三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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みんな、生きてる? と尋ねてまわりたくなるような暑さである。名張市公式サイト「市長への手紙」を利用して送信しておいた質問に、回答があった。7月18日金曜日のことである。ところが、翌日の土曜日からこちら、暑さのせいで死んだみたいになっていたので、報告がきょうになってしまった。
経緯はこのエントリに記した。
5月15日:市長への手紙ことはじめ
さてそれで、メールによる回答の全文を転載。
なるほど、そういうことであったか。奇しき因縁からいまや名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトに属している身ではあるが、以前のことはよく知らぬ。いまから三年前、平成17・2005年の7月29日に開かれたこのプロジェクトの第二回会合で、細川邸の整備方針に変更が加えられた。それは知っている。名張市にたいする公文書公開請求によって、プロジェクトの議事録を入手したからである。議事録には、このように記されている。
「細川邸は、歴史資料館ではなく“(仮称)初瀬街道からくり館”を基本テーマとする」
しかし、変更の理由にはふれられていない。そこで「市長への手紙」を利用したわけである。その回答によれば、変更の背景には「主用途としていた歴史的な資料の展示には新たに展示館の建設が必要になることや、管理体制等の課題が浮上してきたことなどもあり」といった事情があったという。正気かよ。
正気かよ実際。だったら、あの名張まちなか再生プランってのはいったいなんだったんだ、という話になる。とっくの昔からそういう話にはなっていたのだが、いまあらためてそういう話になる。プランの「付録」に記されたところによれば、「名張地区のまちづくりを進めるうえで、多様な主体に共通するまちづくり指針として重要な役割を担って」いるらしいあのプランは、いったいなんだったんだというのである。
それにしてもひどい話ではないか。
「主用途としていた歴史的な資料の展示には新たに展示館の建設が必要になる」
そッ、そんなことすらわからぬうすらばかがプランを策定したのかよ。
「管理体制等の課題が浮上してきた」
そッ、そんなことにすら気づかぬうすらばかがプランを策定したのかよ。
まったくひどい話であるが、この回答に歴然と示されているのは、名張まちなか再生プランなんてまともなものではなかった、ろくなものではなかった、つかいものにならなかった、あほであった、という一事である。むろん、最初からあほであった。一読するだけで、あほなプランであることがすぐわかった。プランの最大の眼目はいうまでもなく細川邸の整備であったのだが、プランの具体化にあたってまず最初にその整備方針を変更しなければならなかったほど、あのプランはあほなプランであったということである。そんなことは最初から知れていたことであったのだが、重要なのは、この回答において、名張市長がそれをお認めになったという一事である。
で、予定どおり二の矢を放った。名張市公式サイト「市長への手紙」に質問を送信した。件名は「みたびやなせ宿について」。送信IDは20080721090920228とのことであった。
回答には「歴史資料館と命名するよりも、プランでも述べているように多様な市民ニーズに応えるためにも」うんぬんとあって、歴史資料館から初瀬街道からくり館への変更は許容範囲内のものである、プランの方針を変更したことにはならない、みたいな逃げがこっそり打たれているのであるが、この線でいくら逃げても逃げきることはできないということは、ここで断言しておいたほうが親切というものであろう。いやまあ、この線も何も、この蟻地獄からは逃れようがないと思うのだが。
経緯はこのエントリに記した。
5月15日:市長への手紙ことはじめ
さてそれで、メールによる回答の全文を転載。
中 相作 さま
□このたびは「市長への手紙」をお寄せいただき、ありがとうございました。 □メールサーバの障害により回答が遅くなり、お詫び申し上げます。 □名張まちなか再生プランでは、確かに歴史資料館として整備することについて述べております。 □その後、プランの具体化の為に設けられたまちなか再生委員会内の歴史プロジェクトで議論をするなかで、主用途としていた歴史的な資料の展示には新たに展示館の建設が必要になることや、管理体制等の課題が浮上してきたことなどもあり、歴史資料館と命名するよりも、プランでも述べているように多様な市民ニーズに応えるためにも物販や飲食なども含む、複合的な利用が可能な施設とすることとなり、既存建造物である町屋を活用した「初瀬ものがたり交流館」として、訪れた人への観光案内や、地域の人との交流を通じ、まちなかの情報発信拠点として施設活用を図り、もって既成市街地の魅力の創出に貢献していく施設として位置づけをしたものです。 今後、やなせ宿として多くの人が本施設を訪れ、まちなかの魅力を高める拠点施設になっていくことを目指すものです。 今後とも、貴重なご意見・ご提案をお寄せいただきますようお願いします。 平成20年7月18日 □名張市長 亀井利克 |
