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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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本町の通り。きのうの午後1時ごろ撮影した。

20071013a.jpg

撮影地点はここ。江戸川乱歩生誕地碑につづく路地へ入るあたり。ほぼ東北方向、丸之内のほうにむかって撮影。



『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
本町 江戸時代からこの町名は変わらない。大為陶器店前から新町境までを江戸中期には念仏堂町と呼ぶこともあったが、これはその町なかにある浄土宗栄林寺が念仏堂と別称されていたことによる。本丸の入口(大手門は旧警察署の入口のところにあった)にあたる町内第一の主要部で大商店が軒をつらねていた。明治になってもこの地位は変わらず繁栄をほこったが、戦後は交通事情等の変化により商店街・繁華街としての首座は他へ譲らねばならなくなった。

『角川日本地名大辞典24 三重県』(昭和58・1983年)にもとづいて、以下に補足。

まず、警察関係。
  • 明治07・1874年、巡査屯所が設置され、のち名張警察署となった。
  • 明治19・1886年、名張警察署が峡間に移転した。
峡間は「はざま」、現在の丸之内。名張警察署は丸之内から昭和44・1969年、南町に移転。さらに平成8・1996年、蔵持町芝出の現在地に移転した。

つづいて、銀行関係。
  • 明治36・1903年、八十三銀行支店が新町から移転。
  • 明治39・1906年、名張銀行が中町から移転。
  • 大正08・1919年、百五銀行派出所開設。
  • 昭和09・1934年、三重県殖産無尽会社支店が木屋町から移転、八紘無尽会社となる。
  • 昭和20・1945年、八紘無尽会社が本店を津市から移す。
  • 昭和26・1951年、八紘無尽会社が太道相互銀行に改称。
  • 昭和39・1964年、太道相互銀行が名古屋市に本店を移す。
八紘無尽会社は昭和18・1943年、津市で設立。太道相互銀行と改称して、昭和44・1969年に名古屋信用金庫と合併、中京相互銀行となり、平成元・1989年、中京銀行となった。

太道相互銀行、のちの中京相互銀行、中京銀行のあった場所がここ。



この地図ではまだ中京銀行が生きているが、実際にはこんな状態。

20071013b.jpg

サンロードというアーケード商店街の入口がみえる。そのむこうがわ、駐車場になっているのが、かつて中京銀行のあった場所。

この場所でいつまで営業がおこなわれたのか、店舗が取り壊されたのはいつなのか、手許の資料やインターネットでは確認できない。

現在、名張市内の中京銀行は、名張支店(夏見字浅尾71番地2)、名張支店桔梗が丘出張所(桔梗が丘1番町6街区86番地)の二店舗がある。

百五銀行は明治11・1878年、第百五国立銀行として発足。同30・1897年、普通銀行に改組し、百五銀行となった。

大正8・1919年に開設された派出所が、のち名張支店となっていつまで存続していたのか、やはりにわかにはつかむことができない。

現在、名張市内の百五銀行は、桔梗が丘支店(桔梗が丘1番町2街区11番地)、名張支店(夏見3224番地3)、名張支店木屋町出張所(木屋町1386番地5)の三店舗がある。

現在、本町に金融機関は存在しない。

本町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 463人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 378人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 219人(名張市公式サイト、10月1日現在)
江戸川乱歩生誕地碑は、新町に建てられたあと、せまい路地をまたいで移転され、いまは本町にある。
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