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文化六年(一八〇九)
一月十九日
エドガー・アラン・ポー、米国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。
文化七年(一八一〇)
この年
平井陳就(のぶより)、伊勢国津に生まれる。通称、杢右衛門(もくえもん)。平井家第七代。父・陳成(のぶなり)は津藩藤堂家重職。[貼雑年譜][平井系譜]
天保元年(一八三〇)
七月二十八日
平井陳就の長男・陳常(のぶつね)、誕生。平井家第八代。[平井系譜]
天保五年(一八三四)
十月
平井陳就、二十四歳で跡目を相続。禄は千石。鉄砲頭格となる。[貼雑年譜][平井系譜]
*藩主は第十一代、藤堂高猷(たかゆき)。文化十年二月九日-明治二十八年二月九日(一八一三-一八九五)。文政八年(一八二五)から藩主を務め、明治四年(一八七一)、長男・高潔(たかきよ)に家督を譲った。
天保六年(一八三五)
十一月五日
平井陳成、死去。津乙部、浄明院に葬られる。[平井系譜]
天保七年(一八三六)
二月
平井陳就、鉄砲頭となり、足軽組を預けられる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
天保十一年(一八四〇)
七月十日
京の寺侍、本間来祐の長女・和佐、誕生。[貼雑年譜][平井系譜]
弘化元年(一八四四)
十一月
平井陳就、用人見習いとなる。[平井系譜]
弘化二年(一八四五)
三月
平井陳就、用人となる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
嘉永二年(一八四九)
三月
平井陳就、藩主の命により留守用人となる。[平井系譜]
嘉永三年(一八五〇)
一月
平井陳就、増上寺にある霊屋(徳川将軍家墓所)の普請手伝いを命じられ、副奉行として勤務。その功により翌年、褒美を与えられ、公儀からも小袖と白銀を拝領する。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
八月
陳就、藩主の命により、側用人となる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
安政三年(一八五六)
四月
平井陳就、藩主の命により、側用人のまま大横目を加役され、持筒組を預けられて加判奉行の席となる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
文久元年(一八六一)
八月
平井陳就、病気につき側用人と大横目の免職を願い出、鉄砲頭格となる。[平井系譜]
文久三年(一八六三)
一月二十九日
平井陳就の妻、死去。法号、静姝院。津乙部、浄明院に葬られる。妻は藤堂高允(たかのり)の娘。[父母のこと/昭和32年8月][平井系譜]
*高允は第十代藩主、高兌(たかさわ)の弟。天明八年六月-天保十二年六月(一七八八-一八四一)。
四月
陳就、鉄砲頭を命じられ、足軽組を預けられる。藩主から持ち馬を差し出すよう命じられ、馬の代金二十両を拝領。[平井系譜]
八月
陳就、大和国の浪士を追討するため大和古市へ出張。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
*大和国の浪士とは天誅組のこと。八月に尊王攘夷派の浪士が挙兵し、五條代官所を襲撃、十津川郷に拠点をつくろうとしたが、幕府軍の討伐を受けて九月には壊滅した。津藩は幕府から天誅組の鎮圧を命じられていた。
十月
陳就、病気の藩士に代わって大和浪士の追討を命じられ、五條へ出張する。[平井系譜]
十一月
陳救、津に帰る。[平井系譜]
元治元年(一八六四)
三月
平井陳就、城和加判奉行を命ぜられる。[父母のこと/昭和32年8月][平井系譜]
*城和は山城と大和のこと。両国に津藩の領地があり、大和古市に奉行所が置かれていた。
四月四日
陳就、津から大和に引き移る。大和古市で在任中、本間和佐を後妻とした。[彼/昭和11年12月][父母のこと/昭和32年8月][貼雑年譜][平井系譜]
四月
陳就、藩領内にある三か所の山陵を修復する工事を命じられる。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
慶応二年(一八六六)
二月
平井陳就、山陵掛りの頭を命じられ、修補を成功させたため、朝廷から白銀五枚を拝領する。[父母のこと/昭和32年8月][平井系譜]
慶応三年(一八六七)
二月三日
平井陳就と和佐のあいだに繁男が誕生。のちに弟・彦次郎も生まれたが、他家の養子となって雑貨商を営んだ。[父母のこと/昭和32年8月][平井系譜]
明治元年(一八六八)
三月
平井陳就、藩主の命により、津加判奉行となる。[平井系譜]
四月二十三日
陳就、大和から津へ引っ越す。[平井系譜]
明治二年(一八六九)
五月
平井陳就、藤堂家当主の命により民政会計主事を兼ねる。[平井系譜]
八月
陳就、命により内務会計主事となる。[平井系譜]
十月
陳就、内務主事となる。[平井系譜]
明治三年(一八七〇)
十一月
平井陳就、藤堂家の家扶となる。[父母のこと/昭和32年8月][平井系譜]
明治四年(一八七一)
八月
平井陳就、隠居を願い出て許される。隠居後は入道して閑水と号し、写経などに余生を送った。[彼/昭和11年12月][平井系譜]
明治六年(一八七三)
一月一日(水)
*前年の太政官布告によりグレゴリオ暦が導入された。以降の日付には曜日を付す。
明治七年(一八七四)
六月二日(火)
本間来祐、六十四歳で死去。[平井系譜]
明治十一年(一八七八)
九月五日(木)
津の元藤堂藩士、本堂帆之助の長女・きく、誕生。[平井系譜]
明治十七年(一八八四)
一月二十三日(水)
平井陳就、七十四歳で死去。津市乙部、浄明院に葬られる。[父母のこと/昭和32年8月][平井系譜]
明治二十二年(一八八九)
九月十六日(火)
平井繁男、関西法律学校を卒業。[父母のこと/昭和32年8月][七十年前の父の写真/昭和32年4月][関西大学:第1回卒業証書授与式]
明治二十五年(一八九二)
この年か
平井繁男、三重県名張町にあった名賀郡役所の書記を拝命し、名張町新町の借家に住む。津市で独居していた母・和佐を呼んで同居。[父母のこと/昭和32年8月][貼雑年譜][平井系譜]
*当時の正式な郡名は名張郡。郡役所は伊賀郡と合同で名張町に置かれていた。明治二十九年三月二十九日、名張郡と伊賀郡が合併して名賀郡が発足した。
明治二十六年(一八九三)
七月二十五日(火)
平井繁男、津市玉置町から本堂きくを妻に迎える。[貼雑年譜][平井系譜]
[2012年4月26日]