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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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横光利一は明治31・1898年3月17日、福島県に生まれ、昭和22・1947年12月30日、四十九歳で没した。本名は利一(としかず)。

父は大分県出身、土木関係の仕事に従事し、各地を転々とした。母は三重県阿山郡東柘植村大字野村(現伊賀市柘植町)の人。利一は母の実家があった柘植や上野町、滋賀県大津市で少年期をすごした。

明治44・1911年4月、三重県立第三中学校(現上野高校)に入学、大正5・1916年3月に卒業し、4月、早稲田大学高等予科英文学科入学。

横光利一は大正15・1926年、「伊賀のこと」という随筆を発表している。名張のことも出てくる。横光の著作権は保護期間が過ぎているので、全文を掲載する。

文中、「雰」は「霧」と同義。原文の正字体は新字体に改める。

   
伊賀のこと

横光利一 

去年の夏、と云つてもまだ半年とはたたない頃、東京時事新報紙上で、田山花袋氏が名張から長谷寺へ向ふ道について、歴史的な観察からその風景を描写し、日本で今もなほ平安朝時代の空気を最も濃厚に伝へてゐる所はその街道だと云つてゐた。私は惜しいことに伊賀にゐたにも拘らず、その街道をまだ知らない。あの名張の川より向ふへは行つたことがない。此のため此の街道については何も知らないのだが私の友人には沢山そのあたりの人がゐた。
名張までは雨の中を演習で行軍していつたのを記憶してゐる。

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一週間程前、吉田絃二郎氏が私に手紙を寄せられた中に、「去年はあなたの郷里の伊賀へ行きました。懐しい所です。」といふ意味のことが書いてあつた。私は吉田絃二郎氏から手紙を貰つたのはこれが初めてである。その初めての手紙に、あなたの郷里へ行つたと云つてただそのことのためばかりに手紙を下すつたと云ふことは、私には大へん嬉しかつた。私は伊賀が好きである。いろいろの新聞から何か書けと頼まれると、直ぐ私は伊賀のことを書いて了ふ。去年も東京朝日へ霊山のことを書いたら、直ぐ誰だか私の知らない人が私に手紙を寄来されて、「伊賀は私の故郷であるが霊山のことを書いて下すつて寔にありがたう」と云つて来た。
私は小説の中で伊賀の風物をもう沢山書いて来た。少し田舎言葉を用ひようとすると、直ぐ伊賀の言葉を書いて了ふ。去年も二月に私の戯曲で「食はされたもの」と云ふのが東京で上演されたことがあつたが、此の戯曲も全然伊賀の言葉だつたので、東京の人は「あの言葉はどこの言葉ですか。」と聞くものが沢山あつた。役者達はあの伊賀の言葉のアクセントには困つてゐたやうであつた。

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私は方々を廻つて歩いて見たが伊賀の雰ほど美しいものはあまりなかつた。私はあの雰の中で幼い頃を過したのであるが、それがどれほど私に影響してゐることか知れない。あの雰のお影でどれほど私の精神は知らず知らずの間に美しくされてゐたことか。さう思ふと私の頭の中には、今も髣髴としてあの雰が浮んで来る。

□□□□□□□×  ×

此の月の終り頃、一寸私は関西の方へ所用があるため、伊賀へも時間があれば廻りたいと思つてゐる。伊賀へ行くのも、もう十年振りである。あそこの城の石垣は寔に綺麗であつた。

初出:紫陽花 大正15・1926年1月20日
底本:定本横光利一全集 第十四巻 昭和57・1982年12月15日、河出書房新社

「名張から長谷寺へ向ふ道」とあるのは、初瀬街道のこと。「平安朝時代の空気を最も濃厚に伝へてゐ」たのかどうかは、よくわからない。
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