三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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みてきたとおり、江戸川乱歩と名張とは、まったくといっていいほど無縁である。接点を探すとなると、結局は新町の生家跡しかない。
明治27・1894年に生まれ、昭和27・1952年に訪れ、昭和30・1955年に生誕地碑が建てられた。たったこれだけのことである。
たったこれだけの関係を根拠にして、名張市に乱歩文学館を建設するということが、はたして理にかなった話なのかどうか。不合理であるとまではいえないが、少なくとも、身のたけや身のほどにみあった話ではないだろう。
にもかかわらず、この名張市では、何かというと、乱歩文学館や乱歩記念館の構想が浮上してくる。もとより、ろくに乱歩作品を読んだことがなく、乱歩がどんな作家であるのかも知らず、知ろうとせず、ただ乱歩というビッグネームを利用して、名張市を有名にしたいというだけの手合いがいうことである。
要するに、寝言にすぎない。だから、乱歩文学館という看板を思いつくことができるだけで、そもそも文学館がどんな施設なのかすらわきまえていないものだから、そこから先にはただの一歩も話を進められない。浮上した構想は、すぐに沈没してしまう。
昭和30・1955年11月3日、江戸川乱歩生誕地碑の除幕式が営まれ、翌4日の紙面で伊勢新聞がそれを報じた。最初の段落を引用する。行の折り返しにともなう句点の脱落は〔 〕で補う。
たったひとつの接点と呼ぶべき場所を所有者から寄贈されても、名張市に浮上したのは乱歩文学館という短絡的な発想であり、それは例によって例のごとくぶざまに沈没するしかなかった。
伊勢新聞の記事に登場した「可愛い振袖姿の桝田寿美ちやん」から、生誕地碑建立の四十九年後に電話を頂戴し、桝田医院第二病棟を名張市に寄贈する旨の申し出をいただいた身としては、名張市の知的怠惰が桝田家の厚志を踏みにじってしまった結果について、内心忸怩たるものをおぼえざるをえない。
明治27・1894年に生まれ、昭和27・1952年に訪れ、昭和30・1955年に生誕地碑が建てられた。たったこれだけのことである。
たったこれだけの関係を根拠にして、名張市に乱歩文学館を建設するということが、はたして理にかなった話なのかどうか。不合理であるとまではいえないが、少なくとも、身のたけや身のほどにみあった話ではないだろう。
にもかかわらず、この名張市では、何かというと、乱歩文学館や乱歩記念館の構想が浮上してくる。もとより、ろくに乱歩作品を読んだことがなく、乱歩がどんな作家であるのかも知らず、知ろうとせず、ただ乱歩というビッグネームを利用して、名張市を有名にしたいというだけの手合いがいうことである。
要するに、寝言にすぎない。だから、乱歩文学館という看板を思いつくことができるだけで、そもそも文学館がどんな施設なのかすらわきまえていないものだから、そこから先にはただの一歩も話を進められない。浮上した構想は、すぐに沈没してしまう。
昭和30・1955年11月3日、江戸川乱歩生誕地碑の除幕式が営まれ、翌4日の紙面で伊勢新聞がそれを報じた。最初の段落を引用する。行の折り返しにともなう句点の脱落は〔 〕で補う。
碑面に“幻影城”の自筆
和やかに乱歩生誕碑除幕式 【名張】探偵小説作家江戸川乱歩氏(六一)=本名平井太郎=が名張市で生まれたことを記念する「江戸川乱歩生誕地」の碑が文化の日の三日午前十時から同市新町、医師桝田敏明氏方の中庭で除幕された〔。〕長身をモーニングに包んだ乱歩氏は隆子夫人(五八)日本編集者協会理事長本位田準一氏とともに上機嫌で除幕式に列席、可愛い振袖姿の桝田寿美ちやん(七つ)=敏明氏長女=が除幕しようとしたとき、席から立ちあがつて愛用の八ミリ撮影機を回そうとしたので、待ち構えていたカメラマンらがあわてて着席を頼むと「どなたかこれ(撮影機)でお嬢ちやんの除幕を撮つて下さい」と元の席におさまる一コマもあつて、式は同十一時半ごろ終つた。 |
たったひとつの接点と呼ぶべき場所を所有者から寄贈されても、名張市に浮上したのは乱歩文学館という短絡的な発想であり、それは例によって例のごとくぶざまに沈没するしかなかった。
伊勢新聞の記事に登場した「可愛い振袖姿の桝田寿美ちやん」から、生誕地碑建立の四十九年後に電話を頂戴し、桝田医院第二病棟を名張市に寄贈する旨の申し出をいただいた身としては、名張市の知的怠惰が桝田家の厚志を踏みにじってしまった結果について、内心忸怩たるものをおぼえざるをえない。
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