三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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いつまでも寒い。いっそこのまま春なんか来ずに、細川邸改めやなせ宿も永遠に改修工事中だったらいいのにな、と思っている関係者もいるのかもしれぬが、そうは問屋が卸してくれない。誰からも望まれることなく生まれてくる赤子のような施設が、無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館と揶揄されながら、2月中には改修を終え、6月オープンという運びになっているのである。なんのための施設なんだか結局だれにもわからぬまま、一億円もかけた公共施設が堂々と誕生してしまうのである。名張市って、あほなん?
いやいや、あほなのはやなせ宿だけではない。江戸川乱歩生誕地碑広場だってずいぶんあほである。1月31日に名張まちなか再生委員会事務局で確認したところでは、桝田医院第二病棟跡地を広場として整備する事案にかんしては、名張市がすべてをとりまとめ、その結果が委員会サイドに報告されているのだという。つまり、民間から委員を集めて委員会たら協議会たらを発足させ、そこに市の課題や懸案の検討をゆだねるという名張市お得意の手法は、すでにモデルとして破綻しておるのである。名張まちなか再生委員会が本来検討すべきことを、名張市が庁舎内部の協議のみによって決定し、その結果が委員会に伝達されているだけだというのである。名張市って、あほなん?
江戸川乱歩生誕地碑広場についていえば、広場の設計もまだできていない段階で、公共サインという名の案内板が建てられてしまうあほさについてはきのう記した。この案内板というのは、やはりきのう記したことであるが、名張まちなか再生委員会の歩行者空間整備プロジェクトが製作を担当している。すなわち、案内板の文案、写真、デザインなんかを手がけている。名張まちなかの四か所に、3月中には、名張まちなか再生委員会謹製の案内板が設置されることになっているのである。
去年の秋であったか、名張市役所の一階大会議室で、案内板の原稿というか原案というか、デザインどおりにプリントアウトした図面を見る機会があった。委員会の事務局から感想を求められたので、中学生がつくった壁新聞みたいだ、と率直なところを述べておいた。いまから考えれば、中学生に対してじつに失礼な感想であったのだが、忌憚なくいえばそういうことであった。江戸川乱歩生誕地碑広場の案内板にかんして、何かアドバイスはないかとも尋ねられたので、そんなものはないとお答えした。
名張まちなか再生委員会に対しては今後いっさい、もうどんな協力をする気もないんだもんね、と事務局に伝えたのは平成18・2006年6月のことである。いまさら何いってきたって手遅れである。それにだいたい、たとえ中学生がつくった壁新聞のようなものであっても、それが名張まちなか再生委員会の身のほど身のたけというものではないか。ひいては名張市のアベレージというものではないか。こんな程度の案内板しかようつくりませんねんと、それが名張市でございますねんと、正直に披露するのをなぜ憚る。
とにかくそういうことである。江戸川乱歩生誕地碑広場に設置される案内板には、いっさいタッチすることはせず、ただ悪口雑言をならべてきただけである。事務局スタッフからは、そんなこというけど歩行者空間整備プロジェクトが一生懸命つくったんだから、とのフォローが入ったが、一生懸命やりました、などという言葉がエクスキューズとして通用するのは、たぶん幼児の世界くらいなものではないか。そこらの幼稚園や保育所でならOKだとしても、税金の具体的なつかいみちを決めるにあたって、みんな一生懸命やったんですから、なんて話は通用するまい。
そこらのうすらばかを何十人と寄せ集め、たとえ一生懸命に協議検討を重ねさせたとしてみても、結果がペケならペケなのである。ただそれだけの話なのである。げんに細川邸改めやなせ宿は、ペケというしかない帰結を迎えようとしているではないか。名張まちなか再生委員会がいかに一生懸命であったにせよ、一億円つかってなんのためのものなんだか誰にもわからない施設をつくってしまいましたとなれば、一般市民からはあほかといわれるしかないであろう。名張市って、あほなん?
いまからいってもしかたのないことだが、歩行者空間整備プロジェクトのみなさんは、案内板の設置箇所を徹底的に協議して、それが決まったらあとはアウトソーシング、たとえば地域の名門、三重県立名張高等学校のマスコミ論受講生にデザインその他をいっさいゆだねてしまえばよかったのである。そうすれば、少なくとも中学生がつくった壁新聞だなどとおちょくられることはなかったであろう。
もっとも、去年の秋に目にした図面がそのまま採用されたのかどうか、それはわからない。ただ、年度内に予算を消化する都合上、もうぎりぎりの日程であるとのことだったから、手直しをする時間的余裕はなかったのではないか。それに、いまにして思えば、お役所に巣くう闇の業者、コンサルタントと称する連中は、あの案内板にはいっさい関与していなかったのであろうか。もしも関与していたのであれば、さすがに中学生がつくった壁新聞みたいなレベルにはならなかったはずなのだが。
いやいや、そんなことをいってみたってしかたがない。過ぎたことである。終わったことである。それにしてもあの時点では、つまり去年の秋の時点では、案内板を四箇所に設置するために八百万円もの税金が投じられるとは知らなかったなあ。もしもコンサルタントの暗躍があったのなら、八百万円たすことのコンサルタント料が消えていったことになるのだからなあ。そんなことならどうして、地域の名門のマスコミ論受講生に話をもってきてくれなかったのかなあ。地域の税金は地域に落とすのが基本だと思うけどなあ。
いやいや、あほなのはやなせ宿だけではない。江戸川乱歩生誕地碑広場だってずいぶんあほである。1月31日に名張まちなか再生委員会事務局で確認したところでは、桝田医院第二病棟跡地を広場として整備する事案にかんしては、名張市がすべてをとりまとめ、その結果が委員会サイドに報告されているのだという。つまり、民間から委員を集めて委員会たら協議会たらを発足させ、そこに市の課題や懸案の検討をゆだねるという名張市お得意の手法は、すでにモデルとして破綻しておるのである。名張まちなか再生委員会が本来検討すべきことを、名張市が庁舎内部の協議のみによって決定し、その結果が委員会に伝達されているだけだというのである。名張市って、あほなん?
