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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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横光利一、三連投。

吉川弘文館の「街道の日本史」シリーズ34『奈良と伊勢街道』に乱歩と横光のことを書いたので、これもアーカイブに収蔵しておく。

   
III 地域文化の繁栄
二 地域文化を創った人びと

8 江戸川乱歩・横光利一

中 相作 

汽笛とトンネル わが国に探偵小説の基礎を築き、いまも数多くの読者を獲得している江戸川乱歩は、随筆「一頁自伝」に「ピイッと笛の音がして、おもちゃみたいな汽車がゴーッと走って行った、それがこの世で最初の記憶。二歳、伊勢の国亀山町在住の頃である」という幼時の思い出を記している。宿場町だった亀山には明治時代なかばに関西鉄道が敷設され、乱歩は鉄道という文明を生まれたときから身近なものとして育ったのである。
昭和初年から戦前戦中を通じて日本文学の第一線に立ちつづけた横光利一は、長編小説「旅愁」の主人公をトンネル技師の長男として設定した。パリから帰国して東北地方にある母親の郷里を訪れた主人公は、「日本に顕われ出て来た初めての西洋の姿」であるトンネルを遠望し、「トンネルから文化が生じて来る」と確信していた父と、「心魂さえ洋式に変り、落ちつく土もない、漂う人」になってしまった自身との違いに深い感慨を抱く。
明治時代に入って、人や貨物の交通の舞台は道路から鉄道に移行しはじめる。鉄路はいわば新時代の街道として全国に四通八達し、近代化を支える礎となった。明治時代後半に生まれ、ともに三重県伊賀地域とゆかりをもつ江戸川乱歩と横光利一は、鉄道に象徴される新文明を享受し、それをもたらした西洋近代と正面から向き合うことを自覚的に体現した作家である。二人の生涯に日本の近代を生きた知識人の典型を見ることも可能だろう。

乱歩と名張 江戸川乱歩は本名平井太郎。一八九四(明治二十七)年、三重県名張郡名張町(名張市)に生まれた。平井家は津藤堂藩に仕えた武士の家柄だったが、父繁男は大学を卒業して名張郡役所に勤務、津から名張へ母を招き、妻を迎えて乱歩をもうけた。翌年、繁男の転勤にともなって一家で亀山に転居したため、乱歩は名張を知ることなく成長し、名古屋で少年期を過ごしたあと、早稲田大学予科に進んで探偵小説の面白さに目覚めた。
一九二三(大正十二)年、デビュー作「二銭銅貨」で探偵小説界の注目を集め、「心理試験」をはじめとした短編で地歩を固めた乱歩は、昭和初年の出版ブームを背景に大衆小説の分野へ進出、名探偵明智小五郎が活躍する「黄金仮面」などの長編で人気作家として地位を確立し、「怪人二十面相」にはじまる少年小説でも熱狂的な支持を得た。戦後は江戸川乱歩賞の創設や日本推理作家協会の設立などを通じ、探偵小説の興隆に力を尽くした。
一九三五(昭和十)年前後、旅行中に名張駅で途中下車したのを唯一の例外として、乱歩は名張と無縁なままに過ごしたが、一九五二年、早稲田在学当時から恩人として慕っていた伊賀上野出身の代議士、川崎克の次男秀二に衆議院議員選挙の応援を依頼され、名張町に足を運ぶことになる。町民は郷土出身の名士を温かく歓迎し、生家跡への案内も買って出た。五〇代後半で初めて、乱歩は自分が生まれた場所を知ったのである。
これをきっかけとして町民有志の手で生誕地碑の建立が計画され、一九五五年に乱歩夫妻を招いて除幕式が営まれた。乱歩は「ふるさと発見記」で名張の町の「昔ながらの城下町の風情」を讃え、「生誕碑除幕式」では「町の人々が、自発的に」碑を建ててくれた好意に感謝を捧げている。死去はその一〇年後、一九六五年のことである。一九八七年、名張市立図書館に江戸川乱歩コーナーが開設され、遺品や著書を展示している。

