三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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さて、ほんっとにどうするかなあ。
とりあえず、3月21日からの流れで、「市民の非営利事業の範囲を広げることによって、私たちの社会はより豊かになるといえます」という点について述べると、これは理解できる。名張市や三重県で、というよりも全国の自治体でそれぞれにとなえられている協働だの新しい時代の公だのといったお題目も、煎じ詰めればそうした社会をめざしたいというのが主旨なのであろう。すんなり理解はできるのだが、やはり二の足を踏んでしまう。
何に二の足を踏むのか。むろん「市民の非営利事業」に手を染めること、つまりNPOをつくることである。とにかく名張市がやってることは無茶苦茶である。やらなければならぬことはほったらかしのまま、やらなくていいことにとっとこ手を出して、ご丁寧なことに最悪の結果を招いている。細川邸整備の茶番劇をみるだけで、名張市のおそまつさはもはや隠れもあるまい。だから名張市にはまかせておけない、市民による非営利活動の出番である、という話の流れはよくわかる。
したがって、こうなったらNPOをつくるしかないな、という察しはとっくについているのだが、だからといって嬉々としているわけでもない。そもそも組織や団体なんてものは肌に合わない。群れたり集ったりするのが嫌いである。そんな人間がNPOをつくろうかと考えているのだから、どこかに無理があるはずである。ことが勢いよく前進しないのは、そうした事情もあるからだろう。とはいえ、もちろんそれだけが理由ではない。
ならばと理由を考えてみると、まず頭に浮かぶのは、大丈夫か名張市、ということである。NPOをつくってみたところで、名張市という自治体とのあいだに信頼関係が築けるかどうか。それがおおいに疑問である。かりにこちらが信頼関係を築こうと考えても、名張市は癒着関係しか求めていないのではないか。どうもそんな気がする。
NPOと名張市といえば、思い出されるのは昨年7月に提出した住民監査請求である。そこらのNPOが勝手に決めたことに市民の税金がつかわれていいものか、との問いに対して、監査委員からはOKであるとの見解がもたらされた。あきれ返った話であるが、名張市における協働とは要するに官と民との癒着を正当化するための言葉であり、名張市には組織の主体性や自立性といったものがまったく理解できていないのであるということを、監査結果の報告書が雄弁に物語っていたのである。
だからいくらNPOをつくったところで、名張市と組むことなんか無理なのではないかと思わざるをえない。名張市は名張市で、癒着を拒否するNPOと組もうとはしないのではないかとも思われる。ゆえにNPOには二の足を踏んでしまうわけである。べつに名張市と組む必要はないではないか、とお思いの向きもあるかもしれないが、組まないわけにはいかんのである。
NPOつくって何をやるのかといえば、いちばんの主眼は、乱歩にかんして名張市立図書館が当然しなければならぬはずのことである。しかもそれは、図書館にとって枝葉末節のことではなく、図書館サービスの根幹にかかわることである。なんのために図書館が存在するのか、図書館はなんのために資料を収集するのか、そういった問題にかかわることである。
図書館による資料の収集は、その活用と表裏一体のものである。ところが名張市は、そうしたことをまったく考えてこなかった。たとえば名張市議会の会議録を閲読し、乱歩関連資料にかんしてどんな議論がおこなわれたのかを調べてみると、収集資料の活用が展示という方向でしか語られていないことが判明する。だからこそ、展示のためのハコモノがなければ資料を活用できないという恐れ入った話になるのである。
ハコモノなんかつくらなくたって、資料の活用は立派にできる。名張市立図書館が収集した乱歩関連資料にもとづいて、全国を対象にしたサービスをくりひろげることはいくらだって可能である。こんなぐあいにすればいいのよね、と懇切丁寧に示してやったにもかかわらず、名張市教育委員会は、ということは要するに名張市は、驚いたことにNOというわけである。それならおまえらはいったいどうすればいいと考えておるのか、と尋ねても、名張市教育委員会は返答すらせんわけである。いくら催促しても返答をよこさんわけである。何も考えておらんわけである。
