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大正十一年(一九二二)
年齢:二十七歳→二十八歳、数え年二十九歳
職業:日本工人倶楽部勤務
→庄司商行支配人(兼「工人」編集印刷請負)
→大橋弁護士事務所勤務
住居:東京市牛込区早稲田鶴巻町三八番地
→東京市外池袋八六六番地
→大阪府北河内郡守口町字守口六八九ノ三
一月十日(火)
日本工人倶楽部機関誌「工人」一月号の奥付発行日。平井太郎、「競争進化論」を発表するが、未完となる。[貼雑年譜]
二月ごろ
太郎、庄司雅行が農商務省を辞めて池袋に郊北化学研究所を設立し、主としてポマードの製造販売を始めたので、それを手伝わなければならなくなる。工人倶楽部の書記長を辞め、「工人」の編集印刷だけを請け負うことになったため、庄司の家に近い市外池袋八六六番地に住んだ。[貼雑年譜]
このころ
太郎、庄司商工支配人となり、ポマード瓶の意匠、宣伝印刷物などを担当。庄司からは月給百五十円、「工人」請負の利益が二百円ほど入ったため、「工人」編集助手兼書生として本位田準一を家に呼び、私立大学に通わせた。[貼雑年譜]
六月
太郎、「工人」編集印刷の仕事を解かれ、庄司雅行も資力が行き詰まったため、月給は半分でもいいから毎日出勤せず、ときどき相談に乗る程度にしてもらうことを庄司に要請した。ちょうど来合わせていた隆子の母が隆太郎をつれて大阪に帰り、あとから隆子も大阪に去った。[貼雑年譜]
六月上旬
太郎、松村家武の世話で、神田区錦町三ノ三の東岳館に十日ほど下宿。[貼雑年譜]
六月中旬から下旬
太郎、松村が下宿していた神田区錦町三ノ三の向上館に二十日ほど下宿。ときどき庄司の家に顔を出したが、約束の俸給は支払われなかった。[貼雑年譜]
七月
太郎、大阪の隆子が病気になったため、電報で呼ばれて帰阪、そのまま東京を引き上げて大阪府北河内郡守口町字守口六八九ノ三の父の家に住む。十一月まで失業状態のまま居候した。[貼雑年譜]
七月二十日(金)
「新青年」八月増刊《探偵小説傑作集》(第三巻第九号)の奥付発行日。太郎、数日間座右から離さず、「盛んだなあ、盛んだなあ」と呟きつづけ、「いよいよ探偵小説を書くべきときが来た」と思う。[探偵小説四十年 「新青年」の盛観/昭和24年12月]
七月ごろから十一月ごろ
太郎、神戸図書館の講堂で馬場孤蝶の講演を聴き、倒叙探偵小説に興味を抱く。この講演会は知り合う以前の西田政治、横溝正史も聴講していた。[探偵小説四十年 「新青年」の盛観/昭和24年12月]
九月二十一日(木)
太郎、この日から二十三日までかかって、大正十一年の日記帳の余白に「一枚の切符」を下書きする。[貼雑年譜]
九月二十五日(月)
太郎、「一枚の切符」を脱稿。[初出末尾]
九月二十六日(火)
太郎、この日から数日間で、大正五年の日記帳の余白に「二銭銅貨」を下書きする。[貼雑年譜]
十月二日(月)
太郎、「二銭銅貨」を脱稿。[初出末尾]
十月四日(水)
太郎、「一枚の切符」と「二銭銅貨」の原稿を馬場孤蝶に送る。[貼雑年譜]
このころ
太郎、馬場孤蝶から返事がないため、原稿返却を依頼する手紙を出す。[貼雑年譜]
十月二十六日(木)
馬場孤蝶、太郎に原稿と手紙を送る。[探偵小説四十年 馬場孤蝶に原稿を送る/昭和24年12月]
十一月二十一日(火)
太郎、二篇の原稿を博文館「新青年」編集部の森下雨村に送る。[貼雑年譜]
十一月二十四日(金)
太郎、森下雨村に書状、別便で送った探偵小説二篇の一読を乞う。[江戸川乱歩推理文庫64]
十一月三十日(木)
太郎、雨村に書状、雨村から届いた葉書の礼を述べる。[江戸川乱歩推理文庫64]
十二月二日(土)
森下雨村、太郎に書状、「二銭銅貨」の「新青年」掲載を約束する。[貼雑年譜]
十二月四日(月)
太郎、青島の井上勝喜に書状、七月から九月まで三か月、隆のヒステリーに悩まされたことなど近況を報告し、「二銭銅貨」が翌年の「新青年」二月号か三月号に掲載されることを伝える。[江戸川乱歩推理文庫64]
十二月七日(木)
太郎、馬場孤蝶に手紙、「二銭銅貨」が翌年の「新青年」二月号か三月号に掲載されることを伝え、探偵小説に関する所見を述べる。神戸の講演で馬場が探偵小説を純文学よりも低く位置づけていたことへの不満も表明した。[江戸川乱歩推理文庫64]
十二月
太郎、繁男の世話で大橋鉄吉という民事弁護士の事務所の臨時雇いとなる。大阪アルカリ会社の失権株払い込み徴収に関して、株主の苦情を聞き、相手に法律上の支払い義務があることを説明する仕事だった。繁男が勤務していた竹村商店が大阪アルカリの債権者だった縁で、仕事が回ってきた。[貼雑年譜]
[2012年5月27日]