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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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やっとつながった。

けさ早くから、いくらこのブログにアクセスしてもサーバーに接続できない状態がつづいていたのだが、地域の名門でマスコミ論の授業を終え、いったん帰宅してアクセスしてみたところ、やっとつながった。

あまり時間もないので、手近な話題をつづっておくことにして、風呂場と洗面所を改装することになった。きょう、工事がはじまった。今夜から当分、風呂に入れなくなる。

工事が終わるまで風呂に入らない、というわけにもいかないから、しばらく銭湯に通うしかない。

伏見桃山の伊賀に住んだ稲垣足穂は、一日おきに、往復三十分かかって、風呂代だけを握りしめて、銭湯に行ったらしい。四十年近く前のエッセイで、志代夫人がそう書いている。

ちなみに当時、足穂がつかう現金は、風呂代が三十二円、ほかには月に一度の散髪代が三百円、これだけだったという。

足穂みたいに、風呂代だけを握りしめ、まちなかをふらふら歩いて、銭湯に通ってみるのも面白いかもしれない。風呂代がいまいくらなのか、さっぱりわからないのだが。

そもそも、名張のまちに何軒の銭湯が現存しているのか。たぶん、三軒である。行脚することにする。
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伊賀タウン情報「YOU」の10月前半号に掲載してもらった記事が、ウェブでも読めるようになった。

YOU:名張高生が再現 昔ながらの箱ずし

この日の授業でつくった押しずしのレシピも載せて、地域の名門、三重県立名張高等学校のリーフレット「名張まちなかナビ2.0」は11月3日に発行の予定である。

11月3日はコミュニティイベント「隠街道市」の初日だが、関連イベントで講演をおこなうので、その宣伝も片づけておく。

20071014a.jpg

「タイムスリップ初瀬街道」がタイトル、「東海道から参宮表街道へ」がサブタイトルだとお思いいただきたい。

このチラシはおととい、名張古町を考える会の関係者からもらってきた。おなじデザインのポスターもつくられていて、関係者から、

「ちょっとあんたこれ、名張高校にも貼っといてもろてさ」

と押しつけられたので、その足で名張高校の事務室にもってゆき、校内掲示板へのポスター掲出を依頼しておいた。

いまよくみると、チラシに印刷された案内文、「街道の変遷」とあるべきところが「階道の遍歴」となっている。ポスターでは訂正されているだろうと思う。もしも訂正されていなかったとしても、まあ、大目にみてやっていただきたいと思う。
『名張市史』(昭和49・1974年)の「第九編 神社」から引用。

