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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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江戸川乱歩と名張とは、まったくといっていいほど無縁である。

乱歩は明治27・1894年10月に生まれ、翌年の6月には亀山に引っ越した。乱歩に名張の記憶はなく、父親が勤務のせいで短期間、たまたま住んだ土地というにすぎなかったから、引っ越したあとは訪れる機会もなかった。

名張市立図書館が発行した江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』に、乱歩と名張の関係について、いささかを記しておいた。「ふるさと発見五十年」と題した解題の、前半部分にあたる。

以下に引いておく。転載にあたって、段落間に一行あきを設け、二字さげだった段落はインデントで処理する。

   
昭和二十七年──昭和十年 乱歩と名張について

江戸川乱歩は明治二十七年十月二十一日、三重県名張郡名張町新町に生まれた。名張郡は古代から見える郡名だが、明治十一年に行政区画名として採用され、乱歩の父平井繁男が勤務した名張郡役所は伊賀郡役所と合同で名張町に置かれていた。当時は近代的地方自治制度の揺籃期で、明治二十九年には名張、伊賀両郡が合併して名賀郡が発足、地名としての名張郡は消滅することになる。

生誕から五十八年後の昭和二十七年、名張町を訪れた乱歩が初めて生家跡に立った経緯は随筆「ふるさと発見記」に詳しいが、それを補足する資料として地方紙の記事を転載しておこう。同年九月二十九日付「伊和新聞」に掲載されたもので、見出しは「生まれた家を探しあて/探偵作家の感無量/名張に来た江戸川乱歩氏」。選挙応援のため九月二十六日に名張入りした乱歩が、翌二十七日に生家跡へ案内されたことを伝える内容である。
みずから“猟奇耽異の徒”と称し、特異な作風で過去三十年、探偵小説界を独歩してきた文壇の奇才江戸川乱歩氏にとって、名張の町はなつかしい生まれ故郷であるが、しかし名張の何処で生まれたのか、それは五十八才になる今日まで、求めようとして求めえないマボロシのように彼の脳裡につきまとった。昭和十二年ごろ、旅行の途次名張駅に下車して、一人の頼るものもなく生家を求めて孤影ショウ然と街をさまよったこともある。しかしマボロシは遂に彼の視界に入らなかった。しかしこの度川崎秀二氏の応援にきたことが、はからずも彼に生家をつきとめさせる機縁となった。

二十六日夜、春日神社で川崎氏の応援をすませた江戸川乱歩氏は旅館清風亭のランカンによりかかり、名張川の瀬音に耳をすましながら、何かもの思いげにぼんやり街の夜空を見あげていた。そこへ訪れてきたのは本町岡村書店の主人繁次郎氏だ。

「先生の生まれた家を私が知っているのです」

「ほほう」

乱歩氏の顔に、一瞬、ただごとでない色がはしった。それから二人の間にいろいろの話がはこんで

「では、明日ご案内いたします」

ということで岡村氏は帰っていった。

乱歩氏は本名平井太郎、平井家は代々津藤堂藩の千石取の家老職、明治になって父故繁男氏は関西大学を出て就職第一歩を名賀郡役所の書記に奉じた。当時郡役所は鍛冶町にあった。今は廃業しているが、小林医院はその建物である。まもなく、十八才の若い妻は一子をあげた。明治二十七年十月である。それが太郎と命名され、いまの江戸川乱歩氏だ。父は名張在職一年で亀山郡役所へ移り、まもなく名古屋へ転勤していった。

その生まれた家というのが新町の横山家なのだ。横山家は代々名張藤堂藩の典医の家柄で、明治二、三十年頃は文圭翁の代だった。長男故昭四郎氏は県議にも出た有名な政治家である。しかしこの由緒ある家は、当主省三氏が開拓団の農夫として蔵持の山へひっこもった二、三年前から桝田医院の手にうつり、名張きっての新進青年医師桝田敏明氏がここで開業している。

この桝田医院の居間に、二十七日の朝岡村氏の案内で乱歩氏は足を運んだ。

「当時と今と建物がちがっていますが、ちょうどここに長屋がありましてね、先生一家はその長屋に住んでいたんですよ」

当時の事情に通じている岡村氏と大五自転車店の富森高太郎氏がかわるがわる説明する。

「先生一家が入られるすぐ前まで、その借家に安本亀八という人形師が住んでおりましてね」

「その話なら母から聞いています。今でも東京で有名な生人形師ですよ、しかし明治二十何年といえば当主の先々代ぐらいでしょうね」

いつ果てるともなく、いろいろの話がはずむ。

「横山文圭翁の長女で、先生が生まれた頃まだこの家にいたおばあさんが近くにいるんですがね」

富森氏の言葉に、「ぜひ会わせて下さい」と乱歩氏の胸はなつかしさにはちきれそうな様子だ。

それは新町の辻酒店だ。当主安茂氏の母親昔(セキ)さんは、乱歩氏が生まれたちょうどその前後横山家からこの辻家に輿入れしてきた。昔さんはいま軽い中風の身を裏座敷に養っているが、その枕もとへ乱歩氏がきちんと座る。

