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明治四十五年・大正元年(一九一二)
年齢:十七歳→十八歳、数え年十九歳
学年:中学校五年→大学予科一年
住居:愛知県名古屋市南伊勢町二番
→慶尚南道馬山→東京市麻布区一ノ橋
→下谷区湯島天神町→小石川区春日町
三月十七日(日)
平井太郎、愛知県立第五中学校を卒業。第一回の卒業式で、卒業生は六十六人。[瑞陵会ホームページ:瑞陵高校の歩み年表]
四月六日(土)
名古屋市の御園座で「ジゴマ」の上映開始。十五日(月)まで。[永嶺重敏:怪盗ジゴマと活動写真の時代(新潮新書)/2006年6月]
太郎、御園座で駒田好洋の「ジゴマ」巡業を観る。友人と二人で三晩つづけて通った。[探偵映画往来/昭和23年8月][わが青春の映画遍歴/昭和31年11月]
六月
平井繁男の平井商店が破産し、太郎は第八高等学校への進学を断念。繁男は破産の整理事務を友人や店員などに任せ、太郎とともに朝鮮に渡って、馬山にいた旧友の家に落ち着いた。繁男は開墾事業を志していたが、なすこともなく一か月ほどを過ごすうち、太郎は早稲田大学への入学を決意、繁男の許可を得た。[父母のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]
七月
太郎、馬山から旅費だけを手に上京。[父母のこと/昭和32年8月][貼雑年譜]
七月三十日(火)
*明治から大正に改元。
八月
太郎、麻布区一ノ橋付近に住んでいた繁男の友人、菅生辰次郎の家に居候し、早稲田大学予科中途編入試験に通う。菅生は繁男の郡役所時代以来の友人で、丸ノ内の奥田正吉商店に勤めていた。[貼雑年譜]
九月
太郎、早稲田大学政治経済学部予科に入学。横浜市に住む叔父・岩田豊麿の世話で、下谷区湯島天神町の小活版屋、雲山堂に住み込み、学校の余暇に印刷を手伝ったが、南京虫と過労のため三か月ほどで辞めた。雲山堂主人に雑誌の発行を勧めてみたが、容れられなかった。[貼雑年譜]
十二月六日(金)
太郎、早稲田大学雄弁会が陸軍の二個師団増設問題をテーマに開いた懸賞演説会に参加し、増設反対の立場から演説したが、賞には入らなかった。[貼雑年譜]
十二月
太郎、雲山堂主人の親戚の紹介で、小石川区春日町の下駄屋の二階に住んでいた苦学生二人の仲間入りをし、四畳半に三人住まいで自炊生活をする。のちに一人加わり、四人暮らしとなった。職業は写字だったが、仕事はあまりなかった。一か月一人五円ほどで食費、間代をまかなった。このころには母方の祖母・本堂つまから月七円ずつ仕送りを受けていた。学校の月謝は四円五十銭程度だった。[貼雑年譜]
[2012年5月15日]