ならば、収集資料をどう活用するのかという図書館サービスの根幹にかかわることを考えようともしない、というよりは考える能力のない名張市にかわって、こちらがNPOつくってちゃんとしたことをやってやろうじゃねーか、ということになってしまって、はたしてそれでいいのかどうか。そんなことになったらこれはもう、ちょっと乱暴に話を飛躍させてしまうならば、名張市なんて民営化してしまったほうがいーんじゃね? ということになってしまうはずである。行政サービスというものがいったいなんであるのか、それを真剣に考えようとしないお役所なんて、とっとと民営化してしまうしかないのではないか。
というか、わざわざNPOをつくるようなことまでして、名張市という程度の悪い自治体の尻ぬぐいをせねばならんものかどうか。尻ぬぐいというのはもちろん、活用のあてもないのに資料を収集してきたことの尻ぬぐいなのであるが、それとてしょせん市民生活には直接かかわりのないことである。そんなことのためにあえて苦労を引き受けねばならんものかどうか。もうこれまでに十年の余、乱歩のことで名張市にはずいぶん滅私奉公してきた身なのである。これ以上まだやるのかよ、と自問自答の迷い道。名張市さえもう少ししっかりしてくれていたならば、こんな道には迷わぬものを。
といったようなことをくどくど並べ立てていてもしかたがないのだが、しかし実際には、ちょいと先のこともまったく不明なのだから困ってしまう。あえて予告をしておくならば、細川邸改めやなせ宿のオープンに合わせて、やなせ宿開設祝賀イベントを主催しようかなと考えている程度のことである。
2月22日付エントリ「やなせ宿開設記念講演会」に、開設記念講演会の講師を務めてやらんわけでもないのだぞと記しておいたのだが、やなせ宿関係者からはいっこうに音沙汰がない。だからこちらで、ということはやっぱり開設までにNPOを組織してということになるのか、あるいはそうではないのか、そのへんのことはもうひとつ確定していないのだが、とりあえずやなせ宿の開設を祝して講演会とかシンポジウムとか、それも一日とはいわず週一回ずつ四週連続とか、やなせ宿を会場にそれくらいぶちかましてやろうかなと考えている次第である。
しかしまあ、不明といえば不明である。何もかもが不明である。五里霧中とはこのことであろう。なにしろ相手のあることだから、不明であるのもしかたがない。不明なことは不明なままに、しばらくこのブログはお休みとして、あすからはもう一か月以上も放置してあったウェブサイト名張人外境に復帰することとしたい。
それにしても、ほんっとにどうするかなあ。
とりあえず、3月21日からの流れで、「市民の非営利事業の範囲を広げることによって、私たちの社会はより豊かになるといえます」という点について述べると、これは理解できる。名張市や三重県で、というよりも全国の自治体でそれぞれにとなえられている協働だの新しい時代の公だのといったお題目も、煎じ詰めればそうした社会をめざしたいというのが主旨なのであろう。すんなり理解はできるのだが、やはり二の足を踏んでしまう。
何に二の足を踏むのか。むろん「市民の非営利事業」に手を染めること、つまりNPOをつくることである。とにかく名張市がやってることは無茶苦茶である。やらなければならぬことはほったらかしのまま、やらなくていいことにとっとこ手を出して、ご丁寧なことに最悪の結果を招いている。細川邸整備の茶番劇をみるだけで、名張市のおそまつさはもはや隠れもあるまい。だから名張市にはまかせておけない、市民による非営利活動の出番である、という話の流れはよくわかる。
したがって、こうなったらNPOをつくるしかないな、という察しはとっくについているのだが、だからといって嬉々としているわけでもない。そもそも組織や団体なんてものは肌に合わない。群れたり集ったりするのが嫌いである。そんな人間がNPOをつくろうかと考えているのだから、どこかに無理があるはずである。ことが勢いよく前進しないのは、そうした事情もあるからだろう。とはいえ、もちろんそれだけが理由ではない。
ならばと理由を考えてみると、まず頭に浮かぶのは、大丈夫か名張市、ということである。NPOをつくってみたところで、名張市という自治体とのあいだに信頼関係が築けるかどうか。それがおおいに疑問である。かりにこちらが信頼関係を築こうと考えても、名張市は癒着関係しか求めていないのではないか。どうもそんな気がする。
NPOと名張市といえば、思い出されるのは昨年7月に提出した住民監査請求である。そこらのNPOが勝手に決めたことに市民の税金がつかわれていいものか、との問いに対して、監査委員からはOKであるとの見解がもたらされた。あきれ返った話であるが、名張市における協働とは要するに官と民との癒着を正当化するための言葉であり、名張市には組織の主体性や自立性といったものがまったく理解できていないのであるということを、監査結果の報告書が雄弁に物語っていたのである。
