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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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理事会まだぁ〜?
 
とか尋ねてみても、まだなのであろうな。まだまだなのであろうな。名張まちなか再生委員会の第五回理事会が開かれるのは、まだまだ先のことになるのであろうな、という予感がするので、しばらくべつの話題をつづる。というか、このエントリのつづきである。
 
 
おしまいのほうを引用しておく。
 
   
名張まちなか再生委員会がいくら切歯扼腕してみたところで、名張市が現在のようなていたらくではどうしようもない。委員会に「有効な手だて」がないのは当然の話で、そもそも乱歩と名張はほぼ無縁なのである。いわゆる地域資源として乱歩を活用するなどといってみたところで、手がかりなどまるでないのである。しいていえば、市立図書館が収集してきた乱歩関連資料が唯一の手がかりなのであるが、といったことはこのところ連日のごとく記してきたところなのであるが、それでもなおしつこく書きつけておくと、名張市はこのていたらくなのである。

   
中 相作 さま
    
このたびは「市長への手紙」をお寄せいただき、ありがとうございました。
 
名張市立図書館が所蔵する江戸川乱歩関連資料を活用するための具体的な方針につきましては、現在のところございませんが、今後、図書館活動の一環として、江戸川乱歩に関連する図書や雑誌などの資料を、収集・保存に努めてまいりたいと考えています。
 
今後とも、貴重なご意見・ご提案をお寄せいただきますようお願いします。
 
平成20年10月 9日
 
 名張市長 亀井利克

ならば、「江戸川乱歩に関連する図書や雑誌などの資料を、収集・保存に努めてまいりたい」とかいってるご託の実態はどうよ。先日も掲載したが、名張市立図書館の「江戸川乱歩関連資料一覧(平成20年度受入)」がこれである。
 
20090406a.jpg

昨年度、市立図書館が乱歩関連資料の購入に要した費用は七万五千百九十五円であった。3月25日午後、名張市役所四〇五会議室でこのプリントを示されたとき、中先生は心のなかで頭を抱えた。購入金額があまりにも少ないから、というわけではまったくない。市立図書館が乱歩関連資料を購入するにあたっては、なんの方針も目的もなく、ただ眼についたものを買っているだけである、ということがよくわかったからである。もちろんそれは、無理もないことである。いまの市立図書館には、乱歩のことを多少なりとも理解しているスタッフが、ただのひとりも存在しない。だから、しかたのないことなのである。もうひとつ、だから、という接続詞を連ねることにして、だから名張市は、もう乱歩関連資料の収集なんておしまいにしてしまうべきなのである。
 
といったところで、あすにつづく。あるいは、13日の月曜につづく。

4月11日か13日につづいていたはずが、二か月以上のインターバルを置いてしまう結果となった。不徳のいたすところであろうな、と反省しつつ、遅ればせながら先に進む。

図書館の話題である。朝日新聞の6月1日付ウェブニュースに、こんなのがあった。

要するに、「全国の公立図書館の6館に1館が業務を民間企業を中心に外部に委託し、その割合は今後も増える見通しだ。財政難に苦しむ自治体が運営費削減を狙っているためだが、およそ本とは縁の無さそうな異業種からも参入が相次ぎ、異色のサービスも次々に登場している」という寸法で、「公共施設の管理運営を民間にも開放した指定管理者制度が原動力。あらゆる分野で市場縮小が広がるなか、図書館市場は拡大を続ける。公立図書館は98年から10年間で602館が新設。市街地活性化の目玉として再開発ビルの主要施設として開館したケースも多い。日本図書館協会によると、08年の利用者は、団塊世代の利用増や消費不況もあり前年比4.5%増えた」という。

結局はまあ、全国の公立図書館が劣化の一途をたどっている、ということなのである。この記事によれば、車両サービス、ビル管理、人材派遣などを本業とする企業が、すなわち、図書館のことなんかろくに知りもしないような業者が、指定管理者として図書館の運営に携わっているのである。で、コンシェルジュだかなんだか知らんが新しいサービスが提供されているとのことで、結構結構、それはそれで結構である。しかし、そうしたサービス以外にも、つまり、無料貸本屋としてのサービス以外にも、図書館が担うべき役割は厳然として存在している。そして、指定管理者制度の導入によって図書館事業に参入してきた企業には、そのあたりの事情がほとんど理解できておらんらしいのである。だから、コンシェルジュだかなんだか知らんが、うわっつらのサービスをこれみよがしに展開することのみに汲々とし、貸出冊数や入館者数などといった表面的な数値だけを評価の基準とする、などといった愚劣な傾向があっというまにひろがって、全国各地で図書館そのものの質が急速に劣化しつつあるのである。

現在ただいまの日本における図書館の危機とでも呼ぶべきものは、まさしくその一点にこそ存しているとみるべきなのだが、6月1日付の朝日の記事ではそういった点への踏み込みがみられず、これはおそらく、取材記者自身も公立図書館という公共施設の本質をもうひとつよく理解できていないせいではないのか、とか思っていたところ、おなじく朝日新聞の大阪本社版6月20日付オピニオン面に、佐野眞一さんのインタビュー「売れ筋本ばかりの図書館はいらない」が掲載された。1日付記事との関連は不明だが、全国的な傾向となっている図書館の劣化を懸念する文化人のひとりとして、『だれが「本」を殺すのか』の著者である佐野さんが警鐘を鳴らしている、といったおもむきのインタビューである。

