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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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たてつづけに読んだ二冊の新刊が思っていた以上に面白く、無駄に立派な以下略のやなせ塾で述べたことに響き合うところもあるので、やなせ塾の内容をフォローする意味で引用しておく。

まず、きのう読み終えたのが和田竜さんの『忍びの国』。新潮社刊、本体1500円。伊賀の国を舞台に、いわゆる天正伊賀の乱を描く。伊賀の忍びが主役を張る小説としては、近来にない面白さだと思う。先行作品として村山知義の「忍びの者」が連想されないでもないが、じつは相当ちがっていて、忍者たちが本能と第二の天性のおもむくまま、野生の生命をいきいき躍動させることで読者を楽しませてくれる点は、やっぱ山田風太郎版忍法小説の血脈とみるべきか。

面白さを支えているのは、伊乱記や勢州軍記、正忍記や万川集海をはじめとした資料によって基盤がしっかり固められ、そのうえに想像力を駆使した物語の世界がくりひろげられている点に求められよう。全篇を貫いているのは、

「──伊賀の者どもは人ではない」

という基調低音であって、とても人間業とは思えない忍びの術はもちろん、「伊賀の者ども」の冷酷、残虐、背信、狡猾、策謀、我欲などなど、伊賀の人間が読めばなんとも自虐的な快感を得ることになるであろう特性を全開にした忍者群像が描かれる。伊賀のみなさんにとくにお薦めするゆえんであるが、そんなことはべつにしても、決闘シーンの斬新さや合戦シーンの迫力も申しぶんなく、戦国武者の人物造形もなかなかに魅力的、開巻当初は、いかにも当代の若者ふうなことばづかいもあって、ん? と思われないでもない主人公のキャラクターも、終幕にいたって伊賀という風土に深くかかわるものであったと知らされる。

みたいなことは、やなせ塾とはあまり関係がない。やなせ塾で述べた中世伊賀の水平的世界に関連するあたりを、第二章から引いておく。

   
伊賀国は、四方を山々に囲まれた上野盆地を中心とする一帯を領域としていた。東で国境を接する伊勢国に対しては、鈴鹿山脈から布引山地に至る南北に連なる山々が衝立のごとき役割を果している。
藤堂元甫が江戸期に編纂した『三国地誌』によると、伊賀国の境域は「東西九八里余、南北凡拾里余」とされる。石高は十万石程度だったという。
小国である。
この小国の中に現在確認されているだけでも、六百三十四箇所の中世城館が存在していたという。さらに未確認のものが二百三十四箇所あるらしい。どこまでが同時期に活用されていたか定かではないが、合計八百六十八箇所の城館が伊賀国の中でひしめいていたことになる。
異常な数である。
『勢州軍記』には、戦国期に伊賀の地侍は六十六人いたとされている。この六十六人が八百超の中世城館を有していたのかどうか。
この六十六人の地侍どもがどの程度の数の城館を有していたかはともあれ、こんな異常な数の要害を築くのには理由があった。
江戸初期に菊岡如幻が伊賀国での戦乱について記した『伊乱記』によれば、鎌倉幕府滅亡以降、伊賀国は二百四十年近くの間、守護が不在も同然であったのだという。守護自体はいるにはいたが、統べ治めていたとは言えず、実際、地侍によって伊賀から叩き出された守護もいた。
他国では戦国大名が生まれ、より広範囲の地域を支配する勢力が出てきていた時代である。しかし、伊賀では小領主(地侍)が乱立し、しかもそれぞれが極めて仲が悪かった。このような情勢の中、異常な数の中世城館が築かれ、同時に互いを討ち果たす忍びの術が磨かれていった。
「国士邪勇につのり、無道の我意を行なひ(中略)其の身の分限を忘れて、無上の奢を極め、(中略)親子連枝の好をも憚らず、乱逆をなし、日夜討伐をのみ之れ事とす」
『伊乱記』には、戦国期の伊賀の状況がこんなふうに記されている。
地侍たちは頭を抑える大勢力がいないのをいいことに、我を張り合い、親子親戚も関係なく互いが互いをやっつけようとしていたのだという。
同書には地侍たちが巻き起こした戦(というより喧嘩刃傷沙汰)も記されているが、いずれも喧嘩の理由は取るに足らない些細なものだ。

