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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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きのうにつづいて、横光利一作品をアーカイブとして収蔵する。

昭和18・1943年に発表されたエッセイ。

   
わが郷土讃
三重県の巻
伊賀の国

横光利一 

小学校のころ私は伊賀の柘植で育つた。この柘植は永らく芭蕉翁の誕生地として知られた地である。今年は芭蕉翁の二百五十年祭にあたつてゐるが、芭蕉の生れた地は伊賀の上野市だといふのが、またこのごろの通説となり、本年は主としてこの上野で祭典が行はれるらしい。芭蕉翁の生れたところが、こんなに上野市であつたり、柘植であつたり変るのは、今に始つたことではなく、時代とともにこの二箇所を往復して現在になつた。
上野市には私は中学のころ五年間ここにゐた。芭蕉が江戸から故郷の伊賀へ行く甲子(以下一行分欠落)
秋十年却つて江戸を指す故郷
といふ句がある。故郷を去つてから十年もたつと永くゐた江戸が故郷に思はれて来るといふ意であるが、私もやはり同様の感じがつよい。芭蕉の初期の句に柳を詠んだものが多いが、上野の町には柳の大木が多く、各県の都市をおよそ廻つてみても、柳の立派なところはこの上野の町が一番かと思はれた。二三年前に二十五年ぶりで上野へ一日行つてみると、この古木も大半見えなくなつてゐて、実に惜しいと思つた。
田山花袋の旅行記に、自分は全国を廻つてみて、平安朝時代の空気の残つてゐるのは伊賀の名張から長谷寺へかけての沿道だけだと書いてあるのを見たことがある。また伊賀の上野は、会津の若松と作州の津山と並んで、日本での三つの美人の多いところともあつた。志賀の都、奈良、京都と、それから伊勢の大廟の四地点に線を引くと、この伊賀はそのどこからも中央に当つてゐるので、各時代を通じて古くから皇室との関係が深く、文化の華の落ち沈まつた場所である。しかも、ここほど歴史の不明なところもまた全国では稀な所だ。その理由は、世世の最も権勢あるものは、伊賀を掌中にすることが自分を守るに欠く可らざることであり、敗北の際の匿れ場所でもあつて、絶えず新旧の諸勢の争奪地となり、つひに東大寺の寺領となつてからは守護、地頭も手のつけやうがなくなつた結果、一大治外法権のごとき観を呈するにいたつたからでもあらう。最も必要な土地であるだけに、歴史を不明とせしめる暗暗の心理作用がこの盆地に行はれて来たといふことは、各時代の文化の秘密もまた一番ここに重なり巣を作つて来て人に知られず、今に至つた伝統の悲劇を繰り返した。芭蕉の俳句も、実はこのやうな人には分らぬ種子のふかさを抱いた歎声から流れ出てゐる。先年亡くなられた佐佐木強四郎といふ上野中学の歴史の先生は、三十年間この土地の歴史を研究しつづけて発表され、初めて伊賀の歴史に光が射したが、それによると、伊賀の記録は奈良の東大寺の庫裡の中にのみ存してゐるので、この中に入らぬ限り詳細なことは知り得られないと書いてあつた。そして、この見捨てられた庫裡の中に入つた最初の人は、佐佐木氏であるが、私もこの先生のために伊賀の歴史を初めて知つたといつても良い。
この土地は代代不遇なものの落ち延びて来た所で、ここで安楽に温められ、勢力の恢復を俟つて再び四方へ出て行つた形跡のあるのも、土地そのものの姿が山懐の日溜りの静かな品位と、風吹かぬ、霧の多い、野菜の美味な、生活するには多くの理想の揃つた点に起因するやうである。現在でも、この土地の漬物類の美味なことは、全国でも第一等とされて来始めたやうだが、酒の味、栗の味、茸の味、牛、鰻等も、他国の第一等品とさして劣るとは思へない。人情としては、この土地のものには野心といふものが少しもない。これは伝統ともいつて良く、出世を望まず、外来者を尊敬し信頼する癖は脱けず、秀才の多くは師範の二部へ入り、村長となり教員となるのが習慣である。随つて進取の気に乏しく保守的であるが、人を嫉視羨望することもまたそれだけ他国よりも少い。
伊賀の歴史、殊に万葉時代から平安朝へかけての歴史から想像すると、この土地の農民の大部分は皇室の裔のやうに思はれる。貴族や士族は、真に段階的に観れば農民より上とみられないのは、日本の他国に類なき特長であるが、伊賀の歴史では、そのことがもつともよく頷かれるのが、またこの地の特長のやうでもある。言葉から考へても、柘植などといふ田舎でさへ農民が「それをくれ」といふところを「それ賜もれ」といひ、自分のことを「うら」といふことなど品位ある血統を伝へた面影が今もある。伊賀流の忍術もこの柘植が本場であるが、忍術などといふ日本最古の武道の残り伝はつたのも、伊賀焼といふもつとも日本で純粋な陶器の出たのも、おそらくそんな古代文明の秘密が深く落ち、温め返されるに適した謙譲な何ものかがこの地にあつたからにちがひない。そして、芭蕉の無欲清澄な風雅精神もやはりここから出た。

初出:婦人公論 第28巻第10号 昭和18・1943年10月1日
底本:定本横光利一全集 第十四巻 昭和57・1982年12月15日、河出書房新社

文中、「佐佐木強四郎」とある人名は、正しくは「弥四郎」。明治36・1903年から昭和7・1932年まで、県立第三中学、つまり現在の上野高校で歴史科の教師を務めたというから、明治44・1911年入学の横光も、佐々木弥四郎から直接、教えをうけたのかもしれない。
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