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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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昨22日、宇流冨志祢神社秋祭りのお旅が営まれた。平尾の神社から新町のお旅所まで、神霊がみこしで遷座した。

午後3時ごろ、みこしが宇流冨志祢神社を出発する。かつぐのは、地元平尾の若い衆。参道の坂をくだり、春日の森をあとにする。

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お旅のコースは、上本町から中町、元町、木屋町と直進、左に折れて豊後町、新町。上本町のアーケード商店街では、旧家の前に「御神燈」「奉祝」の提灯が。

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みこしのあとには、神職、舞姫、かみしも姿の四頭屋父子。そのうしろにも、祭礼関係者がつづく。木屋町の通り、ジャスコ新名張店リバーナ前を通過。

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頭屋は四戸。名張旧町地区のうち、平尾、朝日町、南町と、それ以外のいわゆる町部から、それぞれ一戸が選ばれる。ことし、町部の頭屋は榊町の福廣家がつとめるが、近年は、頭屋に選ばれた家が単独で、というよりも、町部の講員による「町講」が頭屋をうけるという感じらしい。

だから、頭屋の家に設けられる御仮殿(おかりや)も、ことしは榊町の集議所に設営された。

これがきのう午後の榊町集議所。提灯、笹竹、しめ縄、幔幕が、頭屋であることを示している。27日の宵宮で、頭屋が招待客をもてなす場も、この集議所。

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お旅の一行は新町、愛宕神社のお旅所に到着し、遷座式がおこなわれて、神霊は28日の祭礼当日までここに鎮座する
秋晴れの土曜と日曜、総務部長逮捕のニュースが伊賀市をかけめぐった。かどうか、名張市にいてはよくわからなかったが、とにかく驚いてしまった。逮捕されたのは、何回か、宴席でいっしょになった方である。

腰の低い、宴席では座持ちのいい方であった。こういったニュースで必ず報じられるところの、まさかあの人が、という型どおりの驚きを、身をもって体験することになった。

が、容疑者のみならず、被害者もまた意外な方なのであった。共同や時事もふくめ、ウェブニュースでは被害者の名前はいっさい明かされていないが、朝日新聞だけは紙面で実名を報道していた。

もっとも朝日も、ウェブ版記事「伊賀市総務部長を逮捕 知人から現金詐取容疑 三重県警」ではこんなあんばい。

   
捜査2課などの調べでは、長谷川容疑者は、合併前の旧上野市で市税務課長だった01年12月、知人の男性から「父親と妻名義の自宅敷地を自分名義に変えたい。税金を安く抑えられないか」と相談を受けた。後日、「贈与税が必要だが、いずれは還付される。手続きしてやる」などとうそを言い、同月下旬と02年3月中旬に計約540万円を男性からだまし取った疑い。

それが朝日新聞大阪本社発行の10月21日付社会面、38面、13版には、こんな記事が出た。

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扱いじたいは小さく、わずか二段落のベタ記事である。後半の段落を引いておく。

   
捜査2課などの調べでは、長谷川容疑者は、合併前の旧上野市で市税務課長だった01年12月、知人の田中覚・元県議会議長(49)から「父親と妻名義の自 宅敷地を自分名義に変えたい。税金を安く抑えられないか」と相談を受けた。「贈与税が必要だが、いずれは還付される。手続きしてやる」などと言い、計約540万円をだまし取った疑い。

あの方であったか。被害者というのはあの方であったか。というか、被害者になったり加害者になったり忙しい方ではあるが、あの方の名前はつい最近も眼にした。

10月18日のウェブニュースログ。

毎日新聞:無断記載:県議選違反の田中元議長に略式命令--簡裁 /三重
伊勢新聞:田中元県議に罰金20万円 公選法違反で略式命令 津簡裁

どこまでもどこまでも、ひたすらダーティなイメージを追求しつづける方であるらしい。こうなると、総務部長関連ニュースの印象は一変する。

たとえば読売新聞「伊賀市部長を逮捕 節税持ちかけ 540万詐取容疑」は、ヘッドラインからしておかしい。記事にはこうある。

   
調べによると、長谷川容疑者は旧上野市税務課長だった2001年12月、家族名義の土地に自宅を新築した同市内の会社役員の男性(49)から、土地譲渡 に伴う税金の控除手続きについて相談を受けた。その際、「登記するには370万円くらいの贈与税を納める必要があり、いずれは還付される」などと架空の節 税話を示して「納付手続きを代行してあげる」と持ちかけ、同月下旬と02年3月中旬の2回にわたり、自宅や役所内で現金計約540万円をだまし取った疑い。

