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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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新町の通り。撮影時刻は、きのうの午後2時ごろ。

20071007a.jpg

撮影場所はここ。道のまんなかに立って、西のほうをむいて撮影。



明治27・1894年10月21日、江戸川乱歩はこの町で生まれた。ただし、乱歩の生家は、この通りには面していない。上の写真でいえば右のほうの、狭い裏道に面して建っていた。

『名張市史』(昭和49・1974年)の「第十三編 地誌」から引用。

   
新町 新しくできた町という意味、各地にみられる町名である。寛永年間、藤堂高吉が来往(「来住」の誤植か──引用者註)した当時、本町・大為陶器店、南町・西方寺をむすぶ線上に松並木(旧字名並松の名のおこり)があり、これが往時の名張川の堤防であったという。高吉は川替え工事をおこない、河流を現在の位置に定着させ、新町の地を造成した。だから新しいといっても江戸初期のことであり、江戸中期以降にできた松崎町の「新地」などとは新しさがちがう。
初瀬街道・笠間街道・赤目街道をうける名張町の南玄関として殷賑をきわめたが、電車の開通、戦後における笠間・三本松方面の名張商圏からの離脱、名張駅を中心とするバスの発達等により利用度・交通量が激減し、旧時の繁栄はしのぶべくもない。
愛宕神社は宝永の大火後、名張町民が黒田の地に勧請した愛宕神社を分祀したもの、7月24日の愛宕祭は花火大会で知られる。
新町橋下流に渡し場があり、渡船二隻を備えていた。

三十年以上前の記述である。いまや、「旧時の繁栄はしのぶべくもない」どころの騒ぎではない。

名張まちなか全体がそうだが、ほぼ死に絶えている。商店街と呼ばれていたものはすべて消滅し、シャッターストリート、あるいは、パーキングストリートが現出している。なかに、ほそぼそと、経営をつづけている商店があるばかりである。

新町に昔あった商店を思い出そうとしてみても、意外にむずかしい。たとえば、このあたりに薬屋があったな、ということはわかっても、屋号までは浮かんでこない。

名張小学校で同期だった子供のなかにも、新町で商店を営んでいる家の子がいた。上の写真の左側のならびには、松山という菓子屋があって、そこの子供が同期だった。屋号は忘れたが、旅館の子もいて、姓は藤野といった。右側のならびには、黒田という豆腐屋の子がいたし、今井という畳屋の子もいた。

どの店も消えてしまった。同期生がどこで何をしているのか、まったく知らない。

新町の人口の推移。カッコ内は典拠。
  • 明治05・1872年 565人(名張市史)
  • 昭和55・1980年 539人(角川日本地名大辞典24 三重県)
  • 平成19・2007年 275人(名張市公式サイト、10月1日現在)
「やなせ宿」という名前で整備されるらしい細川邸は、上の写真にみえる左側の家並みに位置している。そんなものをつくって何をしようというのか、名張市という名のインチキ自治体の考えることは、まるでわからない。
昨5日、名張市の9月定例会が終わった。議案の審議は9月28日に終了していた。きのうは役員改選がおこなわれたのである。

定例会が終わるのを待って、名張市役所の秘書室にメールを送信するつもりであった。こんな内容である。

   
お世話になっております。ご多用中恐縮ですが、お聞き届けいただきたいことがありますので、以下に申し述べます。

江戸川乱歩のことにかんして、市長のご見解を承りたく、また、当方の提案もお伝えいたしたく、勝手ながら、市長から拝眉の機を頂戴したいと考えております。日時をご指定いただければ、市長室にお邪魔いたします。

よろしくご手配くださいますよう、お願い申しあげます。

だが、きょうは土曜日である。三連休の初日である。

送信するのは休み明けのこととする。
平成11・1999年10月21日、ウェブサイト名張人外境を開設した。

きのうにつづいて、南陀楼綾繁こと河上進さんの「そして、本だけが残る──三人の「出版者」との対話」から引用。

   
一九九九年、中さんは「名張人外境」(http://www.e-net.or.jp/user/stako/)というサイトをオープンした。図書館の事業として提案したが予算がつかず、「だったら自分でやるわ」とはじめたものだ。『文献』(『乱歩文献データブック』のこと──引用者註)『年譜』(『江戸川乱歩執筆年譜』のこと──引用者註)のデータを掲載し、進行中の『著書』(『江戸川乱歩著書目録』のこと──引用者註)については調査済みのデータを公開した。このサイトを見た人から、新たな情報が多く寄せられた。