横光と伊賀 乱歩より四歳年下の横光利一は一八九八(明治三十一)年、福島県北会津郡東山村(会津若松市)に生まれた。父梅次郎は大分県宇佐郡の出身で、鉄道などの土木工事を職業としていたために一家は各地を転々とした。一九〇四年、父が仕事で朝鮮に渡ることになり、母、姉とともに三重県阿山郡東柘植村(伊賀市)の母の実家に居留、横光はこの柘植と上野町、滋賀県大津市で少年時代を過ごすことになる。
三重県立第三中学(上野高校)に通った五年間、横光は野球や水泳などの花形選手として活躍したが、校友会誌に発表した「夜の翅」「第五学年修学旅行記」には文学への志向と才能もまた際立っている。当時経験した四歳年下の少女との恋愛はのちに「雪解」という小説として対象化されるが、伊賀の風土と気質への複雑な愛憎を交錯させたこの作品からは、伊賀が作家としての内面形成に重要な役割を果たした場であったこともうかがえる。
早稲田大学予科で本格的に習作を開始、一九二三(大正十二)年の「日輪」と「蠅」で一躍寵児となった横光は、新感覚派と呼ばれる文芸潮流の先頭に立ち、「機械」や「上海」などの作品で文壇の頂点を極めた。半年の渡欧体験にもとづいて一九三七(昭和十二)年に執筆がはじまった「旅愁」は、西洋と東洋の対立を主題として時代の激動のなかで書き継がれたが、一九四七年、四九歳で迎えた死によって未完のまま遺された。
随筆「伊賀のこと」に「私は伊賀が好きである」と書き、長編「春園」で登場人物に漬物は「伊賀が第一等」と喋らせるなど、横光は折にふれて伊賀への愛惜を表明した。再出発を期した戦後最初の著書が旧作を増補した『雪解』であり、絶筆「洋燈」が柘植での少年期を題材としていた点にも、時をへて純化された伊賀への視線が認められる。柘植には一九五九年、「蟻台上に飢えて月高し」の句を刻んだ文学碑が建立された。

旅愁と郷愁 横光の盟友だった川端康成は、弔辞のなかで「西方と戦った新しい東方の受難者」と横光の宿命を表現した。この宿命は西洋に範を取ったわが国の近代化にも深い関わりを有している。敗戦直後の死によって文学者の戦争責任を余儀なく負わされた横光が、「旅愁」に描いた西欧への接近と日本への回帰の先に何を見ていたのか、それは新たなナショナリズムの時代を迎えたこの二一世紀初頭にこそ検証されるべき問題であろう。
乱歩にとって西洋近代は、ともに合理主義を基盤とした探偵小説と精神分析というふたつのジャンルとして存在していた。論理に支えられた探偵小説の形式に拠りながら、無意識の欲望を暴いたフロイトの理論にも傾倒した乱歩は、随筆「残虐への郷愁」に「本来の人類が如何に残虐を愛したか」と創作の拠りどころを打ち明けている。心理の深層に眠る人類共通の官能に立ち戻ることで、乱歩は作品に色褪せない魅力を与え得たといえよう。
ところで、乱歩と横光が実際に顔を合わせたことはあったのだろうか。乱歩の自伝『探偵小説四十年』によれば、横光も名を連ねた新感覚派映画連盟が「狂った一頁」(一九二六年)につづく第二作として乱歩作品の映画化を企画し、乱歩は新感覚派の作家たちと面会したが、「横光利一氏とは一度も同席しなかったと思う」という。二人はついに会うことなく、お互いの伊賀とのゆかりさえ知らないまま、それぞれの生を終えたとおぼしい。

編者は木村茂光、吉井敏幸両氏。平成17・2005年7月10日、第一刷発行。
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