江戸川乱歩生誕地碑広場についていえば、広場の設計もまだできていない段階で、公共サインという名の案内板が建てられてしまうあほさについてはきのう記した。この案内板というのは、やはりきのう記したことであるが、名張まちなか再生委員会の歩行者空間整備プロジェクトが製作を担当している。すなわち、案内板の文案、写真、デザインなんかを手がけている。名張まちなかの四か所に、3月中には、名張まちなか再生委員会謹製の案内板が設置されることになっているのである。
去年の秋であったか、名張市役所の一階大会議室で、案内板の原稿というか原案というか、デザインどおりにプリントアウトした図面を見る機会があった。委員会の事務局から感想を求められたので、中学生がつくった壁新聞みたいだ、と率直なところを述べておいた。いまから考えれば、中学生に対してじつに失礼な感想であったのだが、忌憚なくいえばそういうことであった。江戸川乱歩生誕地碑広場の案内板にかんして、何かアドバイスはないかとも尋ねられたので、そんなものはないとお答えした。
名張まちなか再生委員会に対しては今後いっさい、もうどんな協力をする気もないんだもんね、と事務局に伝えたのは平成18・2006年6月のことである。いまさら何いってきたって手遅れである。それにだいたい、たとえ中学生がつくった壁新聞のようなものであっても、それが名張まちなか再生委員会の身のほど身のたけというものではないか。ひいては名張市のアベレージというものではないか。こんな程度の案内板しかようつくりませんねんと、それが名張市でございますねんと、正直に披露するのをなぜ憚る。
とにかくそういうことである。江戸川乱歩生誕地碑広場に設置される案内板には、いっさいタッチすることはせず、ただ悪口雑言をならべてきただけである。事務局スタッフからは、そんなこというけど歩行者空間整備プロジェクトが一生懸命つくったんだから、とのフォローが入ったが、一生懸命やりました、などという言葉がエクスキューズとして通用するのは、たぶん幼児の世界くらいなものではないか。そこらの幼稚園や保育所でならOKだとしても、税金の具体的なつかいみちを決めるにあたって、みんな一生懸命やったんですから、なんて話は通用するまい。
そこらのうすらばかを何十人と寄せ集め、たとえ一生懸命に協議検討を重ねさせたとしてみても、結果がペケならペケなのである。ただそれだけの話なのである。げんに細川邸改めやなせ宿は、ペケというしかない帰結を迎えようとしているではないか。名張まちなか再生委員会がいかに一生懸命であったにせよ、一億円つかってなんのためのものなんだか誰にもわからない施設をつくってしまいましたとなれば、一般市民からはあほかといわれるしかないであろう。名張市って、あほなん?
いまからいってもしかたのないことだが、歩行者空間整備プロジェクトのみなさんは、案内板の設置箇所を徹底的に協議して、それが決まったらあとはアウトソーシング、たとえば地域の名門、三重県立名張高等学校のマスコミ論受講生にデザインその他をいっさいゆだねてしまえばよかったのである。そうすれば、少なくとも中学生がつくった壁新聞だなどとおちょくられることはなかったであろう。
もっとも、去年の秋に目にした図面がそのまま採用されたのかどうか、それはわからない。ただ、年度内に予算を消化する都合上、もうぎりぎりの日程であるとのことだったから、手直しをする時間的余裕はなかったのではないか。それに、いまにして思えば、お役所に巣くう闇の業者、コンサルタントと称する連中は、あの案内板にはいっさい関与していなかったのであろうか。もしも関与していたのであれば、さすがに中学生がつくった壁新聞みたいなレベルにはならなかったはずなのだが。
いやいや、そんなことをいってみたってしかたがない。過ぎたことである。終わったことである。それにしてもあの時点では、つまり去年の秋の時点では、案内板を四箇所に設置するために八百万円もの税金が投じられるとは知らなかったなあ。もしもコンサルタントの暗躍があったのなら、八百万円たすことのコンサルタント料が消えていったことになるのだからなあ。そんなことならどうして、地域の名門のマスコミ論受講生に話をもってきてくれなかったのかなあ。地域の税金は地域に落とすのが基本だと思うけどなあ。
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