時間の流れはこうである。
  1. 乱歩文献データブック 平成09・1997年3月31日
  2. 江戸川乱歩執筆年譜  平成10・1998年3月31日
  3. 江戸川乱歩著書目録  平成15・2003年3月31日
このうち二冊をつくっているあいだに、インターネットが急速に普及した。収集資料にもとづいてサービスを提供するために書誌をつくったのだから、そのサービスの手段としてインターネットを利用しない手はない。

だから二冊目が出たあと、平成11・1999年度事業として、書誌二冊の内容をネット上で公開するための予算を要求したのだが、蹴られてしまった。「だったら自分でやるわ」と考えたのが、たぶんこの年の春のことで、半年あまりの準備期間のあと、江戸川乱歩の誕生日にあたる10月21日、名張人外境をオープンした。

公共図書館がインターネットを利用してサービスを提供するのは、いまやあたりまえの話である。図書館のサイトにアクセスすれば、蔵書を容易に検索できる。

しかし、名張市立図書館のサイトでは、一般の蔵書は検索できても、江戸川乱歩にかんするデータにふれることはできない。尋常なことではない。異常なことである。しかし関係者は、だれひとりとして、そのことに疑問を抱かない。

平成15・2003年、三冊目の『江戸川乱歩著書目録』を刊行した直後、面談の機会があったので、当時の教育長に直接、リファレンスブックが三冊そろったのだから、名張市立図書館のサイトに三冊のデータを掲載し、高度な検索ができるようにするべきであると提案した。結局、実現しなかった。

これは普通では考えられないことだから、少し前まで、どうして名張市立図書館のサイトに江戸川乱歩関連のデータが存在しないのかと、それこそ疑問を抱いた人からたまにメールが届くことがあった。

しかし最近は、それもない。名張市って、どうやらどうしようもない自治体みたいだな、といった認識が、ウェブサイト名張人外境を通じて、そこそこ定着してきたのではないか。

予算化を二度要求し、二度とも却下された時点で、名張市立図書館のサイトに江戸川乱歩リファレンスブックのデータを掲載することはあきらめた。

そして迎えた平成16・2004年。三重県が官民合同で展開した芭蕉生誕三百六十年記念事業の年である。三億円の公金に官民双方のうすらばかが群がり寄った年である。

ばかかこらうすらばかども、と思いきり吠え立ててみたのだが、ばかでありうすらばかである人間にそんなことを尋ねてみても、意味はなかった。

協働だ、新しい時代の公だ、と意味不明のお題目をかかげて騒ぎまくるばかの元気なこと元気なこと。ほとほと感服しているあいだに、三億円はあっというまにどぶに捨てられてしまった。ただまあ、三億円のうちの五百五十万円で、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』を刊行することができたのだから、それでよしとしておく。

この年、平成16・2004年は、桝田医院第二病棟が所有者から名張市に寄贈された年でもあった。すでに記したことだから、この話題は省略するとして、この年は、名張まちなか再生プランの策定がはじまった年でもあった。

翌年の1月に素案が発表され、それではじめて名張まちなか再生プランのことを知った。読んでみたが、ひどいプランであった。仔細は省くが、とにかくひどい内容であったことは、プランがいまや雲散霧消しているらしいことからも理解できるだろう。

なかでもひどかったのは、新町の細川邸を歴史資料館にするという構想である。これもどうひどいのか、あちらこちらにさんざん書いてきたことだから、ここでは割愛する。

細川邸を名張市立図書館のミステリ分室にする、というアイディアを、パブリックコメントとして提出した。ねらいのひとつは、名張市立図書館に展示されている乱歩の遺品を、乱歩が生まれた新町で公開することであった。市立図書館は、名張まちなかの導線から、いささか離れすぎている。

もうひとつのねらいは、慶應義塾大学推理小説同好会OB会のメンバーから名張市立図書館に寄贈され、図書館の地下書庫に死蔵されているミステリー関連図書を、この分室の開架に収めて閲覧に供することである。この点にかんしては、細部にわたる構想がいろいろとあるのだが、ここでは省く。

