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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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 『絵図からみた上野城』にみる平井家
 
 伊賀市の福井健二さんから『絵図からみた上野城』をご恵投いただいた。A4判、二百八十七ページ、布装ハードカバーの大著にして、圧倒的な労作である。版元は伊賀文化産業協会、頒価五千円。いずれ全国紙の伊賀版あたりに登場するはずだから、内容紹介は省略しておくが、福井さんは同協会専務理事をお務めで、一般には上野城の城代家老として知られている。上野城を研究することほぼ五十年、上野のお城や城下町のことならなんでもよくご存じのかたである。
 
 おととしの秋、その上野のお城にお邪魔して、福井さんからいろいろ教えていただいたことがある。ひとことでいえば、乱歩の先祖にかんすることである。乱歩は本姓を平井といい、先祖は津藩の藩士であった。『宗国史』や『永保記事略』『庁事類編』『公室年譜略』といった津藩の記録を調べてみると、たしかに平井という藩士が出てくるのだが、これが乱歩の先祖かどうかはわからない。
 
 そのあたりのことを福井さんにお訊きしたところ、津藩にはふたつの平井家があって、そのひとつが乱歩の先祖だろうということになった。のみならず、こちらから持参した乱歩の先祖にかんするデータと、福井さんが収集された地図や分限帳などの資料を照合していただいた結果、乱歩の先祖が住んでいた場所があっというまに特定された。
 
 地図や分限帳は、前者はコピーで、後者はパソコンにテキスト入力したデータのプリントアウトで、いつでも参照できるようになっていた。じつに便利ではあったのだが、上野のお城まで足を運ばなければ閲覧できない。だから、こういう貴重な資料はぜひとも公刊していただきたい、みたいなことを福井さんにお願いしたような記憶もあるのだが、それはどうやらよけいなお世話だったらしい。地図をはじめとした収集資料がフルに活用され、わかりやすく体系化されたのが『絵図からみた上野城』なのである。
 
 たとえば、「記録にみる藩士の動き」というのがある。タイトルどおり、記録として残されている藩士の動きをすべてピックアップしたデータベースで、こんなのがあれば重宝するのに、とじつは以前から思っていた。それが思いがけず完成していたので、さっそく乱歩関連でチェックを入れてみると、「文久4年(1864)3月7日、平井杢右衛門(陳就)殿城和奉行被 仰付候」と乱歩のおじいさんが城和奉行になった年月日なんてのも一目瞭然である。はたまた、名張市教育委員会所蔵の地図にもとづいて作図された「享保年間城下町図」では、平井隼人というなんだかかっこいい名前の乱歩の先祖が広禅寺というお寺の横に住んでいたこともわかる。さらにまた、享保2・1717年の「伊賀附俸禄帳」によれば平井隼人は寄合で禄高は千石、慶応3・1867年の「伊賀御家中分限帳」によれば平井杢右衛門は加判奉行で禄高は変わらず千石、ということまで知ることができる。
 
 乱歩が記すところによれば、微禄で召し抱えられた平井家は、のち千石取りに出世し、幕末までその禄高を維持したのだが、そうした記述は『絵図からみた上野城』にも符合している。そんなことはまあいいとして、名張市役所のみなさんには、乱歩は伊賀市とも浅からぬかかわりをもっていた、ということをご理解いただければそれでよろしく、こうなるとつまり、以前にも書いたことだけど、津、亀山、鳥羽、名張の県内四市が連携した乱歩都市交流会議とやらに伊賀市が入ってないのはちょっとまずいぞ、とおれは思う。乱歩の先祖のことはべつにしても、乱歩がただひとり先生と呼び、恩人として慕った川崎克との関係性という一点だけから考えても、ばーか、と先方から断られることにはなったかもしれんけど、いちおう伊賀市にも話をもっていくのが筋であったな。しかしまあ、過ぎたことだからどうだっていいか。
 
 どうだっていいことではあるけれど、僭越ながらひとことお願いしておくとすれば、なあ、もう勘弁しろよ。勘弁してくれよ。あの乱歩都市交流会議だって結局は、
 
 ──ほんとにもう、お役所あたりのうすらばかがめいっぱいおよろしくないおつむで適当なこと勝手に決めてんじゃねーぞこのすっとこどっこい、いっぺん泣かしたろかこら、と思われてなりません。
 
 という話なわけよ。名張市役所のみなさんや、あんたらほんとにどうしてそうなの? あとさきのことなにも考えず、ただの思いつきだけでものごとをぶちあげてしまうの? この乱歩都市交流会議のせいで、おれは迷惑をこうむってるわけよ。出先で乱歩ファンから質問されたり、それからこれは先日も書いたけど、3月のミステリ講演会で鳥羽市から足を運んでくださったお客さんからは、せっかく会議を発足させたのになにもしないのはなぜか、とお叱りを頂戴したりしておるのである。名張市役所のみなさんや、あんたら市民に迷惑をかけるのが好きなのか。なんかほんと、ものすごく好きみたいだな。しかし、みなさんがお好きな思いつきのせいで、どうしておれが迷惑をこうむらなければならんのよ。だからもうほんと、名張市役所のみなさんや、ほんとにもう勘弁してくれんかね。
 
 閑話休題。なんの話をしているのかというと、資料収集の話である。福井健二さんによる資料収集とその成果としての『絵図からみた上野城』がちょうどいいお手本なわけだけど、資料っていうのはちゃんとした方針にもとづいて収集し、なにか知りたい、調べたいという人間が訪れれば、的確な助言とともにその資料を閲覧に供し、いずれは資料そのものなり目録なりを公刊してひろく一般に提供する。それがふつうのことなのである。いくらなんでもこの程度のことは、名張市役所のみなさんにだってご理解いただけることであろう。乱歩の資料を収集してます、とかいうのであれば、それなりのことをしなきゃならんわけね。それができない、活用の計画どころか収集の方針さえなにもないというのであれば、資料の収集なんて中止してしまえばいいのである。先日来お知らせしておるとおり、現在ただいま、名張市役所のみなさんに乱歩のことをお考えいただいているところなのではあるが、もうやめたほうがいいんじゃね? という選択肢もおれは示している。なにもできないんだったら、やめるしかねーだろーが。
 
 さて、乱歩の資料を収集してます、とかいいながらなんにも考えてなかった名張市立図書館から依頼されて、おれは資料活用に筋道をつけることになったわけである。第一歩は、いうまでもなく目録の作成である。ていうか、いうまでもないはずのことが、じつはいってやらなきゃなんないことだったのであり、しかもいってやっただけではどうにもならず、こちらが一から十まで進めてやらなきゃならないことでもあったのだから、ほんとに困ったものだよな。で、松、竹、梅、とみっつのコースがあるとして、これはなんのコースかというと、手に取った人が、おおっ、と思うのが松、ふーん、と思うのが竹、ばーか、と思うのが梅、そういうことなのであるが、やっぱ松で行くか、とおれは考えた。
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