三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。きのうのつづき。
補足説明。頭屋についてはきのう、簡略に記したが、『名張の民俗』には祭礼の用語を説明したページがあるので、そこから引いておく。「第2章 祭」から引用。
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町) 承前
□祭の行事 承前 □宵宮の行事 27日。この日の午後、頭屋は親戚、懇意な知己を招待する。招客はいずれもカミシモ姿だ。めったに見られない異風景である。これは江戸時代に祭の日だけ町民が士分になることを領主藤堂家から許されたことに由来するといわれる。むろん家紋入りの提灯は付き物(余談だが昭和42年の祭に筆者が本町・岡村浩司家に招待されたとき、カミシモや提灯を借り歩くのに苦労した)。膳の献立は地区によってちがうが、それぞれ古来からの規格がある。 □夜八時、四頭屋の年当子父子・招客一同は行列をつくってお旅所に集まる。ここで宵宮祭を行い、盃の儀がある。境内では朝日町・南町の獅子神楽が舞う。やがて神社から七度半の使いが来る。これは市域ではここだけに残る遺習である。神職が神社からお旅所まで七度むだ足して八度めの途中で迎えるという形である。“七度半の使い”について柳田国男監修『民俗学辞典』は次のように解説している。
□宵宮の参詣客ににぎわう街を練って、一行はやがて神社に着く。ここで、境内に四頭屋が一本ずつ立てた四本の大松明に火がつけられる。炎々と燃えさかる明かりの下で平尾の獅子神楽(平尾の獅子衆が不足で、現今では朝日町・南町)が奏せられる。この模様を安永8年の『儀式帳』は次のように書いている。
□帰路は招客一同自由解散。これで頭屋がおこなう宵宮の祭事が終わる。 □膳 頭屋から講員にくばる組膳は昔とはやや変わり、今日では次のようである。
□おシメ上げ 28日に行う“神上げ”の儀式である。御仮殿に七日間鎮座した神霊を、祭がすんで本社へ送り返す行事だ。平尾では夜八時ごろ神職が頭屋の家へ来て、御仮殿から“神上げ”を行う。御仮殿の前に立てた笹竹とシメ縄をそのままはずし、配膳がそれをかついで、「チョーサ、チョーサ」のかけ声で神社に練込み、境内の一隅にある山の神付近に納める。これを“おシメ上げ”と呼ぶ。 |
補足説明。頭屋についてはきのう、簡略に記したが、『名張の民俗』には祭礼の用語を説明したページがあるので、そこから引いておく。「第2章 祭」から引用。
□□祭のボキャブラリー
□とうや(頭屋) 当屋とも書く。祭の神事行事をいとなむ主宰者である。頭人(とうにん)ともいう。氏神が専業の神職をもたず、村内の氏子だけで祭を行なっていた時代には、頭屋は神主としての仕事もし、その地位はきわめて重かった。近世以降に専業の神職が成立し、祝詞(のりと)なども複雑になって常民では神事の遂行が困難になるにつれ、頭屋は氏子の中から輪番で神事の鋪設に当たるものとなってしまった。頭屋の選びかたは村によってちがうが、長男を主体にその出生順によるのと、家回りとの二系統に大別せられる。前者が圧倒的に多い。頭屋にあたる男児を年当子(ねんどご)という。おなじ長男祭でも夏見や瀬古口のように出生順の名簿が出来ていて、そのとおりに頭屋をまわすところもあるし、名張の町や上比奈知のように厳格な出生順によらず相談により年々の頭屋をきめていくところもある。家回りの場合は、相楽のように『頭屋順序帳』で昔から順番を一定しているところもあるし、滝之原のようにクジできめるところもある。 |
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