ミステリー関連図書のデータは当然、インターネットで公開することになる。となれば、江戸川乱歩リファレンスブックの内容も、高度な検索機能をそなえて公開できることになる。これもねらいのひとつ、というか、最大のねらいであった。

しかし、この提案も実らなかった。ボスは駅弁大学の御用学者、委員は区長会だのまちづくり推進協議会だのからの寄せ集め、なんともおそまつな委員会によってまとめられたひどい素案が、そのまま名張まちなか再生プランとして正式に決定された。

大丈夫か名張市。

いやいや、全然大丈夫なんかではないのであるこんなインチキ自治体。うわっつらのことしか考えられず、本来なすべきことには眼をむけようともしない。いやもうほんと、でたらめなのである。

以前にも記したが、江戸川乱歩という作家と名張という土地とは、ほとんどといっていいほど無縁である。だが、名張市立図書館が開館準備の段階から関連資料を収集し、それにもとづいて江戸川乱歩リファレンスブックを刊行したことで、乱歩と名張のあいだには、新しい関係性というものが築かれている。

作品を読もうとせず、どんな作家であるのかを知ろうともせず、せいぜいが自治体の自己宣伝の素材だと考えることしかできず、ときどき発作のように記念館だ文学館だと騒ぎ立てては、何もできずにあっさり投げ出してしまう。うすらばかというのはまったく困ったものであるが、何をいってもしかたがない。名張市というのはその程度の自治体なのである。

この先も乱歩にかんして無策無能でありつづけるのなら、名張市はいさぎよく乱歩から手を引いてしまえばいいのである。だが、それはおおきにもったいないことである。江戸川乱歩という偉大な作家と縁を切ってしまうのは、名張市という自治体にとって、けっして得策ではない。

没後四十年以上を経過したいま、平成19・2007年のいま、乱歩はいったいどのような作家として時代に受容されているのか。9月に刊行されたアンソロジー『江戸川乱歩と13の宝石 第二集』(光文社文庫)に収められた新保博久さんの「解題 雑誌フリークとしての江戸川乱歩」から引いておく。

   
ことし平成十九年はまた本アンソロジー二巻のほか、平野嘉彦著『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』(みすず書房)、小松史生子著『乱歩と名古屋』(名古屋・風媒社)、三島由紀夫の劇化『黒蜥蜴』の初文庫化(学研M文庫)、別冊宝島編『僕たちの好きな明智小五郎』(宝島社)、本文庫版全集の註釈者である平山雄一著『江戸川乱歩小説キーワード辞典』(東京書籍)、あるいは宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」(原作とも三島脚本とも異なる明智と黒蜥蜴との関係の設定に、観客席で人間椅子から転げ落ちそうになった)、「エロチック乱歩」(アートポート)と総称される佐藤圭作監督「人間椅子」と三原光尋監督「屋根裏の散歩者」の映画リメイク(ストーリーはともども原作とはほとんど別物だが)など、乱歩関連の出版・上演・上映が相次ぎ、応接に暇がないほどである。これらは原著者没後四十二年を閲してなお新たな魅力を引き出せる乱歩作品の普遍性と奥深さとを証するものだが、その謦咳に触れた作家からも本来以上の力量を発揮させる乱歩自身の人間としての吸引力まで窺わせるのは本書と前集だといったら、自画自賛にすぎるだろうか。

モンスターのような作家である。乱歩という作家を自己宣伝の素材としかみない人のために記すならば、素材としては最高である。これ以上の素材は、どこをさがしたって存在しない。

ほとんど無縁であるとはいえ、乱歩が名張のまちに生まれたことはたしかなのだし、名張市立図書館が収集資料にもとづいて乱歩という作家と新たな関係を結び、名張市民のあずかり知らぬところではあろうけれども、市立図書館のリファレンスブックがある程度、名張市の自己宣伝に役立っていることもまた事実なのである。

だから、縁を切るのはもったいない。あまりにも、もったいない。さりとて名張市は、あいもかわらず無策無能である。『乱歩文献データブック』と『江戸川乱歩執筆年譜』を両手にもち、どちらの本にも字が書いてあるから中身はおなじではないのか、と尋ねてくるようなばかが教育次長を務めていたような自治体なのである。もはや、何を期待することもできない。