しかしこれは、上に引いた朝日の記事にあるとおり、ダーティ田中先生のほうから「税金を安く抑えられないか」ともちかけたとみるべきであって、読売のヘッドラインに伊賀市部長が「節税持ちかけ」とあるのは事実関係が逆であろう。

ブログ「三重県よろずや」の本日付エントリ「記者クラブ:だめぽ」でも、ダーティ田中先生はこんなふうにおちょくられている。

   
課長から脱税の指南でも受けようとしてたのですか?
あっ、節税だったね
こりゃまた失礼

だいたいが、2001年から翌年にかけておこなわれた犯罪の捜査がどうして、いまごろになっておこなわれているのかな。ふつうに考えれば、まあ、先生が官憲にチクッたのであろうな。

伊賀市ではあすから上野天神祭が営まれる。おまつり気分に浮き立つ上野の町衆のなかには、意外な被害者の名前を知って、

「総務部長、GJ!」

と快哉を叫んでいる人もいるのかもしれない。
『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。きのうのつづき。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町) 承前

祭礼の街

夏見でも瀬古口でも宵宮・本祭の両日とも“渡り”を行なうが、宇流冨志禰神社では宵宮祭の一日だけである。頭屋の招客もその時だけである。
本祭28日の街は、頭屋の“渡り”こそないが、祭礼一色にぬりつぶされる。参道には前夜につづいて露店が並び、遠近からの人出で雑踏する。この中を神輿がお旅所から本社に還御する。午前十時ごろお旅所を出発、人力車に乗った神職を先導に、舞姫・頭屋・世話人衆が供奉して町を練る。この神輿の“お渡り”を高い所(たとえば二階)から見下ろすと、神慮に触れて石を投込まれたり家の中へ練込まれたりする。この前近代的遺習はだんだん薄らぎつつあるが、今でもそのおもかげが残っている。
この日はまた各町内にもそれぞれ伝統的な行事があり、一だんと町をにぎわせる。
本町 楼車(ダンジリ)。昔は本町・新町・中町・上本町がダンジリを持っていたが、今は本町だけ残る。人手不足でだんだん出しにくくなっている。
鍜冶町 伝統の七福神踊りは名張祭に欠かせぬ景物だったが、装具が破損し、といって新調の財源もなく、数年前から姿を消した。
榊町 子どもの獅子行列。これも子どもの数が減って取止めの現状。
丸之内 神馬は今は昔の語り草となって子供みこし
上本町 子供みこし
上八町 子供みこし
柳原町 子供みこし
中町 子供みこし
松崎町 鹿行列
子供みこし、獅子行列、武者行列、鹿行列などほとんど戦後の案出だが、他の地方にはあまり例をみない伝承的な“出し物”に太鼓台がある。電信柱ほどもある太い二本の丸太の上にヤグラを組み、大太鼓をすえて町内の子供衆が威勢よくドンツクドンツクたたく。それを町内の若い衆がかつぎ、御神輿のように右に左に揺さぶりながら練る。松崎町・元町・東町・新町などにあるが、青壮年層の不足で、出ることが少くなっている。だから、子供みこしなど子供中心の“出し物”にかわったのだが、その子供もだんだん減って、祭の景物はさびしくなって行く。

以上、四十年ほど前の記述である。
『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。きのうのつづき。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町) 承前

祭の行事 承前

宵宮の行事 27日。この日の午後、頭屋は親戚、懇意な知己を招待する。招客はいずれもカミシモ姿だ。めったに見られない異風景である。これは江戸時代に祭の日だけ町民が士分になることを領主藤堂家から許されたことに由来するといわれる。むろん家紋入りの提灯は付き物(余談だが昭和42年の祭に筆者が本町・岡村浩司家に招待されたとき、カミシモや提灯を借り歩くのに苦労した)。膳の献立は地区によってちがうが、それぞれ古来からの規格がある。
夜八時、四頭屋の年当子父子・招客一同は行列をつくってお旅所に集まる。ここで宵宮祭を行い、盃の儀がある。境内では朝日町・南町の獅子神楽が舞う。やがて神社から七度半の使いが来る。これは市域ではここだけに残る遺習である。神職が神社からお旅所まで七度むだ足して八度めの途中で迎えるという形である。“七度半の使い”について柳田国男監修『民俗学辞典』は次のように解説している。
 
