三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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名のとおり、新町にある。表通りには面しておらず、江戸川乱歩生誕地碑からは目と鼻の先。
写真タイトルは、「煙突のある風景──新町にて」としておく。
生まれ育ったのが新町のとなりの豊後町だったので、最寄りの銭湯は新町温泉だった。家には風呂がなかったから、この銭湯にはずっと通った。
そのつぎに近いのは木屋町にあった銭湯で、ここにも足を運ぶことがあった。名前は思い出せないが、「西名張の風呂屋」と呼びならわしていたように思う。この銭湯は、いつのまにか廃業してしまった。
きのう、新町温泉に着いたのは、午後7時ごろ。のれんをくぐるのは二十数年ぶりのことで、風呂代は三百五十円になっていた。
脱衣場に人影はなく、ガラス越しに風呂場をのぞくと、ふたりほど先客がある。ガラス戸を開けてなかに入り、かかり湯をして、いちばん浅い浴槽に身を沈める。子供のころから慣れ親しんだ場所である。四肢を伸ばして、ぼんやりする。
湯から出て、洗い場の鏡の前に陣取る。通っていたころと変化はなく、鏡のしたには赤と青、ふたつのカランがあって、強く押せば赤からは湯、青からは水が出てくる。鏡のうえには、ホースつきのシャワーが据えつけられている。
持参した洗面器にカランから湯を張り、石鹸の泡でひげを剃っているあいだに、先客ふたりが出てゆく。入れ替わりに、新来の客がひとり。ひげ剃りのあと、頭を洗いにかかって、シャワーを使用した。シャワーヘッドを手にもち、壁にある取っ手の「おす」と書かれたところを押すと、勢いよく湯が出てくる。
ところが、シャワーの止め方がわからない。「おす」とある取っ手を引いてみたり、右にまわしたり左にまわしたり、もしかしたら、と二度つづけて押してみたり、いくらやっても湯は止まらない。タイルの床に置くと、シャワーヘッドはねずみ花火のように動きまわる。洗面器の湯のなかに押し込んでも、手を離すとゆっくり鎌首をもたげてくる。
ほとほと困惑し、さっきの新客が洗い場でからだを洗っていたので、そっちのほうに身をよじりながら、
「このシャワー、どうやったら止まるんですか」
とやや焦ってたずねてみたところ、
「いや、それは、ほっといたら、自動的に止まります」
と教えてくれた。なるほど、時間がたつと、自動的に止まる。
思い返してみると、以前はシャワーが鏡のうえに固定されていた。ホースはなく、シャワーヘッドを手にもってつかうことはできなかった。いくら二十数年ぶりとはいえ、もしも以前からこうしたシャワーであったのなら、操作方法がわからないということはないだろう。
風呂場から出ると、番台のうえに設置された大型テレビには、日本ハム対ロッテのクライマックスシリーズが映し出されている。バスタオルでからだを拭いているうちに、ぼつりぼつりと新しい客がやってくる。おおむね年齢が高いが、兄弟なのだろう、小学生のふたりづれもいた。
出るとき、番台のご主人からお聞きしたところでは、新町温泉は創業以来百三十年、ご主人は五代目。これまでに二度、建て替えをして、開業当初のおもかげを伝えるのは、うえの写真に写っている松の木と、番台にある掛札、わずかにこれだけだそうである。
新町温泉が、百三十年前から営業していたとは知らなかった。つまり、江戸川乱歩の父、平井繁男が新町に居を構えたとき、おなじ町内に、新町温泉がすでに存在していたことになる。目と鼻の先である。
乱歩の生家に風呂がなかったことは、『貼雑年譜』に収められた間取図で確認できる。だから、繁男一家はたぶん、新町温泉に通ったのだろう。まだ赤ん坊だった乱歩は、この銭湯に入ったことがあったのかどうか。あったのではないか。
そうか。小さいころから慣れ親しんでいた新町温泉は、乱歩の一家が通っていた銭湯でもあったのか。そんなことを思いながら、暗くせまい夜の道を、いい気持ちで歩く。
