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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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秋晴れの土曜と日曜、総務部長逮捕のニュースが伊賀市をかけめぐった。かどうか、名張市にいてはよくわからなかったが、とにかく驚いてしまった。逮捕されたのは、何回か、宴席でいっしょになった方である。

腰の低い、宴席では座持ちのいい方であった。こういったニュースで必ず報じられるところの、まさかあの人が、という型どおりの驚きを、身をもって体験することになった。

が、容疑者のみならず、被害者もまた意外な方なのであった。共同や時事もふくめ、ウェブニュースでは被害者の名前はいっさい明かされていないが、朝日新聞だけは紙面で実名を報道していた。

もっとも朝日も、ウェブ版記事「伊賀市総務部長を逮捕 知人から現金詐取容疑 三重県警」ではこんなあんばい。

   
捜査2課などの調べでは、長谷川容疑者は、合併前の旧上野市で市税務課長だった01年12月、知人の男性から「父親と妻名義の自宅敷地を自分名義に変えたい。税金を安く抑えられないか」と相談を受けた。後日、「贈与税が必要だが、いずれは還付される。手続きしてやる」などとうそを言い、同月下旬と02年3月中旬に計約540万円を男性からだまし取った疑い。

それが朝日新聞大阪本社発行の10月21日付社会面、38面、13版には、こんな記事が出た。

20071022a.jpg

扱いじたいは小さく、わずか二段落のベタ記事である。後半の段落を引いておく。

   
捜査2課などの調べでは、長谷川容疑者は、合併前の旧上野市で市税務課長だった01年12月、知人の田中覚・元県議会議長(49)から「父親と妻名義の自 宅敷地を自分名義に変えたい。税金を安く抑えられないか」と相談を受けた。「贈与税が必要だが、いずれは還付される。手続きしてやる」などと言い、計約540万円をだまし取った疑い。

あの方であったか。被害者というのはあの方であったか。というか、被害者になったり加害者になったり忙しい方ではあるが、あの方の名前はつい最近も眼にした。

10月18日のウェブニュースログ。

毎日新聞:無断記載:県議選違反の田中元議長に略式命令--簡裁 /三重
伊勢新聞:田中元県議に罰金20万円 公選法違反で略式命令 津簡裁

どこまでもどこまでも、ひたすらダーティなイメージを追求しつづける方であるらしい。こうなると、総務部長関連ニュースの印象は一変する。

たとえば読売新聞「伊賀市部長を逮捕 節税持ちかけ 540万詐取容疑」は、ヘッドラインからしておかしい。記事にはこうある。

   
調べによると、長谷川容疑者は旧上野市税務課長だった2001年12月、家族名義の土地に自宅を新築した同市内の会社役員の男性(49)から、土地譲渡 に伴う税金の控除手続きについて相談を受けた。その際、「登記するには370万円くらいの贈与税を納める必要があり、いずれは還付される」などと架空の節 税話を示して「納付手続きを代行してあげる」と持ちかけ、同月下旬と02年3月中旬の2回にわたり、自宅や役所内で現金計約540万円をだまし取った疑い。

しかしこれは、上に引いた朝日の記事にあるとおり、ダーティ田中先生のほうから「税金を安く抑えられないか」ともちかけたとみるべきであって、読売のヘッドラインに伊賀市部長が「節税持ちかけ」とあるのは事実関係が逆であろう。

ブログ「三重県よろずや」の本日付エントリ「記者クラブ:だめぽ」でも、ダーティ田中先生はこんなふうにおちょくられている。

   
課長から脱税の指南でも受けようとしてたのですか?
あっ、節税だったね
こりゃまた失礼

だいたいが、2001年から翌年にかけておこなわれた犯罪の捜査がどうして、いまごろになっておこなわれているのかな。ふつうに考えれば、まあ、先生が官憲にチクッたのであろうな。

伊賀市ではあすから上野天神祭が営まれる。おまつり気分に浮き立つ上野の町衆のなかには、意外な被害者の名前を知って、

「総務部長、GJ!」

と快哉を叫んでいる人もいるのかもしれない。
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横光利一、三連投。