「祭に際して神幸を求めるために、あるいは重要な役員たる神主・頭屋を迎えに出る呼び使のことである。伊勢の大神宮にも巫子(みこ)を迎えるための七度半の使が立った例がある。近畿地方での、特に奈良県下の宮座の祭には著しいことである。七度のむだ足をして、八度目の中途で確実に迎えられる形になるのが一般である。神木にシメ縄を七巻半まくというのと同じ数概念に由来することである」
この七度半の使によって頭屋の一行は一・二・三・四の順(この順は年当子の出生順による)に行列して、松明を先頭に神社に向う。道中、口々に「ネンド、ネンドエー」と大声で呼ばわる。招客はいずれも一ぱい機嫌、たいへん威勢がよい。
宵宮の参詣客ににぎわう街を練って、一行はやがて神社に着く。ここで、境内に四頭屋が一本ずつ立てた四本の大松明に火がつけられる。炎々と燃えさかる明かりの下で平尾の獅子神楽(平尾の獅子衆が不足で、現今では朝日町・南町)が奏せられる。この模様を安永8年の『儀式帳』は次のように書いている。
 
「これより本宮へ御出でならせられ候。道すがら“さあさあいわう”(今はネンドネンドエーに転ず)を申す祝儀の声、往古よりの形に御座候。……四本の松明一度に燃え上がり、秋風森に吹きなびき、心も澄み渡り、まことに焚火の御神事とや実にありがたき次第なり。時々平尾村の獅子、当人衆の前にて暫く舞い申し候」
頭屋・招客一同は参籠所に昇って、一・二の順に整列着座、神前では御湯神楽、衣冠束帯姿の神職が本殿から参籠所に渡って祝儀の口上をする。各頭屋の配膳係が神前から甘酒を戴いてきて、柄付銚子で頭屋に献じる。
帰路は招客一同自由解散。これで頭屋がおこなう宵宮の祭事が終わる。
 頭屋から講員にくばる組膳は昔とはやや変わり、今日では次のようである。
 
〈餅(一重ずつ家族数)、キョウ一つ、イワシ一尾、チョウシ葉に野菜の小切を盛ったもの、カシの箸〉
餅は御供(ごく)という。餅米は頭屋ごとに25日配膳・手伝衆が“米洗い”を行い、御供搗きは翌26日早朝から頭屋の家で行う。箸(はし)は頓子山(とんこやま)で採ったカシの木の太い丸箸で、講員の数だけ作る。カシの木は頓子山に限り、箸木山の俗称もある。
おシメ上げ 28日に行う“神上げ”の儀式である。御仮殿に七日間鎮座した神霊を、祭がすんで本社へ送り返す行事だ。平尾では夜八時ごろ神職が頭屋の家へ来て、御仮殿から“神上げ”を行う。御仮殿の前に立てた笹竹とシメ縄をそのままはずし、配膳がそれをかついで、「チョーサ、チョーサ」のかけ声で神社に練込み、境内の一隅にある山の神付近に納める。これを“おシメ上げ”と呼ぶ。

補足説明。頭屋についてはきのう、簡略に記したが、『名張の民俗』には祭礼の用語を説明したページがあるので、そこから引いておく。「第2章 祭」から引用。

   
□□祭のボキャブラリー

とうや(頭屋) 当屋とも書く。祭の神事行事をいとなむ主宰者である。頭人(とうにん)ともいう。氏神が専業の神職をもたず、村内の氏子だけで祭を行なっていた時代には、頭屋は神主としての仕事もし、その地位はきわめて重かった。近世以降に専業の神職が成立し、祝詞(のりと)なども複雑になって常民では神事の遂行が困難になるにつれ、頭屋は氏子の中から輪番で神事の鋪設に当たるものとなってしまった。頭屋の選びかたは村によってちがうが、長男を主体にその出生順によるのと、家回りとの二系統に大別せられる。前者が圧倒的に多い。頭屋にあたる男児を年当子(ねんどご)という。おなじ長男祭でも夏見や瀬古口のように出生順の名簿が出来ていて、そのとおりに頭屋をまわすところもあるし、名張の町や上比奈知のように厳格な出生順によらず相談により年々の頭屋をきめていくところもある。家回りの場合は、相楽のように『頭屋順序帳』で昔から順番を一定しているところもあるし、滝之原のようにクジできめるところもある。
名張まちなかの話題ではないが、うちの近所にきょう、大型店がまとめて開店する。そのひとつが、マックスバリュ名張店。けさの新聞に入っていたチラシの一部分がこれ。

