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大正六年(一九一七)
年齢:二十二歳→二十三歳、数え年二十四歳
職業:加藤洋行勤務→タイプライター販売員
→鳥羽造船所勤務
住居:大阪市西区靭中通二丁目
→東京市本所区中之郷竹町→大阪市此花区亀甲町
→三重県志摩郡鳥羽町→鳥羽町本町
五月ごろ
平井太郎、加藤洋行に勤務しながら酒や女遊びの放蕩をつづけるうち、仕事がいやになり、一人になる時間がないことにも耐えがたくなって、五月ごろ出奔、伊豆の温泉などを放浪する。熱海にしばらく滞在し、そのあと訪れた伊東の温泉宿で初めて谷崎潤一郎の作品を読んだが、「金色の死」がポーの作品に似ていることに驚いた。箱根に戻り、箱根八里の旧道を歩いてみたりした。[探偵小説四十年 谷崎潤一郎とドストエフスキー/昭和24年11月][小説を書くまで/昭和31年5月][若気のあやまち/昭和34年2月][貼雑年譜]
六月ごろ
太郎、一か月ほどの放浪のあと、東京に戻って本所区中之郷竹町に部屋を借りる。繁男ら家族はこの年、ふたたび朝鮮に渡り、さらに大阪へ転居していたが、その家へは顔を出しにくかったため、着物や時計などを質入れして露命をつないだ。吾妻橋を渡って浅草公園へ行き、朝湯、一膳飯、講釈、活動写真などで時間を過ごした。本所材木町の活動写真会社で江田不識という弁士を紹介してもらい、江田の自宅を訪ねて弟子入りを志願したが、無給と聞かされて引き下がった。[映画横好き/大正15年4月][活弁志願記/昭和26年1月][若気のあやまち/昭和34年2月][貼雑年譜]
七月ごろ
太郎、いどころを繁男に知られ、訪ねてきたきくに大阪市此花区亀甲町の家へ連れ帰られる。繁男は家二軒を借り、うち一軒を小工場として、通とともに軸受メタルを製造していた。太郎は四か月ほど居候し、タイプライターの販売員になって会社や商店を訪問したこともあったが、まったく売れなかった。この家で「火星の運河」という散文詩ふうの作品を書いた。[貼雑年譜]
十一月十一日(日)
太郎、繁男の知人の世話で、三重県志摩郡鳥羽町の鳥羽造船所に勤務した。電気部庶務係に配属され、月給は二十円。独身寮ができていなかったため、造船所内の社員クラブ二階に起居した。[貼雑年譜]
十二月
太郎、鳥羽町本町の稲垣家に下宿。[貼雑年譜]
[2012年5月20日]