「これが横山にいた平井さんの息子さんだ」

という安茂氏の説明に、おばあさんはしげしげと乱歩氏の顔を眺めて、

「まあ、あの子がこんな大きい子におなりなさって」

近く還暦を迎えようとする天下の乱歩氏も、まるで子供扱いだ。

「あんたのお父うさんは小さい人だったが、大きい赤ん坊を生んだというので評判でしたよ、やっぱり大きくなってござるな」

ことし八十六才という昔さんの記憶はしごく確かだ。当時を回想して思い出話はこんこんとしてつきない。乱歩氏もいつまでも聞いていたい表情である。しかし上野市での演説の時間は迫っていた。昔さんのもとを辞して、しばらく名張川の河畔にたたずんだ。ようやく探しあてた生まれ故郷の空、山、水に見入る乱歩氏のまなざしには感懐一しお切々なるものがみうけられた。
文中、「父は名張在職一年で亀山郡役所へ移り」とあるのは、名張在職二年で鈴鹿郡役所へ、とするのが正しい。生人形師の初代安本亀八(一八二五─一九〇〇)が乱歩と同じ長屋に住んだのは奇縁というほかない事実だが、初代亀八の名張在住期間は三、四年間、慶応のころには名張を去っていたと推測されている。乱歩の誕生は、亀八が居住した時期から三十年ほどあとの話である。

「昭和十二年ごろ、旅行の途次名張駅に下車して」という箇所の典拠は不明だが、昭和二十八年一月に発表された「ふるさと発見記」には次のような記述が見られる。
十数年以前大阪名古屋間の電車がひけて、名張町に駅ができたと聞いたときに、一度生れた土地が見たくて、旅行の途次、名張に下車して、町を歩いて見たこともあるが、知りあいもないまま、生れた場所を確かめることもなくして終った。
昭和二十七年の「十数年以前」といえばたしかに昭和十二年前後だから、名張入りした乱歩が十数年前にも名張を訪れたことがあると打ち明け、それが新聞記事に反映されたと考えるべきかもしれない。ちなみに、名張駅の開設は昭和五年のことである。

人知れず果たされたこの初めての帰郷に関しては、昭和三十年十一月、江戸川乱歩生誕地碑の除幕式に招かれて名張を再訪したときにも、乱歩は地方紙のインタビューでこんなふうに語っている。十一月七日付「伊和新聞」の、「生家もとめて/来たこともある/本社来訪の乱歩氏語る」と題された記事である。
誕生碑除幕式に招かれて来名した江戸川乱歩氏は四日午后四時本社を来訪、岡山社長らと約二十分間歓談したが、”ふるさと発見”について次のように語った。

「これは恥しいことだからまだ誰にも話したことがありませんが、昭和十年頃だったでしょうか、電車で名張を通ったついでのあった時、途中下車して名張の町を歩き廻りましたよ。自分の生まれた家はどこだったろうと探しながらね、しかし友人も親戚もないし、といって役場へ行って尋ねる気にはなれないし、そのまま引返しましたよ。さあ、どの辺を歩いたかよく覚えていませんが、なんでも細い川に沿うて二時間ぐらい歩きましたよ。それから二十年たって今日の生誕地記念碑となったのです。何んともいえぬ喜びです」
昭和十年の乱歩といえば、のちに「人間がけだものに化ける怪異談を書こうとしたのであろう」と他人ごとめいて評することになる「人間豹」の連載を五月に終え、蓄膿症の手術を受けたせいもあって創作活動は低調なままに終始した。だがその一方、「探偵小説四十年」にはこんな回想も見受けられる。
私は手術などには至って弱い方なので、入院も長引いたし、退院してからも、その夏は殆んど寝たままだったし、結局十年度は一つの小説も書かないで過してしまった。しかし小説こそ書かなかったけれど、十年の夏から翌十一年にかけて、あるきっかけから、私の心中に本格探偵小説への情熱(といっても、書く方のでなく、読む方の情熱なのだが)が再燃して、英米の多くの作品を読んだり、批評めいたものを書いたり、その他創作以外のいろいろな仕事をするようなことにもなったのである。
『わが夢と真実』に「蓄膿症手術」と題して抄録されたこの文章の末尾には、
〔註、当時の評論は「鬼の言葉」という本に集めてある。そのほか、「日本探偵小説傑作集」の編纂、それにのせた百枚を越す史的探偵小説論、柳香書院の世界探偵小説傑作叢書の監修、春秋社の長篇懸賞募集選者など〕
と「創作以外のいろいろな仕事」が列挙され、「あるきっかけ」によってもたらされた「本格探偵小説への情熱」の再燃が相当に印象深いものであったことを窺わせる。