吉川弘文館の「街道の日本史」シリーズ34『奈良と伊勢街道』に乱歩と横光のことを書いたので、これもアーカイブに収蔵しておく。

   
III 地域文化の繁栄
二 地域文化を創った人びと

8 江戸川乱歩・横光利一

中 相作 

汽笛とトンネル わが国に探偵小説の基礎を築き、いまも数多くの読者を獲得している江戸川乱歩は、随筆「一頁自伝」に「ピイッと笛の音がして、おもちゃみたいな汽車がゴーッと走って行った、それがこの世で最初の記憶。二歳、伊勢の国亀山町在住の頃である」という幼時の思い出を記している。宿場町だった亀山には明治時代なかばに関西鉄道が敷設され、乱歩は鉄道という文明を生まれたときから身近なものとして育ったのである。
昭和初年から戦前戦中を通じて日本文学の第一線に立ちつづけた横光利一は、長編小説「旅愁」の主人公をトンネル技師の長男として設定した。パリから帰国して東北地方にある母親の郷里を訪れた主人公は、「日本に顕われ出て来た初めての西洋の姿」であるトンネルを遠望し、「トンネルから文化が生じて来る」と確信していた父と、「心魂さえ洋式に変り、落ちつく土もない、漂う人」になってしまった自身との違いに深い感慨を抱く。
明治時代に入って、人や貨物の交通の舞台は道路から鉄道に移行しはじめる。鉄路はいわば新時代の街道として全国に四通八達し、近代化を支える礎となった。明治時代後半に生まれ、ともに三重県伊賀地域とゆかりをもつ江戸川乱歩と横光利一は、鉄道に象徴される新文明を享受し、それをもたらした西洋近代と正面から向き合うことを自覚的に体現した作家である。二人の生涯に日本の近代を生きた知識人の典型を見ることも可能だろう。

乱歩と名張 江戸川乱歩は本名平井太郎。一八九四(明治二十七)年、三重県名張郡名張町(名張市)に生まれた。平井家は津藤堂藩に仕えた武士の家柄だったが、父繁男は大学を卒業して名張郡役所に勤務、津から名張へ母を招き、妻を迎えて乱歩をもうけた。翌年、繁男の転勤にともなって一家で亀山に転居したため、乱歩は名張を知ることなく成長し、名古屋で少年期を過ごしたあと、早稲田大学予科に進んで探偵小説の面白さに目覚めた。
一九二三(大正十二)年、デビュー作「二銭銅貨」で探偵小説界の注目を集め、「心理試験」をはじめとした短編で地歩を固めた乱歩は、昭和初年の出版ブームを背景に大衆小説の分野へ進出、名探偵明智小五郎が活躍する「黄金仮面」などの長編で人気作家として地位を確立し、「怪人二十面相」にはじまる少年小説でも熱狂的な支持を得た。戦後は江戸川乱歩賞の創設や日本推理作家協会の設立などを通じ、探偵小説の興隆に力を尽くした。
一九三五(昭和十)年前後、旅行中に名張駅で途中下車したのを唯一の例外として、乱歩は名張と無縁なままに過ごしたが、一九五二年、早稲田在学当時から恩人として慕っていた伊賀上野出身の代議士、川崎克の次男秀二に衆議院議員選挙の応援を依頼され、名張町に足を運ぶことになる。町民は郷土出身の名士を温かく歓迎し、生家跡への案内も買って出た。五〇代後半で初めて、乱歩は自分が生まれた場所を知ったのである。
これをきっかけとして町民有志の手で生誕地碑の建立が計画され、一九五五年に乱歩夫妻を招いて除幕式が営まれた。乱歩は「ふるさと発見記」で名張の町の「昔ながらの城下町の風情」を讃え、「生誕碑除幕式」では「町の人々が、自発的に」碑を建ててくれた好意に感謝を捧げている。死去はその一〇年後、一九六五年のことである。一九八七年、名張市立図書館に江戸川乱歩コーナーが開設され、遺品や著書を展示している。