だから悩んだ。ひと夏、おおいに悩んだ。これ以上、名張市に何を提案しても無駄である。いくら叱り飛ばしても意味はない。それだけは、はっきりしている。だったら、どうすればいいのか。

こちらでNPOをつくって、名張市がやるべきことをやってやるしかないのではないか。

ひとまずこういった結論にたどりついた。とはいえ、まだ、迷っている。
江戸川乱歩の著書や関連資料の収集は進める。だが、その活用については何も考えない。考えようとしない。考える能力がない。驚くべきことだが、それが名張市の実態であった。

なんのために資料収集をおこなうのか、その根拠が、みごとに欠落している。考えようともしない。せいぜい思いつくのは、市民を対象に乱歩作品の読書会を開くといった程度のことである。それが名張市立図書館の実態であった。

十二年前、平成7・1995年10月に、名張市立図書館の依頼をうけて嘱託になった。経緯はウェブサイト名張人外境の「乱歩文献打明け話」に記してあるから、ここには書かない。

嘱託として手がけたのは、いうまでもなく、収集資料の活用である。市立図書館が開館準備の段階から集めてきた資料にもとづいて、江戸川乱歩の書誌をつくることである。一冊目は、乱歩について記された評論や随筆などの目録『乱歩文献データブック』をまとめた。

このあたりのことは、南陀楼綾繁こと河上進さんが、「季刊・本とコンピュータ」平成17・2005年夏号のルポ「そして、本だけが残る──三人の「出版者」との対話」にまとめてくださったので、引用しておく。

   
書誌の出版を提案した理由を、中さんは「自分が使う立場だったら、絶対欲しいと思ったから」と語る。それとともに、長年かけて集まった乱歩関係の資料を、名張市民だけにしか提供しないのはもったいない。ここにしかない貴重な資料を全国の乱歩ファンや研究者に向けて提供するのが、公共図書館が本来行なうべきサービスなのだという確信もあったという。
嘱託になってすぐ、次年度の予算を要求するとともに、『文献』(『乱歩文献データブック』のこと──引用者註)の準備にかかった。平井隆太郎(乱歩長男)・中島河太郎(推理小説評論家)両氏に監修を依頼し、先行する資料をもとに調べを進めていった。その後、新聞で『文献』が準備中であることが記事になり、県内外のミステリーマニアから資料を借りたり、情報を得たりすることができた。そうして得たデータをワープロソフトに打ち込んでいき、索引も一人で作成した。『文献』の発行は一九九七年四月(奥付は三月末)。企画から発行まで、約一年半。予算上、年度内に出す必要があったとはいえ、これは驚異的な早さである。

収集資料にもとづいて、といっても、名張市立図書館に存在しない資料も多い。お役所の思考法でいえば、所蔵資料だけを目録化すればいいということになるのだが、それでは「自分が使う立場だったら、絶対欲しいと思」う書誌にはならない。

市立図書館が所蔵していない資料を確認したり調査したりする作業は半端ではなかったが、とにかく三冊の書誌をまとめることができた。
  1. 乱歩文献データブック 平成09・1997年3月31日
  2. 江戸川乱歩執筆年譜  平成10・1998年3月31日
  3. 江戸川乱歩著書目録  平成15・2003年3月31日
『乱歩文献データブック』でも「県内外のミステリーマニアから資料を借りたり、情報を得たりすることができた」のだが、そのあとの二冊の書誌をつくる過程では、さらに数多くの方から協力していただいた。

とくに三冊目の『江戸川乱歩著書目録』を編纂したときには、全国の乱歩ファンやミステリーマニアのあいだに、名張市立図書館のやろうとしていることへの理解が、ある程度、浸透していることが感じられた。だから、実際、多くの方から激励や教示をたまわることができた。

その嬉しさは、文字どおり筆舌につくしがたいものではあったが、『江戸川乱歩著書目録』の解題「ふるさと発見五十年」では、できるかぎりの範囲内でつくしておいた。結びの三段落を引く。

