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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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きのうにつづいて、週刊「日本の100人番外編」の7号「江戸川乱歩」から、「後世への遺産」の「マニア垂涎の町 生誕地・名張」を引用。

   
また、名張市立図書館は1969(昭和44)年の開館以来、乱歩の著作や関係する文献の収集に努めてきた。それらの資料は1987(昭和62)年に新築移転した、図書館の一角に設けられた「江戸川乱歩コーナー」に展示されることとなった。展示品は書籍などの他に、新たに平井家から借用した乱歩遺愛の帽子やコート、文机や筆もあり、乱歩ファンがゆかりの地を訪れる際には、足を運ぶべきスポットとして人気が高い。そして図書館では、資料や遺品の管理だけではなく、乱歩に関係する文献を整理し『乱歩リファレンスブック』1、2、3として、1997(平成9)年から2003(平成15)年にかけて刊行した。これは乱歩ファンや研究者が利用するバイブルとなっている。
更に名張市では、乱歩にちなんだ「名物」も豊富だ。山本松寿堂では乱歩のデビュー作「二銭銅貨」に由来する「二銭銅貨煎餅」を発売している。そして現在「伊賀まちかど博物館」のひとつとなっている築170年の町家「はなびし庵」(すみた酒店)では、名張の歴史や文化を織り込んだという影絵劇を制作、上演しており、劇の番組のなかには「乱歩誕生」というコミカルな作品もあって人気を呼んでいる。酒屋でもあるこの町家では、影絵劇からイメージした同名のオリジナル酒も販売している。乱歩マニアにとってはどちらも名張でしか入手できない逸品だ。
そして2004年(平成16)年、市制50周年を迎えた名張市は、乱歩の少年探偵団シリーズに登場する「怪人二十面相」を住民登録し、また東京都豊島区と交流都市協定を結んだ。これにより、乱歩が生まれた地と、乱歩が没した地が手を取り合う形となったのである。そして異なった環境や文化をもつふたつの行政区が、乱歩を縁として情報交換や視察を行い、物産や観光情報についても交流を深めている。

いやはや、ひどいものである。名張市における乱歩なるものが、ごく短い期間でみるみる劣化していったさまが、この短い文章からはっきりとうかがえるではないか。

振り返ればまさしくそうであった。あっというまの劣化であった。平成15・2003年の江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』の刊行を輝かしいピークとして、名張市における乱歩なるものは急速に劣化していったのである。あれよあれよというまに坂道を転げ落ちてしまったのである。そしてこのざまである。ろくに乱歩作品を読んだこともなく、乱歩のことを知ろうともせず、もとより乱歩へのリスペクトなどかけらもない連中がしゃしゃり出てきて、うわっつらだけ乱歩乱歩と騒いだあげくがこのざまではないか。まったくまあ、しまいにゃしばき倒すぞ低能ども。

だからまあ、せっかく好意的にとりあげていただいた「日本の100人」には申しわけないのだけれど、名張市は「マニア垂涎の町」などではまったくないのである。そんなまちになれる可能性もないではなかった。しかし、わずかここ数年という短い期間で、可能性の芽はすべて摘みとられてしまった。うすらばかってのはほんっと、手に負えない。好きなだけよだれを垂れておればいいのである。
おまわりさんが飲食店の便所に盗撮用ビデオカメラを仕掛けた土地の名前として、あるいは、かつて全国的な好奇の目を集めた毒殺事件が起きた場所として、でなければ、高名な映画監督の最後の居住地として、名張市がメディアによってひろく紹介されることはたまにある。しかし、名張の名がメディアで喧伝される機会の多くは、江戸川乱歩の生誕地であることによっている。

デアゴスティーニ・ジャパンから、週刊「日本の100人番外編」の7号「江戸川乱歩」が出た。古代から現代にいたるまで、いわゆる歴史上の人物を紹介する大判のグラフ雑誌である。

デアゴスティーニ:日本の100人

「後世への遺産」と題された章では、「マニア垂涎の町 生誕地・名張」というパートで、名張市が紹介されている。掲載写真は、名張市立図書館の乱歩コーナー、江戸川乱歩生誕地碑、すみた酒店の日本酒「乱歩誕生」、山本松寿堂の煎餅「二銭銅貨」。