だからいくらNPOをつくったところで、名張市と組むことなんか無理なのではないかと思わざるをえない。名張市は名張市で、癒着を拒否するNPOと組もうとはしないのではないかとも思われる。ゆえにNPOには二の足を踏んでしまうわけである。べつに名張市と組む必要はないではないか、とお思いの向きもあるかもしれないが、組まないわけにはいかんのである。
NPOつくって何をやるのかといえば、いちばんの主眼は、乱歩にかんして名張市立図書館が当然しなければならぬはずのことである。しかもそれは、図書館にとって枝葉末節のことではなく、図書館サービスの根幹にかかわることである。なんのために図書館が存在するのか、図書館はなんのために資料を収集するのか、そういった問題にかかわることである。
図書館による資料の収集は、その活用と表裏一体のものである。ところが名張市は、そうしたことをまったく考えてこなかった。たとえば名張市議会の会議録を閲読し、乱歩関連資料にかんしてどんな議論がおこなわれたのかを調べてみると、収集資料の活用が展示という方向でしか語られていないことが判明する。だからこそ、展示のためのハコモノがなければ資料を活用できないという恐れ入った話になるのである。
ハコモノなんかつくらなくたって、資料の活用は立派にできる。名張市立図書館が収集した乱歩関連資料にもとづいて、全国を対象にしたサービスをくりひろげることはいくらだって可能である。こんなぐあいにすればいいのよね、と懇切丁寧に示してやったにもかかわらず、名張市教育委員会は、ということは要するに名張市は、驚いたことにNOというわけである。それならおまえらはいったいどうすればいいと考えておるのか、と尋ねても、名張市教育委員会は返答すらせんわけである。いくら催促しても返答をよこさんわけである。何も考えておらんわけである。
ならば、収集資料をどう活用するのかという図書館サービスの根幹にかかわることを考えようともしない、というよりは考える能力のない名張市にかわって、こちらがNPOつくってちゃんとしたことをやってやろうじゃねーか、ということになってしまって、はたしてそれでいいのかどうか。そんなことになったらこれはもう、ちょっと乱暴に話を飛躍させてしまうならば、名張市なんて民営化してしまったほうがいーんじゃね? ということになってしまうはずである。行政サービスというものがいったいなんであるのか、それを真剣に考えようとしないお役所なんて、とっとと民営化してしまうしかないのではないか。
というか、わざわざNPOをつくるようなことまでして、名張市という程度の悪い自治体の尻ぬぐいをせねばならんものかどうか。尻ぬぐいというのはもちろん、活用のあてもないのに資料を収集してきたことの尻ぬぐいなのであるが、それとてしょせん市民生活には直接かかわりのないことである。そんなことのためにあえて苦労を引き受けねばならんものかどうか。もうこれまでに十年の余、乱歩のことで名張市にはずいぶん滅私奉公してきた身なのである。これ以上まだやるのかよ、と自問自答の迷い道。名張市さえもう少ししっかりしてくれていたならば、こんな道には迷わぬものを。
といったようなことをくどくど並べ立てていてもしかたがないのだが、しかし実際には、ちょいと先のこともまったく不明なのだから困ってしまう。あえて予告をしておくならば、細川邸改めやなせ宿のオープンに合わせて、やなせ宿開設祝賀イベントを主催しようかなと考えている程度のことである。
2月22日付エントリ「やなせ宿開設記念講演会」に、開設記念講演会の講師を務めてやらんわけでもないのだぞと記しておいたのだが、やなせ宿関係者からはいっこうに音沙汰がない。だからこちらで、ということはやっぱり開設までにNPOを組織してということになるのか、あるいはそうではないのか、そのへんのことはもうひとつ確定していないのだが、とりあえずやなせ宿の開設を祝して講演会とかシンポジウムとか、それも一日とはいわず週一回ずつ四週連続とか、やなせ宿を会場にそれくらいぶちかましてやろうかなと考えている次第である。
しかしまあ、不明といえば不明である。何もかもが不明である。五里霧中とはこのことであろう。なにしろ相手のあることだから、不明であるのもしかたがない。不明なことは不明なままに、しばらくこのブログはお休みとして、あすからはもう一か月以上も放置してあったウェブサイト名張人外境に復帰することとしたい。
それにしても、ほんっとにどうするかなあ。
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