   
栄林寺 揚柳山・清浄院 本町
〈寺歴〉 浄土宗知恩院派 本尊阿弥陀如来。『伊水温故』にいう、「昔は念仏堂という。昔日は柳寺と号し鍜冶町にあり。筒井順慶天正九年伊賀兵乱に和州笠間口より討入る。時に大内川原にて順慶の従士菅田左衛門佐、当国の郷士森田浄雲に行逢い、一戦をとげ、菅田ついに討たる。菅田の弟二人あり。おのおの出家し、その一人を定誉と名づく。定誉当寺に住侶し、柳寺を改めて栄林寺と号す。これ中興開山なり」と。信憑性のうすい『伊水温故』ではあるが、栄林寺の沿革に関してはおおむね信じてよいだろう。新町・辻安茂家記録によれば、元和5年に柳寺にほど近い鍜冶町で酒造業をはじめた初代辻源次郎が檀家となり浄誉(定誉は誤り)を中興開山として栄林寺を創建したとある。大和から移住したばかりの辻氏は名張に自家の菩提寺を確定するため浄誉を迎えて開山としたのだろう。たぶん浄誉はそのころ柳寺にあって兄の菩提を弔っていたことかも知れぬ。現在の鍜冶町・柳原町一帯を総称して柳原と呼んでいたから寺名はこの所在地によったのだろう。寺跡は定かでないが、現在の公設市場付近と推定する。
宝永大火はこの栄林寺が火元であった。下男部屋から出火したという。九年後の享保4年鍜冶町七兵衛宅から出火した火災にも類焼した。再度の火災ののち寺地を現在地に移し再建した。現在の本堂と山門はこの時の建造にかかる。
江戸時代中期にこの栄林寺が念仏堂の通称で呼ばれ、この前の通り(本町の一部)を念仏堂町といったこともある。
はじめ黒田・法然寺(廃)の末寺であったが、しだいに寺勢さかえ、法然寺を末寺とするようになった。
明治24年、元町にあった薬師堂と庚申堂を買取って境内に安置した。
〈所蔵〉 金泥極彩色当麻曼荼羅写軸、延命地蔵尊。
〈行事〉 1月8日初薬師、8月24日延命地蔵会式。
〈境内〉
薬師堂。本尊薬師如来(伝、春日仏師作)。元町、現中井医院の地にあった薬師寺(林昌寺ともいう)が明治初年廃寺になったとき本堂・本尊ぐるみ買受け管理していたが、明治24年4月にいたり境内に移置した。ほかに十二神将像も安置する。
金剛堂。本尊青面金剛像、ほかに二童子など四体を安置する。元町にあった庚申堂を買受け、明治24年4月前記薬師堂とともに境内に移したものである。この庚申堂については丸之内・大森英郎所蔵、松山順学の『諸事記録帳』によってその沿革を知ることができる。
宗泰寺の西隣に宝珠山快行院教春寺という修験宗の寺院があった。庚申堂の名で聞こえ、年に六度の開帳日には遠近から参詣者で雑踏を極めた。元町の鎮守稲荷神社(現・簗瀬稲荷神社の前身)はこの庚申堂の境内を一部借地して文化3年に創建したものである。この庚申堂は延宝2年に宇治醍醐三宝院の末寺として少覚という僧侶の手で創建された。本尊の青面金剛は大阪四天王寺に安置してあった三体(青面・白面・赤面)のうちの一体を勧請したものと伝えられる。
明治5年宗教制度の改正で修験宗が廃止されたので、同7年10月真言宗に帰入した。しかし無檀で寺院経営の見込みが立たず、同年11月15日三重県令あて廃院帰属願を提出した。翌8年1月15日付で許可。しかし廃院しても庚申日の会式はその都度当局の許可をうけ続けていた。だが、明治10年1月の会式を最後に二百年の伝統をもつ“名張の庚申さん”も姿を消した。しかし信徒の間では何とかして庚申堂を再興しようと本町の山本山三郎・竹田五左衛門・藤野平右衛門・松田藤兵衛の四人が発起人となって種々苦心したが、どうにも方途がつかなかった。そのとき栄林寺住職静永瑞誠と檀家総代小西長七が講中に相談して同寺へ譲受けたいと申出た。「直ちに開帳、永世に及び年六度の庚申日に会式相営み、衆庶参拝致させ度く、該寺は勿論、市中の都合にも相成候故」というのが譲受けの理由であった(松山順学『移転明細記』)。明治24年のことであった。よって同年3月26日本堂・本尊・付属品一式百三十円で同寺へ売渡すことになった。
観音堂。十一面観音・三十三観音を安置する。
芭蕉句碑。「市人よ此傘の雪売ふ」、文化14年建碑(→第十一編・文芸)
初瀬街道々標。「文化元年甲子春三月吉祥日」に建てたもので「右はせみち」を示している。いま名張小学校庭に保存の道標に取替える前に立っていた小さいもの。

「第十一編 文芸」にある芭蕉句碑の項は、いずれ、「本町 ・文学碑」とでもして引用することにする。

きのうのエントリ「本町」に掲載した本町通りの写真で、手前左にみえる築地塀が、栄林寺の塀である。

本町には、神社はない。
本町の通り。きのうの午後1時ごろ撮影した。

20071013a.jpg

撮影地点はここ。江戸川乱歩生誕地碑につづく路地へ入るあたり。ほぼ東北方向、丸之内のほうにむかって撮影。



『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
本町 江戸時代からこの町名は変わらない。大為陶器店前から新町境までを江戸中期には念仏堂町と呼ぶこともあったが、これはその町なかにある浄土宗栄林寺が念仏堂と別称されていたことによる。本丸の入口(大手門は旧警察署の入口のところにあった)にあたる町内第一の主要部で大商店が軒をつらねていた。明治になってもこの地位は変わらず繁栄をほこったが、戦後は交通事情等の変化により商店街・繁華街としての首座は他へ譲らねばならなくなった。