なるほど、そういうことであったか。奇しき因縁からいまや名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトに属している身ではあるが、以前のことはよく知らぬ。いまから三年前、平成17・2005年の7月29日に開かれたこのプロジェクトの第二回会合で、細川邸の整備方針に変更が加えられた。それは知っている。名張市にたいする公文書公開請求によって、プロジェクトの議事録を入手したからである。議事録には、このように記されている。
「細川邸は、歴史資料館ではなく“(仮称)初瀬街道からくり館”を基本テーマとする」
しかし、変更の理由にはふれられていない。そこで「市長への手紙」を利用したわけである。その回答によれば、変更の背景には「主用途としていた歴史的な資料の展示には新たに展示館の建設が必要になることや、管理体制等の課題が浮上してきたことなどもあり」といった事情があったという。正気かよ。
正気かよ実際。だったら、あの名張まちなか再生プランってのはいったいなんだったんだ、という話になる。とっくの昔からそういう話にはなっていたのだが、いまあらためてそういう話になる。プランの「付録」に記されたところによれば、「名張地区のまちづくりを進めるうえで、多様な主体に共通するまちづくり指針として重要な役割を担って」いるらしいあのプランは、いったいなんだったんだというのである。
それにしてもひどい話ではないか。
「主用途としていた歴史的な資料の展示には新たに展示館の建設が必要になる」
そッ、そんなことすらわからぬうすらばかがプランを策定したのかよ。
「管理体制等の課題が浮上してきた」
そッ、そんなことにすら気づかぬうすらばかがプランを策定したのかよ。
まったくひどい話であるが、この回答に歴然と示されているのは、名張まちなか再生プランなんてまともなものではなかった、ろくなものではなかった、つかいものにならなかった、あほであった、という一事である。むろん、最初からあほであった。一読するだけで、あほなプランであることがすぐわかった。プランの最大の眼目はいうまでもなく細川邸の整備であったのだが、プランの具体化にあたってまず最初にその整備方針を変更しなければならなかったほど、あのプランはあほなプランであったということである。そんなことは最初から知れていたことであったのだが、重要なのは、この回答において、名張市長がそれをお認めになったという一事である。
で、予定どおり二の矢を放った。名張市公式サイト「市長への手紙」に質問を送信した。件名は「みたびやなせ宿について」。送信IDは20080721090920228とのことであった。
ご回答ありがとうございました。重ねてお尋ねいたします。次の点にお答えいただければと存じます。
・名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトによる変更、すなわち、細川邸を歴史資料館ではなく初瀬ものがたり交流館として整備するという決定は、正当なものと考えるかどうか。 この場合の「正当」は、あくまでも手続き上の問題であるとお考えください。名張まちなか再生プランは、名張地区既成市街地再生計画策定委員会によって素案がまとめられ、市議会重要施策調査特別委員会でその素案が審議されたあと、素案を公開して市民のパブリックコメントも募集したうえで、最終的に決定されたものです。名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトは、プロジェクトだけの判断で、つまり、市議会や市民を無視して、プランに重大な変更を加えてしまいました。この変更、すなわち決定は、はたして正当なものであるのかどうか。その点をお訊きしております。 正当なものとお考えでしょうか。そうではないとお考えでしょうか。ご多用中恐縮ですが、よろしくご回答たまわりますようお願いいたします。 2008/07/21 |
回答には「歴史資料館と命名するよりも、プランでも述べているように多様な市民ニーズに応えるためにも」うんぬんとあって、歴史資料館から初瀬街道からくり館への変更は許容範囲内のものである、プランの方針を変更したことにはならない、みたいな逃げがこっそり打たれているのであるが、この線でいくら逃げても逃げきることはできないということは、ここで断言しておいたほうが親切というものであろう。いやまあ、この線も何も、この蟻地獄からは逃れようがないと思うのだが。
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