最初の三段落を引用。乱歩と名張のかかわりが説かれている。

   
三重県名張市は大阪や奈良に近く、古代からその地名が文献に出る程、歴史ある土地である。乱歩はこの地で生まれたものの、間もなく別の土地に引っ越してしまったため、故郷という感じが乏しいというが、生まれ故郷・名張について触れているエッセイも幾つか残している。
乱歩は57歳の時にこの地を訪ね、生家跡を見たり両親を知る人に面会するという機会を得た。これは、乱歩が若い頃に就職のあっせんなどで世話になった恩人の代議士・川崎克の息子で改進党に属していた川崎秀二が選挙に出るというので、その応援演説のために駆け付けたからである。地元の人に歓待された乱歩はエッセイ「ふるさと発見記」のなかに、選挙の応援の役には立たず、得をしたのは自分の方であったと書いている。
1952(昭和27)年に乱歩が名張に帰郷した際には、これを契機として乱歩の生誕地碑に碑を建てる計画が同地で立ち上がった。有志による資金集めから始まり、生家近くには高さ2m弱の「江戸川乱歩生誕地」という碑が出来上がった。ここには乱歩が自ら書いたという「幻影城」の文字が刻まれ、計画が始まってから3年後には、乱歩と妻・隆も参加しての除幕式が行われた。これについて乱歩は、地元・名張が「従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う」と記している。ともあれ、これが乱歩と名張の関係がさらに深まるきっかけとなった。

ややわかりにくいが、「57歳の時にこの地を訪ね」というのが、すなわち「1952(昭和27)年に乱歩が名張に帰郷した」ときのことである。

それでまあ、「乱歩と名張の関係がさらに深まるきっかけ」というのがたしかにあって、結局どういうことになったのか。江戸川乱歩生誕地碑広場ということになったのである。そんなことを誰が決めたのか。名張市役所のみなさんである。ろくに乱歩作品を読んだこともなく、乱歩のことを知ろうともせず、もとより乱歩へのリスペクトなどかけらもなく、桝田医院第二病棟を寄贈していただいたことの恩義すら感じることもない、名張市役所のあほのみなさんなのである。名張市役所に巣くうぼんくらどもが決めたのである。ばかかこら低能。うすらばかが陰でこそこそ勝手なこと決めてんじゃねーぞこの低能自治体。

特別サービス。太字で強調しておこう。

ばかかこら名張市とかいう低能自治体。

あすにつづく。
いつまでも寒い。寒い寒い、と思っていたら、風邪であった。ベンザブロックという風邪薬をのんで寝たら、かなりましになった。むろん、まだ本調子ではない。

湯布院映画祭の公式ブログで、「田中徳三監督とのお別れ会」の報告が完結した。以前にリンクしたものも再掲しておく。

湯布院映画祭公式ブログ:田中徳三監督とのお別れ会 その1
湯布院映画祭公式ブログ:田中徳三監督とのお別れ会 その2
湯布院映画祭公式ブログ:田中徳三監督とのお別れ会 その3

それにしても、いつまでも寒い。
いつまでも寒い。いっそこのまま春なんか来ずに、細川邸改めやなせ宿も永遠に改修工事中だったらいいのにな、と思っている関係者もいるのかもしれぬが、そうは問屋が卸してくれない。誰からも望まれることなく生まれてくる赤子のような施設が、無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館と揶揄されながら、2月中には改修を終え、6月オープンという運びになっているのである。なんのための施設なんだか結局だれにもわからぬまま、一億円もかけた公共施設が堂々と誕生してしまうのである。名張市って、あほなん?

いやいや、あほなのはやなせ宿だけではない。江戸川乱歩生誕地碑広場だってずいぶんあほである。1月31日に名張まちなか再生委員会事務局で確認したところでは、桝田医院第二病棟跡地を広場として整備する事案にかんしては、名張市がすべてをとりまとめ、その結果が委員会サイドに報告されているのだという。つまり、民間から委員を集めて委員会たら協議会たらを発足させ、そこに市の課題や懸案の検討をゆだねるという名張市お得意の手法は、すでにモデルとして破綻しておるのである。名張まちなか再生委員会が本来検討すべきことを、名張市が庁舎内部の協議のみによって決定し、その結果が委員会に伝達されているだけだというのである。名張市って、あほなん?