佐野眞一さんといえば、と、ここでいきなり話が横道にそれるわけであるが、横道にそれたままそれっぱなしになってしまう危険性もあるわけであるが、しかしそんなのはよくあることだから流れにまかせて筆を進めるわけなのであるが、4月26日のことである。伊賀市上野寺町にある大超寺の「歴史講座寺子屋」で講師を務めた。「田中善助翁と資本主義の倫理」と題した講演をおこなったのだが、講演に先立って司会者のかたによる講師紹介があり、亡父からはじまって父子二代にわたるご紹介をいただいた。亡父は旧上野市の出身で、講師のおれよりよっぱど伊賀市に縁が深いから、まあ当然といえば当然の話ではあるのだが、旧上野市の人間であった亡父が名張市に転居してしまったのは上野にとって頭脳流出であった、みたいな話になったのでさすがに気恥ずかしく、講演では開口一番、いやもううちの親父というのはほんとにひどい男で、と事実を述べ、それを論証するために佐野眞一さんの『業界紙諸君!』という著書を例示した。

『業界紙諸君!』は昭和62・1987年、中央公論社刊。タイトルからも知れるとおり業界紙の歴史や内幕を追ったノンフィクションで、なかに「『日本読書新聞』の“戦後総決算”」という章がある。日本読書新聞といえば一時期は左翼系文化人の牙城として出版界に君臨し、かんばしからざる風聞とともに昭和59・1984年に廃刊を迎えた書評紙である。その日本読書新聞を扱った章に亡父のことが、まったくまあろくでなしとしかいいようのない人間として描出されているので、そのあたりを大超寺にお集まりいただいたみなさんに紹介して、こんな男が上野から名張に出ていったからって、そんなものは頭脳流出でもなんでもないということを簡単に説明しておいたのだが、この話に興味を示してくださったかたもあったので、「『日本読書新聞』の“戦後総決算”」からいささかを引用しておくことにする。底本は、平成12・2000年刊のちくま文庫版『業界紙諸君!』である。

   
 「日本読書新聞」の歴史にこうした前史時代があることを知る人はほとんどいない。しかし、同紙の創刊が一九三七(昭和十二)年の三月一日でありながら、第三種郵便物の認可年度がそれより早い昭和八(一九三三)年一月十日となっている謎も、この前史時代に埋めこまれたカギを差し込めば納得がいく。
 編集部は神田小川町の全東栄信用組合ビルの一室があてられた。経営者には、三省堂の子会社である学習社社長の西村辰五郎、博文館社長の大橋進一、有斐閣社長の江草重忠、雄山閣社長の長坂金雄らが交替で就いた。実務にあたったのは、日刊大新聞に対する批判紙として知られていた「新聞之新聞」のスタッフをはじめとする業界紙、出版社、書店出身者からなる混成部隊だった。
 総轄責任者には「新聞之新聞」出身の金田享こと金享粲という韓国人が据えられた。営業部門の責任者には、同じく「新聞之新聞」出身で隻腕ながら営業の辣腕ぶりで業界にこの人ありと鳴り響いていた木下嘉文を置き、編集責任者には、アルス出身で机の引き出しにウイスキーのポケット瓶をしのばせるほど酒好きの中貞夫が就いた。そして最も重要なブックレビュー欄は、東大の出身で牛乳ビンの底のような分厚いメガネをかけた鵜飼某なる人物が担当した。当時のスタッフの一人で、紀伊國屋書店の丁稚小僧から出向した矢田凡久こと矢田保久(東タイ株式会社沼津工場長)はいう。
 「『日本読書新聞』という新しい新聞が創刊されることは、『新聞之新聞』の記者だった木下(嘉文)さんから、だいぶ前に聞かされていました。紀伊國屋は、当時から書籍や雑誌の売り上げ調査店で、そんな関係で木下さんがよく通ってきていました。僕が『日本読書新聞』に行くことになったのは、紀伊國屋で『レツェンゾ』という書評誌の編集をまかされていたせいもあったかもしれません。そのころの『日本読書新聞』は五銭という定価はついていたものの、書店でお客さんに無料配布していました。目立たせようというねらいもあったのでしょう。青い紙を使っていましてね。本の包装紙がわりに使っていた書店もあったようです」
 同紙が創刊されて間もなく「何の気なしに」入社した大橋鎮子(暮しの手帖社社長)によれば、編集長の中をはじめとする編集スタッフは、昼間から酒を飲んでは卑猥な話に際限なく興じていた。大橋は入社一日目にして「エラいところへ入ってしまった」と、急に目の前が暗くなったという。旬刊タブロイド判四ページの「日本読書新聞」は、こうしたいわばあぶれ者の集団によってつくられ、包装紙がわりの新聞としてスタートを切ったのである。

ここに出てくる中貞夫というのが、恥ずかしながら亡父である。家門の名折れとはこのことであろう。一門の恥辱とはこのことであろう。てめーこら昼ひなかから会社で酒くらってうだうだうだうだ猥談ばっかかましてんじゃねーぞこのすっとこどっこい、と叱り飛ばしてやろうにも、『業界紙諸君!』が世に出たとき亡父はすでにくたばっていたからなにもできなんだのであるが、とにかくひどいものである。ろくでなしとしかいいようがない男である。こんな男、どこへ流れていったとて、そんなものは頭脳流出なんぞではまったくないのである。
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