別の角度から見れば、「幻影の城主」を手始めとして少年期を回想する随筆が書き始められたのが、やはり昭和十年のことであった。翌十一年の「レンズ嗜好症」「活字と僕と」「ビイ玉」や、十一年から十二年にかけて連載された「彼」などをあわせて俯瞰すれば、乱歩が昭和十年ごろを契機として少年という主題に向き合っていった過程を見出すことが可能だろう。

あるいは、昭和九年の「槐多『二少年図』」から十年の「ホイットマンの話」、十一年の「もくず塚」「サイモンズ、カーペンター、ジード」に至る一連の随筆や評論からは、昭和八年に中絶された「J・A・シモンズのひそかなる情熱」に示されていた文字どおりひそかなる情熱が静かに持続され、少年という主題に濃い彩りを添えたであろうことも推測できる。

事実、「同性に対して、注ぎ尽された」という少年時代の恋をノンシャランに語った大正十五年の「乱歩打明け話」とは趣を変えて、これらの作品には少年期や少年愛を追体験するように対象化しようとする真摯な意志が認められる。「彼」の中絶に関して述べられた「恥かしくて書けない」という言葉は、そうした省察の息苦しさを端的に物語るものであるだろう。そして随筆による自己の対象化からいったん遠ざかった乱歩は、昭和十六年になって新聞や雑誌の記事を『貼雑年譜』に体系化する。それは他者をかりそめの視点として自身の像を蒐集する、形を変えた自己確認の試みであったようにも映るのである。

いずれにせよ昭和十年は、乱歩にとってきわめて自覚的かつ重要な転機であったとおぼしい。乱歩は翌十一年一月、「緑衣の鬼」と「怪人二十面相」の連載を開始するが、前者は本格探偵小説への情熱が、後者は少年という主題がそれぞれに火種となった作品であることはまず疑えないだろうし、情熱の自覚や主題の発見には深い省察が不可欠であったと仮定してみれば、昭和十年前後の乱歩の胸奥に自己確認への強い意志が存在していたこともまた疑い得ない。

だとすれば昭和十年ごろのある日、旅行中の乱歩を名張駅に降り立たせ、田舎町をあてもなく歩き廻らせたものもまた、自己確認へのやみがたい希求であったかと推量される。未知の生まれ故郷を訪れ、得るものも知るところもなく立ち去ったその経験は、のちの「ふるさと発見」に際して、だからこそ昭和十年という年に刻まれた内省の記憶と重なって想起されるに至ったのではなかったか。

江戸川乱歩がふるさとを発見した昭和二十七年から数えて、平成十四年でちょうど五十年が経過することになる。名張市と名張市教育委員会はこれにちなんで江戸川乱歩ふるさと発見五十年記念事業「乱歩再臨」を開催し、半世紀にわたる名張の歴史を振り返る機会とも位置づけた。しかし、乱歩生誕地碑建立の前年、昭和二十九年の町村合併によって誕生した名張市では、平成十四年現在新たな市町村合併が協議されつつあり、その結論次第では名張市という地名もかつての名張郡同様消滅してしまうことが避けられない。単に生誕地というだけで乱歩とはほぼ無縁だった名張という土地に関して、乱歩とのゆかりに少しく贅言を連ねた所以である。

『江戸川乱歩著書目録』の発行日は平成15・2003年3月31日。

「ふるさと発見五十年」の最後のほうで、乱歩の遺産をめぐる当時の動きにふれておいた。ついでに引いておく。

   
ここで、乱歩の遺産をめぐる最近の動きを記録しておこう。平成六年の生誕百年をひとつのきっかけとして、豊島区西池袋にある乱歩の旧宅が注目を集め、土蔵に遺された蔵書の恒久的な保存と管理が強く望まれるようになった。平成十一年、豊島区は旧宅を乱歩記念館として整備する構想を発表したが、財政難を理由に断念。構想は立教大学に継がれる恰好となり、旧宅の土地や家屋、蔵書などが平成十四年三月末をもって大学の管理下に入った。乱歩の遺産をより公的な財産として新世紀に引き継ぐ道が、ここにようやく開かれたのである。

名張市が乱歩文学館なるものを整備するとしても、乱歩の遺産の散逸を防ぐ、という目的を掲げることは、この時点でできなくなった。もちろん、名張市はそんなことなど、露ほども考えていなかったのであるが。
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