『角川日本地名大辞典24 三重県』(昭和58・1983年)にもとづいて、以下に補足。

まず、警察関係。
  • 明治07・1874年、巡査屯所が設置され、のち名張警察署となった。
  • 明治19・1886年、名張警察署が峡間に移転した。
峡間は「はざま」、現在の丸之内。名張警察署は丸之内から昭和44・1969年、南町に移転。さらに平成8・1996年、蔵持町芝出の現在地に移転した。

つづいて、銀行関係。
  • 明治36・1903年、八十三銀行支店が新町から移転。
  • 明治39・1906年、名張銀行が中町から移転。
  • 大正08・1919年、百五銀行派出所開設。
  • 昭和09・1934年、三重県殖産無尽会社支店が木屋町から移転、八紘無尽会社となる。
  • 昭和20・1945年、八紘無尽会社が本店を津市から移す。
  • 昭和26・1951年、八紘無尽会社が太道相互銀行に改称。
  • 昭和39・1964年、太道相互銀行が名古屋市に本店を移す。
八紘無尽会社は昭和18・1943年、津市で設立。太道相互銀行と改称して、昭和44・1969年に名古屋信用金庫と合併、中京相互銀行となり、平成元・1989年、中京銀行となった。

太道相互銀行、のちの中京相互銀行、中京銀行のあった場所がここ。



この地図ではまだ中京銀行が生きているが、実際にはこんな状態。

20071013b.jpg

サンロードというアーケード商店街の入口がみえる。そのむこうがわ、駐車場になっているのが、かつて中京銀行のあった場所。

この場所でいつまで営業がおこなわれたのか、店舗が取り壊されたのはいつなのか、手許の資料やインターネットでは確認できない。

現在、名張市内の中京銀行は、名張支店(夏見字浅尾71番地2)、名張支店桔梗が丘出張所(桔梗が丘1番町6街区86番地)の二店舗がある。

百五銀行は明治11・1878年、第百五国立銀行として発足。同30・1897年、普通銀行に改組し、百五銀行となった。

大正8・1919年に開設された派出所が、のち名張支店となっていつまで存続していたのか、やはりにわかにはつかむことができない。

現在、名張市内の百五銀行は、桔梗が丘支店(桔梗が丘1番町2街区11番地)、名張支店(夏見3224番地3)、名張支店木屋町出張所(木屋町1386番地5)の三店舗がある。

現在、本町に金融機関は存在しない。

本町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 463人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 378人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 219人(名張市公式サイト、10月1日現在)
江戸川乱歩生誕地碑は、新町に建てられたあと、せまい路地をまたいで移転され、いまは本町にある。
名張市
産経新聞:名張水彩画会展 会員の力作38点を展示 14日まで
毎日新聞:全国地域安全運動:車上狙いに注意呼び掛け--名張 /三重
毎日新聞:シカ:過疎化が影響?捕獲数急増 対策パンフ2000部配布--名張 /三重

伊賀市
産経新聞:稲浦さんら3人、川で少女2人救出 伊賀市消防本部が感謝状
産経新聞:幻の農人町だんじり 13、14日に模型を展示 伊賀・菅原神社
毎日新聞:劇団上野市民劇場:闘病の歌人・津田治子描く--19~21日、伊賀公演 /三重
毎日新聞:人命救助:お手柄! 消防本部、稲浦さん親子らに感謝状--伊賀 /三重
毎日新聞:楼車模型:“幻”の模型、伊賀・菅原神社で公開--あす、あさって /三重
毎日新聞:全国高校ラグビー:県大会 国籍超えスクラム 南米3選手が活躍--上野農 /三重
中日新聞:コンチキチン、城下町にかねの音 23日から伊賀・上野天神祭
中日新聞:「三重大伊賀拠点」来年8月完成へ 企業と連携、人材育成も
中日新聞:「灯りの芭蕉路」俳句や絵浮かぶ 伊賀・大和両街道沿い
伊勢新聞:三重大伊賀拠点の建設 一般競争入札を公告 伊賀市
伊勢新聞:
巨大キノコ発見 直径30センチのオニフスベ 伊賀市議の森本さん
地域の名門、三重県立名張高等学校のマスコミ論の授業を、伊賀タウン情報「YOU」に取材していただいた。掲載は10月13日発行の10月前半号(469号)。きょうは12日だが、名張市内をはじめとした配布地域には、もう出回っているものと思う。

