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大正十年(一九二一)
年齢:二十六歳→二十七歳、数え年二十八歳
職業:大阪時事新報勤務→日本工人倶楽部勤務
住居:大阪府北河内郡守口町八〇一番地
→東京市外滝ノ川中里八〇番地
→東京市牛込区早稲田鶴巻町三八番地
二月十五日(火)
平井太郎の長男・隆太郎、誕生。[貼雑年賦][平井系譜]
このころ
太郎、東京の庄司雅行から帝大系の工学士が結成した日本工人倶楽部の書記長に誘われ、月給百円を要求したところ容れられたので、東京に移ることになる。[貼雑年譜]
三月三日(木)
太郎、日本工人倶楽部の書記長に就任。[貼雑年譜]
三月四日(金)
太郎、万世橋のみかどで開かれた日本工人倶楽部の在京会員懇親会に出席。庄司雅行、春田能為(甲賀三郎)も出席していた。[貼雑年譜][甲賀三郎:キビキビした青年紳士/昭和2年6月]
三月六日(日)
太郎、日本工人倶楽部の常任理事会で書記長として庶務部の事務処理方針を提議し、承認される。[貼雑年譜]
四月
太郎、隆子、隆太郎とともに上京し、東京市外滝ノ川中里八〇番地に住む。ひきつづき東京にいた井上勝喜は日本工人倶楽部事務員となる。東京工人倶楽部は麹町区丸ノ内仲通三菱七号館にあった。[貼雑年譜]
五月十日(火)
日本工人倶楽部機関誌「工人」五月号の奥付発行日。太郎、「科学的適材適所主義」を発表。[貼雑年譜]
五月末
太郎、牛込区早稲田鶴巻町三八番地に住む。滝ノ川の家は家賃が高いため、叔父・岩田豊麿の知人の画家が住んでいたあとを譲ってもらい、転居した。家族は、太郎、隆子、隆太郎。ほかに隆子の親戚の学生、中山新作が同居し、井上勝喜、野崎三郎、山崎栄助、松村家武らが交互に居候した。[貼雑年譜]
七月十日(日)
「工人」七月号の奥付発行日。太郎、「質問応答」を発表。[貼雑年譜]
八月十日(水)
「工人」八月特別号(第七号)の奥付発行日。太郎、頻発する労働争議の鳥瞰図をつくるべく「最近労働争議記録号」として編集し、巻頭に総論を発表。一般の需要を見込んで「工人特別号 最近労働争議記録」という表紙で数千部を印刷、書店に置いたところかなりの売れ行きを見た。[貼雑年譜]
十一月十日(木)
「工人」十一月号の奥付発行日、太郎、翻訳「トレード・ユニオンの職分」を発表。[貼雑年譜]
この年
太郎、ポー「スフィンクス」を翻訳したが、未完。「恐ろしき錯誤」の最初の原稿を書き、幻想劇「病中偶感」草稿を書いた。[貼雑年譜]
[2012年5月25日]