あまり広いものではなかったが、新町温泉は駐車場も備えていた。
写真タイトルは、「煙突のある風景──新町にて」としておく。
生まれ育ったのが新町のとなりの豊後町だったので、最寄りの銭湯は新町温泉だった。家には風呂がなかったから、この銭湯にはずっと通った。
そのつぎに近いのは木屋町にあった銭湯で、ここにも足を運ぶことがあった。名前は思い出せないが、「西名張の風呂屋」と呼びならわしていたように思う。この銭湯は、いつのまにか廃業してしまった。
きのう、新町温泉に着いたのは、午後7時ごろ。のれんをくぐるのは二十数年ぶりのことで、風呂代は三百五十円になっていた。
脱衣場に人影はなく、ガラス越しに風呂場をのぞくと、ふたりほど先客がある。ガラス戸を開けてなかに入り、かかり湯をして、いちばん浅い浴槽に身を沈める。子供のころから慣れ親しんだ場所である。四肢を伸ばして、ぼんやりする。
湯から出て、洗い場の鏡の前に陣取る。通っていたころと変化はなく、鏡のしたには赤と青、ふたつのカランがあって、強く押せば赤からは湯、青からは水が出てくる。鏡のうえには、ホースつきのシャワーが据えつけられている。
持参した洗面器にカランから湯を張り、石鹸の泡でひげを剃っているあいだに、先客ふたりが出てゆく。入れ替わりに、新来の客がひとり。ひげ剃りのあと、頭を洗いにかかって、シャワーを使用した。シャワーヘッドを手にもち、壁にある取っ手の「おす」と書かれたところを押すと、勢いよく湯が出てくる。
ところが、シャワーの止め方がわからない。「おす」とある取っ手を引いてみたり、右にまわしたり左にまわしたり、もしかしたら、と二度つづけて押してみたり、いくらやっても湯は止まらない。タイルの床に置くと、シャワーヘッドはねずみ花火のように動きまわる。洗面器の湯のなかに押し込んでも、手を離すとゆっくり鎌首をもたげてくる。
ほとほと困惑し、さっきの新客が洗い場でからだを洗っていたので、そっちのほうに身をよじりながら、
「このシャワー、どうやったら止まるんですか」
とやや焦ってたずねてみたところ、
「いや、それは、ほっといたら、自動的に止まります」
と教えてくれた。なるほど、時間がたつと、自動的に止まる。
思い返してみると、以前はシャワーが鏡のうえに固定されていた。ホースはなく、シャワーヘッドを手にもってつかうことはできなかった。いくら二十数年ぶりとはいえ、もしも以前からこうしたシャワーであったのなら、操作方法がわからないということはないだろう。
風呂場から出ると、番台のうえに設置された大型テレビには、日本ハム対ロッテのクライマックスシリーズが映し出されている。バスタオルでからだを拭いているうちに、ぼつりぼつりと新しい客がやってくる。おおむね年齢が高いが、兄弟なのだろう、小学生のふたりづれもいた。
出るとき、番台のご主人からお聞きしたところでは、新町温泉は創業以来百三十年、ご主人は五代目。これまでに二度、建て替えをして、開業当初のおもかげを伝えるのは、うえの写真に写っている松の木と、番台にある掛札、わずかにこれだけだそうである。
新町温泉が、百三十年前から営業していたとは知らなかった。つまり、江戸川乱歩の父、平井繁男が新町に居を構えたとき、おなじ町内に、新町温泉がすでに存在していたことになる。目と鼻の先である。
乱歩の生家に風呂がなかったことは、『貼雑年譜』に収められた間取図で確認できる。だから、繁男一家はたぶん、新町温泉に通ったのだろう。まだ赤ん坊だった乱歩は、この銭湯に入ったことがあったのかどうか。あったのではないか。
そうか。小さいころから慣れ親しんでいた新町温泉は、乱歩の一家が通っていた銭湯でもあったのか。そんなことを思いながら、暗くせまい夜の道を、いい気持ちで歩く。
あまり広いものではなかったが、新町温泉は駐車場も備えていた。
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