三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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名張市における乱歩文学館をめぐる最近のどたばた。
名張のまちのこのあたり。
こんな狭い道がある。
この道をまっすぐ進むと、やがて本町の通りに出る。本町の通りというのは、旧初瀬街道である。
出たあたりには、そのむかし、精養軒という名前の肉屋があった。中年の夫婦が切り盛りしていて、ごま塩頭の旦那さんは痩せて顔も細長く、ひょろりとした印象の人だったが、奥さんはいかにも肉屋にふさわしいような恰幅で、押し出しも愛想もよかった。
小学生だったころ、自転車でこの道を通り、牛肉やカレールーなんかを買いにいったことはおぼえているが、その精養軒がいつ姿を消してしまったのか、いくら思い出そうとしてもわからない。
上の写真、道の右側には、白い壁の家屋がみえる。このスペースには、もともと建物がなく、中庭になっていた。昭和30・1955年、江戸川乱歩の生誕地碑が、その中庭に建てられた。
白い壁の家とそのむこうの家とのあいだには、写真ではみえないが、細い通路がある。写真の右側方向、新町の通りに出る通路である。通路の入口に、こんな標示がある。
江戸川乱歩の生誕地碑が最初に建てられたのは、この石の標識があるあたりだった。
昭和34・1959年、一帯は伊勢湾台風で被害を受けた。桝田医院も改修を余儀なくされ、ついでに、生誕地碑のある中庭に住居が増築されることになった。
この増築にともない、生誕地碑は細い路地をまたいで、最初の写真の左側にみえていた桝田医院第二病棟の中庭に移転した。距離でいえば、せいぜい二、三メートル程度の移動である。
移転して、こんな感じになった。
この写真は、平成17・2005年11月3日に撮影した。生誕地碑が建立されて、ちょうど五十周年という節目の日である。だからといって、セレモニーが催されるようなことなどなかったが、せめて五十年目のありさまを写真に記録しておこうと思い、足を運んだ。
「乱歩文学館」という掲示があった。「乱歩生誕地碑をふくみ、将来は乱歩に関する様々な情報を集めた、乱歩文学館として整備を予定しています」という説明が書かれていた。
こういう意味不明なことをするのは、いったいだれか。大きくいえば名張市であり、具体的にいえば名張まちなか再生委員会である。
翌日、名張まちなか再生委員会の事務局で尋ねたところ、「歩行者ネットワーク等社会実験」のための掲示物だったという。社会実験というのは、名張まちなかのいろいろなスポットを、地域住民がただ歩きまわっただけのことらしかった。
ちなみに、公文書公開請求のために入手した資料によれば、平成17・2005年度には、この「歩行者ネットワーク等社会実験実施事業」もふくめた「(測試)名張地区既成市街地再生事業実施計画」にかんして、名張市と株式会社都市環境研究所のあいだで契約が結ばれている。契約額は、1,232万1,000円。
意味不明。
平成17・2005年1月に発表された名張まちなか再生プランの素案には、桝田医院第二病棟のことも乱歩文学館のことも、ひとことも記されていなかった。
プランは素案どおり決定され、同年6月に名張まちなか再生委員会が発足した。プランの具体化がスタートした。いつのまにか、桝田医院第二病棟に乱歩文学館を建設することが協議されていた。
名張まちなか再生プランそのものは、市議会のチェックや市民のパブリックコメントというハードルをクリアして決定された。しかし、そこに記されていなかったことは、もとよりそうではない。
だというのに、出どころも不明なら根拠もあいまい、地域住民のコンセンサスなどどこにも存在しない乱歩文学館構想が、いつのまにか名張まちなか再生委員会によって検討されており、おととしの11月3日には、たった一日のことではあったが、桝田医院第二病棟に「乱歩文学館」という案内板が掲出されるにいたったのである。
意味不明。
それから一年半ののち、今年の6月定例会で、名張市は桝田医院第二病棟への乱歩文学館建設を断念すると表明した。
意味不明。
名張まちなか再生委員会に検討がゆだねられ、その結論がいまだ提出されてはいないというのに、どうして名張市にそんな表明ができるのか。
その答えは、名張市監査委員によって示されている。先日の監査結果通知書から引く。
要するに、いわゆる協働ってやつはなあなあずぶずぶの癒着構造のうえに成り立ってんだから、多様な主体のひとつであるそこらのNPOが勝手に決めたことに市民の税金が投じられてもOK、委員会が検討していたことに行政が結論を出しても全然OK、癒着構造をなめんなよ、ということなのである。
つける薬がない。名張市の行政運営におけるこうした幼児性、あるいは自己中心性には度しがたいものがあり、ここまで徹底されるともう何をいう気にもならない。
