忍者ブログ
三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
[93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100] [101] [102] [103]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

10月28日、宇流冨志祢神社の例大祭が営まれる。名張のまちの秋祭りである。

「宇流冨志祢」は通常、「うるふしね」と読まれる。表記は、「宇流富志禰」とされる場合もある。以前、宮司さんからお聞きしたところでは、「宇流冨志祢」が正しいとのことであった。つまり「富」ではなく「冨」。神社本庁の公式サイトでは、「宇流富志祢」とされている。

名張のまちの人は、そんなことにはあまり拘泥せず、春日神がまつられていることから、「お春日さん」と呼びならわしてきた。名張小学校の校歌に、

「春日の森に いやしげる 杉は心の 鏡とて」

という歌詞が出てくるが、この「春日の森」が宇流冨志祢神社の森である。

神社の参道がこれ。鳥居の右にみえる石碑の表記は、「宇流冨志祢」。

20071019a.jpg

撮影地点はこのあたり。



『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町)

宇流冨志禰神社 ウルフシネまたはウルフシミ、平尾に鎮座、いま“旧町部”と呼ばれる、もと簗瀬村・平尾村・南出村・北出村の惣社。もともとの祭神は宇奈根命、のち春日神を合祀し、名張の町の人には昔から“お春日さん”の名で親しまれてきた。伊賀国内式内社二十五座の一つ。名張市域の式内社は二つ、この宇流冨志禰神社と下比奈知の名居神社である。
この神社の祭礼も、後記瀬古口と同じく記録によって伝承される典型的なものである。安永8年8月に更改された『宇流冨志禰神社祭礼儀式帳』というのがあり、頭屋文書として持回りとなっている。しかしこの文書が作られた時と現在との間には二百年に近い歳月のへだたりがあり、なるべくこの原形に従おうとはするものの、そこにはいろいろの省略・簡素化・変形がある。『儀式帳』の原文は『名張市史』上巻に所収、参照されたい。ここでは祭事の主要部分について現行の姿を概説する。
きのうは榊町の玉乃湯に入るつもりでいたのだが、午後6時ごろ、くるまで前を通りかかったところ、灯が消えている。定休日らしい。予定を変更して、名張市総合福祉センターふれあいの駐車場に自動車をとめ、上本町の常磐湯まで歩いてゆくと、そこも休みだった。結局、また新町温泉の世話になった。
10月6日付伊和新聞に、名張まちなかの銭湯の話題が掲載されていた。以下、引用。

   
昭和の面影 またひとつ…

名張市街地区(旧町)活性化が叫ばれて久しい。というより、風化しつつある中、町のいたる所で目立つのが駐車場。
ここにまたひとつ、昭和の面影を残す銭湯が姿を消し、更地となる運命に。名張市上八町の銭湯がそれだ。営業を中止して約20年が経過、屋根の老朽化で危険度も増し解体へ。その中で淋しそうに天を仰いでいたのが煙突だ。4代以上もの“ご主人”を見つめていた煙突だが、時代の流れにはついていけなかった。
名のとおり、新町にある。表通りには面しておらず、江戸川乱歩生誕地碑からは目と鼻の先。

20071017a.jpg

写真タイトルは、「煙突のある風景──新町にて」としておく。

生まれ育ったのが新町のとなりの豊後町だったので、最寄りの銭湯は新町温泉だった。家には風呂がなかったから、この銭湯にはずっと通った。

そのつぎに近いのは木屋町にあった銭湯で、ここにも足を運ぶことがあった。名前は思い出せないが、「西名張の風呂屋」と呼びならわしていたように思う。この銭湯は、いつのまにか廃業してしまった。

きのう、新町温泉に着いたのは、午後7時ごろ。のれんをくぐるのは二十数年ぶりのことで、風呂代は三百五十円になっていた。

脱衣場に人影はなく、ガラス越しに風呂場をのぞくと、ふたりほど先客がある。ガラス戸を開けてなかに入り、かかり湯をして、いちばん浅い浴槽に身を沈める。子供のころから慣れ親しんだ場所である。四肢を伸ばして、ぼんやりする。