   
本書編纂にあたっては、平成十三年十二月から立教大学移管後の十四年六月まで数回にわたり、当主の平井隆太郎先生からご高配をいただいて、旧宅に保存された乱歩の著作を調査する機会を得た。もとよりすべてに眼を通せたわけではないが、著書目録として一応の体裁を整えられたのはご遺族のご協力のたまものにほかならない。
また、小林眞さんのホームページ「小林文庫」(http://www.st.rim.or.jp/~kobashin/)の電子掲示板では、閲覧者からの投稿という形で乱歩の著作についてさまざまなご教示に与った。未知の探偵小説ファンから寄せられた数々のご厚意は、それらの人々の乱歩その人への敬愛のあらわれとしても忘れがたい。お力添えを忝くしたすべての方に心からお礼を申しあげる。
最後にひとつだけ、残念な事実を記しておかなければならない。江戸川乱歩リファレンスブック1、2のご監修をいただいた中島河太郎先生が、平成十一年五月五日に白玉楼中の人となられた。あらためてご冥福をお祈りする次第である。

こうした協力が寄せられたということは、いや、協力といっても、実際には、資料の調査や確認で多くの人に手間や厄介を押しつけただけのことなのだが、とにかくそうした協力をいただくことができたのは、要するに、名張市立図書館がつくろうとしていた書誌に、「それらの人々」が意義や必要性を認めてくださっていたということである。

こうした協力関係は、信頼関係につながってゆく。河上進さんの「そして、本だけが残る──三人の「出版者」との対話」には、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』のことも書いていただいてあるので、引用しておく。

   
中さんは、千葉県の成田山書道美術館で展示された不木から乱歩宛の書簡を見て、「これは本にしなければ」と決意した。名張市では新規の予算がつかなかったが、三重県が松尾芭蕉の生誕三百六十年にあわせて行なう「秘蔵の国 伊賀の蔵びらき」というプロジェクト(予算は三億円!)内の「乱歩蔵びらき実行委員会」の事業として、予算を取ることができた。
『子不語の夢』も自治体の発行物としては、きわめて型破りな本である。乱歩、不木の書簡の原文の翻刻に加え、大胆な解釈や推定にまで踏み込んだ脚注や、詳細な索引、論考が収録されている。書簡や封筒の画像を入れ込んだCD-ROMも付いている。もうひとつの特徴は、大学の研究者、ミステリ研究家、小酒井不木サイトの運営者、編集者など、プロ/アマ、アカデミズム/在野の違いにこだわらない人的ネットワークによって本書がつくられたことである。自治体の予算を使いながらも、その枠を大きくはみ出す本づくりを行なっているのだ。

名張市立図書館のためなら、というか、江戸川乱歩のためなら、いくらだって一肌ぬいでやろう、とおっしゃる方が世の中には存在する。そうした人たちとの協力関係や信頼関係を基盤にすれば、貴重な「人的ネットワーク」を組織することも可能である。そうしたネットワークは、まぎれもなく、名張市という自治体にとっての財産である。

そのあたりのことは、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』にいただいた野呂昭彦知事の序文「江戸川乱歩と「新しい時代の公」」にも、ちゃんと記されている。かつてウェブサイト名張人外境に引いたところを、さらに引用しておく。

   
近年、政治学や社会学の分野で「ソーシャル・キャピタル」という言葉を耳にします。直訳すれば社会資本という意味になりますが、これは従来のような経済的資本ではなく、人的なネットワークや信頼関係を指す言葉とされ、一般に社会関係資本と訳されています。共通の目的に向けて協働する人と人とのつながりがソーシャル・キャピタルであり、そうした社会関係資本が多く存在すればするほど、その地域はより豊かで魅力的なものになると考えられています。
今回、「乱歩蔵びらき委員会」の依頼に応えて、第一線でご活躍の研究者の方々から惜しみないご協力をいただけたのは、名張市立図書館を拠点とした社会関係資本が有効に機能した結果であり、伊賀地域や三重県が実施する事業にそうしたソーシャル・キャピタルが実り多い成果をもたらしてくれたことは、今後の地域づくりを考える上でも貴重な事例になるものと期待しております。
また、伊賀の蔵びらき事業は、三重県が本年四月にスタートさせた総合計画「県民しあわせプラン」のモデルケースとも位置づけられています。この計画では、県民、NPO、地域の団体、企業、行政など多様な主体が対等のパートナーとして協働し、「新しい時代の公」を担っていくことを目指していますが、本書はそうした新しい「公」、それも県境を越えて存在する新しい「公」によって世に送り出されるものといっても過言ではありません。

三重県においても、あるいは、名張市においても、「協働」や「新しい時代の公」と呼ばれるものの実態は、ひどいものである。先日の監査結果通知書があきらかに示していたとおり、この名張市においては、「協働」という言葉が、官と民の癒着を正当化するものとして使用されている。