横光と伊賀 乱歩より四歳年下の横光利一は一八九八(明治三十一)年、福島県北会津郡東山村(会津若松市)に生まれた。父梅次郎は大分県宇佐郡の出身で、鉄道などの土木工事を職業としていたために一家は各地を転々とした。一九〇四年、父が仕事で朝鮮に渡ることになり、母、姉とともに三重県阿山郡東柘植村(伊賀市)の母の実家に居留、横光はこの柘植と上野町、滋賀県大津市で少年時代を過ごすことになる。
三重県立第三中学(上野高校)に通った五年間、横光は野球や水泳などの花形選手として活躍したが、校友会誌に発表した「夜の翅」「第五学年修学旅行記」には文学への志向と才能もまた際立っている。当時経験した四歳年下の少女との恋愛はのちに「雪解」という小説として対象化されるが、伊賀の風土と気質への複雑な愛憎を交錯させたこの作品からは、伊賀が作家としての内面形成に重要な役割を果たした場であったこともうかがえる。
早稲田大学予科で本格的に習作を開始、一九二三(大正十二)年の「日輪」と「蠅」で一躍寵児となった横光は、新感覚派と呼ばれる文芸潮流の先頭に立ち、「機械」や「上海」などの作品で文壇の頂点を極めた。半年の渡欧体験にもとづいて一九三七(昭和十二)年に執筆がはじまった「旅愁」は、西洋と東洋の対立を主題として時代の激動のなかで書き継がれたが、一九四七年、四九歳で迎えた死によって未完のまま遺された。
随筆「伊賀のこと」に「私は伊賀が好きである」と書き、長編「春園」で登場人物に漬物は「伊賀が第一等」と喋らせるなど、横光は折にふれて伊賀への愛惜を表明した。再出発を期した戦後最初の著書が旧作を増補した『雪解』であり、絶筆「洋燈」が柘植での少年期を題材としていた点にも、時をへて純化された伊賀への視線が認められる。柘植には一九五九年、「蟻台上に飢えて月高し」の句を刻んだ文学碑が建立された。

旅愁と郷愁 横光の盟友だった川端康成は、弔辞のなかで「西方と戦った新しい東方の受難者」と横光の宿命を表現した。この宿命は西洋に範を取ったわが国の近代化にも深い関わりを有している。敗戦直後の死によって文学者の戦争責任を余儀なく負わされた横光が、「旅愁」に描いた西欧への接近と日本への回帰の先に何を見ていたのか、それは新たなナショナリズムの時代を迎えたこの二一世紀初頭にこそ検証されるべき問題であろう。
乱歩にとって西洋近代は、ともに合理主義を基盤とした探偵小説と精神分析というふたつのジャンルとして存在していた。論理に支えられた探偵小説の形式に拠りながら、無意識の欲望を暴いたフロイトの理論にも傾倒した乱歩は、随筆「残虐への郷愁」に「本来の人類が如何に残虐を愛したか」と創作の拠りどころを打ち明けている。心理の深層に眠る人類共通の官能に立ち戻ることで、乱歩は作品に色褪せない魅力を与え得たといえよう。
ところで、乱歩と横光が実際に顔を合わせたことはあったのだろうか。乱歩の自伝『探偵小説四十年』によれば、横光も名を連ねた新感覚派映画連盟が「狂った一頁」(一九二六年)につづく第二作として乱歩作品の映画化を企画し、乱歩は新感覚派の作家たちと面会したが、「横光利一氏とは一度も同席しなかったと思う」という。二人はついに会うことなく、お互いの伊賀とのゆかりさえ知らないまま、それぞれの生を終えたとおぼしい。