湯から出て、洗い場の鏡の前に陣取る。通っていたころと変化はなく、鏡のしたには赤と青、ふたつのカランがあって、強く押せば赤からは湯、青からは水が出てくる。鏡のうえには、ホースつきのシャワーが据えつけられている。

持参した洗面器にカランから湯を張り、石鹸の泡でひげを剃っているあいだに、先客ふたりが出てゆく。入れ替わりに、新来の客がひとり。ひげ剃りのあと、頭を洗いにかかって、シャワーを使用した。シャワーヘッドを手にもち、壁にある取っ手の「おす」と書かれたところを押すと、勢いよく湯が出てくる。

ところが、シャワーの止め方がわからない。「おす」とある取っ手を引いてみたり、右にまわしたり左にまわしたり、もしかしたら、と二度つづけて押してみたり、いくらやっても湯は止まらない。タイルの床に置くと、シャワーヘッドはねずみ花火のように動きまわる。洗面器の湯のなかに押し込んでも、手を離すとゆっくり鎌首をもたげてくる。

ほとほと困惑し、さっきの新客が洗い場でからだを洗っていたので、そっちのほうに身をよじりながら、

「このシャワー、どうやったら止まるんですか」

とやや焦ってたずねてみたところ、

「いや、それは、ほっといたら、自動的に止まります」

と教えてくれた。なるほど、時間がたつと、自動的に止まる。

思い返してみると、以前はシャワーが鏡のうえに固定されていた。ホースはなく、シャワーヘッドを手にもってつかうことはできなかった。いくら二十数年ぶりとはいえ、もしも以前からこうしたシャワーであったのなら、操作方法がわからないということはないだろう。

風呂場から出ると、番台のうえに設置された大型テレビには、日本ハム対ロッテのクライマックスシリーズが映し出されている。バスタオルでからだを拭いているうちに、ぼつりぼつりと新しい客がやってくる。おおむね年齢が高いが、兄弟なのだろう、小学生のふたりづれもいた。

出るとき、番台のご主人からお聞きしたところでは、新町温泉は創業以来百三十年、ご主人は五代目。これまでに二度、建て替えをして、開業当初のおもかげを伝えるのは、うえの写真に写っている松の木と、番台にある掛札、わずかにこれだけだそうである。

新町温泉が、百三十年前から営業していたとは知らなかった。つまり、江戸川乱歩の父、平井繁男が新町に居を構えたとき、おなじ町内に、新町温泉がすでに存在していたことになる。目と鼻の先である。

乱歩の生家に風呂がなかったことは、『貼雑年譜』に収められた間取図で確認できる。だから、繁男一家はたぶん、新町温泉に通ったのだろう。まだ赤ん坊だった乱歩は、この銭湯に入ったことがあったのかどうか。あったのではないか。

そうか。小さいころから慣れ親しんでいた新町温泉は、乱歩の一家が通っていた銭湯でもあったのか。そんなことを思いながら、暗くせまい夜の道を、いい気持ちで歩く。



あまり広いものではなかったが、新町温泉は駐車場も備えていた。
きのうは、結局、風呂には入らなかった。銭湯に行かなかったのである。

名張のまちに居住しているわけではないので、まちなかの銭湯に行くとなると、自動車で家を出て、駐車場にくるまをとめて、そこから銭湯まで歩くことになる。なかなか面白い、といまは思う。

だがこれが、夕刻になると面白いとは思えなくなる。早い話、風呂より酒、と思えてくるのである。きのうの夕方、そんなふうに思ってしまい、そうなるとやっぱり酒を飲んでしまうから、銭湯には行けなかった。で、飲みすぎてしまった。

きょうは行こうと思う。
きのうが新聞休刊日だったため、きょうは記事がない。

Copyright NAKA Shosaku 2007-2012