それに、桝田医院第二病棟および乱歩文学館をめぐる協議検討がいかに無茶苦茶なものであったとしても、いまごろになって何をいってみたところで、しかたがないだろう。覆水が盆に返ることはないのである。
ただ、ひとつだけ、気になってしかたのないことがある。名張市は、この断念について、桝田家にどんな説明をしたのか。その説明によって、桝田家側の納得を得ることができたのか。
桝田医院第二病棟は、江戸川乱歩に関連して活用することを条件として、名張市が桝田家から土地建物を寄贈されたものである。
朝日新聞の平成16・2004年12月8日付ウェブニュースから引用。
同日付毎日新聞ウェブニュースから。
なにしろ、こういった経緯である。桝田敏明先生のご遺族からお話をいただき、まことにありがたいことであると思ってそのまま名張市長にとりついだ身としては、名張市が桝田先生のご遺族にどんな説明をしたのか、それが気になってしかたがない。
しかし実際には、名張市から桝田家には電話一本の連絡もなされていないのではないか。普通ならありえないことだが、名張市ならば十分あるだろう。というか、かぎりなく100%に近い確率で、名張市はどのような説明もおこなっていないのではないか、と推測される。
大丈夫か名張市。
名張のまちのこのあたり。
こんな狭い道がある。
この道をまっすぐ進むと、やがて本町の通りに出る。本町の通りというのは、旧初瀬街道である。
出たあたりには、そのむかし、精養軒という名前の肉屋があった。中年の夫婦が切り盛りしていて、ごま塩頭の旦那さんは痩せて顔も細長く、ひょろりとした印象の人だったが、奥さんはいかにも肉屋にふさわしいような恰幅で、押し出しも愛想もよかった。
小学生だったころ、自転車でこの道を通り、牛肉やカレールーなんかを買いにいったことはおぼえているが、その精養軒がいつ姿を消してしまったのか、いくら思い出そうとしてもわからない。
上の写真、道の右側には、白い壁の家屋がみえる。このスペースには、もともと建物がなく、中庭になっていた。昭和30・1955年、江戸川乱歩の生誕地碑が、その中庭に建てられた。
白い壁の家とそのむこうの家とのあいだには、写真ではみえないが、細い通路がある。写真の右側方向、新町の通りに出る通路である。通路の入口に、こんな標示がある。
江戸川乱歩の生誕地碑が最初に建てられたのは、この石の標識があるあたりだった。
昭和34・1959年、一帯は伊勢湾台風で被害を受けた。桝田医院も改修を余儀なくされ、ついでに、生誕地碑のある中庭に住居が増築されることになった。
この増築にともない、生誕地碑は細い路地をまたいで、最初の写真の左側にみえていた桝田医院第二病棟の中庭に移転した。距離でいえば、せいぜい二、三メートル程度の移動である。
移転して、こんな感じになった。
この写真は、平成17・2005年11月3日に撮影した。生誕地碑が建立されて、ちょうど五十周年という節目の日である。だからといって、セレモニーが催されるようなことなどなかったが、せめて五十年目のありさまを写真に記録しておこうと思い、足を運んだ。
「乱歩文学館」という掲示があった。「乱歩生誕地碑をふくみ、将来は乱歩に関する様々な情報を集めた、乱歩文学館として整備を予定しています」という説明が書かれていた。
こういう意味不明なことをするのは、いったいだれか。大きくいえば名張市であり、具体的にいえば名張まちなか再生委員会である。
翌日、名張まちなか再生委員会の事務局で尋ねたところ、「歩行者ネットワーク等社会実験」のための掲示物だったという。社会実験というのは、名張まちなかのいろいろなスポットを、地域住民がただ歩きまわっただけのことらしかった。
ちなみに、公文書公開請求のために入手した資料によれば、平成17・2005年度には、この「歩行者ネットワーク等社会実験実施事業」もふくめた「(測試)名張地区既成市街地再生事業実施計画」にかんして、名張市と株式会社都市環境研究所のあいだで契約が結ばれている。契約額は、1,232万1,000円。
意味不明。
平成17・2005年1月に発表された名張まちなか再生プランの素案には、桝田医院第二病棟のことも乱歩文学館のことも、ひとことも記されていなかった。
プランは素案どおり決定され、同年6月に名張まちなか再生委員会が発足した。プランの具体化がスタートした。いつのまにか、桝田医院第二病棟に乱歩文学館を建設することが協議されていた。
名張まちなか再生プランそのものは、市議会のチェックや市民のパブリックコメントというハードルをクリアして決定された。しかし、そこに記されていなかったことは、もとよりそうではない。
だというのに、出どころも不明なら根拠もあいまい、地域住民のコンセンサスなどどこにも存在しない乱歩文学館構想が、いつのまにか名張まちなか再生委員会によって検討されており、おととしの11月3日には、たった一日のことではあったが、桝田医院第二病棟に「乱歩文学館」という案内板が掲出されるにいたったのである。
意味不明。
それから一年半ののち、今年の6月定例会で、名張市は桝田医院第二病棟への乱歩文学館建設を断念すると表明した。