江戸川乱歩生誕地碑広場についていえば、広場の設計もまだできていない段階で、公共サインという名の案内板が建てられてしまうあほさについてはきのう記した。この案内板というのは、やはりきのう記したことであるが、名張まちなか再生委員会の歩行者空間整備プロジェクトが製作を担当している。すなわち、案内板の文案、写真、デザインなんかを手がけている。名張まちなかの四か所に、3月中には、名張まちなか再生委員会謹製の案内板が設置されることになっているのである。

去年の秋であったか、名張市役所の一階大会議室で、案内板の原稿というか原案というか、デザインどおりにプリントアウトした図面を見る機会があった。委員会の事務局から感想を求められたので、中学生がつくった壁新聞みたいだ、と率直なところを述べておいた。いまから考えれば、中学生に対してじつに失礼な感想であったのだが、忌憚なくいえばそういうことであった。江戸川乱歩生誕地碑広場の案内板にかんして、何かアドバイスはないかとも尋ねられたので、そんなものはないとお答えした。

名張まちなか再生委員会に対しては今後いっさい、もうどんな協力をする気もないんだもんね、と事務局に伝えたのは平成18・2006年6月のことである。いまさら何いってきたって手遅れである。それにだいたい、たとえ中学生がつくった壁新聞のようなものであっても、それが名張まちなか再生委員会の身のほど身のたけというものではないか。ひいては名張市のアベレージというものではないか。こんな程度の案内板しかようつくりませんねんと、それが名張市でございますねんと、正直に披露するのをなぜ憚る。

とにかくそういうことである。江戸川乱歩生誕地碑広場に設置される案内板には、いっさいタッチすることはせず、ただ悪口雑言をならべてきただけである。事務局スタッフからは、そんなこというけど歩行者空間整備プロジェクトが一生懸命つくったんだから、とのフォローが入ったが、一生懸命やりました、などという言葉がエクスキューズとして通用するのは、たぶん幼児の世界くらいなものではないか。そこらの幼稚園や保育所でならOKだとしても、税金の具体的なつかいみちを決めるにあたって、みんな一生懸命やったんですから、なんて話は通用するまい。

そこらのうすらばかを何十人と寄せ集め、たとえ一生懸命に協議検討を重ねさせたとしてみても、結果がペケならペケなのである。ただそれだけの話なのである。げんに細川邸改めやなせ宿は、ペケというしかない帰結を迎えようとしているではないか。名張まちなか再生委員会がいかに一生懸命であったにせよ、一億円つかってなんのためのものなんだか誰にもわからない施設をつくってしまいましたとなれば、一般市民からはあほかといわれるしかないであろう。名張市って、あほなん?

いまからいってもしかたのないことだが、歩行者空間整備プロジェクトのみなさんは、案内板の設置箇所を徹底的に協議して、それが決まったらあとはアウトソーシング、たとえば地域の名門、三重県立名張高等学校のマスコミ論受講生にデザインその他をいっさいゆだねてしまえばよかったのである。そうすれば、少なくとも中学生がつくった壁新聞だなどとおちょくられることはなかったであろう。

もっとも、去年の秋に目にした図面がそのまま採用されたのかどうか、それはわからない。ただ、年度内に予算を消化する都合上、もうぎりぎりの日程であるとのことだったから、手直しをする時間的余裕はなかったのではないか。それに、いまにして思えば、お役所に巣くう闇の業者、コンサルタントと称する連中は、あの案内板にはいっさい関与していなかったのであろうか。もしも関与していたのであれば、さすがに中学生がつくった壁新聞みたいなレベルにはならなかったはずなのだが。

いやいや、そんなことをいってみたってしかたがない。過ぎたことである。終わったことである。それにしてもあの時点では、つまり去年の秋の時点では、案内板を四箇所に設置するために八百万円もの税金が投じられるとは知らなかったなあ。もしもコンサルタントの暗躍があったのなら、八百万円たすことのコンサルタント料が消えていったことになるのだからなあ。そんなことならどうして、地域の名門のマスコミ論受講生に話をもってきてくれなかったのかなあ。地域の税金は地域に落とすのが基本だと思うけどなあ。

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