編者は木村茂光、吉井敏幸両氏。平成17・2005年7月10日、第一刷発行。
きのうにつづいて、横光利一作品をアーカイブとして収蔵する。

昭和18・1943年に発表されたエッセイ。

   
わが郷土讃
三重県の巻
伊賀の国

横光利一 

小学校のころ私は伊賀の柘植で育つた。この柘植は永らく芭蕉翁の誕生地として知られた地である。今年は芭蕉翁の二百五十年祭にあたつてゐるが、芭蕉の生れた地は伊賀の上野市だといふのが、またこのごろの通説となり、本年は主としてこの上野で祭典が行はれるらしい。芭蕉翁の生れたところが、こんなに上野市であつたり、柘植であつたり変るのは、今に始つたことではなく、時代とともにこの二箇所を往復して現在になつた。
上野市には私は中学のころ五年間ここにゐた。芭蕉が江戸から故郷の伊賀へ行く甲子(以下一行分欠落)
秋十年却つて江戸を指す故郷
といふ句がある。故郷を去つてから十年もたつと永くゐた江戸が故郷に思はれて来るといふ意であるが、私もやはり同様の感じがつよい。芭蕉の初期の句に柳を詠んだものが多いが、上野の町には柳の大木が多く、各県の都市をおよそ廻つてみても、柳の立派なところはこの上野の町が一番かと思はれた。二三年前に二十五年ぶりで上野へ一日行つてみると、この古木も大半見えなくなつてゐて、実に惜しいと思つた。
田山花袋の旅行記に、自分は全国を廻つてみて、平安朝時代の空気の残つてゐるのは伊賀の名張から長谷寺へかけての沿道だけだと書いてあるのを見たことがある。また伊賀の上野は、会津の若松と作州の津山と並んで、日本での三つの美人の多いところともあつた。志賀の都、奈良、京都と、それから伊勢の大廟の四地点に線を引くと、この伊賀はそのどこからも中央に当つてゐるので、各時代を通じて古くから皇室との関係が深く、文化の華の落ち沈まつた場所である。しかも、ここほど歴史の不明なところもまた全国では稀な所だ。その理由は、世世の最も権勢あるものは、伊賀を掌中にすることが自分を守るに欠く可らざることであり、敗北の際の匿れ場所でもあつて、絶えず新旧の諸勢の争奪地となり、つひに東大寺の寺領となつてからは守護、地頭も手のつけやうがなくなつた結果、一大治外法権のごとき観を呈するにいたつたからでもあらう。最も必要な土地であるだけに、歴史を不明とせしめる暗暗の心理作用がこの盆地に行はれて来たといふことは、各時代の文化の秘密もまた一番ここに重なり巣を作つて来て人に知られず、今に至つた伝統の悲劇を繰り返した。芭蕉の俳句も、実はこのやうな人には分らぬ種子のふかさを抱いた歎声から流れ出てゐる。先年亡くなられた佐佐木強四郎といふ上野中学の歴史の先生は、三十年間この土地の歴史を研究しつづけて発表され、初めて伊賀の歴史に光が射したが、それによると、伊賀の記録は奈良の東大寺の庫裡の中にのみ存してゐるので、この中に入らぬ限り詳細なことは知り得られないと書いてあつた。そして、この見捨てられた庫裡の中に入つた最初の人は、佐佐木氏であるが、私もこの先生のために伊賀の歴史を初めて知つたといつても良い。
この土地は代代不遇なものの落ち延びて来た所で、ここで安楽に温められ、勢力の恢復を俟つて再び四方へ出て行つた形跡のあるのも、土地そのものの姿が山懐の日溜りの静かな品位と、風吹かぬ、霧の多い、野菜の美味な、生活するには多くの理想の揃つた点に起因するやうである。現在でも、この土地の漬物類の美味なことは、全国でも第一等とされて来始めたやうだが、酒の味、栗の味、茸の味、牛、鰻等も、他国の第一等品とさして劣るとは思へない。人情としては、この土地のものには野心といふものが少しもない。これは伝統ともいつて良く、出世を望まず、外来者を尊敬し信頼する癖は脱けず、秀才の多くは師範の二部へ入り、村長となり教員となるのが習慣である。随つて進取の気に乏しく保守的であるが、人を嫉視羨望することもまたそれだけ他国よりも少い。
伊賀の歴史、殊に万葉時代から平安朝へかけての歴史から想像すると、この土地の農民の大部分は皇室の裔のやうに思はれる。貴族や士族は、真に段階的に観れば農民より上とみられないのは、日本の他国に類なき特長であるが、伊賀の歴史では、そのことがもつともよく頷かれるのが、またこの地の特長のやうでもある。言葉から考へても、柘植などといふ田舎でさへ農民が「それをくれ」といふところを「それ賜もれ」といひ、自分のことを「うら」といふことなど品位ある血統を伝へた面影が今もある。伊賀流の忍術もこの柘植が本場であるが、忍術などといふ日本最古の武道の残り伝はつたのも、伊賀焼といふもつとも日本で純粋な陶器の出たのも、おそらくそんな古代文明の秘密が深く落ち、温め返されるに適した謙譲な何ものかがこの地にあつたからにちがひない。そして、芭蕉の無欲清澄な風雅精神もやはりここから出た。

初出:婦人公論 第28巻第10号 昭和18・1943年10月1日
底本:定本横光利一全集 第十四巻 昭和57・1982年12月15日、河出書房新社

文中、「佐佐木強四郎」とある人名は、正しくは「弥四郎」。明治36・1903年から昭和7・1932年まで、県立第三中学、つまり現在の上野高校で歴史科の教師を務めたというから、明治44・1911年入学の横光も、佐々木弥四郎から直接、教えをうけたのかもしれない。
横光利一は明治31・1898年3月17日、福島県に生まれ、昭和22・1947年12月30日、四十九歳で没した。本名は利一(としかず)。

