぎない。図書館の寄贈本のことなんて、市民はおろか市職員だって知るはずのないことなんだから、元ネタがおれの提案だったことは火をみるよりも明らかなのである。そんなことだったら最初から、おれのアイデアを容れて素案を修正しておけよな、ということになるのだが、それは無理だったはずである。先述した理由以外に、名張市がまちなか再生事業でもくろんでいたのは、きのうも記したごとく、細川邸を適当に改修して特定の地域住民に提供することだったはずだからである。そんなところに市立図書館の分室なんてアイデアをもちだしても、名張市にはとても受け容れることはできなかったはずである。いやもう、なにしろお役所の人たちである。提案を理解することさえできなかったのではないか。
もうひとつ、プランにあった「歴史資料館の管理運営は民間が担う公設民営方式とします」との文言について記しておく。公設民営というのは、おそらく、施設の整備は名張市がおこなうが、完成後の管理運営は民間団体が独立採算でやれ、ということであろう。プランを一読して、おれはそう判断した。だとすれば、はなから無理な話である。一般の商店経営さえ成り立たなくなり、シャッターストリート化やパーキングストリート化が進んでいる名張のまちに、せこい歴史資料館なんてのをつくってみたところで、民営なんかできるわけがない。まちなか再生のために施設を整備いたします、というのであれば、あくまでも市の責任で運営いたします、という程度の覚悟はどうしたって必要であろう。虫のいいことばかり並べても、そうは問屋が卸してくれないはずである。というか、実際に卸してくれなかったから、歴史資料館あらためやなせ宿ではいまもてんやわんやがつづいているのである。
ともあれ、おれのパブリックコメントがこれである。
名張人外境:僕のパブリックコメント(pdf)
平成17・2005年6月
6月26日、名張まちなか再生委員会の結成総会が開かれた。おれはこの日、用事があって東京にいた。名張に帰って、新聞の報道で委員会のことを知った。へーえ、いちど事務局へ挨拶にあがんなきゃな、と思った。
平成17・2005年7月
7月1日、おれは名張市役所四階にある名張まちなか再生委員会の事務局を訪れた。名張まちなか再生プランには、細川邸を歴史資料館として整備し、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示」すると書かれてあるのだから、当時、名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託を務めていた身としては、知らん顔もできないのである。というか、いっぺんくらい図書館に顔を出せよな、という話だったのである。市立図書館には、郷土資料室もあれば乱歩コーナーもある。だというのに、名張まちなか再生プランをまとめた名張地区既成市街地再生計画策定委員会のみなさんは、ただのいちども市立図書館に足を運んでくれることがなかったのである。当時の市立図書館長に確認したことだから、これは間違いのない事実である。うすらばかというのはまったく恐ろしいもので、実際にどんな資料が存在しているのかすら確認しようとせず、ほんとに脳内妄想だけで歴史資料館構想をぶちかましてくれたのである。うすらばかがうすらばか寄せ集めて大騒ぎしてみたところで、しょせんこの程度のことなのである。
名張まちなか再生委員会の事務局で、おれは総会資料と会員名簿に眼を通した。あ、こういうメンバーなら、やっぱおれがいろいろアドバイスしてやんなきゃな、と思った。しかも、名張まちなか再生プランではいっさい言及がなかった桝田医院第二病棟にかんして、委員会の歴史拠点整備プロジェクトが「桝田医院第2病棟跡地活用事業」を担当することになっていた。腑に落ちぬことではあったが、そういうことにするしかなかったのであろう。となると、いよいよ、乱歩にかんしておれがいろいろ教えてやらなければならんではないか。そこで委員会の規約をみてみると、「チーフは、必要があるときは、構成員以外の者の出席を求めて意見を聴くことができる」とあったから、この条項にのっとり、歴史資料館と桝田医院第二病棟を担当する歴史拠点整備プロジェクトを対象にしたレクチャーの場を設けるように、と事務局に要請した。
一か月近くが経過した。7月29日のことである。事務局から電話があって、レクチャーの場にかんする回答がもたらされた。こんなんであった。
「現段階では乱歩にかんして外部の人間の話を聞く考えはない」
おれは腰が抜けそうになった。
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