編集部にお願いして、紙面のPDFファイルを送ってもらい、ブログに掲載することの許可も頂戴したので、取材から何からおんぶにだっこ、JPG画像にしてアップロードする。本文も、なんとか判読可能であろう。
20071012a.jpg
名張まちなかの再生というのは、たとえばこういうことであると知れ。こういう試みが不可欠であると知れ。

名張まちなかへの理解と愛着のうえに立つことが、名張まちなか再生プランの策定では、何よりも求められたはずである。しかし、そんなものはまったくなかった。行政の点数稼ぎと民間の私利私欲、それがあったばかりなのである。

名張まちなかの再生というお題目をかかげて、実際のところ、何がおこなわれたのか。わけのわからんNPOによる細川邸の私物化である。理解も愛着も、そんなものは最初から最後まで、どこにもなかったのである。

細川邸の改修は着々と進み、来春には「やなせ宿」としてオープンすると伝えられるが、それがどんな施設なのか、何を目的として整備されるのか、オープンしてどのように利用が進められるのか、明確なことはいっさい不明である。おそらく、何も決まっていないのである。

こんな愚劣なことを、いったいいつまでつづけるのか。どこまで下手を売りつづければ気がすむというのか。

いやいや、このエントリにはこんなことを記すつもりではなかった。

名張まちなかにお住まいで、長く家庭科の高校教師をしていらっしゃった方から、名張まちなかの高校に通う生徒が、いまは忘れられてしまった名張まちなかの郷土食を教えていただいた、というニュースをごらんいただいた。

で、名張まちなかの再生というのは、たとえばこういうことなのであると思う。まちなかを再生するというのであれば、こういう試みが不可欠なのであろうと思う。理解と愛着とがふたつながら、こうした試みから生じてくるのではないかと思う。

それをまあ、あのうすらばかどもと来た日には、以下略。
きのうはまいった。前の晩、ろくに眠らずに思案に暮れていたものだから、二日酔いもひどくて、朝から体調は最悪であった。そんな状態で思案に結論を出すと、いわゆる前向きな考えはまず生まれない。

だから、NPOなんてつくるのは面倒だし、なんかもうすべてがどうでもいいや、という気になって、乱歩のことからは完全に手を引いてしまおうという気になった。

こうした場合、つまり、乱歩のことを手がけるためにNPOでもつくるか、と思い立ったりした場合、それを伝えて助力を依頼しなければならない相手というのが、名張市内にふたり、存在する。

うちひとりには、おととい、名張市長との面談があった日、夕刻に会ってNPOのことを伝えた。そのときは、NPOに対して前向きでいられたのだが、一夜あけたきのうは、体調不良のせいもあって、その考えがほぼ逆転していた。

で、おととい名張を留守にしていたというもうひとりには、きのうの夕刻に会うことができたのだが、いろいろ気にかけてもらったり世話になったりしたけれど、あまりにもあほらしくなったので、乱歩のことからはいっさい手を引くことにする、と伝えた。

ただしこれは、最終的な結論ではない。おとといはNPOをつくることに傾いていた考えが、きのうは乱歩から手を引くことに傾いていた、ただそれだけのことである。いやそんな、早まるな、と慰留され、

「中さん、飲みすぎでぽっくりいかんといてえや」

と忠言をもらって、帰ってきた。たしかにこのところ、やけ酒の度をすごしている。

さて、いったいどうしたものであろうか。

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