つづいて、安田次郎さんの『走る悪党、蜂起する土民』。小学館の全集「日本の歴史」第七巻、本体2400円。巻末の「おわりに」から引いておく。

   
中世びとに学ぶ
ひるがえって今日の日本の社会をみると、南北朝・室町時代に劣らないほどの危機的な状況にある。もちろん、列島各地で血が流される合戦が起きているわけではないが、つぎの世代に押しつけられようとしている国の膨大な借金、目前に迫ってきた超高齢・少子化社会、「失われた一〇年」の犠牲にされた年齢層と、グローバル化・規制緩和の掛け声のもとで増加した非正規雇用、その結果として格差の出現、各方面でみられるモラル・ハザード等々、われわれもまた瀬戸際まで追い込まれている。そして、間違いなくその原因のひとつは、政治や経済への「参加」に及び腰であったわれわれにある。
四〇年前に大学のキャンパスに足を踏み入れたとき、われわれ新入生を迎えてくれたのは、熱く日本の政治や社会を語り、アジアの民衆との連帯と平和を説き、時には過激な行動も辞さない団塊の世代だった。いわゆる大学闘争はそのピークを過ぎていたが、少し遅れてきたわれわれにもその余熱は強く感じられた。もちろん、冷めた目で見る人たちもいたが、キャンパスや社会には変革への気運が高まっていた。少なくとも未熟な私に「夜明けは近い」と錯覚させるには十分だった。
しかし、夜は明けず、政治の季節は過ぎ去り、団塊の世代もわれわれも、それぞれに生きる場所を社会のなかに得て忙しく過ごしてきた。かつて騒がしかったキャンパスも落ち着きを取り戻し、タテ看の間を縫うようにして歩くこともなく学生たちは行き交う。ノンポリが死語になって久しい。
戦後六〇年がたち、たしかに日本人は豊かな社会を実現した。しかしそれは、たとえば働きすぎによる過労死をいつまでも撲滅できず、老後の不安が消えないためにせっせと貯蓄に励まなければならないような、一面では貧しい、いびつな社会である。それに加えて、最近では先述のような格差や世代間対立も大きな問題となってきた。
これらにどう立ち向かっていけばよいのか。誰も確かな処方箋をもっていない。手探りで進むしか道はなく、いっさいの痛みを避けていては十分な回復を期待することはおそらく無理だろう。今後日本の社会が厳しい局面に立たされることは間違いあるまい。
しかし、われわれは何度か大きな危機を乗り越えて今日を迎えている。歴史に、とくに中世びとに学ぶべきことは少なくないだろう。つぎの戦国時代もまた寒冷期だったといわれている。苛酷な自然条件に加えて戦乱が絶えず、いわば危機が日常化した時代であった。そのなかから近世社会が生まれてくる。それが次巻の範囲である。

おとといも記したことなれど、現在というやつをしっかり理解し、未来というやつをきっちり見さだめるために、人は歴史を学ぶのである。やなせ宿がそのための場になるのはいいことだと思うのだが、やなせ塾の第三回と第四回は、そしてそれ以降は、あるいは子供たちのための夏休みやなせ塾は、さらにはやなせ宿を笑いの絶えない名張まちなか不景気亭に変貌させる寄席化計画は、それぞれいったいどうなるのか。これらはすべて、名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトリーダー、かんなくずの親分の腹ひとつで動きだすのである。名張まちなかは親分の決断を待っているのである。かんなくずの親分、なかなか責任重大である。
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