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きのうがプレオープンだったとかで、どこから来るのか買いもの客が自動車で押し寄せ、店が面している名張桔梗が丘線は渋滞が目立った。

マックスバリュの横に三洋堂書店という大型書店もできていて、やはりきのうから営業していたようである。きょうにでものぞいてくることにする。
『名張の民俗』(昭和43・1968年)の「第2章 祭」から引用。きのうのつづき。

   
□□宇流冨志禰神社の祭(10月28日・名張の町) 承前

祭の行事

講員 名張の町では“氏子”ということばの使いかたが、ほかとは少しちがう。旧町部の地域に住んでいる者は、ここで生まれたのと他から転入してきたのとを問わず、全員が氏子である。これは氏子の本来の意味とはだいぶん離れている。本来の氏子に該当するものは、ここでは“講員”とよばれる。講員の家は昔から一定していて新規加入は認めない。町部(旧簗瀬村)五十名、平尾(旧平尾村)・朝日町(旧北出村)・南町(旧南出村)各三、四十名の程度である。これらの家はいずれも地域の原住者で、江戸時代における宮座の伝承だろう。ただし町部だけは戦後一般に開放せられ、希望すればだれでも加入できる。
頭屋 頭屋を営むのはむろん講員に限る。頭屋は四地区から一名ずつ、つまり毎年四戸の頭屋があるわけだ。いわゆる長男祭で、年当子が主体となる。しかし、厳格な出生順にはよらず、家庭の事情により協議により年々の頭屋をきめている。
お旅 祭日の一週間前(10月22日)御神輿は新町の“お旅所”に遷座する。お旅所はもと石の鳥居にあり、大正11年伊賀鉄道が開通して石の鳥居・西名張駅間の道路が開かれるにさいし木屋町、現高北農機の地に移り、さらに昭和26年現在の新町・愛宕神社の隣に移った。
御神輿に奉仕するのは宮元平尾の青年で神輿を先頭に神職(昔は馬、今は人力車)・舞姫・頭屋親子・奉斎会役員らが供奉する。お旅の順路は神社・上本町・中町・木屋町・豊後町・元町・新町・お旅所。(かけ声は「ワッショワッショ」でなく「チョーサ、チョーサ」)神輿がお旅所に着くと、鎮座祭・稚児舞・直会(のうらい)の順で遷座式が行われる。神酒は一の頭屋の配膳(ハイゾウのこと。ここではこの字を充てる)二人が給仕する。庭前では御湯神楽(みゆかぐら)が奏せられる。こうして遷御した神霊は28日の祭礼当日までここに鎮まる。
榊入(さかきいれ)10月22日の行事。この日、四戸の頭屋ではそれぞれ御仮殿(おかりや)といって、木造の神殿を庭前にしつらえる。(町では場所がないので屋内)。御仮殿前には一対の笹竹を立て、シメ縄を張る。供物は適宜海の幸・山の幸で、他で見られるような伝承的な規格がない。
御仮殿は依代(よりしろ)である。夕刻、神職が来て、榊入という神うつしの式を行う。こうして28日まで神霊は頭屋の家に鎮座することになる。榊入式には年当子・家族・宮世話人・配膳らが参列する。御仮殿の組立て、シメ縄ごしらえ、その他準備一切は世話人と配膳があたる。

補足説明、その一。

宇流冨志祢神社は、旧名張町を氏子区域としている。昭和29・1954年、周辺三村と合併して名張市になった、あの名張町である。

この名張町のエリアには、江戸時代から明治初年にかけて、次の四村があった。
  • 簗瀬村
  • 平尾村
  • 北出村
  • 南出村
明治8・1875年、平尾、北出、南出の三村が簗瀬村に合併した。

簗瀬村は一般に名張と呼ばれ、名張という名のほうがよく知られていた。明治13・1880年、商取引上、名張村と名乗るほうが有利だという理由で、簗瀬村は名張村と改称した。

明治22・1889年、町村制が実施され、名張村は名張町となった。かつての平尾村は平尾、北出村は北出、南出村は南出という名前の大字になった。

昭和29・1954年の名張市発足にともない、北出は朝日町、南出は南町になった。

補足説明、その二。

頭屋とは、神社の祭礼や講の行事で、その準備、執行、後始末などを担当する者、または、その家のことをいう。宇流冨志祢神社秋祭りの頭屋は、一生に一度だけまわってくる大役とされる。

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