意味不明。
名張まちなか再生委員会に検討がゆだねられ、その結論がいまだ提出されてはいないというのに、どうして名張市にそんな表明ができるのか。
その答えは、名張市監査委員によって示されている。先日の監査結果通知書から引く。
■平成17年3月には、名張地区既成市街地再生計画策定委員会が「名張まちなか再生プラン」をとりまとめている。このプランでは、従来の市主導の一方的な計画推進手法ではなく、市民と行政が共に尊重し、共に育む計画、つまり協働事業として取り組むこととした。そのリーダーシップをとる組織として発足したのが「名張まちなか再生委員会」であり、この委員会を構成する多様な人材と行政が、共に携え検討を加えてきたことから、請求人の主張する市の意向がまったく反映されていないという主張には理由がないものと解するほかない。
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要するに、いわゆる協働ってやつはなあなあずぶずぶの癒着構造のうえに成り立ってんだから、多様な主体のひとつであるそこらのNPOが勝手に決めたことに市民の税金が投じられてもOK、委員会が検討していたことに行政が結論を出しても全然OK、癒着構造をなめんなよ、ということなのである。
つける薬がない。名張市の行政運営におけるこうした幼児性、あるいは自己中心性には度しがたいものがあり、ここまで徹底されるともう何をいう気にもならない。
それに、桝田医院第二病棟および乱歩文学館をめぐる協議検討がいかに無茶苦茶なものであったとしても、いまごろになって何をいってみたところで、しかたがないだろう。覆水が盆に返ることはないのである。
ただ、ひとつだけ、気になってしかたのないことがある。名張市は、この断念について、桝田家にどんな説明をしたのか。その説明によって、桝田家側の納得を得ることができたのか。
桝田医院第二病棟は、江戸川乱歩に関連して活用することを条件として、名張市が桝田家から土地建物を寄贈されたものである。
朝日新聞の平成16・2004年12月8日付ウェブニュースから引用。
乱歩生誕碑ある家 活用して 名張
□名張市に生まれ、日本の推理小説の生みの親として知られる江戸川乱歩(1894〜1965)の生誕碑がある同市本町で、空き家となっている医院の施設の所有者が、乱歩に関連した活用を願って、同碑が建っている土地と建物を市に寄贈した。市は今後、活用方法を検討する。 □寄贈したのは、同市新町の桝田医院(田中成典院長)の初代院長で乱歩と交流のあった故・桝田敏明さんの妻の寿子(ひさこ)さん(81)=大阪府高槻市在住。すでに、先月24日に所有権の移転の手続きを終えたという。 □(略) □寄贈については、今年9月、寿子さんの「乱歩にちなんだことで市に活用してほしい」との思いを受けた長女の寿美さんが、名張市立図書館嘱託職員の中相作さんに電話で相談。中さんは亀井利克市長に報告するとともに「乱歩の生家を復元したらおもしろいのではないか」などと助言したという。 □亀井市長は「今後のまちづくりの大きなインパクトになる。活用方法については、住民と協議して今年中にも決め、正式に発表したい」と話している。 |
同日付毎日新聞ウェブニュースから。
「江戸川乱歩のために使って」 名張の桝田寿子さん、病棟と土地を市に寄贈 /伊賀
□◇記念館として、整備検討 □名張市生誕の推理作家、江戸川乱歩の生誕碑がある名張市本町の桝田医院第2病棟所有者、桝田寿子さん(81)が「乱歩に関することで活用してほしい」と病棟と土地を名張市に寄贈していたことが7日、分かった。病棟は空き部屋となっており、名張市は「江戸川乱歩記念館」として整備しようと検討を始めている。【熊谷豪】 □(略) □病棟(木造平屋建て、敷地面積約380平方メートル)は築後約50年が経過し、83年から使用していない。桝田さんは「乱歩にかかわることで市に活用してほしい」と、乱歩に詳しい名張市立図書館嘱託職員の中相作さん(51)を通じて寄贈を申し出て、11月末に所有を移転したという。 □中さんは「乱歩の生資料の収集は難しいが、生家を復元したら面白い。生誕碑が出来て50周年となる来年11月3日のオープンを目指してほしい」と話している。 |
なにしろ、こういった経緯である。桝田敏明先生のご遺族からお話をいただき、まことにありがたいことであると思ってそのまま名張市長にとりついだ身としては、名張市が桝田先生のご遺族にどんな説明をしたのか、それが気になってしかたがない。
しかし実際には、名張市から桝田家には電話一本の連絡もなされていないのではないか。普通ならありえないことだが、名張市ならば十分あるだろう。というか、かぎりなく100%に近い確率で、名張市はどのような説明もおこなっていないのではないか、と推測される。
大丈夫か名張市。
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