父は大分県出身、土木関係の仕事に従事し、各地を転々とした。母は三重県阿山郡東柘植村大字野村(現伊賀市柘植町)の人。利一は母の実家があった柘植や上野町、滋賀県大津市で少年期をすごした。

明治44・1911年4月、三重県立第三中学校(現上野高校)に入学、大正5・1916年3月に卒業し、4月、早稲田大学高等予科英文学科入学。

横光利一は大正15・1926年、「伊賀のこと」という随筆を発表している。名張のことも出てくる。横光の著作権は保護期間が過ぎているので、全文を掲載する。

文中、「雰」は「霧」と同義。原文の正字体は新字体に改める。

   
伊賀のこと

横光利一 

去年の夏、と云つてもまだ半年とはたたない頃、東京時事新報紙上で、田山花袋氏が名張から長谷寺へ向ふ道について、歴史的な観察からその風景を描写し、日本で今もなほ平安朝時代の空気を最も濃厚に伝へてゐる所はその街道だと云つてゐた。私は惜しいことに伊賀にゐたにも拘らず、その街道をまだ知らない。あの名張の川より向ふへは行つたことがない。此のため此の街道については何も知らないのだが私の友人には沢山そのあたりの人がゐた。
名張までは雨の中を演習で行軍していつたのを記憶してゐる。

□□□□□□□×

一週間程前、吉田絃二郎氏が私に手紙を寄せられた中に、「去年はあなたの郷里の伊賀へ行きました。懐しい所です。」といふ意味のことが書いてあつた。私は吉田絃二郎氏から手紙を貰つたのはこれが初めてである。その初めての手紙に、あなたの郷里へ行つたと云つてただそのことのためばかりに手紙を下すつたと云ふことは、私には大へん嬉しかつた。私は伊賀が好きである。いろいろの新聞から何か書けと頼まれると、直ぐ私は伊賀のことを書いて了ふ。去年も東京朝日へ霊山のことを書いたら、直ぐ誰だか私の知らない人が私に手紙を寄来されて、「伊賀は私の故郷であるが霊山のことを書いて下すつて寔にありがたう」と云つて来た。
私は小説の中で伊賀の風物をもう沢山書いて来た。少し田舎言葉を用ひようとすると、直ぐ伊賀の言葉を書いて了ふ。去年も二月に私の戯曲で「食はされたもの」と云ふのが東京で上演されたことがあつたが、此の戯曲も全然伊賀の言葉だつたので、東京の人は「あの言葉はどこの言葉ですか。」と聞くものが沢山あつた。役者達はあの伊賀の言葉のアクセントには困つてゐたやうであつた。

□□□□□□□×

私は方々を廻つて歩いて見たが伊賀の雰ほど美しいものはあまりなかつた。私はあの雰の中で幼い頃を過したのであるが、それがどれほど私に影響してゐることか知れない。あの雰のお影でどれほど私の精神は知らず知らずの間に美しくされてゐたことか。さう思ふと私の頭の中には、今も髣髴としてあの雰が浮んで来る。

□□□□□□□×  ×

此の月の終り頃、一寸私は関西の方へ所用があるため、伊賀へも時間があれば廻りたいと思つてゐる。伊賀へ行くのも、もう十年振りである。あそこの城の石垣は寔に綺麗であつた。

初出:紫陽花 大正15・1926年1月20日
底本:定本横光利一全集 第十四巻 昭和57・1982年12月15日、河出書房新社

「名張から長谷寺へ向ふ道」とあるのは、初瀬街道のこと。「平安朝時代の空気を最も濃厚に伝へてゐ」たのかどうかは、よくわからない。
名張まちなかブログだからといって、守備範囲を名張まちなかに限定しているわけではない。名張市内のほかの地域や伊賀市、ときには三重県も、タイトルの下に書いてある「周辺」にふくめることがある。

平成16・2004年11月、上野市、伊賀町、島ヶ原村、阿山町、大山田村、青山町の六市町村が合併し、伊賀市が発足した。その結果、かつての伊賀の国であり、三重県政の地域区分では伊賀地域と呼ばれるエリアに、伊賀市と名張市というふたつの自治体が存在することになった。



おかげでちょっとややこしいのだが、くわしいことは「伊賀市地名考」に書いたからくり返さない。要するに伊賀市の誕生以来、伊賀という言葉は伊賀市と伊賀地域という二重の意味をもつことになった。伊賀地域には名張市がふくまれる。

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