だが、少なくとも『子不語の夢』についていえば、この本の出版が「新しい時代の公」の本来の理念を具体化したものであるとする知事の指摘は、妥当なものといえるだろう。

知事ですら、遠く三重県庁で職務にあたる知事ですら、「名張市立図書館を拠点とした社会関係資本」にかんして、こうした認識をおもちでいらっしゃる。だというのに、名張市鴻之台1番町1番地にそびえ立つあの愚者の城、名張市役所の連中と来た日にはどうよ。何も知ろうとせず、何も考えようとせず、ひたすら責任回避に明け暮れるばかりのあの連中はどうよ。

平成10・1998年のことである。名張市立図書館にお客さんがあった。だいじなお客さんなので、名張市教育委員会の教育次長が挨拶した。ちょうど『江戸川乱歩執筆年譜』が出たばかりだったから、お客さん全員に一冊ずつ手渡し、ご覧いただいていた。

テーブルには、『乱歩文献データブック』も置いてあった。と、横から、『江戸川乱歩執筆年譜』と『乱歩文献データブック』を手にした教育次長が、こんなことを訊いてくる。

「これ二冊ありますけどさなあ、こっちとこっち、表紙は違いますわてなあ。せやけど、中身はほれ、どっちも字ィ書いてあって、二色刷で、ふたつともおんなじですねさ。これ、こっちとこっち、どこが違いますの」

ばかなのである。もう野放図なまでの、眼もくらまんばかりのばかなのである。そもそも本というものは、たんに字を印刷してあるだけのものなのである。その字を読まなければ、中身の違いはわからぬのである。

名張市の職員がすべて、全員が全員、どうしようもないばかであるというつもりはない。だいたい、職員個々のことなどよく知らない。だが、総体としてみれば、アベレージを求めるならば、これはもうばかだとしかいいようがないだろう。そして、なかには相当なばかがいて、ただ市職員として甲羅を経ているというそれだけの理由で、その手ひどいばかが教育次長を務めていたのである。

大丈夫か名張市。
名張まちなか再生委員会はどうなったのか。

11月3日の土曜日と翌4日の日曜日、名張まちなかを舞台に、「隠街道市」という名前のコミュニティイベントが催される。「隠」は「なばり」とお読みいただきたい。

関係諸団体が手を携え、いわゆる多様な主体の協働というやつが進められるのだが、その団体のひとつ、「名張古町を考える会」から依頼を頂戴して、11月3日、名張市総合福祉センターふれあいで、「タイムスリップ初瀬街道 東海道から参宮表街道へ」と題した講演をおこなうことになっている。

その打ち合わせがあるというので、昨夜、中町集議所で開かれた名張古町を考える会の会合にお邪魔した。

「隠街道市開催要項」というA4サイズ一枚のプリントが配られた。それによると、隠街道市の主催は名張地区まちづくり推進協議会である。どうしたことか。

隠街道市という名のコミュニティイベントは、去年につづいて二回目である。去年の主催団体は、たしか名張まちなか再生委員会だったはずである。

名張まちなか再生委員会はどうなったのか。

プリントによれば、隠街道市は名張商工会議所が協賛し、協力団体は次のとおり。
  • 物産振興会
  • 古町を考える会
  • (社)名張市観光協会
  • 皇學館大学
  • 名張能楽振興会
  • 春を呼ぶ会
  • 温故会
  • 名張史跡顕彰会
  • まちなか再生委員会
  • 名張シンクス
ようやく、まちなか再生委員会の名前を見いだすことができた。主催団体の座から転がり落ち、いまや並び大名の一員ということか。

そういえば、名張まちなか再生委員会によって設立された、たしかNPOなばりとかいった団体はどうしたのか。名前がどこにも見あたらない。こういったコミュニティイベントこそ、あのNPOの出番ではないのか。

名張まちなか再生委員会はどうなったのか。

名張まちなか再生プランはいったいどうなってしまったのか。

ついでにお知らせしておくと、地域の名門三重県立名張高等学校マスコミ論受講生による「名張まちなかナビ2.0」は、名張古町を考える会から写真提供など全面的協力をたまわって編集を進め、隠街道市初日、11月3日に発行の予定となっている。

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